3月1日に金武町伊芸区で「米軍演習被弾事件を糾弾する区民総決起大会」が開かれ、主催者発表で約400人の住民・支援者が参加している。伊芸区の民家の駐車場に止めてあった車のナンバープレートから発見された銃弾に対し、沖縄県警は米軍の使用する銃弾という鑑定結果を発表した。しかし、米軍は自分たちの演習によるものとは認めず、実弾訓練の中止や演習場の即時撤去を求める住民の要求をいっさい無視している。
3月2日付琉球新報朝刊に載っている集会の写真には、住民の手にしたプラカードの文字が写っている。〈伊芸区を戦場にするな〉〈米軍の無謀な演習を許すな〉〈実弾訓練即時中止せよ〉〈静かなくらしかえせ〉〈平和を返せ〉というのは、一つ一つが住民の切実な声だろう。
2月27日には新嘉手納爆音訴訟の控訴審判決があった。判決では、騒音による権利侵害の範囲はうるささ指数75まで引き戻されたものの、米軍機の飛行差し止めについては控訴棄却となっている。米軍再編によって「負担軽減」を図る、という政府の約束とは裏腹に、嘉手納基地以外の米軍機の飛来、演習も増え、騒音被害は拡大している。住民の抗議を無視して、深夜や明け方の離着陸もくり返されていて、まさに米軍のやりたい放題だ。
裁判所は差し止め請求について、〈米軍機の飛行などは国の支配が及ばない第三者(米軍)の行為〉として、住民側の控訴を棄却している。基地を提供している日本政府の責任を問わないための詭弁としか言いようがない。米軍を〈国の支配が及ばない第三者〉というのなら、米軍が日本国内で何をやっても日本の法律で裁けないということか。そういう理屈がまかり通るなら、米軍の起こした事件や事故も裁けなくなるだろう。
いや、伊芸区で起こっていることを見れば、すでに事件・事故においても米軍を〈国の支配が及ばない第三者〉として、日本政府は特別扱いしているかのようだ。しかし、嘉手納であれ、伊芸であれ、そこに住んでいる住民からすれば、米軍は自分たちの生命と生活を脅かす第一当事者以外の何ものでもない。にもかかわらず、米軍を〈国の支配が及ばない第三者〉として特権化し、住民の生命と生活の安全よりも、米軍演習を優先させる治外法権状況を作りだしているのが、この国の政府であり司法なのだ。
厚木や岩国など一部の地域を除いて、米軍演習によって生命や生活を脅かされる経験をヤマトゥの人々は持たない。沖縄に米軍基地を集中させることにより、圧倒的多数の市民が米軍基地による被害を免れ、そのために米軍基地の存在やその法的根拠である日米安保条約の問題を考えることも、意識することもない。というより、原因と結果の関係から言うなら、沖縄に米軍基地を集中させることによって、日本政府は日米安保条約の問題が市民の共通体験とならないようにヤマトゥと沖縄を分断し、そうすることで政治の争点からはずし、隠蔽することに成功したのだ。
60年安保闘争、70年安保・沖縄闘争もすでに遠い過去の話となった。すでに80年代初めの頃には、反安保を主張するとヤマトゥでは、まだそんなことを言ってるの、という顔をされたものだ。全国に憲法9条を守ろうという運動を行っている団体が何千もあるというが、その中に日米安保条約の問題もとり上げている団体がどれだけあるだろうか。最初から問題意識がないか、保守層にも幅広く運動を広げるためにという理由で、意図的に棚上げしている団体が大多数であろう。かつて、護憲と反安保は結びついていたが、今では反安保を切り離して護憲運動だけが進められている。身近に米軍基地の脅威がないことで、易々とそれが可能になる。
米軍基地を「本土」に移設しろ、という意見を批判するのはたやすい。だが、日米安保条約の存在がここまで非争点化され、沖縄県民は金欲しさのために基地に反対している、という言葉さえヤマトゥから投げつけられる時代に、そういう意見が出てくるのはむしろ自然なことだろう。70年安保・沖縄闘争から40年が経ち、ヤマトゥではとうに忘れられたその「安保・沖縄闘争」を、沖縄にいて基地の被害に耐えられない者は、今日も明日もたたかわざるを得ない。
3月2日付琉球新報朝刊に載っている集会の写真には、住民の手にしたプラカードの文字が写っている。〈伊芸区を戦場にするな〉〈米軍の無謀な演習を許すな〉〈実弾訓練即時中止せよ〉〈静かなくらしかえせ〉〈平和を返せ〉というのは、一つ一つが住民の切実な声だろう。
2月27日には新嘉手納爆音訴訟の控訴審判決があった。判決では、騒音による権利侵害の範囲はうるささ指数75まで引き戻されたものの、米軍機の飛行差し止めについては控訴棄却となっている。米軍再編によって「負担軽減」を図る、という政府の約束とは裏腹に、嘉手納基地以外の米軍機の飛来、演習も増え、騒音被害は拡大している。住民の抗議を無視して、深夜や明け方の離着陸もくり返されていて、まさに米軍のやりたい放題だ。
裁判所は差し止め請求について、〈米軍機の飛行などは国の支配が及ばない第三者(米軍)の行為〉として、住民側の控訴を棄却している。基地を提供している日本政府の責任を問わないための詭弁としか言いようがない。米軍を〈国の支配が及ばない第三者〉というのなら、米軍が日本国内で何をやっても日本の法律で裁けないということか。そういう理屈がまかり通るなら、米軍の起こした事件や事故も裁けなくなるだろう。
いや、伊芸区で起こっていることを見れば、すでに事件・事故においても米軍を〈国の支配が及ばない第三者〉として、日本政府は特別扱いしているかのようだ。しかし、嘉手納であれ、伊芸であれ、そこに住んでいる住民からすれば、米軍は自分たちの生命と生活を脅かす第一当事者以外の何ものでもない。にもかかわらず、米軍を〈国の支配が及ばない第三者〉として特権化し、住民の生命と生活の安全よりも、米軍演習を優先させる治外法権状況を作りだしているのが、この国の政府であり司法なのだ。
厚木や岩国など一部の地域を除いて、米軍演習によって生命や生活を脅かされる経験をヤマトゥの人々は持たない。沖縄に米軍基地を集中させることにより、圧倒的多数の市民が米軍基地による被害を免れ、そのために米軍基地の存在やその法的根拠である日米安保条約の問題を考えることも、意識することもない。というより、原因と結果の関係から言うなら、沖縄に米軍基地を集中させることによって、日本政府は日米安保条約の問題が市民の共通体験とならないようにヤマトゥと沖縄を分断し、そうすることで政治の争点からはずし、隠蔽することに成功したのだ。
60年安保闘争、70年安保・沖縄闘争もすでに遠い過去の話となった。すでに80年代初めの頃には、反安保を主張するとヤマトゥでは、まだそんなことを言ってるの、という顔をされたものだ。全国に憲法9条を守ろうという運動を行っている団体が何千もあるというが、その中に日米安保条約の問題もとり上げている団体がどれだけあるだろうか。最初から問題意識がないか、保守層にも幅広く運動を広げるためにという理由で、意図的に棚上げしている団体が大多数であろう。かつて、護憲と反安保は結びついていたが、今では反安保を切り離して護憲運動だけが進められている。身近に米軍基地の脅威がないことで、易々とそれが可能になる。
米軍基地を「本土」に移設しろ、という意見を批判するのはたやすい。だが、日米安保条約の存在がここまで非争点化され、沖縄県民は金欲しさのために基地に反対している、という言葉さえヤマトゥから投げつけられる時代に、そういう意見が出てくるのはむしろ自然なことだろう。70年安保・沖縄闘争から40年が経ち、ヤマトゥではとうに忘れられたその「安保・沖縄闘争」を、沖縄にいて基地の被害に耐えられない者は、今日も明日もたたかわざるを得ない。
今日、第一回口頭弁論がありました。
マスコミで報道されるか分かりませんが、斉藤貴男さんや天木直人さんも注視してくれてます。
HPはhttp://www.cscreate.net/anpo_mukou/aboutaction.html
早朝。まだ、基地内に動きは無かった。
私より先に、ヤマトゥンチュらしき若い青年が一人、見学をしていた。
丘のすぐ右隣には畑があり、おじさんが一人、黙々と作業をしていた。
私は双眼鏡を覗き、広大な軍事施設を見た。
肉眼では判りにくいが双眼鏡を使うとよく見えた。
こんなに沢山の戦闘機(爆撃機)が…。
見えないよう、舎の裏や中に隠されている。
---------------
帰り道、車内でCDを聴く。
山下達郎さんの曲
「THE WAR SONG」
以下は、歌詞の抜粋。
---------------
「悲しみの声は 世界に満ち溢れ」「悲しみの声に答える術もなく 僕はどうすればいい」
「名も知らぬ 友達よ 君の国はなんて遠い 道端の 子供達
叫び声は風に消える」
「We just gotta get up right now!We must save this world somehow!」
---------------
歌詞は勿論、素晴らしいサウンドだ。山下達郎さんの澄んだ声で重い歌詞を一見、明るくしているようだけど単純な「明るさ」では無い。それがかえって、深みを与え、素晴らしい仕上がりになっている。
途中の爆弾投下中の音と爆発音のインストは、空爆か原爆を感じさせるサウンドだ。
ヘリのバラバラバラ…という黒い羽音のインストは、この沖縄で起こった事件を思い出させ、これから辺野古をきっかけとして起こる何か悲惨な事件の始まりを感じずにはいられない。
私の住むこの静かな山間の空を、この音が通過するのか…なんて思ったら、目眩がする。
思い返せば、あの曲は運転中には向かない。
聴く度に鳥肌ものの曲ではあるが、次からは自分の部屋で一人、ヘッドフォンをつけてより集中して聴こうと思う。