小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

新発見の鉄剣銘文と稲荷山鉄剣銘文

2012年01月08日 | Weblog

 昨年(2011年)9月、元岡古墳(福岡市西区)で出土した鉄剣銘文の読みについて福岡市教育委員会から発表があった。それによると、暦年代が特定できる日本唯一の鉄剣銘文であるとのことであった。その年代は西暦570年、銘文は 「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果■」(■は「練」の可能性) の19文字。「庚寅の年の正月6日に、この刀を作った。12回練り鍛えた」と読めるとのこと。
 中国の古代暦によると、干支で年代と日付を表す方法があり、それにより、570年が明確になったとのことであった。問題はこの570年である。まさに、欽明天皇の時代である。
 

 ー稲荷山鉄剣銘文との関係ー
 すでに「稲荷山鉄剣銘文の読み」で述べたように、銘文 「辛亥年七月中記」 の 「辛亥」 を西暦471年の雄略天皇の時代に当てはめるのが学会の定説のようであるが、それでは、「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」 が十分説明できない。私の説、「寺」を欽明天皇の中国風の漢字一字表記と考えれば全体がスンナリ読める。つまり、「ワカタケル大王 寺が斯鬼(しき)の宮に在る時」となる。「獲加多支鹵(ワカタケル)」とは欽明天皇の本名ではなく、「若き勇者」との通称名にすぎない。「記紀」によれば、古代には「タラシヒコ」の名(通称名)を持つ天皇が何人かいるのがその証拠である。もともと、「記紀」には歴代天皇の本名など、まったくと言っていいほど書かれていない。中大兄皇子(天智天皇)や聖徳太子の長男、山背大兄皇子も、「中」「山背」は地名、「大兄」は長兄、もしくは年長者に対する尊称の意味にすぎない。つまり、通称である。江戸時代に、阿波守(阿波蜂須賀家)とか土佐守(土佐山内家)と呼ぶようなものである。

『日本書紀』によると、欽明天皇14年(553年)倭国は百済に暦博士の派遣を求めており、翌年来朝している。つまり、欽明天皇の時代、百済から仏教と共に、中国暦も伝来したと考えるのがもっとも自然である。従って、稲荷山鉄剣銘文の製作年代は還暦60年後の531年説がますます有力になったのではないかと思う。なにも「書紀」の記事、欽明天皇14年(553年)にこだわらなくても、6世紀頃から、倭国と百済との交流は非常に頻繁になっているので、仏教や中国暦はこのころ日本に流入したと考えればよい。「記紀」は八世紀初頭に編纂されたものであり、後世の歴史書と違い、その記事内容に絶対的信用は置けない。(天皇の在位年代も「古事記」と「日本書紀」ではかなり違う)
 
 なお、百済は倭国より一歩先んじて、中国南朝「宋」(445~509)の元嘉暦を使用していたらしい。この元岡古墳の鉄剣銘文は元嘉暦による国内最古の事例であると研究者の談話が新聞に出ていた。(日本経済新聞 2011・10・29)
 

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