羽田空港が昨日から4番目の滑走路の運用が始まり、32年ぶりに國際空港として生まれ変わった。僕は昭和37年11月、初めて海外旅行した時、飛び立った想い出の空港である。まだ海外渡航が一般には許されていない時代で外国旅行は一大事であった。僕は会社の同僚や家族、友人多数に手を振られ、当時新鋭のジェット機だったコメットのタラップを上ったのを昨日のように覚えている。
ここに一枚のセピア色の集合写真がある(写真)。キャプションには「昭和18年3月羽田沖の潮干狩り」とある。僕が国民学校(小学校)卒業記念に潮干狩りに出かけた時のものだ。戦前、羽田と言えば、飛行場というよりも、穴森神社と潮干狩りの名所として市民には知られていた。
今も羽田空港の入口に赤鳥居が残っているが、あれは戦前あった穴森神社の跡で、あのあたり一帯で潮干狩りが出来た。多摩川の支流、海老取川の河口で、文字通り海老がたくさん取れ、秋口にはハゼやチンチン(黒鯛の子)が簡単に釣れたものだ。神社近くの船着場からは川崎大師行きの乗り合い観光船も出て賑わっていた。昭和の10年代初め頃の話である。
今回、新しく完成したD滑走路付近は羽田といっても昔、僕らが潮干狩りや釣をした地域からは、はるかに沖合である。中国の昔の諺に「滄海変じて桑畑になる」というのがあるが、まさに羽田はその現代版である。
ここに一枚のセピア色の集合写真がある(写真)。キャプションには「昭和18年3月羽田沖の潮干狩り」とある。僕が国民学校(小学校)卒業記念に潮干狩りに出かけた時のものだ。戦前、羽田と言えば、飛行場というよりも、穴森神社と潮干狩りの名所として市民には知られていた。
今も羽田空港の入口に赤鳥居が残っているが、あれは戦前あった穴森神社の跡で、あのあたり一帯で潮干狩りが出来た。多摩川の支流、海老取川の河口で、文字通り海老がたくさん取れ、秋口にはハゼやチンチン(黒鯛の子)が簡単に釣れたものだ。神社近くの船着場からは川崎大師行きの乗り合い観光船も出て賑わっていた。昭和の10年代初め頃の話である。
今回、新しく完成したD滑走路付近は羽田といっても昔、僕らが潮干狩りや釣をした地域からは、はるかに沖合である。中国の昔の諺に「滄海変じて桑畑になる」というのがあるが、まさに羽田はその現代版である。