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糸田十八文庫

キリシタン忍者、糸田十八(いとだじっぱち)が、仲間に残す、電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

大忍を拝命いたしました

2015-01-02 14:12:15 | 気まぐれ忍務報告
半年前から、とある改家の単里が大忍を求めていることがわかりましたので連絡をとらせていただいておりました。

先日いくつかの面接を経て、12人の大忍から質問と協議の後任命を受けることとなりました。

これまで中忍の経験しかありませんが、祈りつつ忍務を果たしてまいりたいと思います。

幸い、地域の大忍が良い相談役ですので、今後ともよく相談を重ねて心をこめて務めていく所存であります。

実際の単里内のことをここにご報告することはほとんどいたしませんが、お祈りに覚えていただければ幸いです。




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聖書に印をつけて読む

2013-11-08 17:08:38 | 気まぐれ忍務報告
 聖書も電子書籍でという方が増えているかもしれませんが、それでも紙に印刷された聖書を何冊か持つことは意味が有ると思います。その一つは印をつけたりメモを書き込んだりしてパーソナライズといいますか、自分独特の一冊にることができるという点に有ります。電子版でも色を選んでハイライトできるではないかと思うかもしれませんが、ぱらぱらっとめくって直観的に見つけたりすることは難しいと思います。


 私が最初に聖書に印をつけることを知ったのは、小学生の頃に大人の人が印をつけているのを見てであったと思います。心に留まった聖書の言葉に赤い線を引くということでした。私の祖父は赤と紺の二色で一本になっている色鉛筆で印をつけていました。色の使い分けはどのようにしていたのかはわかりませんでした。否定的な内容については紺色の方を使うと教えてくださった方もいらっしゃいました。

 それで、私も長い間赤い色鉛筆で印をつけていました。そのうちふと思ったことがありました。聖書を閉じていても、印がついているページがわかるようにしたらもっと便利ではないかということです。赤鉛筆の印のついた箇所を追いながらページをめくって、自分の考えているような内容の聖書箇所を見つける場合、印のついていないページもめくることになることが多く、ちょっと時間が無駄ではないかと思ったのです。そこで、私は油性のマーカーを購入して、印のついているページの紙面ではなく、横にさっと色を入れることにしました。そうすれば、聖書を閉じていても、印がついているページにはマーカーでつけた赤い線が見えて、そういう部分だけ開いてみることができます。

 そういう実践をして数年経った頃、キリスト教書店の洋書部でレインボー・バイブルというものを見つけました。聖書の記述を神、愛、信仰、罪などに類別し、12色を使って全てのページを色分けしていました。良いアイディアであると思って購入しましたが、読んでいると、自分の感覚に合わない類別・色分けになっている場合もかなり有ると感じるようになりました。全てのページにわたって色分けする必要も無いように思いました。
 そこで、以前親交の有ったアメリカ人クリスチャンのことを思い出しました。彼は日曜礼拝にも輪ゴムで止めた一掴み12色ぐらいの色鉛筆を手に持って出席していました。その時は、なぜそんなにたくさんの色鉛筆を持っているのだろうかと思いました。レインボー・バイブルのように色とテーマを決めて印をつけていたのだろうなと思い当たりました。
 それで、彼と同じように、自分で考えた色分けとテーマで印をつけることにしました。その時に、それまでの実践に合わせて閉じていても印のついているページがわかるようにしようと思いました。その時は、印のついた紙の左右どの紙面に印がついているのかまでわかるようにしようと思い、上側についていれば左側の紙面に、下側についていれば右側の紙面に印がついているというふうに決めました。後に、それはやり過ぎだったと思うようになりました。祈りと賛美を同じ色にしていましたが、別の色が良かったと思ったりもしました。

 現在は、もう一度色とテーマの設定をし直して、新しい聖書で印をつけて読みたいと考えています。
 
 皆様も一度お試しになってはいかがでしょうか。聖書を読む励みになったり、より注意深く聖書が読めるようになったりするかもしれません。






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説教第一次産みの苦しみ状態

2012-09-11 22:56:37 | 気まぐれ忍務報告
お世話になっている大忍のご紹介で知り合ったとある単里で、二月に一度程説教のご奉仕をさせていただいております。

それで、次の説教の準備を始めたいのですが、どの聖書箇所から語ればよろしいのか、まだ示されておりません。
この箇所はどうかな、と思うようなものも有りましたが、シリーズで扱っていないと唐突な感じのするものでしたので、断念。

一週間以上思い巡らしていますが、なかなかこれだと確信の持てる箇所が見つかりません。
という訳で、現在の私の状況が、説教における第一次産みの苦しみ状態ではないかと思うわけです。

特定の書を取り上げて順番に説教する場合は、自動的に次の箇所が決まるので心配無いのですが、現在の頻度では、そのやり方は合わないと思うのです。この戦い?はしばらく続きそうです。


因みに、第二次産みの苦しみはどんなことかと申しますと、説教箇所の研究、吟味が終わったのに、なかなか主題とポイントを絞り込めないことだと思っております。私の恩師も、説教の授業の中で、明日説教という日に、そういうまとめができなくて、ついに涙をこぼしてしまったという体験を語ってくださったことがありました。祈って祈ってようやく主題に気づいて、安心と感謝のうちに床につけたということでした。







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「御名」のアクセント-私の体験と考え-

2012-05-20 21:31:20 | 気まぐれ忍務報告
 私がまだ中学生であった頃、日本初の聖書朗読テープが発売されたように記憶しておりす。あまり大きくない宣教団体が、他に先駆けて良いものを出したということで、私のお世話になっていた大忍も購入しておりました。その時に、その大忍は、残念なことにナレーターと言いますか、読み手を地方の方が担当し、監修も地方の方であった様子で、アクセントが違う場所が有るということを言っておられました。そして、一番気になるものとして指摘しておられたのが、この「御名」のアクセントでありました。
 そのテープのナレーターは「御」の方が強い、もしくは音調が高い読み方をしていました。しかし、標準語的には「名」の方が強いか音調が高い読み方をするという指摘をしておられました。私も幼い頃からそのように教えられていましたから、確かにそうだと思って聞きました。その時に、「御子」については「御」の方が強いもしくは音調が高いけれども、と断っておられたように思います。
 さて、この「御名」という表現は、大辞林などを見ても出てきませんで、アクセントなどを調べるのが難しいものです。ですから、私としては体験や類推などから考えるしかないように思います。
 私の両親は関東で仕事をしておりましたし、先の大忍も関東から来られた方でした。ですから、一応その判断は標準語的判断であったと私は考えています。次に、「御」を用いた他の表現から考えてみるということをしてみました。先に挙げた「御子」は別にしまして、二音節のものを探しますと、意外とみつけにくく、「御手」しか思いつきませんでした。この語においても、アクセントは「手」の方につくのが標準的であると思います。三音節以上のものは割合多く思いつくのですが、やはりアクセントは「御」ではなく、それに続く部分に有るのが標準的であると思います。

私の体験と考えでした。






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特別大忍の説教に触れて

2011-02-07 05:45:05 | 気まぐれ忍務報告
複数の単里を牧しておられる大忍の説教を聴く機会が有りました。イスラエルの初代王サウルの悲惨さを通して学ぶものでしたが、その物語を聞かせる展開が巧で、流石に経験を積まれた大忍だと思いました。

繰り返し奥義書に記録されているサウル王の愚かさ、サウル王の人物像、ダビデとの対比など、今まであまり気を配らずに来たようなことにまでよく届いた説教だと思いました。あまり細かいことをお分かちすることはできませんが、そこから汲み出されたのは、主の恵みに留まるということであり、日々の悔い改め、自分の点検ということでありました。

ダビデがサウルの命を取る機会が二度も有ったのに、それをしなかったことは忍者の間ではよく知られた話です。この話は、ダビデがサウル王の命を救った話であるように思えていましたが、今回は、主がサウル王に与えた恵みの機会であったという部分にもっと焦点を当てて聞くことができたことが、自分には新鮮な感じがいたしました。





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断食祈祷メモ

2010-03-02 21:22:38 | 気まぐれ忍務報告
断食祈祷

聖書に見る断食、断食祈祷を表す語
ヘブル語では、動詞のツーム、名詞の使用が見出されます。アラマイ語のテワースが一例だけダニエル書に見出されます。ギリシャ語では、名詞のネイステイアと動詞のネイステューオーが見出されます。宗教的なもの、健康管理、貧困や飢饉で食事ができないなどのいずれの場合の断食にも用いることができる言葉です。

聖書に見る断食の規定等
旧約の規定では、一年に一度、ユダヤ暦チスリの月の10日の大いなる贖いの日に断食することが定められていました。ゼカリヤの預言においては、四つの断食の日が更に示されています。パリサイ人達は、それにどんどん増し加え、ついには毎週断食するようになりました。それを守ることが敬虔で信心深いと考えました。
 それ以外にも断食をする場合が聖書中には見出されます。
 国家の非常時に、主の助けを求めての断食。王などの死を悼む断食。悔い改めの断食。旅の安全を祈るための断食。請願の祈りのための断食。
 新約聖書にも主の弟子達が断食をした記録が有ります。バルナバとパウロを聖霊の指示に従って宣教に送り出す前に、弟子達が断食をしています。任命の断食と考えるよりは、その後の安全や良き導きを願う請願の断食と考えるのが良さそうです。

我々が断食祈祷をする意味
現代に生きるキリスト教徒が断食をする場合は、律法の規定による断食ではありません。その他の場合の断食に倣っていることになります。それは、悔い改めの祈りの断食、非常時に助けを求める祈りの断食、その他色々な導きを求めたり、何かの請願の祈りの断食ということになるでしょう。いずれにしても、普段と違った集中的な祈りの必要や強い願い、必要を感じる時にすることであって、気軽に取り組むものではありません。

断食の方法、期間や注意等
断食の仕方は聖書に詳細に説明されているわけではありません。ですから、現在実践されている断食から述べることになります。工夫すればそのやり方も多様になると思いますので、私が実際に実践したり聞いたりしたことだけを取り上げます。
 一つは、一定の期間毎日一食抜いて祈るというものです。集中して祈れる時間帯に食事を抜くということで、朝食か夕食を抜くことになると思います。午後六時以降は食事をしないで夕方に祈るという実践を聞いたことがあります。似たようなやり方としては、週に一日断食をするという取り組みもあります。
 本格的に食事を抜く期間は、三日、一週間、十日、二週間、三週間などが比較的耳にすることが有りました。
大変危険なものとしては、四十日の断食が有ります。モーセが律法を受け取る時に四十日四十夜神の山に止まったことや、キリストがバプテスマを受けた後四十日四十夜断食をしたものに倣ったものですが、失敗して命を落とす場合も有りますから、肉的にも霊的にも慎重に取り組まなければなりません。本当にしなければならない理由であるか、事前と断食中の健康管理の準備は万全か等のことをはっきりさせておくことが必要です。

 初めて三日以上の断食をする時には、どんな経過が待っているかを先に確認しておくのが良いと思います。初めての断食が失敗するのは、空腹感に耐えられなくてということが多いようです。しかし、どんなに空腹でも、体温に近い温水を飲むだけにしておくことが良いでしょう。私も空腹感に耐え切れず、カロリーゼロなら良いかもしれないと考えて、糸蒟蒻を茹でて食べてみましたが、むしろ体調を崩してしまいました。また、断食が終わったらあれも食べたいこれも食べたいと思いました。しかし、断食を終えて普通の食事が始まったとたんに、そんな気持ちは消え去ってしまいました。そんなものならば、別に気にする必要が無いと思い、次の断食の時にはそんな気持ちは無くなり、淡々と進めることができました。
 空腹感を紛らわす呼吸法をご紹介しておきましょう。ひょっとこの様に口をすぼめたり、ストローを使ったりして、少し空気が通りにくい状態を作り、口から胸一杯に空気を吸い込みます。少し吸い込むのに力が要る感じになります。これを三、四回繰り返しますと、意外と空腹感が紛れます。これは新聞のダイエット関連記事で紹介されていた呼吸法です。断食中でなくても役に立つ場面が有るかもしれませんので、覚えておくと良いと思います。
 断食を始めると、二日目か三日目の晩に、目が冴えて眠れなくなります。それまで消化に費やしていたエネルギーの消費が無くなった分の負担の軽減が、そのような現象として現れるのかもしれません。個人差が有ると思いますが、私の場合はいつもそうなります。どの日にそれが起きるかは別にして、もしそういうことがいつも起きるならば、その日に集中的な祈りや聖書の読み込みのをする計画を立てておくのが良いと思います。
 その後の日々は、日によって感じ方は違ってくると思いますが、力が入らなかったりだるかったりして、期待したように祈りに集中できなかったりすることもあるかもしれません。しかし、断食を始めるということは、一つの請願の期間と言えますから、効率が悪いなどと考えたりしないで、決めた期間が終わるまで続けるのが良いと思います。
 断食が進むと、排便はしなくなるかと思いましたが、私の場合はちょっとずつ液状の排泄物が出てきます。宿便のような黒い粒が混ざったりしますが、だいたい濃い黄色のような色の泡や液が出ます。固形ではないために、こらえるのが難しい場合もあるかもしれませんから、トイレに近い所に居るとか、紙おむつを当てるなどの工夫が必要な方もいらっしゃるかもしれないと思います。
 また、断食期間中でも口内細菌の活動は続きますから、歯垢などが生じます。場合によっては驚く程たくさん生じることがありますから、歯磨きはきちんとする必要が有ります。

比較的楽に取り組める断食として最初にジュース断食を試みる人がいますが、割合無茶なことをしている方が多いように思います。
 先ず、空腹感を紛らすために、ジュースをたくさん飲んでしまう人がいます。これは幾つかの面で良くありません。一つ目は、血糖値の問題です。突然大量の糖分が体内に取り込まれると、それを吸収しようとしてインシュリンが分泌されます。ペースが早かったり量が多かったりすると、吸収に必要な量を体が予測して、実際に必要な量より多くのインシュリンが分泌されることがあります。すると、必要以上に糖分が吸収されてしまい、低血糖障害を引き起こすことが有ります。
 また、血管に含まれるカルシウムが使われ、血管の壁がミクロ単位で傷つき、それが繰り返されると、血管の硬化を招くことが有ると考えられます。
 直ぐに体に表れる問題としては、消化器官の炎症が挙げられます。食べ物を摂らないために、果汁系の刺激が直接消化器官に届きます。これは、下痢を起こすのと同じような刺激になります。実際のジュース断食レポートでも、そのせいでトイレに頻繁に駆け込むことになったというものを読んだことが有ります。
 では、どのようにするのが体に負担の少ないジュース断食なのでしょうか。内科医の友人の話では、オレンジジュースやアップルジュースなどの果汁はやはり刺激が有るので、風邪の時なども避けるのが良いということです。ですから、それらは避けるのが良いでしょう。逆に彼に奨められたのは、スプライトやラムネ等の透明サイダー系のジュースをミネラルウォーターと1:1の比率で割るというものでした。たくさん飲みたくなるようでしたら、もっと水の比率を上げても良いと思います。できることでしたら、断食用ジュースも、普段の食事の時間帯に飲むだけで、後は水だけにするのが望ましいと思います。

断食をすると、体内のエネルギー生産が落ちますから、体温も平熱より下がるようです。ですから、普段寒がりの方ですと、冬に断食するのは避けたほうが良いのではないかと思います。私が少し長い断食をした夏は、巷では猛暑だと言われていたのですが、私は全然暑さを感じませんでした。

私が読んだ断食のガイドでは、十日までは仕事をしながら断食できるというようなことが書いて有りました。しかし、これも個人差が有ろうかと思います。長期休暇を申請したりするのは簡単なことではありませんから、よく考えて計画を立てる必要が有ります。
 たとえ十日までは自分で管理して行けるとしても、それ以上になれば、キリスト教の断食祈祷院か一般のファースティング・セラピー施設にお世話になるのが良いと思います。一般のセラピーでも、個室で静かに過ごせる場所を探せば、霊的な雰囲気を失わずに行うことができると思います。

断食祈祷の期間は、ひたすら祈り続けるということもやり方の一つではあろうと思いますが、どの時点で何をするというようなことを計画するのも良いと思います。祈り以外にも、聖書を読む、賛美の歌を歌ったり聴いたりする、説教を聴く、礼拝や祈祷会に参加する等のことは意味が有ると思います。先に述べた通り、目が冴えて眠れない夜が来るタイプの人は、そこで集中して祈ったりすることも、計画に入れておくのが良いと思います。断食祈祷をするなら、当然祈りの課題が定まっているはずですから、それらのことについて、多角的に祈っていくのが良いと思います。これは集中して祈り、霊想を深める期間ですから、同じことを繰り返し祈ることになっても気にする必要は有りません。
 数日連続の断食をする場合は、これらのことを念頭に入れて、大まかで構いませんから、どんな風に祈っていくかなどの具体的な計画を持つことが良いと思います。また、その期間中、断食していることは、必要以上に周囲の人に知らせないようにすることも必要であろうと思います。そうしないと、霊的な必要と導きを得て始めたはずの断食祈祷が、自分の肉の誇りに堕してしまう場合が有るからです。

断食が終わった後は、突然普通の食事に戻るのは良いことではありません。重湯などから始めて、様子を見ながら徐々にお粥、おじやなどへと移って行くのが安全です。また、一週間以上の断食は、自分の体の分解をする段階に入りますから、普段の生活に戻す時に、食事だけではなく、ウォーキングや筋肉トレーニングを心がけなければならない場合も有ります。頻繁に断食祈祷をする方の中には、痩身ダイエットとリバウンドの繰り返しのような状況になって肥満体型になってしまっている人がいます。それは健康を害することにつながりかねませんから、注意するべきことであると思います。

最後に、断食をしてみて体調に問題が起きた場合は、直ぐに中断することです。必要ならば、医者や栄養士の指導を仰いだりすることもすることをためらってはいけないと思います。
 断食を計画より早く終えることには、何も悪いことでは有りません。大事なのは、主との関係です。面目無いと考えるような態度や利己的で自意識の方に重点の有る断食は、旧約聖書でも戒められています。逆に言えば、主との関係に真摯であれば、実は断食をしなくても良いのです。祈りはいつでもできますし、いつでも深めることができます。断食をすれば、もっと祈りが答えられるとか、より良い祈りであるなどと考えるのは御心にかなった考えではありません。断食祈祷に臨む時の気持ちは、特別に聖別した時間を主との交わりの中で過ごし、主の御心に触れ、主の御心を生きたいというものです。修行や利得のための特別な手段、自分の徳を高める手段のように考えられるべきではありません。


大変個人的で主観的な記述ではありますが、断食祈祷を考える方々の参考になればと思います。







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ある大忍の証

2009-10-12 03:20:34 | 気まぐれ忍務報告
ある大忍の証を耳にする機会が有りましたので、お分かちしたいと思います。

この大忍は、銀行員の家庭に生まれたとかで、比較的裕福な生活をしていたようです。自分も銀行に勤めて、それなりの地位を得て、ポケットにはいつも三十万円の現金だか小切手を入れているような生活だったそうです。子供には、小さい時から服でも物でも高価でいい物を買って与えていたそうです。一応クリスチャンの家庭だったし、一応信仰も持っていたのだそうですが、それが本当に生活の中心には無かったということです。

おかしなことに、この方は三男だったのだそうですが、上の二人のお兄さんは交通事故で亡くなったそうです。そうこうしているうちに、自分自身が大変な交通事故に遭ってしまったそうです。細かい状況の説明はなされませんでしたが、乗っていたタクシーとバスが衝突したそうです。バスはタクシーに乗り上げたうえ、30メートルも進んで(滑って?)コンクリートの壁に衝突して止まったそうです。止まった時点では、タクシーは横からの力で、左右がくっ付くぐらいにつぶれていたそうです。レンジャーが来て、カッターを使ったりして運転手を引き出しましたが、脚は片方取れていたりして、既に死亡していたそうです。後部もひどくつぶれていたので、レンジャーは乗客が居るとは思いもしなかったそうですが、後部にも血溜まりができて、よく見ると、臀部が見えたので、またカッターを使って時間を掛けて引き出しましたが、彼も死んでいると思われたそうです。警察官が死体を二つ並べるように指示した頃に、彼がうめき声を上げたので、生存が確認されたそうです。
 それから、彼は三年間病院に居たそうです。奇跡的に上半身には大きなダメージが無かったのですが、右の骨盤から股関節にかけての損傷が激しかったということでした。骨は腰から脚にかけて複雑骨折していて、欠片になってしまったような状態の部分も有るのを、なんとかいろいろつなぎ合わせたり固定したりしたそうです。また、神経は切れてしまって、動かせないばかりでなく、感覚も麻痺していたそうです。初めてギブスなどを取った日に、触診を受けましたが、何も感じなかったそうです。医者が、足の指を動かすようにと言ったそうですが、何もできなかったということです。股関節の形成手術やら、もしかたしたら、神経系の手術もしたのかもしれませんが、三回の手術をしても状況が良くならず、いずれの手術も失敗ということだったようです。こうなったら、脚は切断した方が、今後の生活のためにはむしろ都合が良いはずだということで、その手術の日程が決められました。その時、股関節の形成もまだ完全になっておらず、松葉杖無しに立ってはならないと言われていたそうです。また、右の脚全体が重苦しくて、まるでコンクリートになってしまったような感覚が有って、触られても感じない脚でしたが、その度に揉んで貰わないと、落ち着いて眠れないような状況だったそうです。
 脚の切断の手術の日程まで決まっていましたが、彼は脚を失うのは嫌でした。そこで彼は思いました。そうだ、今まで自分はキリスト教徒ではあったが、本当に信仰によって生きるということをしたことがなかった。一度一生懸命祈ろう。それで、山に有る祈祷院に行って、断食しながら一週間(二週間だったかもしれません)祈ったそうです。毎日過去のことをよく思い出しては、本当にそれまでの生き方を一つずつ悔い改めて祈ったそうです。すると、ある時突然体中が熱くなったそうです。それまで、他人の話では聞いたことのあった、聖霊に触れられる経験を、自分がすることになったと思ったそうです。
 さて、その体中が熱くなる経験の後、ふと気がつくと、右の脚に感覚が戻っているような気がしました。おやと思って、足の指を動かしてみると、なんと、三年ぶりに足の指が動かせたというのです。まだ、これが実際に起きていることとは思えず、半信半疑でゆっくり立ち上がって見ました。股関節の形成が終わっていませんから、自力で立ってはいけないと言われていましたので、慎重に立って、体重を掛けてみました。壁に手を掛けて、全体重が脚に掛からないように気をつけました。やってみると、なんとも無いようです。次にその状態で壁にそってつたい歩きもしてみました。そのうちに、だんだん癒されたのだという確信が沸いてきて、ついに手を離して立ちました。痛みもありません。それで、ついには祈祷院の自分の個室から出て、外を歩き回ったということでした。
 それから、彼は、こんな奇跡で答えてくださった神様のために働きたいと思って、献身して奥義書講義所に行くことにしました。しかし、その時には、三年間の入院生活で、それまでの豊かな貯蓄は全て使い果たしてしまっていたそうです。そんな状態ですから、入院中に、親が、彼の奥さんに、「もう彼は無一文であるし、治る見込みも無い。こんな状態なのにうちに留めておくのは申し訳ないから、このお金(三十万円ぐらいでしたでしょうか)を持ってどこにでも行きなさい。」と言ったそうです。奥さんは仕方なく子供と連れて家を出たそうです。しかし、脚が治ったので彼は奥さんを迎えに行って、自分の身に起こったことを話、献身生活を始めたそうです。奥義書講義所の入所試験までの期間が大変短かったのですが、集中して勉強できたそうです。これも神様の働きだと思われたそうですが、とにかくあまり眠くならずに、短い睡眠時間で毎日集中して勉強できたそうです。そして、入所試験にも合格しました。(でも試験後はぶっ通しで三日間寝ていたそうです。)
 彼が奥義書講義所を卒業し、少忍試験(今は無いと思います)を受けるために、試験会場が有った、或る田舎に出掛けました。その地方には、問題が有って、大忍が出て行ってしまったので、役員会が相談の上来週には十字架を降ろして解散しようという決定をした単里が有ったそうです。少忍試験のために訪れた地域の単里に行こうと思って、偶然に訪ねたようなのですが、彼が忍士であるということで、出て行った大忍の代わりに説教を頼まれました。それで、彼が説教をすると、その後で、数人の人が彼の所に来て、そこで牧会することはできないかと頼んできたそうです。普通そんな困難な状況の単里を、経験の乏しい忍士が引き受けるということはしません。しかし、無一文からもう一度神様によって身を起こさせていただく経験をした彼は、神様がご一緒なら何でもできるという信仰と導きの確信を持ってそれを引き受けたそうです。一年後には中忍試験にも合格し、且つその単里担当の任命を受けて、すぐ大忍になったそうです。
 以来、神様の栄光のためということだけをひたすら求めて、十四年、少しずつではありますが、継続的に成長して来ました。その中で、新会堂も神様の恵みで与えられました。その会堂が与えられたあらましはこうです。ある教会が新会堂建築事業に取り掛かりましたが、最終的な資金の工面の段階で行き詰まり、役員会が揉めたりして、手放すことになったそうです。それで、彼の牧会する単里に購入の打診が有ったそうです。実は、規模的には彼の仕えている単里の方が小さくて、無理なことのように思えたそうですが、祈りの結果受け止めたそうです。自分が無一文になったところから、神様によって立てられた経験から、信仰を持って取り組めたということです。

証は、恐れずに神様だけを信頼し、食べるにも飲むにも何をするにも神様の栄光のためだけを思って生きて行きましょうというアピールで終わりました。







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中里会議に呼ばれて

2009-09-11 08:56:23 | 気まぐれ忍務報告
どうせ中忍だし、前の時に呼ばれなかったからと思っておりましたら、大忍から電話が掛かって来ました。思うに、第一の目的は、大忍達に配る資料の封筒を持って来させたかったようです。でも、点呼が有るからと付け足していましたから、そちらの方も大事には思っておられたようです。

到着したら、その単里の大忍に、知り合いの少忍を呼んでくださいと頼まれたり、他の資料の袋詰めも頼まれました。知り合いの忍士もいたので、おしゃべりしながら作業をしました。

会場は、今年中忍試験を受けるという人が二人いた単里で、十八が資料を分けて差し上げたのですが、残念ながら、合格は一人だったようです。不合格の少忍の人は、人格的に良い方だという感じで、忍務もあれこれ任されたり、しょっちゅう配置替えがあったりして、有能な方なので、今年合格であれば良かったのにと思いました。教会史がうまく行かなかったようです。十八も点数が低かったと指摘されましたので、難しい部分だと思いました。

私の里の長老の息子さんが、今度奥義書講義所に入所するということで、十八にも推薦状の依頼をされました。忍士になったらどうかと思いましたが、長老は、本人の意思の問題であると言っていました。

点呼を受けた後、他の用事ができましたので、会議は全部出席できず、大忍に挨拶をしてから中途退席しました。




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記念すべき第一回目

2008-11-28 18:50:39 | 気まぐれ忍務報告
按手を受けて中忍になって、初めての病院訪問をした、記念すべき日となりました。

二歳のお孫さんのために、無理をして高い所にアドベントのデコレーションをした兄弟が、降りる時に誤って転落し、骨盤の端を骨折して、手術入院をしました。受洗して一年ほどのご夫妻に起きたことなので、信仰が試されただろうなと思いました。

病院の個室に親しい信者さんと訪ねました。その方が始めのお祈りを熱心にされ、次にローマ書八章二十六節から三十節までを朗読して、私がショート・メッセージをしました。

信仰を持ったら困難は無くなるというようなことは有りません。この手紙を受け取ったローマの教会の信徒達にもたくさん困難が有りました。しかし、聖霊の助けによって祈ることが神様の望んでおられることです。なんでこんなことがと思われるかもしれませんが、一生懸命祈ってみてください。神様には、ことを益に変えようというご計画があるのです。信じて祈り、義とされた上に更に栄光を与えられることを目指しましょう。
 神様が兄弟をご覧になる時、私の自慢の子だと喜んでいらっしゃると思います。神は愛です。そして、兄弟は、お孫さんへの愛からこのことをされたのですから。骨折することになってしまいましたが、神様は兄弟のことを誇らしげにご覧になっていると思います。

このようなことを話、回復とご家族の祝福を祈り、祝祷をしました。



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