1節
パウロを偽使徒呼ばわりする偽教師が多かったので、いろいろなところでパウロは自分が正真正銘の使徒であることを確認している。
使徒とは「主人の言葉を伝えるために選ばれた者」というのが原義である。
パウロは主人であるイエス様に直接選ばれて、異邦人への宣教を委ねられているから、使徒であると称する資格がある。
我々は使徒ではないが、御旨によってイエス様を通して選んでくださった方への感謝を忘れてはいけない。(テモテについては割愛)
2節
パウロとコロサイ人をつなぐのは「キリスト」である。忠実な兄弟達へという呼びかけは、同時に我々が聖徒として忠実であるべきことおも考えさせる。
パウロの用いた挨拶の言葉は、ユダヤ的な挨拶の「平安」とギリシャ的挨拶の「恵み」が両方盛り込まれている。それを賜る方は「わたしたちの父なる神」であるという認識が大事であろう。
3節
12使徒が使徒行伝で述べたように、使徒及び使徒的働きをする人の重要な勤めは御言葉を語ることと、祈ることである。パウロが忠実に祈りのために労していたことがうかがえる。
4節
パウロが感謝していると3節述べたことの内容は、先ずキリスト者という存在の中心的焦点である「キリスト・イエス」にある信仰であった。コロサイ書の目的に、間違った福音を正す部分が有るわけだから、彼らの正統的信仰の保持も思いの中にあっただろう。
次に、信仰の発露である他の聖徒に対する愛がコロサイ人の中にあるというレポートを聞いたということに対する感謝である。(ヨハネ15章9~12節参照)
5節
コロサイ人の他の聖徒たちへの愛が信仰に根ざしていることを受けて、その信仰という動機を更に詳しく説明する、「天にたくわえられている望み」という言葉が加えられた。しかし、それはこと細かく確認しなくても、コロサイまで伝わった福音によって彼らは知っているということを述べている。福音の真理の言葉は、真理の福音の言葉とも訳せる。我々信仰者にとってはこれが真理である。愛と天にたくわえらている希望というつながりもヨハネ15~18章を連想させる。パウロが使徒達の教えから離れているのではなく、むしろキリストによって同じ軸に立っているとを示す。
6節
福音、良き知らせが、現実としてコロサイ人の中で生き方に反映され、さらに伝播していっている。それは彼らが「神の恵み」が何であるかを聞き、それを「知った」からである。
7節
パウロはエパフラスによってコロサイに福音が伝えられ、教会ができたことを彼らに再確認させている。「わたしたちと同じ僕」という表現で、エパフラスの立場が決して軽いものではないことを示している。
一般社会では、部下の手柄は上司の手柄になってしまうが、パウロはキリスト者としてそのような振る舞いはしない。イザヤ書でも神の訪れを伝えるものの足は麗しいと述べられているように、神の僕の労は一定の認知を得るべきである。シモン・ペテロが書簡で長老を敬うように指示していることにもつながる。
8節
そのエパフラスが、コロサイの教会の消息をパウロに伝えた。彼らの愛は信仰により、聖霊の働きによって備わった。愛は御霊の実の第一にリストされている。
エパフラスはエパフロデト(ス)の短縮形である。短縮形ではなく「泡に覆われた」という別の語だとする事典もあるが、多くはエパフロデト(ス)と同じ「愛らしい」という意味と取る。
しかし、ピリピの教会のエパフロデト(ス)とは別人物である。なぜなら、エパフラスはパウロと一緒に囚われの身であることがピレモン書からうかがえるからである。一方ピリピ書のエパフロデト(ス)は、パウロの世話をする立場でもあったし、ピリピ書を実際にピリピに持ち帰っている。
適用
真理の福音の言葉は何であったかをいつも確認する。
天にある望みの何たるかをいつも確認する。
それに基づいた生き方であり、御霊に導かれた生き方を模索する。
その他
やっぱり12使徒のイエス様と、パウロのイエス様は同じだ。
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