日本の教育と民主主義の水準
お久しぶりです、hishikaiさん。いただいたコメントにお返事しようと思いましたが、例によって長くなってしまいましたので記事にしました。しばらく私の方は記事の投稿の公開を休んでいますが、その間にもいろいろなことがありましたね。あなたがブログで取りあげておられた中川昭一財務相兼金融担当相が二月十七日に麻生太郎首相に辞表を提出したこともそうですね。中川昭一氏は経済危機の対策について協議したG7閉幕後の会見の席で、酒に酔って醜態を世界に晒してしまいました。この事件で中川昭一氏は政治生命を失うことになりました。
モーゼの宗教の伝統を引くキリスト教やイスラム教は、酩酊文化に対してわが国ほど寛容ではないのです。わが国では自民党の森喜朗元首相に見られるように、明治の元勲以来、日本の権力者たちの得意とする「料亭政治」は相変わらず続いています。日本の政治が堕落するのはそこに酒が絡んでいるからです。
日本の世論は自分たちが選挙で選んだ麻生首相を支持していませんが、それも誰の責任でもありません。少なくともわが国は曲がりなりにも民主主義国家ですから、首相に文句を付けるのは根本的にまちがいです。首相を選出したのは自民党であり、自民党を多数派にしたのは国民自身なのですから。だから首相に対して国民が誰かに向かって愚痴や不満を言うべき筋合いのものではありません。それはみずからの愚かさを証明する以外の何物でもありません。不満を持たないで済む首相を、指導者を国民自身が選び出せばよいだけの話ですから。ただ国民を満足させる指導者の見あたらないことが問題だと思います。
現在の日本の危機の根幹は、人材の枯渇にあると思います。江戸時代の佐久間象山、吉田松陰や福沢諭吉たちの書いた日記や文章を見れば、江戸末期の学問文化の質の高さは、平成の御代の人物のそれをはるかにしのぐ水準にあります。現象的な知識についてはとにかく、少なくとも哲学、見識、本質的な洞察力、モラルなどについては、平成の現代人は及びも付かないと思います。大久保利通、西郷隆盛、伊藤博文、坂本龍馬などの人物と、現在の――たとえばさきの中川昭一氏、安倍晋三氏、福田康夫氏、麻生太郎氏などの二世政治家の多くと比較してみればどうでしょうか。麻生氏などは漫画しか読まないから漢字も読めないのです。
儒教なら儒教、仏教なら仏教にせよ、曲がりなりにもそれぞれには長い歴史と伝統に裏打ちされた「形而上学」が一応形成され、その哲学が当時の人物や国民に気品と能力を与えていたのではないでしょうか。そうした「国民の形而上学」は、太平洋戦争後のGHQの手による日本の「民主的改革」によってすっかり国民の間から蒸発してしまいました。その結果として現在のような戦後の日本人の唯物的、即物的な人間、国民性が形成されてしまったのではないでしょうか。日本の民主化が伝統文化とは切り離されたところで他民族の手によって実行されたためです。そのため藤原正彦氏が嘆いたように品格も何もなくなってしまいました。それに輪を掛けたのが、テレビなどのマスゴミ文化の蔓延です。
悲しきチャンピオン―――亀田興毅選手一家に見る戦後日本人像
どのようにして世界的にも最高の人材を産み出す教育と文化の環境を確立するか。それが現代においても根本的な国民的課題です。戦前の旧制高等学校などはそれなりにエリート教育の場に成っていたのですが、戦後の教育における「民主的改革」は、もちろん大衆における高等教育を実現して行くうえでそれなりに意義はあったのですが、その反面に真のエリート教育を失わせたこと、そのことによる国家的な損失も小さくはなく、人材の枯渇は日本の没落を予想させます。