小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

新発見の龍馬暗殺 5日前の手紙もニセモノ

2017年02月18日 | Weblog

 2017年1月14日の朝刊各紙に、坂本龍馬が暗殺された5日前(慶応三年11月10日付)の手紙が発見されたとの記事が出た。新聞でその手紙を見たとき、すぐ例の薩長同盟条文の龍馬による朱の裏書きと同一人物の筆跡、書体であると直感した。(写真の1.と3.を見比べてほしい。1.が新発見の手紙の一部、3.が龍馬の朱の裏書きである)。いや、あの裏書きは龍馬の直筆と認定されているのだから、今回の手紙も龍馬が書いたものと言えるのではないか、との反論が出そうであるが、新発見の手紙には多くの疑惑がある。今、それを明らかにする。

その1) なんと同じ日(11月10日)にもう一つの別の手紙を書いていた。

 写真2.がそれである。宛先は林謙三(後の海軍中将・安保清康)、広島出身であるが薩摩藩に招かれて海軍の指導をしていた。それが縁で龍馬の最後の友人でもあった。近江屋事件の翌日、たまたま龍馬を訪ねてきて事件に遭遇した。手紙の内容は蝦夷開拓の計画が挫折したことを知らせ謝罪している。この写真1.と2.をどう見比べても、同一人物が同じ日に書いた手紙とは思えない。使用した筆もまったく違う。写真2.の手紙はこれまでに見つかっている龍馬直筆の手紙の書体、構成と完全に一致する。龍馬は自由奔放な性格で、手紙の中の文字の大きさもまちまちであり、行(ぎょう)と行(ぎょう)の幅にもこだわらない。つまり、行間も一定していない。

  一方、新発見の手紙は文字もきちんと一定の枠にはまるように書かれており、行間も物差しで計ったかのように一定している。これは書道の師範が生徒たちに教える模範的書き方であり、とても龍馬直筆とは思えない。ただ、署名だけは龍馬のそれを真似てはいるが・・。まさか、同じ日に龍馬が手紙を書いていたとはねつ造グループも夢にも思わなかったであろう。なお、この手紙の返書を翌日(11日)にもらった龍馬は即、その日にお礼の返書を林謙三あてに書き送っている。この返書の中で、今朝、永井尚志の元を訪ねたことと、永井を「ヒタ同心(同じ考えの人)」と書いている。(『龍馬書簡集』高知県立坂本龍馬記念館刊行)

その2) ねつ造グループは痛恨のミスを犯した

 それは新発見手紙の冒頭の書き出しの「一筆啓上仕候」である(写真4)。「一筆啓上」なる言葉は家族、友人、仲間うちでしか使われない言葉である。戦国時代の有名な手紙 「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」 これは家康の家臣で越前丸岡城主、本多重次が妻に書き送ったものであり、妻だからこそ使えた言葉である。また同じ戦国時代、大坂冬の陣直後、真田信繁(幸村)が姉、村松殿に書き送った手紙が残っているが、これにも「一筆申あけ候」(一筆申し上げ候)とある。実の姉だからこそである。(合戦のあと自分は無事であることを伝えた手紙)

 龍馬が兄の坂本権平に宛てた手紙(慶応三年8月8日付)の冒頭にも出てくる(写真5.)。これにはやはり「一筆啓上仕候」とある。では、新発見の手紙の宛先は友人なのか。とんでもない、福井藩主・松平春嶽の側近中の側近、中根雪江である。たしかに、龍馬と面識はあるが、年齢は60歳の高齢でもあり、龍馬と格別、親交があった人ではない。「一筆啓上」などの言葉は絶対に使えない相手である。龍馬がこんな言葉を中根雪江あてに書くわけがない。なお、慶応三年2月14日付の木戸孝允あての手紙の冒頭にも「一筆啓上仕候」がある。龍馬は木戸(桂小五郎)と友人になったことを高知の家族あての手紙でも自慢しているし、龍馬と木戸は同世代でもある。「一筆啓上」を使っても不思議ではない。他にも、中岡慎太郎が郷里の家族あてに送った手紙(慶応二年8月13日付)に、「一筆啓上」を使っている。家族だからこそである。

 あと一つ、土方歳三が郷里、多摩の大庄屋であり、天然理心流の仲間かつ同志でもあった小島鹿之助 (新選組結成後も近藤、土方を金銭面で支援した。維新後、『両雄土伝』を著し、二人を追悼している)。この小島あての手紙(元治元年8月19日付)に土方は「一筆啓上奉り候」で始まる手紙を書いている。その一ヵ月後に勝海舟あてにも手紙(元治元年9月16日付)を書いているが、「一筆啓上」などは無い。どういう時に「一筆啓上」なる言葉を使っていいのか、江戸、明治の人は十分理解していたが、大正、昭和になるとそれもあやふやになってきたようである。現代人はその言葉自体知らないのではないか・・。なお、大石内蔵助が近い親戚である徳島藩士、三尾豁悟(みおかつご)に書き送った「暇(いとま)乞い状」(遺書)にも「一筆致啓上候」があることをブログで書いているので読んでほしい( 2018年12月22日)。

 では、なぜ新発見の手紙にあるのか。これは龍馬の手紙をねつ造するに当たって、その資料として兄、権平あての手紙(写真5)を使ったからであろうと思われる。この権平あての手紙の原本は紛失しており、写真版しか残っていない。つまり、写真しかないということは、かなりの量が出回っているということでもある。それと、この二つの手紙に書かれている「一筆啓上仕候」の文字はまるで、コピーしたかのようにそっくりである。書いた日も場所も違うのに。それなのに、本文の筆跡や書体はまるで違う。兄、権平あては、写真2.の林謙三あてと同じく自由奔放に書いている。つまり、文字の大きさもバラバラであり、行間も一定していない。新発見の手紙の「一筆啓上仕候」は署名と同じく何度も練習したのであろう。

その3) 新発見の手紙の内容もおかしい

 この手紙によると、要旨ではあるが、「今日(10日)に永井尚志に会いに行ったが会えなかったので、明日(11日)に再度会いに行くので大兄(中根雪江)もご同行してくれたら幸いです」との内容である。これは11月11日に龍馬が永井に会ったことが分かっていることから思い付いたものであろう。ところが、中根はその著『丁卯日記』で、まさに近江屋事件の当日、永井の元を訪ねており、そこで昨日(14日)、龍馬が訪ねてきたことを永井から知らされている。そこで、龍馬の新国家構想について永井から聞かされたようである。日記に「龍馬ノ秘策ハ 持論ハ 内府公関白職ノ事カ」と書き留めている。つまり、内府(徳川慶喜)を新政府首班にすることである。まさに、「あと出しジャンケン」である。その間の事情をすべて知った上で、龍馬から中根あての手紙をねつ造したのであろう。しかし、「一筆啓上」でボロを出したと私は思っている。それと、一介の脱藩浪士にすぎない龍馬が、他藩の重役に「ご同行願えたら・・・」などの失礼な文言を書くわけがない。この文を書いた人物は江戸の武家社会を知らない後世の人である。坂本龍馬を侮辱している。なお、この新発見の手紙に「新国家」の文字がある。龍馬が来たるべき新国家の構想を抱いていた証拠としてねつ造したものであろう。

 <追記>

 今回の新発見の手紙も、先の伏見奉行所から所司代への報告書の写し同様、一体全体、どこの誰が、どのような経緯でこれを発見したのかはいっさい伏せられている。その上、この手紙が持ち込まれた先は、3月4日から高知県各地で開催される「志国高知 幕末維新博」の企画・運営を請け負っている歴史とは何の関係もないイベント会社である。またどうして、手紙の所有者は堂々と名乗り出ないのか。むしろ、誇らしいことなのに・・。なにか後ろめたい気持ちがあるのではないのかと勘ぐりたくもなる。

 写真6.は龍馬が陸奥宗光に宛てた暗殺2日前(11月13日付)の手紙であり、龍馬の筆跡、書体はすべてこのように自由奔放である。細かい事にこだわらない坂本龍馬の性格がよく出ている。私がニセモノと判断したこの2通(写真1.と3.)は異例である。特に、朱の裏書(写真3)は文字の末端まで墨が行き渡っているし、朱がどう見ても濃すぎる。このような技術は朱墨や朱の墨汁が発明された明治中期以後のことである。江戸時代の朱筆は絵の具であるので、せいぜい一度に、一字か二字しか書けない。

 ほかに、今回新発見の手紙と同じように書道の師範が書いたと思われる筆跡、書体の龍馬の手紙が有るにはある。慶応三年5月8日付、三吉慎蔵あてがそうである。この中で龍馬は、もし自分が死ぬようなことがあれば、残されたお龍の世話を三吉に頼んでいる。勿論、これも三吉家所有ではない。これは明らかに写しであろう。写しというのは原本をそっくり真似て書くのではなく、行間も一定できちんと模範的に書くものである。最後に、筆跡は現代の裁判制度でも証拠採用されないことを付け加えておく。他人の筆跡を真似て書ける人がいるからであり、それと、これは個人の主観に左右されやすいものでもあるからである。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
«  閑話休題 -司馬バッシング... | トップ | 龍馬の「新政府綱領八策」も... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事