都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

中屋旅館、日本通運上田支店田中営業所

2023-08-12 | 長野県  
日本通運上田支店田中営業所(左奥)/中屋旅館(手前)
所在地:東御市 田中280/281
構造・階数:木・2
解体年代:1999(平成11)頃
Photo 1994.8.28

 JR信越本線田中駅(1997年10月からは、しなの鉄道の駅)の駅前にあった旅館と、日本通運の田中営業所。これらの建物は駅前広場の整備に伴い1999年頃に消失した。

 ところで、私が田中駅で下車したのは8月下旬のある日の午後。駅から出た人はわずかで、駅前にはタクシーが1、2台いただけで、バスも普通の自動車もいなかった。当時の駅前がバスが転回できないほど狭かったような記憶もない。地方都市には本当に必要なんだろうかと思ってしまうような道路整備がときどきある。建物が無くなったのが惜しくて言うわけではなく、結局、間延びした駅前広場ができてしまっただけで、整備効果があまりなかったような気がするのだ。
 狭い旧街道を少し拡げて車の往来を便利にして、歩行者の安全を確保するのには意味があるが、人も車も少ない駅前広場をやたらに大きくするのは、街の密度を下げてしまい余計に過疎な雰囲気を生んでしまう。もっと賑やかになる将来予想の下で整備したのかもしれないが、もう少し冷静に時代を考えた方が良かったのではないかと気になることがしばしばだ。

古い建物と街並みをもとめて: 駅前日通

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キッコーマンビル

2023-08-03 | 神奈川県 
キッコーマンビル
所在地:横浜市中区 海岸通1-1
構造・階数:RC・3
建設年:1929〜32(昭和4〜7)頃
解体年:2000(平成12)
Photo 1989.5.27

 横浜港大桟橋の北西側の海沿い、象の鼻埠頭のそばには同じような規模(3F建て)のビルが3棟並んで建っていた。キッコーマンビルはその真ん中の建物で、両側には昭和ビルと横浜海洋会館ビルがあった。

 通り沿いに長いファサードを持つ横浜貿易協会ビルも含めて、同じような高さ(階数)の建物が並ぶ様子が印象的だったが、なかほどのキッコーマンビルが解体されてしまったため、昭和ビルがひとつだけ離れて残され、連続した街並みが途切れてしまったのは残念。
 ただその代わり、現在は日本大通りから象の鼻埠頭の海が開けて見える状態になり、街と埠頭が一体的になったようだ。跡地に別の建物が建ったりせず海沿いの公園になったのは救い。


 左から昭和ビル、キッコーマンビル、横浜海洋会館ビル  Photo 1989.5.27

昭和ビル/横浜市中区海岸通 - ぼくの近代建築コレクション
昭和ビル - Wikipedia
昭和ビル/キッコーマンビル

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柴田科学

2022-08-25 | 台東区  
柴田科学器械工業(株)分室
所在地:台東区 池之端3-2
構造・階数:RC?・3
解体年:2010(平成22)
Photo 2007.2.3

 池之端の住宅地内の角地にあった建物。道の南側には同社の工場もあったようだが、そちらは見ないまま数年前に両者とも無くなった。

 柴田科学は理化学関連の機器を製造販売している会社で、現在も本社は池之端2丁目にあり、草加市に工場があるそうだ。創業は1921(大正10)年とのことだが、同社の沿革で池之端(旧上野花園町)が出てくるのは1940(昭和15)年に工場を建設したときなので、この建物もそれ以降のものだったのだろう。

 3階建てだが、RC造だったのか木造だったのかは判別しにくい外観だったため不明。コーナーを丸くして立ち上げているあたりはちょっと古めなデザインだが、ほかの部分があまり古そうではないので、やはり戦後、昭和30年代頃までに建てられたのではないかと思う。

 2010年頃に解体され、2011年には跡地にマンションが完成している。

柴田科学

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溝田経理事務所

2022-07-25 | 文京区  
溝田経理事務所
所在地:文京区 本郷3-38
構造・階数:木・2
解体年:2012(平成24)頃
Photo 2006.12.16

 本郷三丁目交差点の東側、春日通り沿いにあった2階建てオフィス。ビル型をしていたが、木造モルタルだったのではないかと思う。

 装飾はほとんどないが、コーナー部に縦に大書された事務所名が目を引く。また春日通り側の2階の窓にも事務所名が記されている。春日通り側は観音開きの扉(押しか引きかは不明)があり、南に入った横丁側にも別の入口がある。縦の筋が入った通り側と角を曲がった少し先までがオフィスで、横丁側の入口から先は住居か別のオフィスのように見える。

 「ぼくの近代建築コレクション」には、「どこが発信源だか判らないがネット上で「昭和10年創業」という記述を見た。元の建物が空襲で焼失し、戦後同じ地に再建したのかもしれない。」と記されている。この近辺は戦災で多くの建物が焼失しているので、古そうには見えるがこの建物も戦後のものだったのだろう。2階窓の事務所名等も左から書かれているし。

 「アクトデザイン凛太郎のブログ」には、RC造かもしれないと記されている。たしかに春日通り側はビルのようなファサードで、モルタル看板建築にしては屋根小屋を隠す壁面の立ち上がりが少なく陸屋根のように見える。遠くからの写真にも傾斜した瓦屋根やトタン屋根が見えていないので、春日通り側は陸屋根で、RC造だったのかもしれない。
 ただ、パラペットのような軒先部分に樋が付いているので、やはり壁面の最上部は屋根面の末端部だったのではないかと思う。この壁面の後ろに緩やかな傾斜の屋根が載っていたのではないだろうか。
 同ブログでは、奥の方に樹木が見えることからRC造の陸屋根で、そこに木が生えていると考えたようでもある。ただこれについてもこの建物はL字型平面で、裏側に庭があってそこに木があったのではないかと個人的には考えている。横丁側は2階の窓に戸袋が付いていたりもするので、こちらはやはり木造だったのではないだろうか。

 戦前版(1934-39)の火災保険特殊地図には名前の記載はない。戦後版(1951)の図では「溝口計理」となっていて、溝田を溝口と誤記してしまったようだ。「ぼくの近代建築コレクション」によれば、2012年前後に取り壊されたという。

溝田経理事務所/本郷3丁目 - ぼくの近代建築コレクション
アクトデザイン凛太郎のブログ 溝田経理事務所 越路堂・竹仙・冨士花園
浅草・本郷散策 浅田経理事務所 |  寝言は寝て言うも〜ん

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聖母美術院ビル

2022-07-19 | 文京区  
聖母美術院ビル
所在地:文京区 本郷1-1-1
構造・階数:木・2+B1
解体年:2015(平成27)
Photo 2006.5.14

 外堀通り、お茶の水坂の途中、元町公園のわきにあった建物。外堀通りから見ると3階建てに見えるが、下記リンク先の「ぼくの近代建築コレクション」内の記事「聖母美術院/本郷1丁目」についたコメントのリンク先画像によれば、かつて(少なくとも昭和32年頃まで)は地上2階+地下1階だったようだ。その後、どこかの時点で、中央の階段の両側は外堀通りから直接地階へ入れる構造に改装されたらしい。正面中央の階段は外堀通りからかつての1階へ上るためのものだったようだ。

 上記の記事でも指摘されているが、中央の階段が歩道にはみ出しているのが奇妙だった。古い建物なので建てられた後に道路(歩道)の拡幅がされたのかもしれない。

 古そうな建物で、戦前に建てられたのではないかと思われたが、竣工年は不明。財団法人聖母美術院の設立は1923(大正12)年だったそうだが、1951(昭和26)年発行の火災保険特殊地図では、この場所はKK東雲堂、板倉理佳と記されていて、いつから聖母美術院ビルになったのかも結局分からず。上記リンク先には「1986年の住宅地図ではこの建物に「聖母美術院、お茶の水医院、トーキョー書店、アテネ書房」の記載。」とあるので、ある程度前から聖母美術院が入居してはいたのだろうが。
 またこの写真には「財団法人国民美術院」の看板が大きく掲げられている。聖母美術院と国民美術院の2つが入居していたのか、昔は国民美術院だったものが後に聖母美術院になったのか、そのあたりもあまり把握できなかった。
 それと、アテネ書房は1976年設立、2006年頃廃業の模様。


 神田川の反対側、駿河台の側から  Photo 2014.3.16

 夏場は外堀通りの街路樹の葉が繁って全景が見えなくなってしまっていたが、冬期は川の反対側の離れた場所から全景を眺めることができた。屋根は寄棟造で、前述の昭和30年代の写真では瓦葺きだが、1990年代頃には既にトタン葺きになっていた。

 また、遠景なので分かりにくいが、この写真では中央の階段は建物内でクランクしたものに改造されている。この頃には歩道への飛び出し問題は解消されていたようだった。

 Googleストリートビューで確認したところ、2015年4月版ではビルは健在で、建物から出てくる人も写っているが、2ヶ月後の2015年6月版では解体されている。ストリートビューは1、2年間隔の画像のことが多いが、たまたま直前・直後の画像が撮られていた。なお、現在、跡地は順天堂大学の寮になっている。

聖母美術院/本郷1丁目 - ぼくの近代建築コレクション
聖母美術院と元町公園 | 一応、カンパネルラ

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共同印刷

2022-06-24 | 文京区  
共同印刷 本社
所在地:文京区 小石川4-14
構造・階数:RC・4
建設年:1935(昭和10)
解体年:2019(平成31)
Photo 2011.9.27

 播磨坂・吹上坂の坂下、植物園前交差点に面している工場・事務所。小石川4丁目の広大な敷地に工場があるので、複数の建物が建ち並んでいるが、上写真は交差点角にある目立つ建物。左後方に塔屋が見えているが、これは東側に隣接した建物(下写真・本館)。

 交差点に面してカーブを描いたファサードがあるのが特徴。角地の場合、コーナーに合わせたカーブにすることが多いが、ここでは逆に引っ込めた形のカーブにして、来訪者を招き入れるようなデザインになっている。

 2019年から解体・建て替えが行われ、7階建ての新本社ビルが2022(令和4)年3月に完成した。会社のサイトで見たところ、新本社ビルも交差点側が凹んだ形になっている。

共同印刷 本館

 この建物も本社の建て替えに際して左側の一部を残して解体され、その跡は本社ビルの一部になっている。

TOMOWELの共同印刷、本社新社屋が竣工-ニュースリリース|TOMOWEL 共同印刷株式会社
共同印刷本社、本館/小石川4丁目 - ぼくの近代建築コレクション

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明治安田生命新宿ビル(旧 安田生命本社ビル)

2022-06-12 | 新宿区  
明治安田生命新宿ビル(旧 安田生命本社ビル)
所在地:新宿区 西新宿1-9-1
構造・階数:SRC・9+B3
建設年:1961(昭和36)
解体年:2020(令和2)
備考 :明治安田生命ホールは2017(平成29)に閉館。
Photo 1997.3.3

 新宿駅の西口駅前広場に面して建っていた大きなオフィスビル。南北に長い直方体がベースで、1、2Fが広場側に張り出した形。なんの変哲もない形ではあったが、直方体の縦横奥行きのプロポーションが良かったように思う。各階にルーバー庇を巡らせた姿は繊細さも感じさせた。庇やベランダが巡らされている姿は日本的なモダニズムだったが、RCのベランダではなく金属製のルーバーだったので、軽快な印象だった気がする。一方で1、2Fは柱が道路側に並び、ビルの前を歩くと重厚な印象もあった。

 上写真は安田生命時代のもの。安田生命は2004年に明治生命と合併して明治安田生命となった。


 Photo 2012.5.31

 2枚目写真は合併後の2012年のもの。当初は低層部屋上の緑化はされていなかったようだが、この頃には既に樹木や植栽が見える。


 小田急百貨店から Photo 2018.7.23

 駅西口の南の方はヨドバシカメラなどの電気店が多く、ごちゃごちゃと賑やかな景色だったが、西口の中央は明治安田生命ビルがどんと構えていて、いかにもビジネス街という雰囲気だった。


 ビル東南側から Photo 2010.6.9

 低層部、道路ぎわに店舗などが全くなかったため、その意味ではやや殺風景だった。


 南側面 Photo 2010.6.9

 ルーバーがあるため、近くから見上げると窓ガラスや建物内はあまり見えない。

 建物の解体は既に終了し、跡地では西新宿一丁目地区プロジェクトとして新しいオフィスビルの建設が2021年から行われている。新ビルは、S・RC・SRC造、23F・B4Fで、高さ126m。オフィスの他に店舗、ホール、子育て支援施設を含む建物で、2025年7月末に竣工予定だそうだ。

「明治安田生命新宿ビル」他の跡地 地上23階、高さ約126mの「(仮称)西新宿一丁目地区プロジェクト」 建築計画のお知らせ掲示!: 東京・大阪 都心上空ヘリコプター遊覧飛行

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日本ワックスマン財団

2022-05-20 | 新宿区  
日本ワックスマン財団
所在地:新宿区 大京町30
構造・階数:CB・1
建設年:1958(昭和33)
解体年:2015.4〜16.2(平成27〜28)
Photo 2010.11.27

 慶応大学病院の施設群の間にこじんまりとあった平屋の建物。隣接する建物群の多くは戦前のもので様式的デザインだったが、この建物はモダニズムで南側全面がガラス窓。一方で東側は玄関以外は全て壁という作りだった。

 日本ワックスマン財団は1957(昭和32)年設立だが、同財団のサイトにはこの建物の情報は見当たらない。しかし、慶應義塾百年史に以下の記述と写真があった。

 『昭和33(1958)年10月には日本ワックスマン財団事務所が竣工し、翌年1月19日に同財団から義塾に寄贈された。予防歯科医学研究所跡に建てられたコンクリートブロック造平屋建18坪の建物で、これはストレプトマイシンの発見者ワックスマンの篤志によって、同薬品の製造特許料の一部を毎年わが国における医学研究および奨学助成資金として寄付されるにあたり、その運営機関として設けられたものである。』

 上記のようなわけで、この建物は最初から日本ワックスマン財団のために建てられ、慶応大学に寄贈された小さな建物だった。なお、現在、同財団は東側の大学病院内に事務所を置いている。

日本ワックスマン財団 Dr Selman A. Waksman
慶應義塾百年史: 下巻

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日本水難救済会/芙蓉海洋開発

2022-04-06 | 港区   
芙蓉海洋開発
所在地:港区 海岸3-33-17
構造・階数:RC・3+R2
建設年:1937〜44(昭和12〜19)頃
解体年:2013(平成25)頃
Photo 2011.4.11

 レインボーブリッジそばの海沿いにあった古そうな建物。撮影時は芙蓉海洋開発という会社が使用していた。ドラマのロケ地にもなったりしていたようだが、日本近代建築総覧にも載っておらず、やや謎めいた建物だった。

 いつ頃建てられたものか、また当初の用途もよく分からない。以下は古い住宅地図や航空写真などで調べた範囲で判明した事柄。

 1936(昭和11)年9月12日撮影の陸軍航空写真には写っていない。
 1944(昭和19)年10月16日撮影の陸軍航空写真にはこの建物らしきものが写っている。
 1946(昭和21)年4月9日撮影の米軍航空写真にも写っている。

 上記のことから、この建物は1937〜44年頃に建てられたものらしい。塔屋最上部の壁には「東京救□所」(4文字目は判別できず)の文字が右から左に書かれている。

 一方、建物の用途については、当初や戦後しばらくの用途を記した詳細な地図資料が見当たらなかった。このエリアは戦前・戦後の火災保険特殊地図も残っていない。
 ただ、この少し北側エリアの火災保険特殊地図(1954(昭和29)年3月作成)があり、この周辺の港湾エリア(芝浦埠頭周辺)は「駐留軍用地」と記されている。この建物も向こう側が海なので、戦後は恐らく駐留軍(GHQ)が使用していたのではないかと思われる。同地図では駐留軍用地がフェンスで囲まれ、ところどころにゲートがあったらしいこともわかる。

 建物の東側壁面(2枚目写真)の2階と3階の間には「PORT DIRECTOR TOKYO」の文字がうっすら残っていた。港湾局(もしくは港湾局長)を意味するようで、駐留軍利用時の状況を示す痕跡だったのかもしれない。

 GHQは1952(昭和27)年に廃止されたので、この地域もその後返還されたのではないかと思うが、1960年代頃の用途は把握できず。

 都立中央図書館でゼンリンの住宅地図をおよそ10年おきに確認してみたところ、1973年と1981年には、「日本水難救済会」と記されている。公益社団法人日本水難救済会は「海や海浜での遭難者や船舶などを救助するボランティアの団体の全国法人」だそうで、現在は千代田区麴町に所在している。1889(明治22)年に大日本帝国水難救済会として設立された歴史のある組織なので、この建物がその本部だとはちょっと考えにくく、なんらかの出先だったのではないだろうか。

 また、1992年の住宅地図には、東京情報安全管理室芝浦分室、首都高速道路技術センターと記されている。
 東京情報安全管理室は、現在は東京湾海難防止協会になっている組織。上記の日本水難救済会とは異なるが、共に海の安全に関わるもののようで、なんらかの関連はあるのかもしれない。
 首都高速関連のオフィスについては、この時期、南側の海上でレインボーブリッジが建設中(1987年着工、1993年完成)だったので、それと関連があるのかもしれない。

 2001年の住宅地図では芙蓉海洋開発(株)。Google ストリートビューで確認したところ、この建物は2013年頃に解体されたようなので、同社は解体前までここを利用していたようだ。

 なお、跡地には東京ベイサイドビル(RC造・6F)が、2015年5月に竣工している。

日本水難救済会 - Wikipedia
海洋エンジニアリング(旧 芙蓉海洋開発株式会社) - Wikipedia

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漆間銃砲店、読売静岡ビル

2022-03-27 | 静岡県  
漆間銃砲店(左)、読売静岡ビル(右)
所在地:静岡市葵区 追手町9
Photo 1997.5.4
<漆間銃砲店>
構造・階数:木・2F
解体年:1997(平成9)頃

 静岡駅前から市役所や県庁の前を抜けていく目抜き通りに面して建っていた木造の商店。木造2階瓦葺きの店舗が、90年代後半までメインストリート沿いのビル群に混ざって建っていたのも驚きだったが、それが一般市民には馴染みのない銃砲店だったのもかなり意外だった。
 漆間銃砲店はこの写真の少し後に解体されたようだ。静岡のこの店に関する情報はネットでは見つからなかった。沼津市に同名の銃砲火薬店があるので関連があるのかもしれない。

<読売静岡ビル>
階数:5F
解体年:2000(平成12)頃

 一方、右側の読売静岡ビルも2000年頃に解体された。モダンな建物だったが、5階建てでやや規模が小さく、老朽化して耐震性も怪しかったのだろうか。建設年は分からないが昭和30年代頃に建てられたものではないかと思う。

 なお、跡地に建てられた現在の読売静岡ビルは、7+B1Fで、2002(平成14)竣工。

 この界隈は駅前から続くメインストリートなので、現在は大きな建物が建ち並んでおり、昔の面影はほとんどない。

静岡の建築
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