今回の聖書箇所は三つの場面に分けて確認できます。それぞれの場面毎に内容を確認し、また何を学ぶべきか考えてみたいと思います。
第一の場面(三十九節、四十節)
この箇所の日本語訳(新改訳)は少し状況がわかりにくい訳ではないかと思います。とにかく、何人かの律法学者がキリストに向かって、「先生、立派なお答えです。」と言ったというのです。「立派な」というのは、「みごとな、たくみに」という感覚で理解できる言葉のようです。
四十節は、原文では理由を表す接続詞がついています。つまり、律法学者がそういう発言をした理由が書かれているということです。「彼らはもうそれ以上何も質問する勇気が無かった。」というのが理由だということです。ここで、「彼ら」が誰を指すのかを考えなければなりません。文脈と状況から考えると、これはサドカイ人達を指すと考えるのが良いところです。
律法学者の殆どはパリサイ人達でした。彼らはサドカイ人達と政治権力を分かち合って来ましたが、神学的には違った立場でした。彼らは復活を信じていたのです。自分達と反対の神学的立場を持つサドカイ人達がキリストに論破されたということが、律法学者達には嬉しかったのです。ですから、「先生、立派なお答えです。」という発言がなされたのです。
しかし、ここで問題なのは、この賛辞と取れる言葉が、はたして純粋な気持ちからであるかどうかということです。宿敵である律法学者のうちの何人かの言葉です。彼らが真実な気持ちからそういう発言をしたとは思えません。キリストのその後の対応を考えても、それは明らかであろうと思われます。
考えてみてください。サドカイ人達が復活問答をキリストに仕掛けたということは、彼らにとってはそれが有効な質問だと思われたからです。ということは、そういう質問に対して、パリサイ人達や律法学者達は、それまで有効な反論や回答をすることができなかったのだということになりませんか。自分達が為し得なかったことをキリストが為し得たとなると、それは彼らにとって悔しいことであったはずです。そう考えると、この律法学者達の言葉は、自分達こそ旧約聖書の解釈の専門家であるというプライドと高慢な思いから、虚勢を張って、偉そうな態度を取ったということになるはずです。おそらく、先生が生徒をほめるような、「おう、よくやったな、お前。」というような雰囲気が含まれていたと思われます。
ここから私達キリスト者が学ばなければならないことは何でしょうか。私達も、この律法学者達のように、信仰生活が長くなったり、聖書を一生懸命読んできたりすると、自分が聖書のことをよく知っていて、あたかも聖書の権威でもあるかのような態度を取ってしまうことはないでしょうか。自分にはよく答えられなかったのに、他の人がよく聖書の説き明かしができたりすると、つい、プライドから自分も知っていたような態度を取ったりしないでしょうか。そういうくだらないプライドは罪です。限界の有る人間なのですから、知らないことは知らないとして、謙遜に聖書から、また他のキリスト者から学び続ける態度を持つことが大事であると思います。
第二の場面(四十一節~四十四節)
律法学者のプライド、虚勢、偉そうな態度を見て、キリストは彼らに質問をします。それはキリスト(メシア)についての質問でした。ユダヤ人達にとっては、キリストはダビデ王の子孫であるということは共通認識でした。ですから、例えばエリコの町に通じる道で物乞いをしていた盲人であったバルテマイも、「ダビデの子のイエス様、わたしを憐れんでください。」と叫んでいるわけです。しかし、ダビデ自身が詩篇百十篇一節においては、キリストのことを「主」と呼んでいるのです。キリストはその箇所を引用して彼らに質問しました。その質問の内容は、「一体どうしてキリストはダビデの子孫とダビデの主の両方でありえるのか?」ということでした。聖書には律法学者達の回答は記されていません。ユダヤ人の共通理解、常識と言える事柄についての質問であったのですが、律法、旧約聖書の専門家を自認する彼らであったのに、それに答えることができなかったのです。
キリストは質問をしたのですが、実は、律法学者達と対決し、糾弾したことになるのです。お前達は律法、旧約聖書の専門家であり権威であると自認しているが、このようなことも答えられないではないか。お前達にはそんな権威は無いのだ。私(キリスト)こそが神の言葉であり、権威なのだ。キリストはそういう意図を持っていたと考えてよいと思います。
ところで、キリストが質問をするにあたって引用した詩篇百十篇一節の内容は、キリスト者にとってはどのように理解されるべきなのでしょうか。
「わたしの右の座についていなさい」という部分から取り上げてみたいと思います。キリストは十字架の死と復活を経て昇天し、神の右の座につかれました。ですから、その一連の出来事、もしくはその時のことを述べていると考えられます。次に、「あなたの敵をあなたの足台とする時まで」という部分を確認します。「足台とする」というのは、勝利をするという意味が有ります。ヨシュア記などを読むと、戦争に勝った時、敵の首に足をかけるという動作が出てきますが、それは勝利の印であり、それを表す象徴的行為でもあるわけです。復活して神の右の座についているキリストが敵に勝利するまで待つということは、最後の審判の時までということですから、この「敵」(複数)は、サタン、悪霊も含まれるかもしれませんが、その時キリストの前に居た律法学者やキリストを受け入れない人達にもっと重点が有るように思われます。
この箇所を引用したということには、他にも意味が有るように思われます。翌日ぐらいには、キリストは彼らの手にかかり、その後十字架にかけられることになっていました。ですから、これから起ころうとすることの預言というような側面も有ったと考えて良いと思います。また、キリストは自分がメシアであることを、この頃までには旧約聖書全体を通して弟子達に説明し終えていたはずですから、傍にいる弟子達に、その復習をさせたという部分も有るかもしれません。(エマオの途上のエピソードを考えると、弟子達がそれをどれぐらい理解していたかはわかりませんが。)
キリストは黙示録二十二章十六節において、御自身のことを「ダビデの根、また子孫」と述べています。つまり、ダビデを立てられた主であり、同時にダビデの子孫であるということです。キリストが、家系的にはダビデの子孫として生まれましたが、聖霊によって人としてこの世に来られた神(主)であることをキリスト者は信じており、このことは明らかに示されていると考えられるものです。
この場面からは、キリスト御自身が十分に御自身を聖書を通して啓示しておられるということを受け入れ、キリストの神の言葉としての権威を認め、キリストの啓示に従って読み、理解するべきであることを学ぶことができると思います。
第三の場面(四十五節~四十七節)
ここでキリストは、弟子達に向かって、律法学者達に関する警告を発します。しかし、それは「民衆がみなが耳を傾けているときに」なされましたから、民衆や律法学者に対する言葉でもあったと考えて差し支えないと思われます。
なお、ここで述べられている内容は、他の箇所でパリサイ人達について述べられている内容と一致しますが、律法学者の多くはパリサイ人であったことを考えると、当然であると考えられます。
「長い衣」をまとうということですが、彼らには一応服装の規定が有ったようです。顔を除いては、自分を隠し、肌を見せてはならないということで、袖は指先まで覆える長さ、裾はくるぶしとか踵まで覆える長さという風に決められていたようです。それが神を敬う者の態度だと考えたようです。ここでは、必要以上に長くして、「私は敬虔なのだ」と誇示するような態度を指しているようです。
広場で挨拶されるということですが、「先生、主よ」などの呼びかけをされることを指しているようです。わざわざ人々がそう呼んでくれる場所にでかけて、私は宗教的指導者だということを誇示する態度を指しているようです。
「会堂の上席」というのは、律法が読まれたり、解説される講壇の隣ということだそうです。そこに座っているということは、律法や旧約聖書をよく勉強して理解しているということであり、人々の目に触れる、見られるということでもありました。また、「宴会の上席」は、宴会を主催する主人の隣とか近くの席ということでした。とにかく、彼らは敬虔で地位が高いということを誇示したがる人達だったということです。
しかし、敬虔さと神の言葉の知識が豊富であることを誇示したがっていた彼らの実態が、大変貪欲で悪辣なものであることが四十七節では示されます。やもめの家を食いつぶすというのはどういうことでしょうか。やもめの財産管理を助けてやるという名目で管理権を得て、実際は私服を肥やしていたということだという理解が有ります。もしくは祝福を祈るという名目で尋ね、食事やお礼を出させていたという理解も有るようです。
そういう良からぬ行為を誤魔化すために、長い祈りをささげていたということが有ったようです。当時、敬虔なユダヤ人は日に三回の祈りの時間を守っていたのですが、更に敬虔な人は、一時間前から祈る場所に来て、祈りの時間が来ると一時間は祈りに割き、その後も一時間そこに留まるものだとされていたようです。すると、全部で三時間です。そうやってやもめの家に居座って、いかにもやもめのために心を使っているようなふりをしていたということのようです。
また、ユダヤ人達は、そのように長く祈れば、より長生きできるという考えも有ったようです。しかし、その動機が不純なわけですから、キリストはその考えとは逆に、そんな祈りをしても、人一倍きびしい罰を受けるのだと宣言しているわけです。
キリスト者も敬虔なふりをして、その実、主にある兄弟姉妹を苦しめていたり悩ませていたり、またはそういう見せ掛けや言い訳を用いて、彼らから何かの利得をせしめようとすることが有るかもしれません。しかし、そういうことが有ってはなりません。主は人の心をご存知です。あなたのしていることが、人一倍きびしい罰を受けるようなことでないかに気をつけ、点検しなくてはならない時が有るかもしれません。
まとめ
要点一)神の言葉を他人より知っている、理解しているというプライドや高慢を持つことなく、謙遜に聖書を学び続けることが必要です。
要点二)キリストが御自身を啓示されたその言葉の権威を信じ、信頼し、それに従ってキリストを、また聖書を理解することが必要です。
要点三)私達の生き方や行為は、神の善、キリストの教えを反映したものでなければならず、それが神の御心と反対の悪行となってしまうことのないように気をつけることが必要です。
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第一の場面(三十九節、四十節)
この箇所の日本語訳(新改訳)は少し状況がわかりにくい訳ではないかと思います。とにかく、何人かの律法学者がキリストに向かって、「先生、立派なお答えです。」と言ったというのです。「立派な」というのは、「みごとな、たくみに」という感覚で理解できる言葉のようです。
四十節は、原文では理由を表す接続詞がついています。つまり、律法学者がそういう発言をした理由が書かれているということです。「彼らはもうそれ以上何も質問する勇気が無かった。」というのが理由だということです。ここで、「彼ら」が誰を指すのかを考えなければなりません。文脈と状況から考えると、これはサドカイ人達を指すと考えるのが良いところです。
律法学者の殆どはパリサイ人達でした。彼らはサドカイ人達と政治権力を分かち合って来ましたが、神学的には違った立場でした。彼らは復活を信じていたのです。自分達と反対の神学的立場を持つサドカイ人達がキリストに論破されたということが、律法学者達には嬉しかったのです。ですから、「先生、立派なお答えです。」という発言がなされたのです。
しかし、ここで問題なのは、この賛辞と取れる言葉が、はたして純粋な気持ちからであるかどうかということです。宿敵である律法学者のうちの何人かの言葉です。彼らが真実な気持ちからそういう発言をしたとは思えません。キリストのその後の対応を考えても、それは明らかであろうと思われます。
考えてみてください。サドカイ人達が復活問答をキリストに仕掛けたということは、彼らにとってはそれが有効な質問だと思われたからです。ということは、そういう質問に対して、パリサイ人達や律法学者達は、それまで有効な反論や回答をすることができなかったのだということになりませんか。自分達が為し得なかったことをキリストが為し得たとなると、それは彼らにとって悔しいことであったはずです。そう考えると、この律法学者達の言葉は、自分達こそ旧約聖書の解釈の専門家であるというプライドと高慢な思いから、虚勢を張って、偉そうな態度を取ったということになるはずです。おそらく、先生が生徒をほめるような、「おう、よくやったな、お前。」というような雰囲気が含まれていたと思われます。
ここから私達キリスト者が学ばなければならないことは何でしょうか。私達も、この律法学者達のように、信仰生活が長くなったり、聖書を一生懸命読んできたりすると、自分が聖書のことをよく知っていて、あたかも聖書の権威でもあるかのような態度を取ってしまうことはないでしょうか。自分にはよく答えられなかったのに、他の人がよく聖書の説き明かしができたりすると、つい、プライドから自分も知っていたような態度を取ったりしないでしょうか。そういうくだらないプライドは罪です。限界の有る人間なのですから、知らないことは知らないとして、謙遜に聖書から、また他のキリスト者から学び続ける態度を持つことが大事であると思います。
第二の場面(四十一節~四十四節)
律法学者のプライド、虚勢、偉そうな態度を見て、キリストは彼らに質問をします。それはキリスト(メシア)についての質問でした。ユダヤ人達にとっては、キリストはダビデ王の子孫であるということは共通認識でした。ですから、例えばエリコの町に通じる道で物乞いをしていた盲人であったバルテマイも、「ダビデの子のイエス様、わたしを憐れんでください。」と叫んでいるわけです。しかし、ダビデ自身が詩篇百十篇一節においては、キリストのことを「主」と呼んでいるのです。キリストはその箇所を引用して彼らに質問しました。その質問の内容は、「一体どうしてキリストはダビデの子孫とダビデの主の両方でありえるのか?」ということでした。聖書には律法学者達の回答は記されていません。ユダヤ人の共通理解、常識と言える事柄についての質問であったのですが、律法、旧約聖書の専門家を自認する彼らであったのに、それに答えることができなかったのです。
キリストは質問をしたのですが、実は、律法学者達と対決し、糾弾したことになるのです。お前達は律法、旧約聖書の専門家であり権威であると自認しているが、このようなことも答えられないではないか。お前達にはそんな権威は無いのだ。私(キリスト)こそが神の言葉であり、権威なのだ。キリストはそういう意図を持っていたと考えてよいと思います。
ところで、キリストが質問をするにあたって引用した詩篇百十篇一節の内容は、キリスト者にとってはどのように理解されるべきなのでしょうか。
「わたしの右の座についていなさい」という部分から取り上げてみたいと思います。キリストは十字架の死と復活を経て昇天し、神の右の座につかれました。ですから、その一連の出来事、もしくはその時のことを述べていると考えられます。次に、「あなたの敵をあなたの足台とする時まで」という部分を確認します。「足台とする」というのは、勝利をするという意味が有ります。ヨシュア記などを読むと、戦争に勝った時、敵の首に足をかけるという動作が出てきますが、それは勝利の印であり、それを表す象徴的行為でもあるわけです。復活して神の右の座についているキリストが敵に勝利するまで待つということは、最後の審判の時までということですから、この「敵」(複数)は、サタン、悪霊も含まれるかもしれませんが、その時キリストの前に居た律法学者やキリストを受け入れない人達にもっと重点が有るように思われます。
この箇所を引用したということには、他にも意味が有るように思われます。翌日ぐらいには、キリストは彼らの手にかかり、その後十字架にかけられることになっていました。ですから、これから起ころうとすることの預言というような側面も有ったと考えて良いと思います。また、キリストは自分がメシアであることを、この頃までには旧約聖書全体を通して弟子達に説明し終えていたはずですから、傍にいる弟子達に、その復習をさせたという部分も有るかもしれません。(エマオの途上のエピソードを考えると、弟子達がそれをどれぐらい理解していたかはわかりませんが。)
キリストは黙示録二十二章十六節において、御自身のことを「ダビデの根、また子孫」と述べています。つまり、ダビデを立てられた主であり、同時にダビデの子孫であるということです。キリストが、家系的にはダビデの子孫として生まれましたが、聖霊によって人としてこの世に来られた神(主)であることをキリスト者は信じており、このことは明らかに示されていると考えられるものです。
この場面からは、キリスト御自身が十分に御自身を聖書を通して啓示しておられるということを受け入れ、キリストの神の言葉としての権威を認め、キリストの啓示に従って読み、理解するべきであることを学ぶことができると思います。
第三の場面(四十五節~四十七節)
ここでキリストは、弟子達に向かって、律法学者達に関する警告を発します。しかし、それは「民衆がみなが耳を傾けているときに」なされましたから、民衆や律法学者に対する言葉でもあったと考えて差し支えないと思われます。
なお、ここで述べられている内容は、他の箇所でパリサイ人達について述べられている内容と一致しますが、律法学者の多くはパリサイ人であったことを考えると、当然であると考えられます。
「長い衣」をまとうということですが、彼らには一応服装の規定が有ったようです。顔を除いては、自分を隠し、肌を見せてはならないということで、袖は指先まで覆える長さ、裾はくるぶしとか踵まで覆える長さという風に決められていたようです。それが神を敬う者の態度だと考えたようです。ここでは、必要以上に長くして、「私は敬虔なのだ」と誇示するような態度を指しているようです。
広場で挨拶されるということですが、「先生、主よ」などの呼びかけをされることを指しているようです。わざわざ人々がそう呼んでくれる場所にでかけて、私は宗教的指導者だということを誇示する態度を指しているようです。
「会堂の上席」というのは、律法が読まれたり、解説される講壇の隣ということだそうです。そこに座っているということは、律法や旧約聖書をよく勉強して理解しているということであり、人々の目に触れる、見られるということでもありました。また、「宴会の上席」は、宴会を主催する主人の隣とか近くの席ということでした。とにかく、彼らは敬虔で地位が高いということを誇示したがる人達だったということです。
しかし、敬虔さと神の言葉の知識が豊富であることを誇示したがっていた彼らの実態が、大変貪欲で悪辣なものであることが四十七節では示されます。やもめの家を食いつぶすというのはどういうことでしょうか。やもめの財産管理を助けてやるという名目で管理権を得て、実際は私服を肥やしていたということだという理解が有ります。もしくは祝福を祈るという名目で尋ね、食事やお礼を出させていたという理解も有るようです。
そういう良からぬ行為を誤魔化すために、長い祈りをささげていたということが有ったようです。当時、敬虔なユダヤ人は日に三回の祈りの時間を守っていたのですが、更に敬虔な人は、一時間前から祈る場所に来て、祈りの時間が来ると一時間は祈りに割き、その後も一時間そこに留まるものだとされていたようです。すると、全部で三時間です。そうやってやもめの家に居座って、いかにもやもめのために心を使っているようなふりをしていたということのようです。
また、ユダヤ人達は、そのように長く祈れば、より長生きできるという考えも有ったようです。しかし、その動機が不純なわけですから、キリストはその考えとは逆に、そんな祈りをしても、人一倍きびしい罰を受けるのだと宣言しているわけです。
キリスト者も敬虔なふりをして、その実、主にある兄弟姉妹を苦しめていたり悩ませていたり、またはそういう見せ掛けや言い訳を用いて、彼らから何かの利得をせしめようとすることが有るかもしれません。しかし、そういうことが有ってはなりません。主は人の心をご存知です。あなたのしていることが、人一倍きびしい罰を受けるようなことでないかに気をつけ、点検しなくてはならない時が有るかもしれません。
まとめ
要点一)神の言葉を他人より知っている、理解しているというプライドや高慢を持つことなく、謙遜に聖書を学び続けることが必要です。
要点二)キリストが御自身を啓示されたその言葉の権威を信じ、信頼し、それに従ってキリストを、また聖書を理解することが必要です。
要点三)私達の生き方や行為は、神の善、キリストの教えを反映したものでなければならず、それが神の御心と反対の悪行となってしまうことのないように気をつけることが必要です。


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