2017年平成二九年5月15日(月)晴れ。
今日は、葵祭りの日。昨年は御薗橋付近で葵祭りの行列も見物しました。今年は大田神社に行きました。カキツバタが見頃でした。大田の沢の側に立てかけられてあった標識によると、この沢のカキツバタを見て藤原俊成が次のような歌を詠んだそうです。
神山や 大田の沢の かきつばた ふかきたのみは 色にみゆらむ
この和歌の通釈は、沢の傍らに立てられた標識には次のように書かれてありました。
「上賀茂神社のご降臨山である神山(こうやま)の近くにある大田神社のかきつばたに(人々が)よくお願いする恋事(いろ)はこの花のようになんと一途(一色)で美しく可憐なのだろうか」
[私の註釈]
神山の近くにある、大田の沢に咲くかきつばたのその高貴な紫の色に、人々の深くお祈り申し上げるお気持ちを見ることができるのでしょうか
かきつばたの咲いているこの大田の沢からさほど遠くない東には深泥池があります。この深泥池や大田の沢には、古代京都の泥炭地の湖沼の面影が残されているようです。沢に群生しているかきつばたは、昭和十四年に天然記念物に指定されたそうです。
この和歌の作者である藤原俊成は、百人一首を作った藤原定家の父であり、千載和歌集に撰者であり、また西行とも同世代の人です。和歌を通じて二人に交流のあったことは確かなようです。
伊勢物語に出てくる和歌、
から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思ふ
から、かきつばたについての私なりに従来から抱いていたイメージがありましたが、どうやらそれはむしろ、現代的なあやめなどを想像していたように思いました。この沢のかきつばたは、あやめに比べればその姿形も小ぶりで、色彩も日本古来の花の多くがそうであるように淡白です。俊成や在原業平らが和歌にも詠んだかきつばたは、ここに古来より自生するらしい大田の沢のかきつばたのようにもっと淡い紫だったのかもしれません。これまで私がかきつばたに想像していたイメージを修正しなければならないと思いました。同じこの標識を読んでいて、カキツバタとあやめと菖蒲の区別も初めてはっきり気付かされたからです。おろかしいことにこれまでその違いはずっと曖昧なままでした。
標識の記述によると、それらは次のように区別されるそうです。
「かきつばたは、シベリア、サハリン千島および中国、朝鮮我が国に自生する植物で、アヤメ科アヤメ属に分けられ、かきつばた、あやめ、しょうぶの相違は、かきつばたが水を好むのに対しあやめは陸を好み、かきつばたが五月に咲くのに対ししょうぶは六月に花をつけます。」
あおいモミジの若葉と、その向こうに群生するかきつばたの花と葉が、いっしょになってそよ風に吹かれなびいているのを見ると、間もなく訪れる初夏を予感しました。
ご近所の婦人たちが焼餅などを売っていたので買って、お茶を飲みながら赤い緋毛氈の急ごしらえの座席に座って食べていると、石碑が目につきました。見ると「北大路魯山人の生誕地」とありました。魯山人については陶芸家で美食家のレッテルぐらいの知識しかありませんが、なるほどこんな所に生を享けたのだと妙に感心しました。ちょうどその時、上賀茂のやすらい祭りのシャグマの舞が、少年たちの笛や鉦にあわせて奉納されるのにも出会いました。
時間もあったので、それから大田神社の裏手に回ると、「大田の小径」と書かれた標識がありました。細い沢流れのあとを辿ってずっと登ってゆくと、なんとなくこのあたりに不似合いのゴルフ場に出ました。フェンスに囲まれていて外に降りて出れなかったので、再び山道を折り返して帰りました。
いつもはもって出るデジカメを忘れてしまい、しかたなくスマートフォンで写真を撮りましたが、記憶のよすがに残せるぐらいには何とか写っているようです。
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