作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

二本の苗木

2006年01月06日 | 日記・紀行

二本の苗木を植えた。白い椿と赤い山茶花。本当は白い山茶花がほしかったが、あいにく店にはなかったので、白い椿で我慢し、その代わりに赤い山茶花を植えた。猫の額ほどの家の前の空き地に植えることにする。紫陽花はもともと植わっていたので、何とか夏の間は花を眺められるが、冬はどうしても殺風景なので植えることにした。ちゃんと育つかどうか。

二年程前に、ほぼ十年余り経って洛西の地に戻ってきたが、千年の都京都も、都市の景観としてはそれほど美しいとは思えない。確かに、雪の金閣寺や、西芳寺、詩仙堂、鞍馬寺などの個々の景勝地は美しい。鞍馬山の紅葉の絶頂などは、世界一美しいかも知れない。

しかし、市民生活の場としての、都市としての京都の景観は、多くの他の日本の都市と同じように、あるいはそれを象徴するかのように、とても美しいとは思えない。もちろん、美とはかなり主観的なものであるから、新宿や池袋など香港や釜山などに共通のアジア的な混沌とした都市の景観に美を感じる人がいるかも知れない。しかし、少なくとも私はそうではない。

民族として日本人は決して花が嫌いなわけではなく、むしろ、花を愛好する方だと思うけれども、それにしても町を歩いていても、やはり、緑と花が圧倒的に少ないと思う。まあ、最近は東京にせよ大阪にせよ、以前とはくらべて街の光景もかなり改善はされて来たとは思うけれども、それでも、絶対的な尺度からは、醜いというしかない。少なくとも私はそう思う。都市の景観は、そこに住む市民の心象風景である。だから、日本国の市民の心にも、大阪のキタやミナミや新宿や池袋の夜明けの光景のようなものがあるのかも知れない。

 

個人としては、きわめて花好きが多く、生け花や盆栽などの文化を持つ日本人が、なぜ、美しい都市を持つことが出来ないか。おそらくそれは日本人の公共の精神やその帰結としての地域共同体への参加の意識と自覚に原因があると思う。公共の問題にさほど切実な意識をもたない市民は、地域共同体の美観にもさして切実な関心を持たない。教育の大きな課題だと思う。

 

大阪などがその典型ではないだろうか。先のあれほど問題を抱えた大阪市政の問題で、市長選にも三十パーセント前後の投票率しか残せなかった大阪市民は、緑の少ないもっとも干からびた都市景観にも満足しているように思える。自分たちの住まう都市の景観にも、あまり関心はないようである。都市空間に住まう市民も、せめて一人で五本の花木を身の周りに植えれば、街の姿もよほど変わってくるのではないかと思うけれど。

 

コメント
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