作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

アメリカ考②

2006年09月03日 | 歴史

日本とアメリカ

日本はアメリカの黒船によって徳川幕府の鎖国体制の眠りから目覚めさせられることになった。しかし、この徳川幕府の鎖国政策自体が、我が国にキリスト教が流入することによる徳川封建幕府体制の動揺を防ぐことを目的としたものであった。賢明な徳川幕府は、その鎖国によって、三百年にわたって国内に平和をもたらし、封建体制を持続させることに成功した。徳川幕府は日本国内のキリスト教のほとんど完全な禁圧に成功し、天草の乱以来、キリスト教徒は国内では、息を潜めて隠れて暮らさざるをえなかった。こうして国内から徳川封建体制を批判し、反抗して危機にもたらすような芽は完全に摘まれた。

もちろん徳川の幕藩体制も永遠の体制ではなかったのはいうまでもない。三百年に及ぶ安定した幕府の統治は経済の発展をもたらし、貨幣経済が浸透して、武士階級は商人階級の台頭にともなって動揺し始めていた。そうした時にペルー提督は来朝し、日本は日米和親条約の締結することによってついに開国する。幕府の国策はまだ鎖国であったから、この開国は止むに止まれぬものだった。

そのころの国際情勢にあっては、隣国の清においてはアヘン戦争が戦われ、屈辱的な賠償金の支払いや香港の割譲などヨーロッパ各国の市民社会は交易を求めてアジアの植民地化を進めていた。そうした中で、日本も独立を実現してゆくことが切実な課題になっていた。欧米諸国の圧力に対して不平等条約を結ばざるをえなかった。アメリカもスペインとの戦いに勝利していらい、フィリッピンなどの植民地化を進めていた。

明治の開国以来日本は、富国強兵政策を成功させ、かろうじて独立を保った。やがて日清、日露の戦争に勝利して中国大陸にその権益を拡大してゆく。そこで東アジアに進出していたアメリカと利害を巡って必然的に対立するようになる。このころロシアにおいては共産革命が成功してソビエト連邦が成立していた。そうして帝国憲法下の日本と自由主義国家アメリカが極東アジアにおいて三つ巴に覇権を競うことになる。

太平洋戦争

太平洋戦争をどのように評価するかは、どのような政治的立場にたつかによってさまざまだろう。ただ、当時の国際社会のイデオロギーとしては、共産主義のソビエトと毛沢東の中国、自由民主のアメリカと蒋介石の中国、それに、立憲君主国家の日本が存在し、それぞれが極東アジアで覇権を競い合っていた。日本は国内の民主主義がまだ十分に進展していなかったこともあり、ナチスドイツやムッソリーニのイタリアと三国同盟で手を結ぶことによって、全体主義に傾斜してゆく。

当時の日本においても自由民権運動によって大日本帝国憲法が制定されるなど国内の民主化はかなり進展していた。しかし、国軍の統帥権が、天皇に属するという名目で軍部そのものに委ねられ、軍隊の民主的な統制が完全に行き届かなかったように、不完全なものだった。民主主義の立場からみて、明治憲法の最大の欠陥であったといえる。それに当時の軍部にはすでに東郷平八郎や加藤高明のような人材はなく、軍部を抑えられる権威はもはや存在せず、制度としても文民統制が確立していなかった。そのために軍部の独走をゆるし、結果として、アメリカとの対立は避けられず、その後の日米開戦を防ぎきれなかった。自由と民主主義を世界において拡題してゆくという歴史的な使命をになうアメリカと総力戦を戦うことになる。

日本の敗戦

日本はアメリカをはじめとする連合国との戦争に敗北し、カイロ宣言とポツダム宣言を受諾する。それによって、政治経済的のみならず、文化的精神的な改造がアメリカを主導として行われる。その象徴が日本国憲法である。とくに太平洋戦争後のアメリカの占領統治によって、植民地文化の状況に日本は置かれることになる。歴史的に見ても多くの敗戦国に共通する、文化的精神的な混乱と退廃が今日も底流しているといえる。そして、敗戦から六十年、還暦という歳月を経て、日本はようやく自主憲法の制定する動きなど、日本の「内と外なるアメリカ」を見つめ清算して、当然の主権国家として日本人の自由と独立を回復する機運がようやく始まろうとしている。

 


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