都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

東京国際フランス学園

2013-06-30 | 北区   
東京国際フランス学園
所在地:北区滝野川5-57   Google Map
Photo 2013.5.19

 板橋駅から北の方に行ったら、東京国際フランス学園があった。去年まで、リセ・フランコ・ジャポネ・ド・東京として、千代田区富士見にあったインターナショナルスクール。都立池袋商業高校の跡地、校舎を利用する形で移転してきたらしい。

 こんなことを書くと、地元の方に申し訳ないが、板橋の方(住所は北区滝野川5丁目)にフランス人学校があるとは思わなんだ。都心に比べると遙かに静かだし、広々としているが、イメージとはちと違う。長いこと千代田区の方にあったので、移転してたのはちょっと驚き。

 以前の商業高校の校舎も使いながら、北側にはモダンな校舎も増築しているようだ。

 将来このあたりは、フランス人が集まる場所になって行ったりするんだろうか?

東京国際フランス学園
#新しい建物 北区  #学校 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スリバチ・フィールド in 横浜 1

2012-11-01 | 神奈川県 
石川町3丁目の階段   Google Map
所在地:横浜市中区石川町3-114
Photo 2012.9.29

 元町や石川町あたりを流れる中村川の南側には、山手の高台へと上る階段がいくつもある。写真奥の階段は30段ほどあるが、斜面の中ほどにある宅地へのものでしかなく、高台の上までは届いていない。高台上にまで至る階段はどれも100段ほどある。横浜の階段は手強い。

 3枚の写真を合成したため、3人の方がダブって登場している。

横浜女学院高校   Google Map
所在地:横浜市中区山手町203
Photo 2012.9.29

 地蔵坂から山手の高台に聳える横浜女学院高校。横浜の場合、高台と下町という景観構造が現在の都内よりも明瞭に見て取れる。それは恐らく、高低差が大きく、なおかつ急傾斜の斜面があまり使われておらず、高台と低地の間が断絶しているためだ。

地蔵坂   Google Map
所在地:横浜市中区石川町3丁目
Photo 2012.9.29

 横浜は街のあちこちからランドマークタワーやマリンタワーがそれこそランドマーク的に見える。歩いていて、そして車に乗っていて、眺望やパノラマ、ヴィスタが得られる街は楽しい。

乙女坂   Google Map
所在地:横浜市中区石川町3丁目
Photo 2012.9.29

 乙女坂の階段は蓮光寺の北側をS字に蛇行しながら西へ上る。山手のあたりも名前が付いた坂や階段が多く、土地の目印として印象的だ。坂名はまだあまり覚えていないが、徐々に覚えていけば街の空間構造を立体的に記憶していけるに違いない。

#階段・坂 神奈川県  #街並み 神奈川県  #眺望  #学校 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中央区立第二中学校

2012-07-19 | 中央区  
中央区立第二中学校
所在地:中央区明石町1-6
建設年:1926(大正15)
構造・階数:RC・3F
解体年:2002(平成14)
Photo 1995.6.20

 モダニズムと言ってよいのかな。装飾は全くない。四角い窓が出入りのほとんどない壁面に並び、特徴といえば、控壁らしき出っ張りが壁面に付いているだけだ。

 撮影時は区民施設として使われていたらしいが、壁の表面は既にところどころ剥がれるなどしており、やや傷んでいた。将来、建て替えるつもりだったから修繕などをしなかったのだろうか。


2019.1.17 追記
 「ぼくの近代建築コレクション」の流一さんが、資料をいろいろ調べられて、この建物の来歴を整理されました。

区立第二中学校/明石町 - ぼくの近代建築コレクション

 上記の記事の方が、正確だと考えられますので、本記事についても修正しました。

 この中学校の来歴はかなり複雑で、数年前に記事化した際にはよくわからなかったため、以前は1937(昭和12)竣工としていましたが、これは違っていたので修正しました。以下はこの建物の使われ方を諸々の情報を元に整理したもの。戦後は二つの学校(後の区立第二中学と都立京橋高校)として使われていたようです。

中央区立第二中学校について
1911(明治44) 京橋高等小学校が創立。
1926(大正15) 京橋高等小学校の校舎として、写真の建物が建てられる。
1947(昭和22) 中央区立文海中学校が発足。
1953(昭和28) 文海中学校がこの校舎に移転。
1968(昭和43) 文海中学校と明正中学校が統合され、第二中学校となる。
1984(昭和59) 第一中学校・第二中学校が統合され、銀座中学校(銀座8丁目)となる。旧第二中学校の校舎は区民施設となり、以後、他の学校の建て替え時などの暫定施設として使われたりもした。
2002(平成14) 使用停止、解体。

都立京橋高等学校について
1910(明治43) 東京市京橋区女子実業(補修?)学校が南槙町小学校内に創立。
1911(明治44) 京橋高等小学校に間借りするかたちで移転。
1918(大正7) 東京市京橋区実業補習京橋女学校と改称。
1927(昭和2) 東京市京橋区京橋専修女学校と改称。
1949(昭和24) 都立京橋高等学校(共学)になる。
1963(昭和38) 都立京橋高等学校が晴海に転出。以後、校舎は文海中学校が単独で使用。


廃景録中央区立第二中学校

Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 中央区  #学校  #モダニズム 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本橋女学館

2012-01-29 | 中央区  
日本橋女学館 中学校・高等学校
所在地:中央区日本橋馬喰町2-7
建設年:1933(昭和8)
構造・階数:RC・3F(後年4Fを増築)
備考 :2007-08に解体。建て替え。
Photo 2005.3.27

 学校のホームページには、竣工当時の写真が掲載されている(注:2016年現在では掲載なし)。解体前の様子と比較すると、竣工当初は3階建てで、その3階部分の窓は全てアーチ型だったようだ。また校旗の掲揚塔とおぼしき塔が頂部に付いている。

玄関部分  Photo 1996.10.10

 玄関部分のアーチは90年代には茶色やグレーではなかった。上の白黒写真を見ても、色が違うようには見えない。2000年頃になってから煉瓦アーチ風の化粧を施したようだった。

玄関前の水盤?  Photo 2005.3.27

 玄関右手には水呑み場か手洗い場のようなものがあり、クラシックな雰囲気を出していた。

玄関部分  Photo 2005.3.27

 扉やガラスは替えられていたようだ。玄関まわりなどが改修されて綺麗になっていたので、まだまだ使い続けていくのだろうなと思っていたのだが、予想に反してこの2年後には解体されてしまった。

神田川下流側からの様子  Photo 1998.10.31

 写っているのは主に1964年(昭和39)に建てられた8階建て新校舎。この校舎は1933年(昭和8)完成の校舎の東側に建っていたもの。前面道路の斜線規制によって上部がすぼまった姿をしていた。

 新旧二つの校舎は共に2007頃に解体され、跡地には8階建ての新校舎が2009年に完成したそうだ。

日本橋女学館中学校・高等学校沿革(歴史と伝統)
ニッポン懐景録中央区日本橋馬喰町・横山町
都市風景への旅東京都中央区馬喰町

Wikipedia - 日本橋女学館中学校・高等学校
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 中央区  #近代建築  #海・川・池  #学校 

2016.2.26 追記
 記載当初は、リンク先に学校のWeb Siteに沿革ページがあり、昔の校舎写真が掲載されていたが、Web Siteがリニューアルされ、沿革ページが無くなり、現在は昔の校舎写真を見られなくなっている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神保町にて

2011-10-27 | 千代田区 

本日は小ネタ

篠原学園(右)
所在地:千代田区神田神保町1-52
Photo 2011.10.9

 神保町交差点から水道橋へ向かう白山通り沿いの建物。左はいわゆる怪しいビデオ屋さん。では右は?というと、実はこれ、篠原学園という専門学校。

 ホームページを見ると、保育士・幼稚園教諭や、医療秘書・診療情報管理士というものを養成する学校らしい。もちろん学校法人。

 優しげでフレンドリーな感じを出そうとして、よかれと思ってピンク色を使ったり、ガラスドアに水玉模様の金属パネルを付けている。また、夜間でも目立つように明るい照明が2階部分の道路際に付けられている。玄関まわりはモダンなデザインになっていて、ベタな学校の広告や、校章などがあまり見あたらず、重々しくなく軽快な感じ。

 でも、あの~その~、なんていうのかな、建ってる場所がついてないというか・・・。誤解を与えるような結果になってしまってるよ~な気がする。

白山通り夜景
Photo 2011.10.9

 建物上部のネオンもピンク。ピンクって使い方が難しい色だと思う。ちょっと別の「学園」に見えてしまったのは私が男だからでしょうか。考え過ぎなのかしらん。学校関係者の方、見てたらすみません。でもやっぱりこのデザインは損している気がする・・・。

保育士・医療事務になる東京の専門学校-篠原学園専門学校
#街並み 千代田区  #夕景・夜景  #学校 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

千代田区立今川中学校

2011-06-07 | 千代田区 

千代田区立今川中学校
所在地:千代田区鍛冶町2-4
竣工 :1929(昭和4)
構造 :RC
階数 :3F
備考 :2000(平成12)解体。今川中学校は2005.3に合併して廃校。
Photo 1996.10.10 敷地西北角から校舎北側

 昭和初期に建てられたモダニズムの学校建築。校舎北側の2階と3階に、一直線に横につながる窓が開けられているのが特徴的。出窓状に張り出したこの横連窓の部分は廊下だったのだろうか。一方、西側は「普通の」四角い窓が並ぶ。一見しただけでは、戦前のものには見えない典型的なモダニズム建築で、ある意味、素っ気ないデザインの建物だ。

 後付けだと思われるケーブルや配管が壁面に付いていたので、ちょっとごちゃごちゃした感じになっていたが、白い箱型の建物は完成当初は清新で美しく見えただろうなと思わせる。


校舎東北角の階段室と煙突 Photo 1996.10.10

 西北角の部分は階段室だったようだ。踊り場だったと思われるコーナー部分には、L字型に窓が張り出している。全体的に直線が多用されたデザインだが、煙突はややふっくらした感じで上方が細くなっている。また煙突掃除用の梯子と頂部の足場がちょっとしたアクセントになっている。

 Google S.V.で跡地を見てみると、煙突の基壇部分はまだ残っているようだ。ここはボイラー室だったのだろうか。

 窓や煙突など、ところどころに意外に個性的なデザインが施された建物だったのかもしれない。

ぼくの近代建築コレクション - 今川中学校/鍛冶町2丁目
廃景録 - 千代田区立今川中学校

Wikipedia - 千代田区立神田一橋中学校
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 千代田区  #近代建築  #学校  #モダニズム 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧 千代田区立千桜小学校

2011-05-26 | 千代田区 
旧 千代田区立 千桜小学校/千代田小学校
所在地:千代田区神田東松下町22
竣工年:1929(昭和4)
構造・階数:RC・3F
Photo 1996.10.10
備考
1993(平成5)年4月 区立神田小、区立永田町小と合併して、区立千代田小学校となる。
1998(平成10)年4月 新校舎が旧神田小学校跡地に完成し、千代田小学校はそちらに移転。
1999(平成11)年3月~2001(平成13)年7月 東洋高校仮校舎として使用。
2006(平成18)年 解体

 震災復興期に建てられた小学校なので、復興小学校といってよいのかな? ただ、復興小学校の特徴の一つとして挙げられる、復興小公園との隣接はないようだった。

 校舎はL字型。柱は中央が尖った形で、軒先には段が付けられており、直線的でシャープな感じがアールデコっぽい。

敷地南側の通りから   Photo 2005.3.27

 西側の棟の屋上には樹木も生えていたようだ。屋上庭園が造られていたのだろうか。

 2000年の住宅地図には東洋高等学校と記されている。東洋高校はもともと水道橋駅のそば、三崎町にある学校だが、どうやら校舎建て替えのために一時移転していたようだ。小学校として使われなくなった後、一時は私立高校に貸し出されたりしたが、最終的に取り壊されたということらしい。

体育館   Photo 1996.10.10

 体育館は戦後の建物だったのだろうと思うが、これも同時に解体された。

 都心では、児童の減少により学校の合併が多く、また昭和初期の校舎は耐震性の不足や老朽化を理由に建て替えられることが多い。しかし、実際は耐震性はさほど不足しておらず、むしろ、建て替えによって大型の複合施設を造りたいという思惑から解体が進められているとの話もある。

 旧千桜小学校の場合、現状の詳細は知らないが、Google SVやGoogle Mapで見る限り、まだ更地のままのようだ。次の使い道は決まっていないが、とりあえず壊しておいたということなのだろうか。

 卒業生からすれば、自らが学んだ校舎は残り続けて欲しいと思うだろう。補強などをした上で、用途を替えたりしながらでも残していけると、本当はよいのではないかといつも思う。

都市風景への旅近代建築東京都千代田区東松下町
東洋高等学校東洋高校の歴史
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 千代田区  #近代建築  #学校 
コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本聖書神学校・宣教師館(メイヤー館)

2011-01-23 | 新宿区  
旧目白福音教会宣教師館(日本聖書神学校宣教師館)(メイヤー館)
所在地:新宿区下落合 3-14
建設年:1912(明治45)
構造・階数:木2
設計 :W.M.ヴォーリズ
備考 :2006.9 解体。千葉県東金市へ移築。
Photo 2006.1.15(本記事内の写真全て)

 目白通りから少し南側に入った場所にあった洋館。数年前に解体され千葉県内に移築されたという。上写真は建物北東側からの様子。木の陰に北東側の暖炉の煙突が見えている。

西南側から

 南京下見板張りの木造2階建て洋館。明るい緑色の下見板と、壁面にある煉瓦の煙突が印象的だった。といっても、私がこの建物をまじまじと眺めたのはこの一回だけ。確か、この訪問と前後して、解体・移築が明らかになったような記憶がある。

 木造2階だが、屋根上にはドーマー窓が付いている(写真1枚目)。また妻側2F上部には高窓らしきものも見える(下写真)。屋根裏部屋があったか、部分的に天井が高い吹き抜けになっていたのかもしれない。

西側から。西北側と南側の暖炉の煙突が見えている。

 西北の妻側にある煙突は途中からやや細くなって白色。煙突は3箇所にあったようだ。

 しかしちょっと不思議だったのは、その敷地に対する配置。前面道路はほぼ南北なのだが、建物は約45°斜めを向いていた。後から建てられた他の建物は、全体の敷地形状に合わせて、壁面が東西南北それぞれをおよそ向いているのだが、この建物だけ敷地に対して斜め向きだった。神学校の校地中央を広場のように考え、建物をそちらに向けようとしたためだろうか。

煙突の煉瓦はイギリス積み。

 撮影時には下見板のペンキも剥げたりしていたが、建設から約80年間、比較的よくメンテナンスがされてきたようだ。

北東側の玄関

 神学校の校地内に建てられた宣教師のための住宅だからか、玄関も校地の中央側を向いている。ただ玄関は比較的こぢんまりとしていて、扉も両開きではなく一枚の片開き。建物全体は木と煉瓦だったが、玄関先にだけ様式的な石柱?が建てられていたのが不思議でおもしろい。玄関扉とその両側の小窓だけはこげ茶で、落ち着いた感じだった。

南西角の入口

 勝手口だろうか。こちらは両開きで大きく開く。建物内に入ったことなどは当然ないが、後から写真を見ると、内部が当初どの様に使われていたのか、興味がわいてくる。

 設計者などの詳細は明らかではなかったが、小道さんの調査によって、W.M.ヴォーリズの設計だったことが、移築後の2009年になって判明。下記「喫茶店で瞑想して、銭湯で元気になる」や「Chinchiko Papalog」には、発見の経緯や、移築後の様子、内観などがレポートされている。

喫茶店で瞑想して、銭湯で元気になる
        > ヴォーリズ発見 メーヤー館に会いに行く
Chinchiko Papalog > メーヤー館はW.M.ヴォーリズの仕事だ。
           さようなら、メーヤー館。
           ヴォーリズのメーヤー館を拝見する。
NEW にゅうぽの写真苦戦日記
        > メイヤー館 メーヤー館 メイヤー邸 メーヤー邸
日本聖書神学校
Wikipedia > 日本聖書神学校煉瓦
近代建築散策 > 日本聖書神学校
ニッポン懐景録 > 新宿区下落合
都市風景への旅 > 近代建築 > 東京都新宿区下落合
Tokyo Lost Architecture
#失われた建物 新宿区  #学校  #W.M.ヴォーリズ  #移築保存 
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アテネフランセ

2009-03-18 | 千代田区 

東京新旧写真比較(1981/2008) No.34 千代田区猿楽町

Photo 1981(ノーマル時
Photo 2008.12.15(マウスオン

 この路地の景色はあまり変化していなかった。

 アテネフランセは私の先生の恩師である吉阪隆正の設計による建物。吉阪氏の建物は都心にはあまり残っておらず、アテネフランセは貴重な存在。弟子筋の研究室に在籍する学生としては、撮っておかねばと思い、カメラを向けたのかもしれない。

 写真は表通り側からではなく、西南の低地側からのもの。崖沿いの高台に建っているので、低地側から見ると迫力もあり美しいのだが、最近は低地側にビルが建ち並び、その全景を見ることができる場所はほとんどない。
 路地奥の崖上にそびえ立っているこの写真では、アテネフランセと路地の両側の建物は変化していなかった。路地奥の3棟の木造家屋はなくなっていたが、位置合わせは比較的容易だった。

 1981年の写真は拡大すると「光線研究所」「第三書房」「ぴあ」「(株)東京映像企画」の看板が読み取れる。しかし「光線研究所」ってなんだったんだろう? どういう光線をどのように研究していたんだろうか。
 それから「ぴあ」っていうのはあの「ぴあ」だろうか? 現在とは少し書体が異なるが、特徴のある文字は基本的に同じ。ぴあはベンチャー企業のようなものが始まりだったそうなので、最初はこんな路地にも事務所を構えたりしていたのかもしれないが。

#東京新旧写真比較 千代田区  #学校  #吉阪隆正 
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京モード学院

2008-10-08 | 墨田区  

 一字違いで大違い

東京モード学院
所在地:墨田区太平4-6-13
構造・階数:RC4
Photo 2002.12.11

 墨田区内に少し前まであった学校。現在、建物は存続しているが、屋上の看板は既に無い。
 袖看板などを見ると、2階はヘアーサロン、3階は錦糸町ゼミナールという学習塾である。Google Street Viewを使って確認すると、両者は現在も同所にある。一方、東京モード学院は4階にあったらしいが、屋上看板、袖看板などが現在は無くなっている。

 建物はL字型で蔵前橋通りに南面している。写真左手の袖看板のある部分が建物の正面玄関。窓の高さが南面と東面で異なり、また4階部分の屋根が傾斜しているので、ここが階段室になっているようだが、随分大きい。後方の屋上広告の付く部分が恐らく居室・教室部分。

 西新宿で異形の超高層ビルを建設中の「東京モード学園」とは、たった一字違いだが、全然別物。
 ネットで検索しても、ほとんどこの学校のことは出てこない。Googleで検索すると「もしかして:東京モード学園」などと表示され、入力ミスを疑われてしまう始末なのだが、一応実在した学校。
 東京モード学園のことを東京モード学院と誤入力して記載している記事の方がずっと多い。なんだか哀しくなるほどの情報量の差。Yahooの電話番号検索などでは表示されるのだが、いずれも古い情報の模様。

 東京モード学園が西新宿に進出したのは1980年ということなので、その後、20年ぐらいは併存していたことになる。手許の地図で、2006年版には載っているが、2007年版では消えているので、2年ほど前に無くなったのかもしれない。
 いつ廃業したかはともかく、一字違いで、ものすごい違いになっていたのに、とにかく驚いてしまったのだった。

#古い建物 墨田区  #学校 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする