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糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

終末的記述の研究 (マタイ伝二十四章、二十五章から)

2011-06-05 22:25:45 | 奥義書講解・新約
東北東日本大震災の後、終末を考える文章やコメントが頻繁に見られるようになりました。私自身は、少し違ったきっかけで、十人の乙女の例話の確認をしていたのですが、もっと大きな括りで研究するべきだと思いましたので、簡単な作業ではないとわかっていますが、このような取り組みをしてみようと思います。

取り合えず、大きな流れや疑問点を書き出してみました。


1)エルサレム神殿の石は崩されてしまう
2)1)は何時起きるか。また、再臨の前兆と世の終わりの前兆は何かという疑問
3)「終わりの日」の前に起きることと注意
4)エルサレム神殿の崩壊の前兆と警告
5)苦難に続く再臨の様子
6)前兆を読み取り且つ用心せよ(人の子は思いがけない時に来るから)
  (一人は取られ、一人は残される)
   現代のキリスト者にとって、思いがけないキリストの再臨に何の不都合が有るか?
7)忠実な僕、不忠実な僕
  (主人の財を勝手に使い、仲間を虐待する僕は厳しい罰を受ける)その内容は?
8)十人の乙女
  罰への言及無し。結びは、目を覚ましていなさい。その時を知らないから。
9)タラントの例話
  役に立たない僕は外の闇に追い出される。
10)再臨の後の選別
  左にいる者たち-永遠の刑罰に入る

*この話が、キリストの自身による受難の預言の橋渡しになっている。
 そのことの意味は?


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アンテオケ教会から学ぶ(使徒行伝十一章、十三章など)

2009-10-24 17:28:20 | 奥義書講解・新約
先日、また別の大忍の解説を聞く機会が有りましたので、その時のノートを元にして、お分かちしたいと思います。

導入
アンテオケという地名を冠した宣教団体や教会が幾つか有ります。だいたい宣教、海外宣教などに力を入れている団体や教会と言えると思います。使徒行伝に出て来るアンテオケ教会は、パウロやバルナバが宣教旅行に出かける時の基地と言える教会でした。ですから、そういう教会にあやかりたいということでその名を冠したと言えるでしょう。
 パウロの伝道から福音が世界に広がったことを考えると、今日日本に有る私達の出席する教会も、アンテオケ教会に負う所が少なからず有ると言えると思います。
 使徒行伝にはアンテオケが二箇所出てきます。一つはユダヤの北方に有る、シリヤ地方のアンテオケで、もう一つは現在のトルコの領地内に有ったアンテオケです。ここでは、シリヤのアンテオケ教会ということになります。
 この教会の有様からどんなことが学べるかを確認してみたいと思います。


本論

要点一:キリストの宣教命令を実践し、御心を求める
十一章十九節、二十節を見ますと、アンテオケにおける教会で、初めて異邦人への伝道をする者達が現れたということが分かります。使徒行伝の一章八節には、キリストの約束が記されていますが、その中に、「そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」という言葉が有ります。それは宣言で、命令ではなかったかもしれませんが、そうすることが神の御心に叶うことは明確でした。そして、それは福音書に記されている宣教命令と合致するものでした。
 その内容がどんなことであっても、神の御心を求め、それに従った行動をすることが、今日まで模範となっているアンテオケ教会から学ぶべき第一の姿勢であると言えるでしょう。

 アンテオケの教会が、そういう姿勢を持っていたことは、十三章の最初に記されている記事からも理解できます。
 二節、三節を読むと、聖霊に示されて、パウロとバルナバを「わたしが召した任務」につかせるということをしたことが分かります。さらりと、大変簡単に書いてありますが、実際にはそれはそんな簡単なことではなかったはずです。
 バルナバは、最初にエルサレムから派遣されて来た指導者で、大勢の人をキリストに導いた人でした。彼はエルサレム教会で最初に選出された七人の執事の一人でもありましたから、霊的にも力が有り、アンテオケ教会においても大変重要な人物であったと考えることができます。また、パウロはそのバルナバが連れて来た教師でしたが、新約聖書に十三の書簡が収録されているように、キリストの道を解き明かす能力が有り、知識も豊富な人物でした。それは、アンテオケ教会の柱である二人の人物を他の場所に送り出さなければならなかったということです。考えてみてください。神の導きだということで、突然あなたの教会の主任牧師と副牧師を別の土地や国に送り出さなければならないと告げられたら、とても驚き、そんな決定を簡単には受け入れられないと思うのではないでしょうか?しかし、アンテオケ教会はそれまでの断食と祈りに、更に断食と祈りを加え、彼らに按手をして送り出したのです。


要点二:御心を行う教会には、人が送られる
 第一に、大勢の人が信じたということが十一章二十一節に書いてあります。実際には伝えても信じない人が多くて落胆することが有るのが現在の私達の経験するところであったりします。しかし、伝えなければ信じる人も起こされないわけですから、先ず伝えることから取り組まなければならないのは当然でしょう。そして、人数の多少にかかわらず、そういう従順をする時に、神は信じる人達を起こしてくださると信じる姿勢を持ち続けることは大事ではないかと思います。
 第二に、そういう状況に合わせて、神はエルサレム教会を通してバルナバという指導者を送ってくださいました。バルナバの励ましを通して、アンテオケ教会の礼拝も伝道も継続され、更に多くの人達が信じる者となったことが、二十四節からうかがえます。神はその後、バルナバだけではなく、彼を通してパウロまでアンテオケ教会に送られました。私達が神の御心に従って行く時に、教会に必要な人材が与えられるのを見るという経験をしたことの有る方も大勢いらっしゃるのではないでしょうか。


要点三:御心を行う教会は、キリスト中心の生き様が顕著になる
二十六節を見ると、「弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」と書いて有ります。それが「クリスチャン」という言葉です。元来は、キリストに属する者、キリスト主義者というニュアンスですが、実際には、キリスト狂いというような気持ちで呼ばれたのではないかと考えることもできそうです。それは、教会の外の人達によってつけられたあだ名のようなものでした。ですから、教会の外に人達にも、彼らのキリスト中心の生き様がいつも観察されたということであったと考えられます。
 アンテオケの教会の人達は、「キリストであったらどうしただろうか?」「これは聖書的で、キリストの心にかなっているだろうか?」ということを始終意識して、また、実際にそれを議論したり説明していたりしたのではないかと思います。また、問題や疑問が出て来ると、「どうすることがキリストの喜ばれる解決方法だろうか?」とか、「どのようにしたらキリストの命じられた内容に合った実践ができるだろうか?」などということをお互いに質問し合って、他のキリスト者に教えを請うようなことをしていたのではないかと思われます。また、キリスト者間に限らず、何かをするとかしないとかの決定をした時に、必要に応じて、信者でない人達に、そのキリスト者としての理由を丁寧に説明したりしていたのではないかと思われます。周囲の人達も、「あの人達は何故そうするのか?」という質問をしたりして、説明を求めたりすることも有ったかもしれません。そうすると、それは目撃されたり、口伝に次第に知れ渡り、キリスト者のキリスト中心主義的心構えと生き様は顕著であったと思われます。
 クリスチャンと呼ばれる私達、キリスト者が、そういう背景を時々思い起こすことは意味が有ると思います。


要点四:御心を行う教会は、仲間を助ける働きができる
二十七節以下に、ことのあらましは書いてあります。エルサレムから預言者が来て、世界中に大ききんが起きるという預言をしました。アンテオケの教会のキリスト者達は、もしかしたら、旧約のヨセフの話を参考にして、ききんに備えて食料の蓄えをしたのかもしれません。とにかく、実際にききんが起こった時には、彼らには、ユダヤの教会に救援の物資を送るだけの力が有ったことが分かります。ききんの影響は、彼らにも有ったはずなのですが、それでも、そういう余裕と心が有りました。そして、実際にそれが実行に移されたことが、三十節に記されています。
 このように、御心を行う教会は、他の教会を助ける働きまですることができる力を、神の御霊を通して備えられるということが言えると思います。


まとめ
多くの人達や団体が、今も尚従うべき模範として考えるアンテオケ教会には、どのような模範となる要素が有ったのでしょうか。

それは、キリストの宣教命令に従い、また、御心を一心に求めるという点が中心に有ります。それに伴い、信じる者が増し加えられ、適切な指導者が増し加えられ、益々、キリスト中心の生き様が顕著となる程に信仰が成長し、他の教会をも助ける力を与えられ、そういう奉仕が委ねられということが起きました。私達も、その様なことが、自分の教会に起こる程の、キリストの御心を求める一人一人となり、キリストの御心を求める教会となるように、心から求めて励んでいきたいものです。







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