哲学と大衆の関係について、ヘーゲルは彼の『小論理学』の第三版への序文の中で、キケロの言葉を引用しながら、次のように言っている。
「キケロは言っている。「哲学は少数の批評者に満足して、大衆を故意に避けるから、大衆からは憎まれいかがわしいものと思われている。したがって、もし誰かが哲学一般を罵ろうと思えば、必ず俗衆の支持をうることができる」と。哲学を罵るのに、その罵り方が馬鹿らしく浅薄なものであるほど、一般には受けるものである。というのは卑小な反感というようなものは、難なく共鳴できるものであるし、無知もわかりやすさの点では、これに引けは取らないから、この仲間となるからである。」(岩波文庫版50頁)
これらの文章を見ても、古代ギリシャ・ローマの昔から、ヘーゲルの時代も、哲学などはいかがわしいものと「俗衆」から思われていたことがわかる。何も現代に限ったことではないようである。ヘーゲルもまた彼自身のキリスト教研究を明らかにしたとき、学者ばかりではなく、俗衆からも多くの揶揄や非難をこうむっていたようである。もちろん、彼自身は真理は自己を貫徹するものであること、そして、時が来れば受け入れられることを確信していたが。
ただ何事においても非難はやさしく、創造はむずかしい。ヘーゲルのような哲学の立場に立つものは、神学者と哲学者の両陣営から批判を受けることになる。神学者の立場からすれば、彼の神学はあまりに哲学的でありすぎ、哲学者の立場からは、彼の哲学はあまりに神学的でありすぎると。
もちろん、これはヘーゲル哲学の欠陥ではなく、むしろ、彼の哲学の高さ、正しさゆえである。彼の哲学は神学者からも俗流哲学者からも理解されず、誤解され非難されもした。彼自身はそうした無理解に頓着しなかったけれども。
それにしても、現代においてはキリスト教などの宗教を研究するために、ヘーゲルの哲学が顧みられるということは「大学の府」などにおいてもほとんどないのではないか。クリスチャンやその他の宗教家であっても、この哲学者に論及するものもほとんどいないと思う。そうした問題意識すらもないようだ。彼の哲学の中心的なテーマは生涯キリスト教であったのに。
かって社会思潮を風靡したマルクス主義の関係から、ヘーゲルの「弁証法論理」が流行したこともあったが、そのほとんどは、唯物論者や共産主義者の立場からのものだった。
かって、私自身もブログで宗教について、とくにキリスト教などについてあつかましくも発言しようとしたとき、惜しくもさきに亡くなられたが、モツニ氏こと吉田正司氏から、「その資格として、田川建三氏や丸山圭三郎氏、ニーチェなどの読解が最低限要求される」という厳しい先制パンチをいただいたことがある。キリスト教や聖書の研究の導きとして、細々とヘーゲルを読みかじるぐらいのことしかできない私には、残念ながら、吉田氏とも対等に論議できずに終わってしまったけれども。http://blog.goo.ne.jp/aseas/e/264a6896e3ae29e528fdc97198dbc608
だから、もちろん自慢にもならないが、田川建三氏のみならず、カール・バルトやブルンナー、八木誠一氏、荒井 献氏など国内外の著名な現代神学などについて論じる資格は自分にはない。ただ、二十一世紀においても、今日なお、ヘーゲルの哲学は、キリスト教についての最高にして最深の宝庫であるとは思っている。
現代のキリスト者で、彼の哲学にかかわるものが少ないのには、ヘーゲルなどを紹介してきた日本の権威主義的な哲学者たちのせいもある。日本ではヨーロッパにおいて以上に、哲学は女性や大衆には取り付きにくく思われているようだ。惜しいことだと思う。ヘーゲル自身は、異性とお酒やダンスも愛好する、世事にも通じた偉大なる俗人だった。
ヘーゲルの哲学は、キリスト教や聖書、宗教一般の研究には必須の登竜門であると考えている。たとえば三位一体の教義などは、キリスト教にとって本質的ではあるけれども、この教義の生成についての歴史的な、論理的な必然性をヘーゲルほどに明確に論証した学説は知らないからである。バルトや八木誠一氏などは読んではいないが、これらの神学者たちには、おそらくヘーゲルほどには、父と子と聖霊の三者の論理を明らかにはできていないだろうと思う。(バルトや八木氏の研究者が居られれば教えてください。学問的な怠惰はお許しを。)
現代日本の多くの大衆的なクリスチャンが、ヘーゲル哲学などに論及することなどほとんど皆無であるのは、彼らの多くが信仰の立場に立ち止まり、そこに満足して、真理や学問の立場に進むだけの余力がないからなのだと思う。これは、国家国民の学術・文化の水準の問題としても残念なことではあると思う。(信仰と真理の関係については、いずれまた論じたい。)
以前ニーチェのことについて書いておられたので、
先達て、偶然読みかじったことが気になりました。
ニーチェは「神は死んだ」(正しくは「死んでいる」だそうですが)
と言った無神論の人でしょう?
トルストイの『文読む月日』(ちくま文庫)の中巻、8月13日の項で
ニーチェの「カトリック教とキリスト教」という一文が取り上げられていたのですが、
これを読む限り、ニーチェが批判しているのはカトリック教であって
イエスとその教え自体については
非常に愛しているようなので、驚いてしまいました。
これがいつ頃の文なのかわかりませんが、
ニーチェの思想が、どうしてどのように変わっていったのか
いつの日かそらさんにわかり易く体系立てて書いて頂ければなぁ、と思います。
ニーチェの思想についてはよく知りません。チャンタさんに読んでいただいたのは、この記事でしょうか。
「ニーチェとキリスト教」http://blog.goo.ne.jp/aowls/d/20051101
とすれば、そこで書いておいたように、ただ、彼、ニーチェについて伝え聞く断片的な知識を前提に、私の能力の限界において、私の立場から、彼の思想に関して論理的に推測し、判断しているにすぎません。
前にも書いたように、ニーチェについては、まったく関心がないとわけではないのですが、ただ、これまで私には西尾幹二氏のように、専門的に研究する気にはならなかっただけです。
「無神論の人」とチャンタさんは書いておられますが、それだけでは、ニーチェに「レッテル」を張られただけで、ニーチェの考え方の具体的な説明がないので何ともいえません。古代ギリシャでも、ソクラテスは「無神論」の罪で毒杯をあおがなければなりませんでしたし、イエスも神を冒涜する罪で十字架に架けられたことはご存知のとおりです。ですから、「無神論」のレッテルを貼られているニーチェがもっとも忠実な信仰者である可能性も、イエスなどの事例に照らして、考えられないではありません。この点は、ニーチェの思想そのものを調べてみないことには、私自身はなんとも言えません。
トルストイにニーチェ評のあるのははじめて聞きました。そこでニーチェはカトリック教をどのように批判していたのでしょうか。もしチャンタさんがご自分のブログをお持ちでしたら、そこで具体的に説明していただけないでしょうか。
まだお持ちでないなら、少しずつでもあなたご自身の考え方を書いてゆかれると、ご自分の考えがはっきりしてくると思います。
限りある人生の時間の中で、カメラや旅行など趣味も多い私にとって、ニーチェについてどれだけ調べる気になれるか、また、その能力があるのか自信が全くありません。
そら
申し訳ございません。
ご思索のお邪魔になるようでしたら、ご放念下さい。
ヘーゲルにしろニーチェにしろ、せいぜいレッテルしか知らないもので
こちらに投稿させて頂く前にもっとよく知り、自身で考えねばなりませんね。
『文読む月日』は、トルストイが晩年、古今東西の聖賢の名言を選び集め
1日1章、366日分のアンソロジーとして編んだものです。
トルストイが書き下ろした文もありますが、「カトリック教とキリスト教」は
4ページ弱にわたるニーチェの文です。
以下抜粋ですが、長いので分けさせて頂きました。
一定の信条の代わりに、教会にあるのは物、人であり、永遠なるものの代わりに歴史があり、
実践的生活の変わりにカトリック的規則や儀式やドグマがある。キリスト教は本質的には、
祭祀や僧侶や教会や神学とは無関係なのである。
キリスト教の実践のためには、なんらの幻想をも必要としない。
それは幸福になるための手段である。
イエスは平和と幸福を説いたのに、カトリックは人々の人生に対する暗い見方の表現、
それも弱き者、力なき者、抑圧されて苦しむ物の見方の表現だった。
カトリック教は、キリストの生と死の歴史から実に自分勝手な選択を行ない、至るところ
重心を置き換えて、何もかも自分流の解釈をし、原始キリスト教をすっかり滅ぼしてしまった。
キリスト教はいつ何時でも実現できる教えである。
それは形而上学も禁欲主義も自然科学も必要としない。キリスト教は生活そのものであり、
われわれにいかに行動すべきかを教える。
「私は軍人になりたくない」「私は裁判などに用はない」「警察は私には無用である」
「私は自分の内面的平安を乱すようなことは何もすまい」。
そして「もしそのために苦しむことになっても、その苦しみほど私の心を和ますものはないであろう」
――こんなふうにいう人だけが真のキリスト教徒なのである。
こういうものを読み、ニーチェの(無知な私が見ていた)レッテルと
著しく異なる意見に驚き、惹かれたのでした。
尚、私は到底ブログなど書けるような者ではありません。
いろいろな皆さんのブログを拝見し、「自分なりの」勉強するのがやっとこさです。
そうした機会を与えて下さって感謝しています。
そらさんのお邪魔にならぬよう気をつけますので、またいつか投稿させて下さい。
チャンタさんの引用文を読ませていただきました。そのかぎりでは、ニーチェは必ずしもイエスの教え自体を否定しているわけではないようですね。ニーチェ独自のキリスト教観を明らかにしているだけのように思いました。ニーチェについての知識が(きわめて断片的ですが)加わり、判断の材料も増えたように思います。感謝します。
はじめから理想的なブログはなかなか書けないと思います。みんな私などのように「恥を書きながら」練習してゆくのだ思います。また、よろしくご教示ください。気軽に楽しく議論しましょう。
そら
もしもニーチェのキリスト教観をお知りになりたいと言うのであれば、『アンチ・クリスト』をお勧めします。そこに書かれていることは、コメントでの対話にあるように、決してキリスト教を全面的に否定しているものではありません。
むしろ意外なことにイエスへの、解釈によっては一種の賛辞でさえあるのです(ルサンチマンから解放された人物像として)。
次の言葉にニーチェのキリスト教観が如実に表されています。「すでにキリスト教という言葉が、一つの誤解だ。――突き詰めていけば、キリスト教徒はただ一人しかいなかった。そしてその人は十字架につけられて死んだのだ」
ただ、チャンタ様との対話でもお話したように、興味の強度、時間の余裕などのせいで、なかなかその気になりません。本当には切実な関心、やる気がないのかもしれません。とくに、青年の大切な時期にその機会を外してしまうと、取り返すのはむずかしいようです。
あなたが引用されたニーチェの言葉の意味では、本当のキリスト教徒はイエスだけです。結局人はすべて、「自分の思想」を生きざるを得ないのだと思います。いわゆる多くのクリスチャンも「彼が解釈したキリスト教」主義者だと、つまり、結局すべて人は自分主義者なのだと思います。
ただ、それでも思想と呼ばれる思想には、それぞれ独自の本質があると思います。問題は、その思想の継承者と自称する人が、それを必要十分に的確に継承しているかどうかは問われると思います。もちろん、何が本質かということについては、それが人間の反省を媒介せざるを得ないがゆえに、論争はありうると思います。
あなたご自身のブログをお持ちでしたら、そちらへコメントなりトラックバックなりさせていただいたのですが。コメントを見落としたり、二三日もブログを覗かなかったりすることがあります。マナー上必要とされる限りは、ご返答などするつもりですので、気が向けばまた訪れてみてください。 今後ともよろしく。また、ご意見ご指摘などお寄せください。
そら