本文:しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の
上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、
神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イ
エス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。 (二十~二十一節)
導入
キリストのマリヤを通しての半分兄弟であるユダが書いたというふうに、記者の記述から考えることができます。
手紙の目的は、四節に有るように、「不敬虔な者」が忍び込んで来たことについて警告するためでした。この「不敬虔な者」という語は、「神を糾弾する者」というような意味にもなり、反抗的で罰当たりなイメージの言葉です。
ユダがモーセの遺訓やエノク書のような偽典を引用しているのは、その不敬虔な者達がユダヤ系の偽教師で、彼らがよく利用する書物を通して彼らを諌める意図も有ったのではないかと言われます。(聖典に選ばれなかった書物からの引用が有るということで、ユダの手紙の聖典性にも不安を抱く人が居るようですが、心配には及びません。教えるために、聖典以外からの引用をすることは、パウロやキリストもしていることです。)
また、『私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリスト否定する人たちです。』という四節の説明から、初期のグノーシス主義者であると理解されます。彼らは、肉体は悪であり、霊は善であるというような二元論的理解をしました。それで、霊はキリストの救いにあずかっているのだから、肉体の悪は好きにさせれば良いというように教えていました。その結果、性の乱れや不品行も教会に入ってくるようなことがあったのです。
ユダは、続いて読者に、そのような者達は必ず神の裁きを受けるということを、旧約の登場人物の例を挙げて説明しています。旧約の人物と「不敬虔な者」の共通点は、不従順、自己義認、貪欲、不品行で、神のしもべのふりをする者達であることでした。カイン、バラム、コラが旧約の例として挙げられていますが、皆、最終的には神様の裁きを受けました。
ユダは、ここでそういう偽教師と対決するようにと教えたり、どのような手順で糾弾するべきかなどの指示はしていません。偽典に出てくる天使ミカエルのエピソードを引用して、神に委ねるようにと指示しているようです。しかし、ユダにはそれ以上に一生懸命伝えたい、もっと大事な中心的なメッセージが別に有ったのです。その中心的なメッセージが今回取り上げた二十、二十一節に有るのです。
中心的メッセージ
原文の中心的メッセージは、多くの日本語の聖書ではうまく翻訳されていません。この部分は、一つの命令文と、それを修飾する三つの分詞で構成されています。中心となる命令文は、「あなた達自身を神の愛の中に(注意深く)保ちなさい・護りなさい」ということです。この命令文の時制は、緊急性の有る命令文であることを表すものだそうです。それは、第一に、一生懸命の懇願、第二に緊急の必要から来る命令という意味が有ります。偽教師の働きのせいで、キリスト教徒が神の愛から引き抜かれるようなことが起こりつつあったということでしょう。
今回は、この箇所から、「自分自身を神の愛の中に(注意深く)保ち・護る」ための三つのポイントを学んで行きたいと思います。
第一のポイント:自分が神に愛されていることを深く自覚すること
愛する者達よ、とユダは呼び掛けています。ユダの手紙の中には、「愛する者達よ」という呼び掛けが四回用いられています。誰に愛されているのでしょうか。もちろんユダが手紙の読者に呼び掛けているのですから、ユダに愛されているということです。しかし、それよりももっと大事なことは、「神に愛されている」ということです。一節でユダは、「父なる神にあって愛され、イエス・キリストのために守られている、召された方々へ。」と呼びかけています。この愛の関係が有るからこそ、ユダも「愛する者達よ」と呼び掛けることができるのです。この「父なる神にあって愛され」ているといことが大事なのです。中心的命令の一部にも、「神の愛のうちに」という言葉が有ります。
神の愛のうちに、ということは、神から私達への愛が注がれているということです。恵みと恩寵、そして、救いが私達に与えられているということです。そのことを知って生きる方向を転換した私達は、神に対する愛を持つようになり、愛の応答として、神に感謝し、神の教えに従順し、神を崇めるのです。そういう相互の愛の愛の関係をいつも心に留めていなければならないのです。神の愛とは、罪を犯したアダムとエバを探しに行かれた神の愛、イエス・キリストを人類の罪の贖いのために遣わされた愛、キリストを信じる者に内住の聖霊を遣わされた愛です。この愛を受けた、「愛する者、愛されている者」であると自覚することが、「自分自身を神の愛の中に(注意深く)保ち・護る」ための第一のポイントです。
第二のポイント:聖霊によって祈ること
原文では、二十節には二つの分詞が有ります。「自分自身を築き上げ」「聖霊によって祈り」と訳されている部分です。この二つの分詞の関係は、後者が前者を修飾し、方法・手段の説明になっています。聖霊によって祈ることで自分を築き上げるという関係です。ですから、実際的な行動、実践は、「聖霊によって祈る」ということになるのです。そして、この二つの分詞は、最終的には、中心的メッセージである、「自分自身を神の愛の中に(注意深く)保ち・護りなさい」を修飾し、その方法を示しているのです。
聖霊によって祈るということはどういう意味が含まれているでしょうか。
第一に、真実な信仰によって祈るということです。聖霊によらなければ、私達は神を父を信じ、父と呼ぶ信仰は持てません。聖霊によらなければ、私達はイエスをキリストと信じ、主と呼ぶことはできません。真の信仰と信頼をもって祈るのです。
第二に、聖霊の助けを求め、聖霊に導かれて祈るという信仰と姿勢です。このことについては、パウロが、ローマ人への手紙で次の様に述べています。
『御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。』(八章二十六、二十七節)
第三に、祈りなさいというキリストの命令に従順して祈り続けるということです。聖書には、祈りを促す言葉がたくさん書き記されています。聖書を神の言葉と信じる信仰者であるならば、その命令に従順するのではないでしょうか。この従順が有ってこそ、もっと聖霊は私達の内に働くことができ、信仰を確かなものにする力を与えてくださるのです。
この祈りの実践の目的は何でしょうか。この祈るという分詞が修飾している、「自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げる」という分詞句の動作がその目的です。聖霊によって祈るのは、最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げるためだということです。
この「築き上げる」という語は、単に建築するということを表すだけではなく、「仕上げる」という部分まで含意しています。信仰という土台の上に自分を築き始めるのですが、「仕上げる」ことができない人が居るのです。出エジプトに出てくるイスラエル人達は、神の力によって力強くエジプトを脱出しましたが、脱出した第一世代の中では、約束の地に入るという仕上げをできたのは、ヨシュアとカレブだけでした。
私達の信仰は聖いのです。聖い神への信頼と信仰だからです。その土台は既に据えられました。神の憐れみと恵みによって、救いと信仰の道が開かれました。聖霊の助けによって、私達は信仰の告白をしました。しかし、「仕上げ」が残っているのです。その仕上げを目指して、私達は聖霊によって祈り続けなければなりません。この仕上げは、私達の力でできることではないのです。ですから聖霊の助けを求めて、信仰によって祈らなければならないのです。そして、そうすることが、「自分自身を神の愛の中に(注意深く)保ち・護る」ための第二のポイントなのです。
第三のポイント:強い期待をもってキリストのあわれみを待ち望むこと
「待ち望む」という動作は、原文では分詞で表現されています。そして、この分詞も中心的メッセージである、「自分自身を神の愛の中に(注意深く)保ち・護りなさい」を修飾しており、「~することで」という手段、もしくは「~しながら」という付帯状況として理解することが可能です。「待ち望む」という語は、「約束の成就、履行を期待する」という意味が有ります。「永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみ」の内容は、私達を死から命へと贖いだしてくださったキリストの十字架の業から始まっています。その成就は、体のよみがえり、天上の命に移され、死後の審判の時を経て最終的に義とされることです。また、地上での生き方に従って報酬を受けることも含まれるでしょう。それは、これから起こることなのですから、その約束の成就、履行を期待して生きることになるのです。
パウロは、賞を受けることを期待して鍛錬し、競技に参加する競技者の例えを多用しています。同様に、私達も確かな「命にいたるキリストのあわれみ」を期待し、注視するようにして生きるのです。大きな期待が有れば有るほど、私達はいろいろなことに耐え、また喜び、望みを抱いて、時にはわくわくしながら生きることができるのです。そういう強い望み、期待を持ち続けることが、「自分自身を神の愛の中に(注意深く)保ち・護る」ための第三のポイントなのです。
まとめ
私達には、現在あからさまに不品行に導き入れようとする偽教師はいないかもしれません。しかし、私達の生活の中には、不従順、自己義認、貪欲、反抗心、高慢やプライドがいつも忍び込んでくるのです。学生として、仕事をする社会人として、事業主として、息子や娘として、夫や妻として、よく生きようとしても、いつの間にかこれらの間違った戦略が忍び込んでくるのです。だからこそ、私達は、「自分自身を神の愛の中に(注意深く)保ち・護る」ことが必要になってくるのです。
最初に確認したように、この自分自身を神の愛の中に(注意深く)保ち・護りなさいという命令は、切実で緊急の懇願・命令という性格が有ります。記者であるユダには、手紙の読者達に、そういう切実な思いを持っていたということです。同時に、聖書は神の言葉です。この切実なメッセージは、ユダのメッセージに留まらず、私達を愛しておられる神様からの切実な懇願のメッセージでもあるのです。神様は、私達がその愛の中に保たれ、守られ、永遠の命に至ることを切実に望んでおられるのです。このユダによる手紙の中心的なメッセージの中には、「神の愛」「聖霊による祈り」「イエス・キリストのあわれみ」が含まれています。私達の救いには三位一体の神が関わっておられ、手を差し伸べておられるのです。ですから、継続的に神に愛されていることを深く自覚すること、聖霊によって祈ること、強い期待をもってキリストのあわれみを待ち望むことを通して、私達自身を神様の愛の中に保つ者であり続けましょう。
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