作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 十四〔意志の自由について〕

2019年12月09日 | 哲学一般

 

§14

Die Freiheit des Willens ist die Freiheit im Allgemeinen und alle andern Freiheiten sind bloß Arten davon. Wenn man sagt: Freiheit des Willens, so ist nicht gemeint, als ob es außer dem Willen noch eine Kraft, Eigenschaft, Vermögen gäbe, das auch Freiheit hätte. Gerade wie, wenn man von der Allmacht Gottes spricht, man dabei nicht versteht, als ob es dabei noch andere Wesen gäbe außer ihm, die Allmacht hätten.

十四〔意志の自由について〕

意志の自由は普遍的な自由である。(※1)そして、全てのその他の自由は、自由の単なる特殊な種類に過ぎない。人が意志の自由について言うとき、そこでは、あたかも意志を離れてなおやはり自由をもつ権力とか財産とか資産とかがあるかのようには考えられてはいない。それはまさにちょうど、人が神の全能について語るときのように、そこでは人は全能の神の他になお他に全能の存在があるとは考えないのと同じである

Es gibt also bür­gerliche Freiheit, Pressfreiheit, politische, religiöse Freiheit. Diese Arten von Freiheit sind der allgemeine Freiheitsbegriff, inso­fern er angewandt ist auf besondere Verhältnisse oder Gegen­stände. Die Religionsfreiheit besteht darin, dass religiöse Vor­stellungen, religiöse Handlungen, mir nicht aufgedrungen wer­den, d. h. nur solche Bestimmungen in ihr sind, die ich als die meinigen anerkenne, sie zu den meinigen mache.

このように、市民の自由、報道の自由や、政治的な、宗教的な自由がある。これらの種類の自由は、特殊な関係か特殊な対象に適用されたかぎりの、普遍的な自由の概念である。宗教的な自由とは、宗教的な考えや、宗教的な行為が私に強制されないことにある。すなわち、ただ、それら(宗教的な考えや行為)のうちにあるこうした規定を、私自身のものとして私が認め、それらを私自身のものとして作ることに。

Eine Religion, die mir aufgedrungen wird oder in Rücksicht welcher ich mich nicht als freies Wesen verhalte, ist nicht die meinige, sondern bleibt immer eine fremde(※2) für mich. — Die politische Freiheit eines Volkes bestellt darin, einen eigenen Staat auszumachen und, was als allgemeiner Nationalwille gilt, entweder durch das ganze Volk selbst zu entscheiden oder durch solche, die dem Volk angehören und die es, indem jeder andere Bürger mit ihnen gleiche Rechte hat, als die Seinigen anerkennen kann.(※3)(※4)

私に押し付けられた宗教、あるいは、私が自由な人間として振る舞うことを認めないような宗教は、私のものではなく、むしろ、私にとって、いつもよそよそしいもの(※2)でありつづける。⎯⎯   国民の政治的な自由は、国民が国民自身のための国家を作り出すことのうちにある。そして、普遍的な国家意志として何が妥当であるかを、全国民自身を通して、あるいは、国民に属している彼らと同じ権利をもっている他の全ての市民(代議員)を通して、彼ら自身のものとして認めることのできるように、決定することにある。 

 

(※1)
概念の要素(契機、Moment)は、普遍、特殊、個別であるが、それらは悟性的にそれぞれ切り離されて存在するのではなく、普遍→特殊→個別と連結されて、推理されるべきものである。このことはヘーゲルの概念観の基本であるが、悟性的思考にはそれが理解できない。
「自由」の概念についても、普遍、特殊、個別のそれぞれのモメントで考察される。市民の自由、報道の自由、宗教の自由、政治的な自由などは、それぞれ特殊な次元における自由である。


(※2) fremd よそよそしい、他人の、異郷の、縁遠い
英語の「 foreign 」に最も語意が近いのではないか。このヘーゲルの fremd の概念は、日本語でも「疎外された」と訳され、「疎外の克服」が現代哲学の大きなテーマとして、のちにマルクス主義や実存主義などにも大きな影響を与えている。

(※ 3)

ここでヘーゲルは明らかにルソーを念頭において書いている。ルソーの思想がアウフヘーベンされている。「自由」が「民主主義」と結びつく必然性もここにある。しかし同時に、ルソーや啓蒙思想家、革命家たちの悟性的思考は、これらの概念の限界をわきまえないから、「自由」や「民主主義」といった抽象的な概念を狂信的に破壊的に主張することになる。

(※4)
§14の「意志の自由」についての考察が、前節§13の「私(自我)の無規定性」の考察の必然的な発展として、もしくはその帰結として展開されている。先行する「私の無規定性」が「意志の自由」の根拠である。ヘーゲル哲学においては、このように、各節の概念は先行する概念を根拠として、その必然的な帰結として演繹されて以降の概念が導出される。こうして事柄は「概念的に把握」され、その論証によって哲学を「科学」へと高めた。これがヘーゲル哲学独自の功績である。したがってヘーゲルの読解においては各節の必然的な論理展開を確認して、その概念の内在的な進展に注目する必要がある。

 

ヘーゲル『哲学入門』序論についての説明 十四〔意志の自由について〕 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/Of8JgV

 

 

 

 

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