海と空

天は高く、海は深し

宗教について

2005年07月02日 | 宗教一般

 

共産主義や唯物論の流行のもと、ひととき、ほとんど忘れ去られたかに見えた宗教が、現代において、あちらこちらで復活しはじめているようです。日本においても、新興宗教の信者がテロ行為という考えられもしない犯罪を犯したのも比較的最近のことですし、今も新興宗教に支持された政党が、政治の一角を占めています。また、靖国神社問題は、政治上の問題にもなっています。それに、たとえ宗教という看板は掲げていなくても、会社教や日本教や共産主義といった擬似宗教もこの世界には少なくありません。

 

中東では、イスラム教が猛威をふるい、アメリカ、ヨーロッパのキリスト教との対立を深めています。パレスチナでは2000年前から今日に至るまで宗教紛争が絶えません。インドとパキスタンとの間の問題も、もともとは宗教紛争です。お隣の中国では、法輪功という宗教が共産主義に合わないといって問題にされています。一見古臭い宗教が、二十一世紀のキィワードになることを予想した人は少なかったのではないでしょうか。文明の対立を主張する思想家もいるようですが、そこでは文明とは宗教に外なりません。人間や社会にとって、宗教は今日もなお大きな意味を持っているようです。

 

そんな宗教にかかわる問題について、できうる限り幅広くかつ深く論じて行けることを願い、また、宗教についての正しい認識の確立することを願って、そして、何より私自身の宗教観を深めるために、宗教研究のためのブログを造りました。多くの人が、この論考に加わってくださることを期待するものです。

 

恐らく当面は、毎日の考察は期待できないと思います。焦らず、しかし、倦まず弛まず考え抜いてゆきたいと思います。


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6 コメント

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宗教について論じることとは? (msaicc)
2005-09-10 22:13:46
宗教とは?



キリスト教についていろいろ思うところがおありのように書かれていますが、ここでこんなことを申し上げるのは失礼かもしれませんが、敢えてコメントを書かせて頂きました。



■ 最低限、ニーチェ、キルケゴールの著作集のできれば全部を理解して論じることができるならばインパクトは保証されるかもしれません。また、田川建三氏のほぼ全著作を読解していることも最低限要求されるかもしれません。(もちろん田川氏の立場を支持するか否かは問いません。問題は、田川氏の視点も十分考慮されて聖書理解が展開されているか否かが問われるということです。)

それに、たぶん丸山圭三郎氏のほぼ全著作についても、その内容について十分理解されていることが要求されています。すなわち、言語の理解と聖書の理解とがどのような射程で複合化されているのか…ということも踏まえて…。
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コメントありがとうございます。 ()
2005-09-16 23:17:25
MSAICCさん。コメントありがとうございました。



この宗教研究のブログで、私自身もヘーゲルとか何とか言っていますが、一方で、キリスト教の理解には、基本的には聖書一冊で十分ではないかと思っています。



もちろんニーチェやキルケゴール、田川健三氏などの思想の理解が無益だとは言いませんが。



また、言語学の知識やヘブライ語の能力も、キリスト教の本質的な理解には絶対的な要件であるとは考えておりませんがどうでしょうか。



そもそも、イエスによって、弟子であることを承認される条件とはどのようなものであるとお考えになりますか。

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コメントの追加 ()
2005-09-16 23:43:40
MSAICCさんに示唆していただいたように、私もできるだけ早く、ニーチェやキルケゴール、田川健三氏などの思想についても勉強して行きたいと考えているのですが、能力不足につき思うに任せません。



しかし、何のための宗教研究か、キリスト教の研究かを考えるとき、それは真理を「科学的に認識するためだ」といわざるを得ません。しかし、そのために



>田川建三氏のほぼ全著作を読解していること<

>最低限要求されるかもしれません<



とは思えません。ただ、田川健三氏が優れたキリスト教思想家であるとのうわさを承知しているだけで、氏の思想については、ほとんど知らないのですから、今のところ何とも言えません。



また、日録のようなものも書いています。そこにも私の宗教観の一端も出ているかもしれません。よろしければ、ご批評いただければ幸いに思います。



作雨作晴

http://blog.goo.ne.jp/askys/



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お返事に対するコメント (msaicc)
2005-09-19 20:56:51
厳しいコメントをさせていただき失礼しております。



別に田川健三氏のすべての著作を100%理解できなければ駄目だ…ということを申し上げているのではありません。 ただ、ブッシュ大統領のような人間がもしほんとうのクリスチャンであるとしたなら、そして、そのような人間を支持している数千万人の典型的なアメリカ人のクリスチャンがほんとうのクリスチャンであるとするなら、そのような”ほんとうのクリスチャン”はすべて地獄にゆくことは間違いないでしょう! わかりますか? わたくしが申し上げていることの厳しい意味が! 



ひとは信仰によって救われるのではありません! 神の御心を行う者こそが救われるのです!



 この言葉は非常に厳しいものです。たぶん、救われるのは1/10万人かあるいは1/100万人ぐらいの確率でしょう!(この場合の確率はアメリカ、ヨーロッパ、日本といった先進工業国の場合です)



逆に、アフリカおよび世界で最も貧しくかつ厳しい状況におかれている国々の場合、1/1万、あるいは1/10万ぐらいかもしれません。 いずれの場合も極めて小さい確率であるように思われます。 



(⇒参考:キルケゴール著作集のすべてを読解していること、および、ニーチェの主要な著作をニーチェそのひとのレベルに近いレベルで理解していることが前提となっています)



※ ダンテの神曲をノンフィクションとして、かつ、登場人物をブッシュとかフセインとか田中角栄とか金丸信といった一連の悪を代入してお読みになるとき、しかも、例えば、スウェーデンボルグの”神の摂理”などのイメージを加味して、ヨハネの黙示録、外典のエズラ記(ラテン語)、ダニエル書などをお読みになると、聖書がほんとうに伝えようとしているイメージが明確になるのではないでしょうか!



 ご参考までに。

 









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最後のコメント ()
2005-09-20 12:29:55
msaiccさん。ご批評ありがとうございます。2005-09-19 に頂いたあなたのコメントに関する疑問と感想を少し書こうと思います。



引用①



>そのような人間を支持している数千万人の典型的なアメリカ人のクリスチャンがほんとうのクリスチャンであるとするなら、そのような”ほんとうのクリスチャン”はすべて地獄にゆくことは間違いないでしょう!<



とありますが、誰が天国に行くか地獄に行くかは、私には、いっさい分かりません。神様の御心のままだと思います。

「誰と誰は地獄にゆくことは間違いない」とあなたのように私には到底断言できません。私の愚かさゆえに。



引用②



>ひとは信仰によって救われるのではありません! 神の御心を行う者こそが救われるのです!<



信仰とは、神の御心を行うこととされているのではないでしょうか。



以上あなたのコメントに感じた疑問と感想です。



この七月二十二日の記事「宗教について」についてのコメントは私のほうはこれで終わりにしたいと思います。また、別個のテーマで議論できればと思います。海
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七月二十二日の最終コメンと (msaicc)
2005-09-20 23:29:49
コメントに対するご意見ありがとう。



趣旨が正確に伝わっていないコメントになっていたようなので、ご確認させていただきます。



引用①



>そのような人間を支持している数千万人の典型的なアメリカ人のクリスチャンがほんとうのクリスチャンであるとするなら、そのような”ほんとうのクリスチャン”はすべて地獄にゆくことは間違いないでしょう!<

  

   -----------------------------------



私(msaicc)も、誰が天国に行くか地獄に行くかは、いっさい分かりません。神様の御心のままだと思います。



ただ、ここで言いたかったのは全世界で搾取されている側の人間の心情になって感じた場合のその雰囲気を言っているのです。(もし”天国”というものがあるなら、苦しんでいる人間こそ”天国”にゆけるはずだ!…)



引用②



>ひとは信仰によって救われるのではありません! 神の御心を行う者こそが救われるのです!<



信仰とは、神の御心を行うこととされているのではないでしょうか。



 --------------------------------------



口で、あるいは言葉で



 ”信仰とは、神の御心を行うこととされているのではないでしょうか…”



と語ることは非常にやさしい!



しかし、実際の人生でこの言葉そのものを実現することは、とてつもなくむずかしい!

(今、こう言っているこの私でさえ、これは単なる書かれた言葉に過ぎないのですから、自己矛盾です!)



※ やがてほんとうの迫害が地球レベルで訪れたとき、そのとき、上で示されたテーゼは言葉を超越した次元で、すすなわち”信仰”そのものが”実人生”の次元で試されます!… 私はそのことを申し上げているのです。



 以上です、ありがとうございました。これで、これに関するコメントは終了にします。



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