小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

昔は夫婦別姓だったのか?

2007年06月04日 | その他

 近年、夫婦別姓問題が巷をにぎわせているが、NHKがこの問題を特集した折、著名な日本史の大学教授が、日本も昔は夫婦別姓だったと断言していた。その証拠として 北条政子と日野富子の例をあげていた。私は愕然とした。この二人は、「北条政子」「日野富子」という歴史用語であって、「北条政子」「日野富子」という人格があったわけではない。ただ、京の朝廷では女性に官位を与える時、生家の姓を使っている。「政子」「富子」では誰のことか分からないからである。苗字がどうしても必要な場合、生家の姓を使うということにすぎない。

 北条政子は北条時政の女(娘)「政子」であり、結婚後は源頼朝の妻、「政子」なのである。また日野富子は権中納言・日野家の女であり、足利八代将軍・義政の御台所、「富子」なのである。忠臣蔵の大石内蔵助の妻は「りく」と言うが、歴史用語としては普通「大石りく」と呼ばれている。昔は夫婦別姓ならば「石束りく」でなければおかしい。(「りく」は但馬豊岡藩の家老・石束家より赤穂藩の家老・大石家に嫁にきた )
 
 ごく最近、関西地方のある歴史博物館で「細川ガラシャ展」というのがあった。これも先の大学教授に言わせると、昔は夫婦別姓だったので「細川ガラシャ」は間違いで、正しくは「明智ガラシャ展」にしなければならない。(洗礼名ガラシャ、本名「たま」は明智光秀の娘で、細川忠興の妻となった)。
 夫婦別姓・同姓どちらがいいかはさておいて、学問的には正しい知識を国民に知らせるべきであると思う。明治以前、日本の女性が「姓・名」を名乗ることは基本的になかった。例外的に実家の姓を使った表記はある。昔から、「家名を汚すな」という言葉があるように、元々、苗字(姓)とは家に付くものである。「女、三界に家(姓)なし」であったのは歴史的事実なのであるから。

 <追記>
 中国や朝鮮は昔から夫婦別姓である(朝鮮は中国をそっくり真似た)。このニ国では昔から男女同権で、女性の人権が保障されていたからなのか・・。 とんでもない、日本では昔から妻は婚家の一員と見なされてきたが、中国や朝鮮では婚家の一員、つまり、夫の一族とは見なされなかったからである。つまり、「腹は借りもの」であったのである。日本では、大河ドラマ「篤姫」を見ても分かるように、篤姫も和宮も婚家、徳川家の一員との意識を持っていた。戦国時代、武田勝頼に殉じて、天目山で自害した妻は、北条氏康の娘であった。なにも死ななくても、織田信長は丁重に小田原に送り届けたであろう。この一件からも分かるように、日本では妻は婚家の一員との意識を強く持っていたことが分かる。このような事例は中国や朝鮮ではほとんど聞かない。日本の歴史的文化の一つと言える。

 最近、この私の説を補強する古い資料が見付かった。1998年(平成10年)9月19日付の朝日新聞の記事に  ー震災復興に「ねね」尽力 ー との見出しで、京都の東寺の仏像(大日如来)の修復の過程で頭部から木札銘が見付かり、それには

         大壇那亦大相國秀吉公北政所豊臣氏女

 とあり、年号は慶長3年(1598年)であった。この年の8月に秀吉は死んでおり、月日が無いので秀吉の死の前か後かは不明であるが、この2年前に起きた慶長大地震で東寺も相当の被害を受けたようである。その修復に北政所がかなりの喜捨をしたことがうかがえる。この銘文で興味あるのは北政所が夫の姓(豊臣氏)を称していることである。つまり、「豊臣氏の女」であると。もし本当に夫婦別姓であれば、「杉原氏女」か「浅野氏女」としたはずである。(北政所は生まれは杉原氏であるが、浅野家の養女となった)。また、この木札に「豊臣氏禰々(ねね)」と書いてあったら、北政所の本名論争など起きなかったのに、やはり天下人・秀吉の正室であっても当時のしきたりに従ったのであろう。

コメント (3)
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