作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

マリアとマルタ(ルカ伝第10章)

2006年01月10日 | 宗教・文化

 

マリアとマルタは女性を代表する二つの性格のタイプとして、古来有名である。それはルカ伝の第十章の記録に由来している。マリアとマルタはラザロの姉妹である。このラザロはイエスによって死から蘇ることが出来た人物として知られている。

イエスがある村に入ったとき、おそらく友人だったラザロの家に宿をとったのだろう。そのとき、イエスを接待するために、姉のマルタは、料理を作ったり、食卓を整えたりして忙しなく働いていた。主イエスのために甲斐甲斐しく働くことが良いことだと信じていたのだろう。あるいは、そのことで皆から誉められることさえ期待していたのかも知れない。
それなのに、妹のマリアは、そんな姉マルタの気遣いなど、どこふく風のようにイエスのおそばに侍って、イエスの話にただ聴き入っていた。

そんなマリアの様子を、マルタは忙しさにかまける中で、いらいらしながら横目で眺めていたが、とうとうこらきれずに、主イエスの御許まで進み寄って、マリアにではなく、イエスに苦情を言う。妹に命じて私を手伝うように仰ってください。

すると主イエスから返ってきた返事は思いがけないものだった。主のために多くの心遣いをしているマルタを誉めるのではなく、逆に、マルタに向かって、あなたは様々なことに気遣いをし過ぎである、本当に必要なことはただ一つだけ、マリアは、それを選んだのだから、彼女からそれを奪ってはいけない、と言った。

明らかにここではイエスにおいて一つの価値の転倒が行われている。もし、このイエスの価値観が、一般的で普遍的なものであれば、なにもわざわざ、ルカ伝に記録されることはなかっただろう。実際にはマルタの態度が、普通であり一般的であったからこそ、人々はイエスの言葉に改めて驚嘆し、記録したのである。

イエスの生涯は、正しく一つの革命だった。その価値の転換という点で、歴史上もっとも革命的なものだった。かっての良きものが悪しきものとされ、大切なものとされてきたものが、どうでも良いものとされる。いわゆる世間的な価値観を転倒してしまったのだから。2000年前にこうして、この世に革命的な原理が入り来たったのである。

何を食べようか、何を着ようか、思い煩うな。ただ、神の国のみを求めよと。生業のための労働は取るに足らないというのだから、イエスの価値観からすれば、イエスがマルタに告げた言葉は当然のことだった。

しかし、このキリスト教の価値観、原理を忠実に実行できたのは、ただ、神の子だけだった。もし、これが忠実に人々によって実行されたとすれば、直ちに神の国が実現されていたはずだから。

 

 

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