作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

1月9日(木)のTW:帝国憲法の原点の検証

2014年01月10日 | 国家論

GHQが国家神道の聖典とした教育勅語。彼らはここに「世界征服」思想があるとした。井上哲次郎「勅語衍義」などにある曲解を鵜呑みにした結果である。明治神宮の教育勅語謹解もこれを踏襲している。残念ながら渡部昇一氏や石原慎太郎氏らも同じ曲解。平成20年に井上毅の史料が公開されたのに。

shuzo atiさんがリツイート | RT

ドナルド・キーン『明治天皇』は『明治天皇紀』が基礎にある。「紀」では教育勅語にも当然触れているが『明治天皇』では肝心なところを外したままである。明治天皇は井上哲次郎「勅語衍義」の何がご不満だったのか。靖国問題の根本はここにあるといってもよい。

shuzo atiさんがリツイート | RT

靖国神社には、敷地内に「遊就館」があるが、靖国神社に国家指導者が正式参拝すれば、「遊就館」の中身を全面肯定するメッセージとなってしまう。「遊就館」は敷地外に移転し、靖国神社と切り離し、靖国神社は純粋な鎮魂の場とする必要があるのではないか?

shuzo atiさんがリツイート | RT

靖国問題。現在の米国政府(民主党の大統領)の発言を「米国」のすべてと考えては誤ることになる。ドーク教授のような歴史を重要視しない学者もあてにならない。客観的にGHQ日本占領を日米共同で検証することのできる米国の学者が必要だ。ただ我が国にもそのタイプが見当たらないという滑稽。

shuzo atiさんがリツイート | RT

昭和戦前。大日本帝国憲法下ではあったが統帥権干犯論・5・15事件・天皇機関説排撃・国体明徴運動・2・26事件そして文部省「国体の本義」で憲法は蹂躙された。つまり昭和戦前は反帝国憲法の時代だった。ここを混同するから昭和史がわからなくなる。

shuzo atiさんがリツイート | RT

靖国問題。戦後の我が国における政教裁判。歴史を枉げ最も大きな過ちを犯したのは「津地鎮祭訴訟」の藤川益三・最高裁裁判長である。彼の反対意見(違憲判断)は矢内原忠雄の史実に基づかないエッセイを引用したものである。「政教関係論を読む」
zb.em-net.ne.jp/~pheasants/kan…

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1月6日(月)のFB:#「存在と概念」

2014年01月07日 | ツイツター

「存在」と「概念」の関係について、先日たまたまツィートすることがありましたが、概念と存在の関係については、重要なテーマでもあると思いますので、『小論理学』の中から、参考となる個所を引用しておきました。興味と関心のある方もどうぞ。... fb.me/2I5nrouTW


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「存在」と「概念」

2014年01月06日 | 哲学一般

 

「存在」と「概念」の関係について、先日たまたまツィートすることがありましたが、概念と存在の関係については、重要なテーマでもあると思いますので、『小論理学』の中から、参考となる個所を引用しておきました。興味と関心のある方もどうぞ。

小論理学§51


その現存在がその概念と異なっているということが、しかもただこのことのみが、実際にあらゆる有限なものの本質なのである。これに反して神は明らかに「存在するものとしてのみ考えられるもの」でなければならず、神においては概念が存在をそのもののうちに含んでいる。

概念と存在との統一こそ、神の概念を構成する。――このような規定はもちろんまだ神の形式的な規定にすぎず、したがって概念そのものの本性を言い表しているにすぎない。しかし、概念が、まったく抽象的な意味においてもすでに、その内に存在を含んでいるということは極めて明らかである。

なぜなら、概念は、その他どう規定されるにせよ、少なくとも媒介の揚棄によって生じるところの、したがってそれ自身直接的な、自己関係であるが、存在とはまさにこうした自己関係であるからである。――精神のもっとも内奥のものである概念が、存在というような貧しい規定、否、もっとも貧しい、 もっとも抽象的な規定すらその内に含まないほど貧しいとしたら、それは全く不思議と言わなければならない。(このことは自我についても言えるし、まして神のような具体的な統体についてはなおさら言えることである。)思想にとっては、内容から言えば、存在という概念ほど貧弱なものはない。

もっとも、もっと貧しいものがあるにはある。それは、存在と言うときまず思いうかべられるもの、すなわち私の目の前にある紙のような外的な感覚的存在である。しかし、有限で消滅しうる事物の感覚的存在というようなものを、この場合問題にしようという人はあるまい。

―――とにかく、思想と存在とは別なものだというようなつまらぬ批判は、人間の精神が神の思想から出発して神が存在するという確信に到達する道を妨げることはできるかもしれないが、それを奪い去ることはできないのである。直接知あるいは信仰の見地は、この移行、すなわち神の思考とその存在との不可分を回復したものであるが、それについては後に述べることにする。

岩波文庫版『小論理学§51』( s 197 )

 

 

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記事一覧(1)

2014年01月06日 | Weblog
 
記事一覧(1)2014-01-03~2013-06-03

 

 

 
 
 
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1月2日(木)のTW:ヘーゲル哲学の素養を欠く大学教授

2014年01月03日 | ツイツター

「1月1日(水)のTW:概念、存在、真理」誰かこの日本語をクリアーに解読してくれんかね→ goo.gl/RASvMb


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1月1日(水)のTW: 「誰かこの日本語をクリアーに・・・」

2014年01月02日 | ツイツター
 
「概念、存在、真理」
 

新しい写真をFacebookに投稿しました fb.me/6svXfQPZJ


現前するもの=概念、現前することとしての有る=存在、真であること=概念と存在の一致、これで判りますか?@Sukuitohananika


「真」=概念(潜在態)、「真であること」=真理(顕在態)、概念が実現されて存在するようになったものが理念=真理です。@Sukuitohananika


 
 
上記のツィートの記録だけでは何のことかよくわからないと思いますので追記しておきます。

http://goo.gl/gStnWJ
 
生命学者として知られている森岡正博氏が、ハイデッガーの『杣径』の日本語訳を読んでおられるとき、その解読に格闘して「いらいら(^ ^)(^ ^)」して呟いておられるのを、たまたま眼にしたので、ユーモリスト森岡氏にツィートで返信したものです。今の所は私はハイデッガーはまったく知りませんが、森岡氏が

>><<

誰かこの日本語をクリアーに解読してくれんかね→「現前するものの現前することとしての有ることとは、それ自身においてすでに真であることであるということである。」(ハイデガー『杣径』390) イライライライラ・・・・
 
>><<

とツィートされておられるのを読んで(^-^)、すぐにハイデッガーが何を言わんとしているのかはわかりました。ここでハイデッガーはおそらく、ヘーゲル哲学を踏まえて書いていると思います。ただハイデッガーはその詩的表現によっていたずらにヘーゲルを難解にしているだけだと思いました。森岡氏もヘーゲルに通じていれば、解読にきっとイラつくこともなかっただろうなと思いました。
 
 
※20140102追記
 
 
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12月31日(火)のつぶやき

2014年01月01日 | ツイツター

間もなく平成二十五(2013)年も終わります。何はともあれ、無事に年を越せますことを感謝いたします。皆様もよきお年を。これから年越しの蕎麦をよばれながら新年を迎えます。


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