1972年2月6日は札幌冬季五輪で日本の”日の丸飛行隊”(70m級ジャンプ)の笠谷幸生,金野昭次、青池青に3選手が金銀同メダルを獲得、表彰台を独占した日である。あれから、もう40年もの歳月が流れた。改めて自分が終末期高齢者に近ずいてきたことを実感した。
1971年11月、僕は北海道に新しく民放が開設され、その要員として東京のキー局から派遣された。札幌の手稲山の山頂はすでにうっすらと雪化粧されていた。、東京育ちの東京生まれの僕は初めて見る札幌の街に感激した。当時札幌の中心街は、五輪をまじかに控えて最後の仕上げに大童だった。そして、街の至る所で、トワ・エ・モアの歌う「虹と雪のバラード」のメロデイが流れていた。
♯ 虹と雪のバラード (作詞 河邨文一郎 作曲 村井邦喜)
虹の地平をあゆみ出て 影が近づく手をとりあって 町が出来る 美しい町が
あふれる旗 呼び叫び そして唄う ぼくらは叫ぶ あふれる夢に
あの星だけの あいだに眠っている北の嶺 きみの名を呼ぶオリンピック
札幌はまさに”町が出来る 美しい町が”であった。五輪会場の街にできた真駒内の選手村は北欧の町を彷彿させた。そしてその真駒内と中心街の大通りや繁華街すすきのとを結ぶ地下鉄は夢の電車にも見えた。その大通りとすすきのには地下街が誕生した。雪道になれていない僕は、転ばずにすむ地下街で大助かりであった。開局を前に休日もない多忙な日々であったが、時には地下街の噴水の前のベンチに腰掛け、「虹と雪のバラード」に耳を傾け将来に夢をはせた。
1971年11月、僕は北海道に新しく民放が開設され、その要員として東京のキー局から派遣された。札幌の手稲山の山頂はすでにうっすらと雪化粧されていた。、東京育ちの東京生まれの僕は初めて見る札幌の街に感激した。当時札幌の中心街は、五輪をまじかに控えて最後の仕上げに大童だった。そして、街の至る所で、トワ・エ・モアの歌う「虹と雪のバラード」のメロデイが流れていた。
♯ 虹と雪のバラード (作詞 河邨文一郎 作曲 村井邦喜)
虹の地平をあゆみ出て 影が近づく手をとりあって 町が出来る 美しい町が
あふれる旗 呼び叫び そして唄う ぼくらは叫ぶ あふれる夢に
あの星だけの あいだに眠っている北の嶺 きみの名を呼ぶオリンピック
札幌はまさに”町が出来る 美しい町が”であった。五輪会場の街にできた真駒内の選手村は北欧の町を彷彿させた。そしてその真駒内と中心街の大通りや繁華街すすきのとを結ぶ地下鉄は夢の電車にも見えた。その大通りとすすきのには地下街が誕生した。雪道になれていない僕は、転ばずにすむ地下街で大助かりであった。開局を前に休日もない多忙な日々であったが、時には地下街の噴水の前のベンチに腰掛け、「虹と雪のバラード」に耳を傾け将来に夢をはせた。
五輪の時の人口は100万でしたが、40年で倍になっています。それでいて北海道の人口はそんなに増えていません。沖縄と同様、開発庁を設けて開発に力を入れたのですが、結局、中央依存の体質から脱却できないようですね。クラーク博士ような人が出てきて”夢”をもたせる政策をしなければ、いつまでも今のままでしょう。
数年前。札幌を再訪した時、昼間から狸小路に若者のがたむろしているのに驚きました。”ドサン子”は、おおろかでよいのですが、夢を持たせる仕事がないのですね。飲食店ばかりのビルはすすきのがはしりではないでしょうか。