「12月4日(木)のTW:「天皇制」の合理的な根拠」奥平康弘氏の抱いているような憲法観を、その限界を克服することも出来ない氏に教えられたまま東大法学部卒の若者などが、司法、行政立法における政府国家機関やまたNHK、朝日新聞などの... fb.me/3QYsVkcu5
※追記20141206
奥平康弘氏の著書『萬世一系の研究』について、ツィッターでノートを取りながら、検討してみました。関心の持てる人は上記のリンク先を覗いて見てください。書評としてまとめる価値があるかどうかは、まだ分かりません。
「「天皇制」は民主主義とは両立しない」という記述が、奥平氏の著書から引用されているらしいのをたまたま知ったことが、『萬世一系の研究』の本文に当ってみようと同書を読み始めた切っ掛けでした。確かに、あとがき401頁のなかで、奥平氏は著書のまとめのような形でそのように書かれていました。だから、奥平康弘氏自身の見解であることは間違いないようです。
といっても、“「天皇制」は民主主義とは両立しない”と言うことによって、奥平氏は「天皇制」を擁護しようとしているのではありません。むしろ奥平氏は国家の原理として「民主主義」をもって「天皇制」にとって代えることを主張されているようです。
しかしいずれにせよ、奥平康弘氏は「国家の真理」などと言うことには考え及ばないようです。奥平氏が「民主主義」という言葉でどういうことを念頭におかれているのかよく分かりませんが、ふつうには「民主主義」とは、国家を「多数決原理」で統治しようという考え方です。しかし「多数決原理」そのものは、それによって決せられた内容そのものの真理であることを必ずしも保証するものではありません。そうした「民主主義」のもつ限界については、これまでにも私のブログで様々に論証していますから、関心のある人は調べてみてください。
奥平康弘氏は氏のいわゆる「天皇制」の存在についての合理的な根拠を見出せませんでした。だからと言って奥平氏に「天皇制の存在」の“不合理”を説明できたわけでもありません。奥平氏にはこの本の中で「人権論」や「男女平等論」をもってしては「天皇制」の不合理を論証できないことを明らかにしただけでした。
かといって「天皇制」の合理的な根拠も確認できなかった奥平氏は、謙虚に自身の哲学的能力の低さを反省するのではなく、“「天皇制」は「民主主義」とは両立できない”と断定して、無責任にも「天皇制」を「民主主義」にとって代えようと主張するのです。そこには二千余年にわたって存続してきた皇室の存在に関わる民族の叡智や歴史と伝統に対する配慮というものがほとんど感じられません。
「民主主義」は国民多数の意思で国家を統治することだけを原理とするもので、「国民の多数の意思」そのものが「真理」であることを保証するものではありません。むしろ、それがきわめて大きな取り返しの付かない誤りを繰り返すものであることは歴史のなかでも明らかです。奥平康弘氏に国家の原理として「民主主義の合理的な根拠」を論証できているわけではないと思います。
奥平氏の誤りは、「天皇制」の存在の“不合理”を説明できずに、かといって国家の原理として「民主主義」のその合理的な必然性を論証できてもいないにもかかわらず、「天皇制」を廃止してそれに代えて「民主主義」を主張するという無責任にあると思います。さらに奥平康弘氏の根本的な誤りは、氏自身の妄想する「天皇制」と「民主主義」とを分断して、両者を二者択一式にしてしまう悟性的な思考方法にあります。
「悟性的な思考」とはどういうものであるか、その破壊的な性格の危険性についてはこれまでにもさまざまな論考で検討していますから調べてください。
さらに言うなら、国家の真理を追求したヘーゲル哲学について、とくにヘーゲルの『法の哲学』における「立憲君主国家体制(憲法Verfassung)」の意義と必然性についての論証を奥平康弘氏も検討されるべきだと思います。上記のリンク先のブログでも拙劣ながら考察していますので参考にでもしていただければと思います。そうして、大学教授としての資格、もしくはその哲学の低さというものを考えられるべきではないでしょうか。
ヘーゲルの『法の哲学』に対する批判を書いて、そして、その誤りを論証されてから、“「天皇制」と「民主主義」は両立しない”と断定される理由を説明するべきだと思います。奥平氏はただ非哲学的にそう断定されるだけで、その真理であることの論証はまだなされていないようですから。
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