作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

小野小町1

2008年03月14日 | 芸術・文化


小野の随心院で、小野小町ゆかりの「はねず踊り」の催しがあるそうで、一度訪ねてみようと思い、その際、小野小町などについてもう少し詳しく知ってから行けば興味も増すのではないかと少し調べてみた。

これまで、小野小町について知っていることと言えば、せいぜい百人一首に収められている「花の色は移りにけりな  いたづらにわが身世にふる   ながめせしまに」という歌を歌った、美人薄命の運命を嘆いた歌の作者であることくらいだった。小町がどんな女性であったのか、いくつまで生きたのか、ほとんど興味も関心もなかったし、ただ意識の片隅に、おとぎ話か伝説の住人として存在していたにすぎなかった。だから、この女性の百人一首の歌が、紀貫之の編纂になる「古今集」の巻第二春歌下にもともと収まられてある歌であるということすらも知らなかったし、どのような時代に生きた女性であるのかさえ知らなかった。少し調べて見て小町が在原業平と同時代に生きた女性であることを知って驚いたくらいである。それくらいの知識しかない。

小町という名前は今では美人の代名詞のように使われている。しかし、小町という名前そのものは、本名ではない。女性の場合は忘れられている場合が多い。源氏物語の「桐坪の更衣」のように、彼女の住まわっていた場所と身分の呼び名が、彼女自身を示す呼び名となったものである。

もともと小町の「町」とは、宮中で女官たちが住んでいた一角が局町と呼ばれていたことから来るらしい。内裏の北東にもかって采女町があった。その町がそれぞれの出身にしたがって呼ばれていたらしい。采女とは、群司や諸氏の娘たちの中から容姿端麗な女子が選ばれて、天皇の身近にあって食事などのお世話をした女性を言う。小野小町も采女であったらしいから、そう呼ばれるようになったのかも知れない。小町には同じ采女の姉がいたことは確からしく、姉の方は小野町と呼ばれ、古今集にも、小町の姉の歌が記録されている。伊勢物語に登場する惟喬親王の母、紀静子なども三条町と呼ばれていた。この姉の小野町に対して、妹の方が小町と呼ばれたらしい。「小」にはかわいいと言う意味もある。

『古今和歌集目録』に「出羽国郡司女。或云、母衣通姫云々。号比右姫云々」とあることから、奥州秋田の出身であるとされ、『小野氏系図』には小野篁の孫で、出羽郡司良真の娘とあるそうだ。しかし、諸説ありその信憑性は定かではない。ただ、その出自はとにかく、実在していたのはたしかなようで、古今集の仮名序の中で、撰者の紀貫之は六人の歌人(六歌仙)を取り上げ、在原業平の名前とともに、小野小町の名を挙げて、彼女の歌ぶりについて次のように解説している。

「いにしへの衣通姫の流なり。あはれなるやうにて、強からず。言はば、よき女の悩めるところあるに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし。」

古今集に採録されている小町の歌は、次の全十八首。これらの歌の中には、恋しき人との出会いを夢に願うとか、容貌の衰えを嘆くとか、男の誘いになびくそぶりなどの歌の多いことから、紀貫之らは、「強からぬは、女の歌なればなるべし。」と評したのかも知れない。真名序では紀淑望は「艶にして気力なし。病める婦の花粉を着けたるがごとし」と評している。後の世の源氏物語に出てくる桐壺の更衣のような女性をイメージしていたのかも知れない。しかし、百歳近く生きて、むしろ奔放で弱々しくなかったと言う人もいるようだ。


               題しらず

113   花の色はうつりにけりな   いたづらに我が身世にふるながめせしまに

              題しらず

552    思ひつゝぬればや人の見えつらむ     夢と知りせばさめざらましを

553    うたゝねに恋しき人を見てしより    ゆめてふ物はたのみそめてき

554    いとせめて恋しき時は   むばたまの夜の衣をかへしてぞきる

               返し

557    おろかなる涙ぞ袖に玉はなす  我はせきあへず   たぎつ瀬なれば

              題しらず

623    みるめなきわが身をうらと知らねばや  かれなであまの足たゆくくる

              題しらず

635    秋の夜も名のみなりけり  あふといへば事ぞともなく明けぬるものを

              題しらず                                    こまち

656    うつゝにはさもこそあらめ    夢にさへ人めをもると見るがわびしさ

657    限りなき思ひのまゝによるもこむ   夢路をさへに人はとがめじ

658    夢路には足もやすめず通ヘども   うつゝに一目見しごとはあらず

               題しらず

727    あまのすむ里のしるべにあらなくに うらみんとのみ   人のいふらむ

             題しらず                    をののこまち

782    今はとて  わが身時雨にふりぬれば    言の葉さへに移ろひにけり

                                           (返歌あり)

             題しらず                         こまち

797     色みえでうつろふものは    世の中の人の心の花にぞありける

             題しらず                                小町

822    秋風にあふたのみこそかなしけれ    わが身空しくなりぬと思へば

     文屋のやすひでが三河の掾(ぞう)になりて、            

    「あがたみにはえいでたゝじや」と、いひやれりける返り事によめる

                                           小野小町

938  わびぬれば   身をうき草の根を絶えて   誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ

              題しらず

939     あはれてふ言こそ   うたて    世の中を思ひ離れぬほだしなりけれ


              題しらず

1030    人にあはむつきのなきには    思ひおきて胸はしり火に心やけをり

古今墨滅歌1104    おきのゐ、みやこじま        をののこまち

       おきのゐて身を焼くよりもかなしきは   宮こ島べの別れなりけり


小町の姉の歌                                  こまちがあね

              あひ知れりける人のやうやくかれがたになりけるあひだに、
              焼けたる茅の葉に文をさしてつかはせりける

790    時すぎて    かれ行く小野の浅茅には    今は思ひぞたえずもえける

                                                              (歌番号は「国歌大観」による)


 

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聖橋

2008年03月13日 | 日記・紀行


聖橋

女流詩人

昔、東京の茗荷谷にしばらく住んでいたことがある。近くに小石川植物園もあった。そこからはお茶の水も近かった。お茶の水には聖橋があり、この聖橋を渡ったところにJRの駅がある。

昔のことで今では記憶も薄れてしまったけれど、この駅の近くに一軒の立ち飲み居酒屋(あるいは寿司屋だったか)があった。春らしい宵方、滅多に入らないこの店で私がたまたま夕食を済ませようとしてこの店に入ったとき、私の隣で食事をしていたのがこの人だった。

ど ういうきっかけで話すようになったのかは覚えていない。私はたぶん鮨か何かを注文していたかと思う。彼女はそのときお酒を飲んでいたのかどうかも覚えてい ない。どういう話をしたのかも覚えていない。ただ、そのときの記憶を、おそらく二十年以上経った今もはっきり覚えているのは、まったくの初対面であったの に彼女が「いい顔しているね」などと言いながらかってに私の顔を手で撫でまわしたからだ。

おそらく彼女はいくらか酔っていたのかもしれない。もうはるか昔のこと で、自分のことなどはおそらく彼女の方には記憶にもないに違いないだろうけれど。偶然に隣り合わせただけで、それから二度と会うこともない。

そ のとき彼女は名刺もくれた。その名刺は今も探せばあると思う。水上 紅さんと言った。詩人という肩書きが書かれていたと思う。名前が印象深くて今も忘れてはいない。せっかく名刺をいただいたのに、その後ふたたび会うことも なかった。申し訳ないけれども彼女の詩集もまだ読んでいない。

これまで私が詩人と称する人に出会ったのは、後にも先にも彼女一人だった。貴重な出会いだったのにと思う。その後東京を離れてからは再び戻ることはない。けれど彼女は今も詩人として東京で暮らされていることと思う。

 

Nathan Milstein plays Vitali Chaconne

 

 

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概念論としての桐壺の更衣考

2008年03月12日 | 哲学一般

これまでの従来の概念観によれば、概念とは、個別具体的な事物についての経験から、その共通点を帰納して作られた単なる「観念」としてとらえられてきた。そうした「概念観」の欠陥は、ふつうの単なる帰納法科学にすぎない生物学や人類学のレベルならとにかく、それを超えた自己運動する生命などを科学の対象にできないことである。

概念とはそのようなものではなく、たとえば光源氏の母、桐壺の更衣の胎内に観念的に宿り、自己内矛盾によって一つの種のように豊かに展開し成長する物語の生命としての存在が「概念」である。この事物に内在する矛盾を認識し、その自己運動を必然性として認識しようとすること、それが事物を概念的に把握するということにほかならない。こうした概念観が重要であるのは、本来の科学とは事物の内在的な運動の必然性を認識し、それを論証することだからである。だから、この科学は、弁証法科学もしくは演繹法科学とも呼びうるが、この概念のもっとも普遍的な運動法則を展開したものがヘーゲルの論理学である。科学としてこの論理学の意義と重要性もここにある。

源氏物語も、橡川一朗氏の提唱するような民主主義の教科書としてではなく、概念論の検証として、弁証法の検証として読むことはできないだろうか。

源氏物語は光源氏の母、桐壺の更衣の描写から始まる。

源氏物語(1)光源氏の母、桐壺の更衣(桐壺考)

 

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暖かい日

2008年03月11日 | 日記・紀行

暖かい日、山に行く。去年の秋の暮れに、大急ぎで冬野菜を植えたが、食べられるくらいに成長したので引き抜いて帰る。水菜、壬生菜、ネギ、どれもみそ汁に入れると、柔らかくて甘い。前に来たときと異なって、小鳥のさえずりのにぎやかになったことに気づく。ウグイスの鳴き声をはじめて聴く。

里よりも山では一足早い。日光と温度が生命の活動に深く関係していることがわかる。「花に鳴く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける(仮名序)」

イチジクの木を植える。先に植えた柿の木と位置を入れ替える。桃の木は何とか根付いたようだけれど、柿の木が心配だ。霜柱に根が痛めつけられていたように思う。

土を掘り返しながら考える。日本の食料自給率と食の安全の問題。先の中国餃子中毒事件に見るように、自分の食物を他者に頼るのは原則的に間違いだ。これは一国においても同じだ。温暖化による異常気象と後進国の経済発展と人口増大による資源戦争と食糧危機も近い。

わが国の民主主義は皆農制と皆兵制を取り、(かって、そのまんま東大分県知事が苦し紛れにそれを主張していたが)国民には農業の権利と義務および兵役の権利と義務を根底におくべきであると。(民主主義国家では「徴兵制」とは言わず、「兵役の権利と義務」と言う。こんな差異すらもわかっていないのが日本人の民主主義だ。)もちろん、こんな話は、現代人の日本では妄想でしかないことはよくわかっている。

なぜならプラトンが民主主義をこの上なく軽べつしたように、私も戦後の「民主主義」を軽べつしているからだ。その意味では私は決して「民主主義者」などではなく、もし、民主主義を用語として使うとしても、その概念が違う。私の「民主主義」は誤解を恐れずに言えば、「全体主義」にきわめて近い。それならなぜ誤解を招くような「民主主義」という用語をあえて使うのか。

日本の幼稚園児、小学校児童、中高生、大学生のすべてが、野山で農業に従事することを夢見る。大人には何の希望ももたない。

ジャガイモを植える予定。鶏糞一袋、コンポスト二台。

 

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桓武天皇皇后陵

2008年03月07日 | 日記・紀行


桓武天皇皇后陵


相変わらず寒い日が続く。久しぶりに自転車で散歩(散輪)にでる。散歩はやはり、何の目的も持たず、気の向くまま、足の向くままがいい。

その途中に、桓武天皇の奥様の御陵に出くわした。たぶん、何度もこのあたりも行き来しているはずだけれども、これまでも、このような御陵に関心も何もなかったので足を止めることもなかった。

しかし、以前と違って最近はどうもこのような歴史的な遺物というか遺産に惹かれるようになったと思う。それには、テレビなどでしばしば世界遺産などをテーマにして、世界各国の歴史的事跡や遺産などが放映されるようになったことも影響しているのかも知れない。

近年にも弘法大師のご開山になった金剛峯寺のある高野山が世界遺産として認められたこともある。それに若いときには未来にしか眼が行かなかったのに、年を経るにつれて、それだけ過去を顧みるようになったということかも知れない。おそらく、与えられた時間としては、すでに未来において想定される時間よりも、事実として過ぎ去った時間の方が長くなってしまったからだ。個人として過去に蓄積された時間の方が長い。時間を線分にたとえればおそらくそうなる。その結果として自分の過去の時間の延長として歴史を見るようになったためだろうと思う。

過去の歴史に眼が行くようになった。それで、最近は散歩にもデジカメを持参して、興味のある対象は写真にとって記録してゆこうと思っている。そして、それと同時に関連する歴史の事跡や背景もできる限り調べて記録しておこうと思うようになった。その調査も昔と比べて、ネットの普及などでずいぶんやりやすくなったこともある。

上の写真は、桓武天皇皇后の御陵で高畠陵(長岡陵)と呼ばれている。この皇后様は藤原乙牟漏(ふじわら の おとむろ)と言うそうで、760年(天平宝字4年)に生まれ、 790年5月2日(延暦9年閏3月10日)に没した。続日本紀には、この皇后について、「后姓柔婉にして美姿あり。儀、女則に閑って母儀之徳有り。」と記録されているそうだ。平城天皇・嵯峨天皇の母でもある。物腰が柔らかでしとやかな美しい女性であったようで、妻としても母としても、婦人としてのたしなみ深い人であったようだ。わずか三十一歳の若さで亡くなっている。この人の事跡を読んで、すぐに光源氏の母の桐壺の更衣のことを思い出した。もちろん、この方は皇后として亡くなられたのであって、更衣という身分ではなかった。贈り名は、天之高藤広宗照姫之尊。

桓武天皇は平安京に遷都する前に、今の洛西に位置する乙訓の地、長岡京に奈良の平城京から都を移している。だから、長岡京はわずか10年足らずの造営で終わったらしいが、調べて見ると、その再遷都の背景には長岡京建設の命を受けていた藤原種継が何者かに暗殺されるという事件があったらしい。また「海ゆかば」の和歌の作者で万葉集の編者として知られる大伴家持も、この事件に連座していたらしい。

この桓武天皇の時代は、伊勢物語の主人公である在原業平や藤原高子たちの生きた時代でもあり、空海や最澄も同時代人であるという。とすれば、この桓武天皇の御代は、今日の日本の礎を築いた大変な時代ともいえ、興味をそそられることも多い。できうる限り、そうした歴史的な事跡もたどってみたい思う。

業平の墓も遠くないところにあるようだし、また、三月末の日曜日には小野小町のゆかりの随心院で「はねず踊り」もあるそうだ。忘れずに一度は訪れて見たいと思う。

参照

長岡京

藤原乙牟漏

桓武天皇

 



 
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書評『近代思想と源氏物語 』橡川一朗

2008年03月05日 | 書評


書評『近代思想と源氏物語 ―――大いなる否定』橡川一朗
1990年4月15日  花伝社


一昔前に手に入れはしたけれど、とくに気を入れて読みもしなかった本を取り出してもう一度読んだ。あまり生産的な仕事であるとも思えないが、 それでも一応は読んでしまったので、 とりあえず書評というか感想文は書いておこうと思った。

日本の学校では、とくに大学においてさえ、 書評を書いて研究するということなどほとんど教えられていないようなので、ごらんのように「書評」とも言えない単なる感想文のようなものでも、みなさんが「書評」を書く際に反面教師としてでも少しは参考になるかとも思い、恥を省みず投稿しました。

Ⅰ・本書の構成

目次から見ると、本書の構成は次のようになっている。

第一部  西洋の二大思想

序章  西洋の社会と経済の歴史

第一章  キリスト教と罪の意識
第二章   近代文学における罪の意識と体制批判
第三章  認識論から民主主義へ
 
第二部  日本文化史上の二大思想

序章    日本の社会と経済の歴史

第一章  東洋の認識論
第二章  日本における罪の意識

第三部  源氏物語の思想

第一章  源氏物語の作者の横顔
第二章 源氏物語の思想
第三章 両哲理と批判精神

Ⅱ・内容の吟味

だいたい、本書の構成としては以上のようになっている。私たちが一冊の本を読む場合、まず、著者が 「その本を書いた動機なり目的は何か」を確認する。それと同時に、私が「本書を手にした動機は何か、その目的は何か」ということも確認をしておく。

筆者の本書執筆動機はおよそ次のようなものであると思われる。
まず、時代背景としては、第二次世界大戦における同じ敗戦国である旧西ドイツにおける政策転換の現実がある。

その西ドイツにおけるその政策転換の根拠について筆者は次のように言う。
「ドイツの宗教改革者ルターや哲学者カントの思想が、ドイツで復活しつつあるからではないか、と想像される」。そして、さらに「なぜならばルターの宗教思想の核心は「罪の意識」という徹底した自己否定であり、カントの哲学は、デカルトと同じく、一切を否定する厳しい懐疑から出発している。つまり、ルターもカントも、それぞれ「大いなる否定」を原点とし、したがって発想の転換による民族再生の道を教えることにもなる。」(はしがきp10)

このように書いているように、筆者の言う「大いなる否定」とは――これは本書の副題にもなっているが、――つまるところ、宗教的には「罪の意識」であり、哲学的、認識論的には「懐疑論」のことであった。そして、この両者が民主主義と結びついており、我が国が民主主義国家に転生するためにも、筆者は、この「大いなる否定」が必要であり、それを我が国において学び取ることができるのは他ならぬ『源氏物語』であるというのである。それによって、日本人の民主主義が借り物ではなくなるという。そのためにも著者は日本国民に『源氏物語』の読書を勧める。

だから、西ドイツにおける民主主義の転換を見て、日本もそれに追随すべきであるという問題意識が筆者にあったことは言うまでもない。この本が書かれた1990年の時代的な背景には、まず東西冷戦の終結があった。そして1920年に生まれた著者は、文字通り戦後日本の社会的な変革を体験してきたはずである。そして、何よりも著者の奉職した都立大学はもともと、マルクス主義の影響を色濃く受けた大学であった。本書の論考において著者のよって立つ視点には、このマルクス主義の影響が色濃く見て取れる。

筆者の本書執筆のこの動機については、おなじはしがきの中にさらに次のようにもまとめられている。

「西ドイツの政策転換は、大革命以来の民主的伝統を誇るフランスとの、和解を目的とした以上、当然、民主国家への転生の誓いを含んでいた。わが日本が諸外国から信頼されるためにも、民主主義尊重の確証が必要である。西洋では、罪の意識も認識論哲学も、ともに大いなる否定(^-^)に発して、万人の幸福を願う民主主義の論理を、はらんでいる。日本の両哲理も、その点で同じはずであるが、それを証明しているのは、ほかならぬ源氏物語である。そして、源氏物語から民主主義を学び取ることは、われわれの日本人の民主主義が借り物ではなくなる保障である。しかも、その保障を文学鑑賞を楽しみながら身につけられるのは、幸運と言うほかあるまい。」(p12)

以上に、筆者の本書執筆の動機はつきていると思う。それを確認したうえで、本書の内容の批判にはいる。

筆者の本書におけるキイワードは、先にも述べたように「罪の意識」と「徹底した懐疑」であり、この二つが、本書の副題となっている「大いなる否定」の具体的な中身である。

そして、筆者は「罪の意識」の事例として、古今東西の宗教家や文学者の例を取り上げる。それは、西洋にあっては、ルターであったり、カルヴァンであったり、ルソーであったり、トルストイであったり、シェークスピアであったりする。わが国ではそれは、釈迦の仏教であり、親鸞や法然であり、源氏物語の紫式部の中にそれを見いだそうとする。

そしてそうした、いわば形而上の問題に加えて、筆者の専門でもあるらしい「社会経済史」の論考が、本書の展開の中で第一部にも第二部においても序章として語られている。第一部の「西洋の二大思想」には序章としては、「西洋の社会と経済の歴史」が、第二部の序章では「日本の社会と経済の歴史」について概略的に語られている。先にも述べたように著者の依拠する思想体系としてはマルクス主義が推測されるが、しかし、ただ筆者はその思想体系の明確な信奉者ではなかったようである。筆者は歴史を専攻するものであって、特定の思想を体系的に自覚した思想家ではなかった。

筆者の意識に存在していて、しかも必ずしも明確には自覚はされてはいない価値観や思考方法に影響を及ぼしているは言うまでもなくマルクス主義である。その思想傾向から言えば、「宗教的な罪の意識」や「厳しい懐疑論」がイデオロギーの一種として、一つの観念形態であると見なされるとすれば、それの物質的な根拠、経済的な背景について序章で論じようとしたものだろうが、その連関についての考察は十分ではない。マルクス主義の用語で言えば、下部構造についての分析に当たる。唯物史観の弱点は、「存在が意識を決定する」という命題が、意志の自由を本質とする人間の場合には、「意識が存在を決定する」というもう一つの観念論が見落とされがちなことである。

著者の専攻は「歴史学」であるらしい(p32)が、著者にとっては、むしろこの下部構造についての実証的な歴史学の研究に従事した方がよかったのではないかと思われる。たしかに、仏教の認識論やロックやデカルトの認識論について、一部に優れた論考は見られはするものの、哲学者として、あるいは哲学史家として立場を確立するまでには到ってはいない。哲学研究としても不十分だからである。哲学論文としても、唯物史観にもとづく社会経済史研究としても、いずれも中途半端で不十分なままに終わっている。この書のほかに著者にとって主著といえるものがあるのかどうか、今のところわからない。

それはとにかく、本書においても、やはり、哲学における素養のない歴史学者の限界がよく示されていると思う。その一つとして、たとえば筆者のキイワードでもある「大いなる否定」がそうである。いったいこの「否定」とはどういうことなのか、さらに問うてみたい。また、哲学的な意義の「否定」であれば「大いなる」もなにもないだろうと思うし、哲学的な「否定」に文学的な表現である「大いなる」という形容詞を付する点などにも、哲学によって思考や論理の厳密な展開をトレーニングしてこなかった凡俗教授の限界が出ている。そこに見られるのは、論考に用いる概念の規定の曖昧さであり、また、概念、判断、推理などの展開の論理的な厳密さ、正確さに欠ける点である。それは本書の論理的な構成についても言えることで、それは直ちに思想の浅薄さに直結する。

筆者のこの著書における立場は、「マルクス主義」の影響を無自覚に受けた、マルクスの用語で言えば、「プチブル教授」の作品というべきであろうか。(もちろん、ここで使用する意味での「プチブル」というのは、経済学的な用語であって、決して道徳的な批判的スローガン用語ではない。)

そのように判断する根拠は、たとえば、イエスの処刑についても、著者の立場からは、「キリストに対する嫌疑の内容としては、奴隷制批判のほかには考えられない」(p37)と言ってることなどにある。著者の個々の記述の詳細についてこれ以上の疑問をいちいち指摘しても仕方がないが、ただ、たとえば第一部の2で、パウロのキリスト観を述べたところで、彼は言う。「革命家キリストが対決したのも人間の「罪」、つまり奴隷制という、社会制度上の罪悪だった」が、その社会的な罪をパウロが「内面的な罪」へ転換した」と。

このような記述に著者の立場と観点が尽きていると言える。ここではキリストが著者によって「革命家」に仕立て上げられている。(p41)誤解を避けるために言っておけば、イエスに対するそのような見方が間違いであるというのではない。それも一つの見方ではあるとしても、20世紀のマルクス主義者の立場からの見方であるという限界を自覚した上でのイエス像であることが自覚されていないことが問題なのである。だから、著者はそれ以上に深刻で普遍的な人間観にまで高まることができない。

Ⅲ・形式の吟味

本書における著者の執筆動機を以上のように確認できたとして、しかし、問題は著者のそうした目的が、本書において果たして効率的に必然的な論証として主張し得ているのかどうかが次の問題である。

まず、本書構成全体が科学的な学術論文として必要な論理構成をもたないことは先に述べた。科学的な学術論文として必要な論証性についても十分に自覚的ではない。その検討に値する作品ではない。そうした点においてこの作品を高く評価することはできない。

第一部で著者は、「西洋の二大思想」として、「罪の意識」と「懐疑論」を挙げているが、その選択も恣意的であるし、そもそも「罪の意識」と「懐疑論」は、一つの概念でしかなく、それをもって概念や判断、推理の集積であるべき思想と呼ぶことはできない。それらは思想を構成すべき、一個の概念か、少なくとも観念にすぎない。この二つの観念が、著者の意識にとっては主要な概念もしくは観念であることは認めるとしても、それが客観的にも西洋思想史において主要な「思想」と呼ぶことはできない。

ちなみに「思想」とは何か。その定義を手近な辞書に見ても次のようなものである。(現代国語例解辞典、林巨樹)「1.哲学で、思考作用の結果生じた意識内容。また、統一された判断体系。2.社会、人生などに対する一定の見解。」と記述され、その用例として、「危険な思想」、「思想の弾圧」「思想家」などが挙げられている。

だから、この用例にしたがえば、少なくとも「思想」と呼ぶためには、「キリスト教思想」とか「民主主義思想」とか「共産主義思想」とか国家主義とか全体主義といった、ある程度の「統一的な判断体系」が必要であって、「罪の意識」や「懐疑論」という観念だけでは、とうてい「思想」と呼ぶことはできない。

ただ、こうした観念は、西洋の思想に普遍的に内在しているから、もし表題をつけるとすれば、「西洋思想における二大要素」ぐらいになるのではないだろうか。このあたりにも、用語や概念の規定に無自覚な「歴史家」の「思想家」としての弱点が出ている。

本書のそうした欠陥を踏まえた上で、さらに論考を続けたい。この著書の観点として「罪の意識」を設定しているのだけれども、ここで問われなければならないのは、どのような根拠から著者はこの「罪の意識」と「懐疑論」を「大いなる否定」として、著者の視点として設定したのかという問題である。

それを考えられるのは、筆者の生きた時代的な背景と職業的な背景である。それには詳しくは立ち入る気も分析する気もないが、そこには戦後の日本の社会的、経済的な背景がある。ソ連とアメリカが東西両陣営に分かれてにらみ合うという戦後の国際体制の中で、我が国内においても、保守と革新との対立を構成した、いわゆる「階級対立」がこの筆者の意識とその著作の背景にあるということである。その社会的、時代的な背景を抜きにして、著者のこの二つの視点は考えられない。そうした時代背景にある「社会的な思潮」の影響が本書には色濃く投影されている。

ただ、だからといって著者は何も階級闘争を主張しているのでもなければ、支配階級の打倒を呼びかけているのでもない。ただ、「罪の意識」から「認識論としての懐疑論」へ、そして、さらにいくぶん控えめに「民主主義」が主張されているにすぎない。そして、それを総合的に学べるものとして、その手段として『源氏物語』の文学鑑賞を提唱するだけである。

ただしかし、問題はこの著者の彼自身に、この「罪の意識」「懐疑論」という視点をなぜ持つに至ったのかという反省がないか、少なくともそれが弱いために、そこで展開される論考も現実への切り込みの浅いものになっている。その結果として、筆者自身はこの「罪の意識」も「懐疑論」も克服(アウフヘーベン)できず、より高い真理の立場、大人の立場に立つことができないまま終わってしまっている。

とにかく、著者はそうした観点から、第一章で「キリスト教と罪の意識」として、キリスト教に「罪の意識」の発生母胎を求めている。たしかに、キリスト教はそれを自覚にもたらせたことは間違ってはいないと思う。しかし、罪の意識は仏教、イスラム教など多くの宗教に共通する観念であって、何もキリスト教独自のものではない。それは人間の本質から必然的に、論理的に生じるものである。キリスト教や仏教における「罪の意識」は、その特殊的な形態にすぎない。

ただ、「罪の意識」の根源に社会制度を、古代ギリシャにおける奴隷制度の存在や、インド仏教の背景として、カースト制度を、また、トルストイの諸作品の社会的背景として、当時のロシアの農奴制度や貴族制度などが認められるのは言うまでもない。文学や宗教もその生活基盤の上に、その経済的な基盤のうえに成立するものだからである。これを明確に指摘したのはマルクスの唯物史観である。もちろん、その意義は認めなければならないが、ただ、この史観の不十分な点は、彼の唯物論と同じく、観念と物質を悟性的に切り離して、その相互転化性を認めなかった点にある。いずれにせよ、そうした点において、文学上に現れた「罪の意識」や「懐疑論」などの「大いなる否定」という観念の社会経済的な基盤との必然的な関連を著者がもっと深く具体的に追求していれば、もっと内容豊かな作品になっていたのではないだろうか。

Ⅳ・本書の社会的、歴史的意義について

本書の論理的な展開やその論証についてはきわめて不十分であり、したがって、科学的な学術論文としては評価はできない。だから、実際に日本人が『源氏物語』を文学鑑賞したとしても、本居宣長流の「もののあはれ」を追認するのみで、果たして「罪の意識」と「懐疑論」を深めることを通じて民主主義の意識の形成に果たしてどれだけ役立つことになるのか疑問である。

たしかに、源氏物語にも、また仏教思想にも、あるいは儒教にすら「民主主義」的な要素は探しだそうとすればあるだろう。しかし、そこから直ちに、民主主義をこれらの宗教や思想から帰結させようとするには無理があるように、源氏物語に「罪の意識」と「懐疑論」を見出して、そこに民主主義の素養を培うべきだという筆者の問題提起には無理があるのではないだろうか。

本書はこのように多くの欠点をもつけれども、示唆される点も少なくはなかった。従来から西洋哲学の方面に偏りがちだった私の意識を東洋哲学へ引きつけることになった。とくに仏教の認識論により深い興味と関心をもつようになったことである。また、「源氏物語」の評価についても、伝統的な一つの権威として、国学者である本居宣長の「ものの哀れ」観の束縛から解放されて、あらためて仏教思想の観点から、今一度この文学作品の価値を検討してみたいという興味を駆り立てられた点などがある。

また、本書において著者自身にもまだ十分に展開することのできていない、ルターやカルヴァン、ルソーやロックといった民主主義思想の教祖たちの思想を、さらに源泉にまで逆上って、その時代と思潮との葛藤を探求してきたいという関心を引き起こされたことである。

ロックやカントやデカルトの認識論についても同じである。そうした方面の探求は、現代の日本における民主主義思想のさらなる充実につながるし、また、歴史的にも巨大な意義をもったドイツ・ヨーロッパにおける観念論哲学の伝統を、わが国に移植し受容し継承してゆく上でも、いささかでも寄与することになると思う。

※もし万一、当該書に興味や関心をお持ちになられたお方がおられれば、図書館ででも本書を探し出して、この「書評」を批判してみてください。


 


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