また別の日だった。マキは私より前にそこにいた。月明かりを浴びて歌を歌っている。姿より先に歌声が聞こえた。小さいけれど、澄み切っていて辺り一帯に染みこんでいくような声。マキだ。歌うとこんなに素敵な声だったんだ。私なんかとはまるで比べものにならない。心の底で濁っているかすかな嫉妬も、だから、すぐに変わってくれるはず。あの窓際に座って月明かりで輪郭がぼんやりとしたマキを見て、私は思わず植物の陰に隠れた。私がいるのが知れないように。その歌声、白く照らされた横顔、裸足の足、その全てに今触れてはいけない気がしたから。それは不思議な旋律だった。今まで聞いたどんな歌とも違って聞こえた。ちゃんと歌詞が乗っていたけれど、それもまた知っているどんな言葉とも違っていて、私はそれが彼女があてずっぽうで言っているのかどうか分からなかった。そして歌が終わった頃、私は彼女の前に姿を表した。マキはそれに驚いて、首もとに手を伸ばしてそのあたりをさする仕草をする。それが彼女の癖らしい。その向こうに時折『痣』のような何かが見えることがあったけど、私は気にとめることもしなかった。
「ごめんね、驚かせちゃって。すごくいい歌…」
飛び乗るようにして彼女の隣に座りながらそう伝えた。彼女は恥ずかしそうに身をすくめた。歌えるということは多分耳も聞こえている。失語症?もしかしたらそんな症状なのかも知れない。
「ねえ、どんなことを歌っていますの?」
マキに聞いてみるけど、不思議そうに私の目を見るだけで答えない。
「ねえ、もう一度歌ってみて?私も覚えたいから」
私は人差し指を立てて言った。すると、マキは恥ずかしそうに逡巡して、一度軽く咳をするともう一度綺麗な歌声を奏でる。
私はその澄んだ優しい旋律にうっとりとしてしまう。彼女の横顔を眺めながらいると、一瞬、ドクンと心臓の鼓動に合わせて目の前が揺れた。『…あれ?』息が止まって、それから胸が急に苦しくなった。それからもう一度。さすがに普通にはしていられなくなって、私は無意識に両手で胸を抑えた。
「…?」
私の異変に気づいたマキが歌うのをやめて私の顔を覗いた。大丈夫。別に今日が初めてじゃない。いつも少しすれば落ち着くから。
「だ、大丈夫。心配させてごめんなさい…」
「…ヤ、エコ?」
マキは初めて私の名を呼んだ。良かった。ちゃんと伝わってた。私はマキの肩に頭を傾けてこう言った。
「少しだけこうさせてください。そうしたらよくなりますから」
するとマキは何も言わずに私を胸に抱いて私の頭を優しく撫ぜてくれた。
「心臓の音聞こえます…音で私の不具合の多い心臓と繋がってくれて、助けてくれてるみたいです。不思議。とても落ち着いて…」
私はマキに抱かれるがままにそうしていた。それから、またマキは歌を歌う。違う歌だ。さっきの歌と違ってもっと素朴で懐かしい感じのする旋律。子守唄とかそんな風な。
「ごめんなさい。私…心臓が弱いらしいの。どなたかの移植待ちだってお父様はおっしゃってたわ。でも、誰かの命がなくなったって言うことでしょう?私、それがとっても怖いんです。その人の死は私のせいでないけれど。でもね、私、生きたい…どうしてもその想いだけはみじめったらしく残っているんです…」
すると、マキの手が止まった。そして何か思いつめたような感慨深げな顔を私に向ける。きっと私に同情してくれているのだ。その時の私はそう思っていた。元気になればこの子も喜んでくれる。そのくらいに考えていた。ほんとうの理由を私が知るのはもう少し後だった。今思えば、なんて浅はかで独りよがりの思い込みだっただろう?
「今日もいらしてくれたのね。ありがとう」
そう言って私は彼女の手を取った。少し恥ずかしがる素振りをしたけど、でもきっと私の気持ちは伝わったんだと思う。ちょうど一番端の大きな窓の下が背を持たれて座れるくらいに出っ張っていて、私達は背を伸ばしてそこにふたりして座った。
「ね、月がきれいでしょう?」
窓の外に半身を振り向かせながら、私達は鏡合わせのように並んで夜空を見上げた。私はまた歌を口ずさむ。澄んだ光に私の歌声が伝って夜空にまで届いていくようなそんな夜だった。女の子は黙って聴いてくれてる。そういえば、まだ名前を聞いてない。
「ねえ?名前、名前なんていうの?」
でも女の子は首を傾げるだけだ。
「私、ヤエコ。あなたは?」
自分と相手を指さして分かるように伝える。けれど、あんまり要領を得なかった。
「じゃあ、こうしましょう。私があだ名決めてさしあげます。…そうですね。そのまき毛が可愛らしいからマキちゃんってどうかしら?」
「マ、キ」
私は彼女に分かるようにはっきりと口を大きく開いて言った。すると女の子は
「マキ?」
そう言って初めて口を開いた。そうしたら私はとても嬉しくなって
「そう。マキ。マキちゃん」
「…マキ」
もう一度確かめるように女の子は自分についた名を繰り返した。
彼女と出会ったのは、今から半年ほど前のことだ。私はいつもこの温室にいて月夜に当たる。月光浴。私はそう呼んでいた。この時ばかりはしぼんだ花たちも妖しく照らされて、しずくをぽたっと落とすんだ。ウケイ先生が心の限り取り付けた色々なポンプの音がこの時間でも鳴り止まない。私はここで歌を歌う。そうすると少し怖いこのうす暗い中で自分の心が閉じていって落ち着いていく。この感じが私はたまらなく好きだった。
ふと、どこからか物音がした。巡回している警備員だろうか?でも、普段ならこの時間はいないはず。もしかしたら、私がここにいるのがばれたのかも知れない。まずいな。そしたらもうこの散歩も楽しめなくなってしまう。またベッドに寝かされて、いつも誰かの目があって、何かにつながれて監視されてる一日に逆戻りだ。
とにかく身を隠せる場所は…あっちだ。水槽に浸かる植物たちの群れの中から微かに葉のさざめく音がした。
「どなた?どなたかいらっしゃるの?」
むやみに怖がるくらいならこちらから声をかけてしまおう。きっと相手だって同じ。すると、もう一度かさかさ音がして、
「大丈夫、私どなたにも言いつけたりしませんから、安心なさって」
そういうと、ようやくプランターの物陰から頭をのぞかせた人がいる。驚いたことに私くらいの女の子だった。
「ここの子供ですか?あなたも月光浴をしに来たの?ここに座って行きませんか?」
私は笑った。すると女の子は観念したのか私に恐る恐る近づいてきた。斜めから差す月の光にだんだんとその姿が現れた。大きな目と、小さな口。
「お会いしたこと…ありませんよね?」
それでも女の子は答えない。
「私はヤエコっていいます。よろしく」
そう言っても不思議そうに首を傾げるだけだ。もしかしたら耳があまりよくないのかも知れない。ここには色々な人がいるそうだから…その時、辺りで大きなホルンの音が二回鳴って夜の二時を告げた。
「あ、そろそろ時間がきてしまいます。早く戻らないと…」
そう言って私はその子の手を取った。一緒に帰ろうと思ったのだ。
「ほら、こちらです。こちらからなら見つかりません」
私には皆の病棟まで行く秘密の道があるんだ。彼女を連れていこうとしたT字になった曲がり角で、女の子は急に踵を返して私と逆の方に進もうとした。
「ダメ!」
私はこの時ばかりは彼女の手を強く引いた。彼女が何を考えているのか分かったから。もしかしたら音が聞こえないのかも知れなかったから、首大きく縦に振る。
「私もね、前に脱出しようとした時があったんですの。でも、ダメでした。もしよろしければ、二人で案を練りません?だから、その時まで…ね?」
そう言って笑いかけると、女の子にも伝わったのか黙って私についてきた。足音を立てないように進んで、そして私の部屋の前まで辿り着く。
「ごめんなさい。この後はお付き合いできないけれど、ここから先は安心して」
そういうと彼女は少し名残惜しそうに、私を振り返る。
「あの、良かったらまたここに来てくださらない?明日の同じ時間」
私は通じてるかどうかも分からない言葉を投げる。すると女の子は一度だけ頷いて、私に背中を見せてそして走って行ってしまった。
遠くから花火の音に少し遅れて歓声が起きた。日はとっくに暮れていた。狂熱の一週間の終わり。その輪の中心でその後永くファンたちの伝説となったライブを終えたアノンも今はただ遠くでそれを感じている。
「…もう終わったんだね。本当に夢みたいな時間だった。永遠に終わらないでって思ったけど、いくつもの歌と言葉を瞬間瞬間に私は刻んでいたんだ。ちょうどヤエコやマキのようにね…あの時がどんなに昔になっても今の私に絶対に会いにいける。そんな勇気をもらえた気がするんだ。私がそれまで生きていればだけどね…」
僕は何も言わず、真っ暗だった空間に携帯電話の明かりを灯した。モノクロの冷たいコンクリートの壁が辺りを取り囲んでいる。そこはいつか皆で集まった公園のドームの遊具だった。マキとヤエコの最後の避難場所だった場所。不意にアノンと目が合うと初めて出会った時の彼女を思い出す。
「私達助かったのかな?」
「…」
気休めに僕は携帯電話のラジオをつける。この先の行く宛もなければ、ただあてどなく時間が過ぎるのを待つだけだ。その先に何があるのかも知れない。緩んだ倦怠感に見を委ねたまま、少し困ったように僕達は背中を丸めた。アンプからすり切れた音でぶつ切りに流れる女の人の声が伝えているのは世界のニュースだった。この国でもオーロラが観測できるようになってきたこと、地球が寒冷化していること、どれも夢の先の遠い出来事に思えた。アノンはただ膝を抱えて黙って聞いている。そして最後のトピックが読み上げられる。『…世界初のISP細胞元に作られた臓器を用いた臓器移植が行われ注目を集めています。来月頭の法的な整備を待って各機関こぞって臨床試験に移ることを発表しており、今後の医療分野における革新的な進歩が期待され…』電波の向こうの女性の声はそう伝えていた。
「…ウケイ先生がいってたのは…」僕がつぶやく。
「どうかな…?」
「これで変わったんだろうか?」
そして僕達は救われたんだろうか?
「…シルシ!」
アノンの手を引いて僕は周りを顧みることすらしない。
「人の中だ。とにかく人ごみの中に逃げるんだ」
そしてまたいつかスクランブル交差点に辿り着いた。僕達は息を切らして、しばし彷徨うように次第にその歩を緩める。周りにはアノンによく似たマキーナ達もそこかしこに見受けられる。これでいい。多くのマキーナに囲まれていれば気休めくらいにはなる。そんな僕らを見下ろすように巨大液晶スクリーンではCGのマキーナが歌ってる。世界の終りに見える空一面のオーロラもきっとこんなふうだろう。僕と同じようにスクリーンを見上げた後、アノンはゆっくりと僕の手を放した。
「…アノン?」
「私、色々楽しかったからいいよ?ヨミのために死ねるんならかまわない。ずっとそう思ってきたんだ。それにね、もうマキもヤエコも二度と死なない。今日それを証明できたんだから…それは私も同じ」
震えながらアノンは笑う。信号が青に変わる。僕たちの間を人が通りすぎる。でも僕は見失わない。
「また逃げ出せるなんて思うなよ?」
僕は笑う。そしてアノンに歩み寄ると、少し乱暴に彼女の手をとった。
「ヨミが何を望んでるのか分かったら、お前は生き延びなきゃいけないんだ。ヤエコやそれに…マキだって同じ風に思ってる。ヤエコ達の死は今この時のためにだって広がって僕達に光を当ててるんだ」
アノンは何も言わない。けれど代わりに僕の手を握り返した。
僕達はまたあてどなく街を歩く。
「こっちだ」
僕はスクランブル交差点から伸びる一番に賑やかな通りに進む。復活したスフィア、デウ・エクス・マキーナの狂乱の仮装行列は続く。鳴り止まないマキーナの歌、人々の嬌声、街を彩るネオンに照らされては背中を丸めて歩く僕達は誰かの妄想の中に迷い込んだようだ。単純に伸びるアーケード街すら迷路のように一歩毎にそれが正しい選択なのかを尋ねる。破滅に近い大団円に向けてこの一週間がもうすぐ終わろうとしていた。
アノンの歌が終わった。今、会場はその余韻に静まり返って微かなマイクのハウだけが耳鳴りのように遠く響く。その静寂を破ったのは僕だった。僕は会場の観客の間を分け入ってスタッフの制止を振りきると、不自由な半身を何とか手なづけステージによじ登る。
「…シルシ?」
アノンのつぶやきはヘッドセットマイクを通じて拡声した。そして僕らを見上げる観客たちがざわめきだすのと同じくして背後でセットが軋む音がした。それはひとつの兆しでだんだんとそこら中に伝播して、ガタガタと僕たちの足元を揺らし始める。まずい。
「アノン!走れるんだ!」
僕は叫んでアノンの手をとった。踏み出す足も寄る辺をなくして思ったように前には進ませてくれない。とっさに僕はアノンを抱えて身体を投げ出しステージから飛び降りる。襲いかかるように鉄のパイプがガラガラと崩れ、それと同時に土誇りが津波のように飲み込んだ。
………。
「…ん」
気がついたアノンは恐怖に怯えながら目を開ける。暗くてはっきりしない。今わかるのは骨と筋肉に伝わる痛みと身体全体にのしかかってくる重み。でもそれは決してアノンを押しつぶす力じゃなかった。それが僕だと気づくのにさほど時間はかからない。そして骨組みがうまく屋根のように重なってできた空間にいることをアノンは知る。アノンは身の無事を喜ぶ気持ちに心を委ねている暇もなく、身じろぎ一つしない僕の揺さぶる。
「シルシ…シルシ!ねえ、返事して!」
「…う…」
アノンの叫びに似た呼びかけは遠くに聞こえ、鈍い痛みが僕を起こした。
「シルシ、大丈夫?」
「お前は…?」
恐る恐るゆっくりと目を開くとホコリを被ったアノンの顔があった。
「…私、助かったのかな?」
色んな意味を含んだその言葉に僕は
「ああ。助かった」とだけ答える。
アノンはただ黙って僕のシャツの胸元を掴んで、顔を埋める。
「…どうした、アノン?」
でも間近から伝わるアノンの体温からは安堵の色は感じない。
「助かってよかったのかな?」
僕は答えない。
ただ僕は片手で胸元で誓いを立てるようにアノンの両手を一度に握ってこう言った。
「…逃げるんだ」
× × × × × × × × × × × × × × × × × × ×
野外ステージの近くに停まる黒いセダン。その傍らに立った人影はシルシだ。窓は開いている。運転席に虚ろな表情で座っているのは首に分厚く包帯を巻いたモノだった。彼はシルシに気づくと、
「…聴きに来たんだ」
力なく笑う。くわえたタバコに震える手で火をつけようとするが、うまくいくことはなかった。隣の助手席にはひざ掛けをした女の子が首をかしげて深くうなだれるようにして持たれている。トトは気を失っている、ように見えた。ひどく疲れて深い眠りについているのかも知れない。胸が微かにゆっくりと、しかし確実に波打っていた。
「…どうしてこんなことをした?」
むしろどうして『する』と聞くべきだった。
「俺の意志じゃない。そう見せかけたかった理由があったんだ。そして俺を売り飛ばすつもりだった。正確には俺だったものを、な」
その言葉でシルシは全てを理解した。一週間という期限の意味を。
「アノンの代わりにか…?」
「…シルシ、その口ぶりだとお前も既に知ってるんだな?」
「…ああ。だが、アノンも、それにお前もトトも死なせはしない」
モノの背後にいた何かはちゃんと別のプランを用意していた。僕やアノンの回収に失敗しても彼を生贄にすればヨミの命を長らえることはできる。が、しかし、今のこの状況はそのプランすらも…
「そうだ。俺とトトが駄目なら、やっぱりお前かアノンになるよな…」
アノンの歌はまだ終わっていない。アノンは無事だ。この辺り一体に響く旋律の元でまだ彼女は生きてる。ステージの様子を写す大きな大きな液晶スクリーンの中で歌っているアノンの姿はその時の二人を見下ろしていた。
果たして僕達は街に紛れることができた。僕とアノンが向かうのはかつての『聖地』神宮橋だ。公園を改修してできるはずだった巨大なテーマ・パークは第二東京タワーが建設中止になったのと同じ時期に計画が頓挫して、今も更地になったまま。ここが一週間に及んだ『管理-kanri-』の最後を飾るイベントが行われる約束の地だった。
辿り着いた時には既に前夜祭を終えて、万を超える群衆が野外会場にひしめいていた。僕とアノンの目的は彼らに混じることじゃない。向かうのは背の高い柵で覆われたその先に、ハリボテの骨組みがさらされたバックステージだった。『Staff Only』そう掲げられた通用門の前に二人で立つと、まるで当たり前のように僕達は二人で通ろうとする。
「…ちょっと、あんたたち!」
あわててそれを止めに入るのは自身もマキーナ神話のキャラに扮した若い男だった。
しかしアノンは振り返ると黙ってその男を見つめる
「アノン、おまえ…」
男はそう言ったきり、身をこわばらせている。その顔に僕は見覚えがあった。アカと一緒にアノンたちを裏切ったかつてのスフィアの仲間だった。
「…いこう、シルシ」
アノンが再び歩を進めると、もう誰も僕達を止めるものはいなかった。その一本に伸びた細い通路を歩いて行く。長く続いたその先から光と歓声が漏れ伝わって、進む一歩ごとにこれまでいたい場所と違う空気に染まっていく。そして辿り着いたステージの裏では凄まじい音圧が鉄パイプの骨組みをびりびりと揺らしていた。
「こんなハリボテでも誰だって夢は見られるんだよ」とアノンは笑う。
「アノン…」
僕はアノンにある一点を視線で促した。ステージの脇、そこに佇む人影に僕が気づいたから。それは身じろぎせずただこちらを見ている。上半身に差した陰ではっきりと分からないが、華やかなステージ衣装をまとったその姿から、彼女もまたマキーナを端末化した一人で、これから始まるステージの主役となるはずの誰かだった。
「…アカ」
アノンが彼女をそう呼んだ。しかし彼女はただ立ち尽くしている。
「…アカ、怒ってる?」
ゆっくりと歩み寄るアノンの歩幅は心の葛藤をそのまま現していた。アカが応えるようにようやく一歩を踏み出すと、黒影から彼女の表情が初めて浮かび上がった。ピンクに染めた髪、涙の跡のように伝う動線状のメイク、それはマキーナを端末化したアノンの不器用なイミテーションだった。そして不安げに彼女を見つめるアノンにアカは微笑で返す。
「アノン、遅い。待ってたよ」
「いいの?」アノンがためらいがちに聞く。
アカは返事の代わりにヘッドセットマイクをアノンにつけてやった。それからアカはアノンを抱きしめて
「頑張ってね…」とかすれた声でつぶやいた。やがてアノンは長い二つ結びの髪を翻してアカと僕に背を向ける。名残惜しそうに「…シルシ」と一度だけ後ろを振り向いたが、
「行ってこい」
僕は微笑んだ。アノンはそれに答えるように「うん!」と大きく頷いて騒々しい光のなかに早足で踏み込んでいった。
それはほんの数日前のことだった。
「題して『マキーナを取り戻せ』」
ウケイ先生の隠れ家で高らかにそう宣言した僕を、アノンとアキラの二人は蔑みの目で見上げていた。しばし訪れる静寂に気後れした僕は密かに作っておいたとっておきのポスターを取り出した。そこには大きな『マキーナを取り戻せ』という文字。少女が二人、繋いだ手を中心にして半身ずつ描かれている。左にはマキーナ、右には病衣に身を包んだか弱げな女の子。
「どうだ、このポスター?よくできてるだろ?」
得意げに二人に見せびらかすが二人はあまり浮かない様子だ。
「…で、その後どうするの?」
アキラは頬杖をついて机の上のペンをはじいてばかりで目を合わせようともしない。
「『管理-kanri-』を乗っとるんだ」
「そんなことできるの?今じゃここから出ることだって怖くてできないんだよ?」
「だからさ。だからこそ乗っ取る必要がある。木を隠すなら森さ。全てをアノンと見分けがつかなくしてしまえばいい」
「どうやってよ?」
「マキーナだよ。街中にマキーナを溢れさせるんだ。それも委員会の作った偽物じゃない。本物のマキーナをだ。マキーナを、ヤエコを、そしてマキを僕たちの手に取り戻すんだ。みんなを熱狂させろ。混乱を生み出せ。そしてこの街のみんなを僕達の味方にするんだ。そうすれば…」
「…すごい。みんなマキーナ…」
診察室から抜けだした僕とアノンを迎えていたのは通りを歩くマキーナ達の姿だった。一見、街中を巻き込んだ華やかな仮装行列か何かに見えるが、時折のぞくイベント粉砕を呼びかけるプラカードやマキーナを取り戻せと叫ぶ者たちの群れがまるで革命前夜のような雰囲気を漂わせていた。
「こうなるのが夢だったんだろ?」
「…うん…ヤエコやマキや…その現れなんだ。死んだ二人のための…」
そう言って涙ぐむアノンだってマキーナを端末化している一人で、タイトな艶やかなポリエステルのドレス姿に頬に描いた記号は一番スタンダードで初期のマキーナのスタイルだった。僕たちの呼びかけたスフィアの奪還作戦は予想をはるかに超えて働いていた。