作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 十五〔環境と意志の自由〕

2019年12月23日 | 哲学一般

§15

Man drückt sich wohl so aus: mein Wille ist von diesen Beweg­gründen, Umständen, Reizungen und Antrieben bestimmt worden. Dieser Ausdruck enthält zunächst, dass ich mich dabei passiv verhalten habe. In Wahrheit aber habe ich mich nicht nur passiv, sondern auch wesentlich aktiv dabei verhalten, darin nämlich, dass mein Wille diese Umstände als Beweggründe auf­genommen hat, sie als Beweggründe gelten lässt.

十五  〔環境と意志の自由〕

確かに人は次のように言うかもしれない。私の意志は これらの動機環境、刺激と衝動によって規定されていると。これらの表現は、そこではさしあたって、私は受動的にふるまっているということを含んでいる。しかし、真実には私は単に受動的にふるまっているのではなく、むしろ、またそこでは本質的に能動的にすらふるまっている。すなわちそこでは、私の意志が、これらの環境を動機として受け入れたということ、それらを動機として認めているということである。

 Das Kausalitätsverhältnis findet hierbei nicht statt. Die Umstände verhal­ten sich nicht als Ursachen und mein Wille nicht als Wirkung derselben. Nach diesem Verhältnis muss, was in der Ursache liegt, notwendig erfolgen. Als Reflexion aber kann ich über jede Bestimmung hinausgehen, welche durch die Umstände ge­setzt ist.

ここでは因果関係は成り立たない。環境は原因として働くのでなければ、また私の意志は環境の結果として存在するのでもない。これらの関係からすれば、原因のうちにあるものは、必ず発生しなければならない。しかし、私は反省することによって、環境によって規定された全ての決定を超越することができる。

Insofern der Mensch sich darauf beruft, dass er durch Umstände, Reizungen u. s. f. verführt worden sei, so will er damit die Handlung gleichsam von sich wegschieben, setzt sich aber damit nur zu einem unfreien oder Naturwesen herab, wäh­rend seine Handlung in Wahrheit immer seine eigene, nicht die eines Anderen oder nicht die Wirkung von etwas außer ihm ist. Die Umstände oder Beweggründe haben nur so viel Herrschaft über den Menschen, als er selbst ihnen einräumt.

人間はその環境や、刺激などによって行動が決まると主張して、言ってみれば、自分の行為の結果を自身からずらかして、責任転嫁しようとするなら、しかしそれによって彼は自分を不自由な、あるいは自然な(動物的な)存在に引き下げているだけである。彼の行動は実際に常に彼自身のものであり、他人の行動でもなければ、また、自身以外の何かによる作用でもない。状況や動機はただ、彼自身がそれらを容認するかぎりにおいて、人間に対する支配権をもつだけである。

Die Bestimmungen des niederen Begehrungsvermögens sind Naturbestimmungen. Insofern scheint es weder nötig noch möglich zu sein, dass der Mensch sie zu den seinigen mache. Allein eben als Naturbestimmungen gehören sie noch nicht sei­nem Willen oder seiner Freiheit an, denn das Wesen seines Wil­lens ist, dass nichts in ihm sei, was er nicht selbst zu dem Seini­gen gemacht habe. Er vermag also das, was zu seiner Natur gehört, als etwas Fremdes zu betrachten, so dass es mithin nur in ihm ist, ihm nur angehört, insofern er es zum Seinigen macht oder mit Entschluss seinen Naturtrieben folgt.(※1)

低い欲求能力の規定は、自然の規定である。それゆえに、人間がそれらを自身のものにすることは必然でもあり、可能であるように思われる。しかし、まさに自然規定として低い欲求能力の規定は、人間の意志に属するものでもなければ、彼の自由に属するものでもない。なぜなら、人間の意志の本質は、人間が彼自身のものとして作らなかったものは何一つそのうちにはないということだからである。したがって、人間は彼の自然に属するものを、異質のものとして見なすことができる。その結果として、それゆえただ、人間がそれを(異質のものを)自分のものにするか、あるいは決意をもって自身の自然の衝動に従う限り、ただ彼のうちにあって、彼にのみ属する。

(※1)

ここで問題にされているのは、人間の外部にある「環境」「刺激」「衝動」などによって人間の内部に引き起こされる「食欲」や「性欲」「本能」などの「自然の規定Naturbestimmungen」、「低い欲求能力 die  niederen Begehrungsvermögen」と「意志の自由」との関係についてである。

「意志の自由」は、「私(自我)の無規定性」に由来するが、この「私の意志」は、「環境」「刺激」「衝動」などによって人間の外部から規定されることによって、人間の内部に引き起こされるものであり、したがって、そこでは私は受動的にふるまい、行動しているのであって、そこには「意志の自由」はない、という往々にして主張される見解に対してヘーゲルは反論している。

ここでのヘーゲルの主張の核心は、要するに「意志の自由」を本質とする人間においては、その間には因果関係は成立しないということである。人間は「反省」することによって、外部の環境からは直接に規定されることなくそれらを克服しており、環境、自然などは人間にとって「異質なもの」であって、人間の意志に属するものではなく、それらからは自由な存在である、ということである。

「人間の意志」は「反省」を介して「自然」と関係するがゆえに、その間には必然的な関係がなく、そこに「意志の自由」が成立する。(人間の尊厳もここに由来する。)
したがって、人間の場合は、衝動や本能や環境や刺激にしたがって行動する場合にも、単に受動的にふるまっているのではなく、そこには人間の意志による受容、承認が働いている。

自然の衝動に支配されるのは、不自由であり、環境に支配される動物的な存在へと人間を引き下げることである。人間の生育環境と犯罪行為との関係や、キリスト教の教義などとの関連においても検証される必要がある。

 

 

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