都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

九段下ビル(旧今川小路共同建築) その2

2022-02-21 | 千代田区 
九段下ビル(旧今川小路共同建築)
所在地:千代田区 神田神保町3-4
構造・階数:RC・3
建設年:1927(昭和2)
解体年:2012(平成24)
Photo 2006.1.27(記事中記載のないものは全て同日)

 内部にも入ったことがあるのでそれらの写真も記録として(居室には入っていない)。上写真は入口から2階への階段。

 記事中の写真が建物内のどの部分のものだったかは、昔のことでもあり記憶が定かでない。ただ、前の記事でも記したが、1階が店舗で2階は店主の部屋、3階は一般の賃貸住宅だったという。また下記、土木学会の資料内にある平面図から考えると、東西に貫通した廊下は3階だけだったようだ。従って、廊下の写真は3階だったのだろう。


 3階の廊下

 1階の店舗は最期の頃まで営業していたので、そちらは外観も店内もきれいにされていた。また使われていた部屋の中は改装されたりして、掃除もされてそれなりにきれいだったのかもしれないが、階段や廊下、屋上といった共用スペースはあまりメンテナンスされておらず、2000年代に訪れた頃にはかなり傷んだ状態で、まるで廃墟のようだった。

 廊下の天井は、モルタルが一部剥落して天井裏が見えていた。

 共用トイレの扉が開きっぱなしで、階段室からトイレが見えている。壁の塗装は剥げ、鉄製手摺は錆びていた。

 一部の階段は荷物かゴミで埋まり、屋上へ上れない状態。

 この階段室には洗面があった。

 老朽化してくすんではいたが、この洗面は多少利用されていたらしく比較的きれいだった。

 一方、トイレはかなりマズイ状態。このような建物で働いたり住むのはやはりためらわれてしまう。

 屋上はいろいろなものが溜まって散乱した状況。

 屋上への出入口だったのか、屋上の倉庫だったのかも分からない状態。

 東日本大震災の後、耐震性が保証できないとして解体が決まり、九段下ビルは2012年に解体された。その後、しばらくは駐車場になった後、ここには専修大学の新校舎が2020年に竣工している。


 跡地に完成した専修大学神田キャンパス新校舎(10号館)
 Photo 2020.6.23


 九段下ビルは震災復興建築としての歴史的価値はあったが、定期的な手入れがされていなかったらしく、かなり傷んでいた。鉄筋がむき出しになって錆びるところまでにはなっていなかったようだが、あちこちの天井や壁が剥がれ、トイレや洗面も傷んでいる状況ではかなり修繕をしない限り再生は難しい。電気関係も貧弱だろうし上下水道の管などもボロボロだっただろう。それら全てを取り換えて耐震補強もするとなると、建て替えとあまり変わらない費用が掛かってしまうかもしれない。かなりの補助をしない限り、所有者だけで改修するのは無理なように感じられた。

 自治体が買い取ったり、所有者が寄贈すれば存続もできたかもしれないが、装飾がきれいな洋館とかではないどちらかというと地味な居住兼用店舗+オフィスで、結構傷んでいる状況では、やはりなかなか残せないのかもしれない。

 ところで、個人的には古い建物は好きだが廃墟はさほど好きではない。外観だけで十分。本当は廃墟などではなく手入れして使われている方がいい。以前の記事の原美術館や旧相互無尽会社本社などは内外が共にきれいだっただけに惜しかった。その意味で九段下ビルは微妙な建物だった気がする。

九段下ビル - Wikipedia
土木学会図書館|土木建築工事画報|第4巻11号 - 04-11-0923.pdf
九段下ビル - 廃墟系
九段下ビル取り壊しへ〜ビルの内外 - 東京 DOWNTOWN STREET 1980's
九段下ビル内部潜入〜神田神保町 | 東京街歩き〜旅と車窓と徘徊の日々
東京の古いビル 九段下ビル - 御光堂世界~Pulinの日記 九段下ビル/神保町3丁目 - ぼくの近代建築コレクション

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九段下ビル(旧 今川小路共同建築)
#失われた建物 千代田区  #近代建築  #オフィス  #商業系 
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九段下ビル(旧今川小路共同建築) その1

2022-02-18 | 千代田区 
九段下ビル(旧今川小路共同建築)
所在地:千代田区 神田神保町3-4
構造・階数:RC・3
建設年:1927(昭和2)
解体年:2012(平成24)
Photo 2005.3.25

 関東大震災後の震災復興の際に、復興助成を受けて設計建設された共同建築。1階が店舗で2階は店主の住宅、3階は一般の賃貸住宅だったという。建設当時の詳細については研究論文があるので下記を御覧頂くとして、ここではその後期(末期?)の様子を少し記していく。

 靖国通り沿いに長く伸びる姿を見せていた。震災後の復興期、小規模な店舗をそのまま建て直すのでは、また木造になりがちで耐火建築とするのは大変。なので共同建築にして、かつ賃貸部分を設けることで、コストを下げ不燃化を進めようと考えたということだろうか。その結果、一つの街区の東西いっぱいに長く連なるファサードを持つ建物が造られた。街並み形成についてどれだけ考えていたか分からないが、その街並みは興味深いものだった。


 西側から Photo 1992.7.31

 1階の店舗の間口は木造家屋と似たスケール感だったが、共同建物なので隙間なく店舗が並んでいる。大型の一つの店とは異なり、店ごとに様子がさまざまなので歩いていて飽きない。


 西側・俎橋から Photo 2002.7.27

 俎橋側の端部は鈍角で、通り沿いと同様の立面が回り込んで連続している。2000年頃以降は、外壁の一部にタイルの剥落防止用のネットが掛けられていた。


 北東側から Photo 2006.7.9

 一方、東側のコーナーは西側とは異なり素っ気なく切れている。改修の結果なのかもしれないが、もしかすると当初はもっと東側の街区でも同様のものを建てようとしていたからかもしれないなどと思った。小路は敢えて無視して、靖国通り沿いに専大通りの方にまで統一感のある長い街並みを創り出そうとしていたのではないかと考えるとおもしろい。


 北側・ビル裏側から Photo 2005.3.25

 増築のせいもあるが、靖国通り沿いの表側に比べると装飾もなく殺風景な印象。表通り側の表情をやはり重要視していたのだろうと想像される。


 中央部 2、3階 Photo 1995.7.22

 中根速記学校は昭和30年代から長期間入居していたという。消えかかった「中根式速記」の文字が記憶に残る。「写植 版下 デザイン トレス」の看板も昔風の雰囲気。
 下の方で引用した当初の外観写真には、「女子タイピスト学院」や「関東特許事務所」の看板が掲げられているのが見える。神保町あたりは当時から出版などのビジネス街だったことが分かる。


 中央部 3階 Photo 2005.3.25

 最上部、パラペット上端部はU字が連続する波型。壁面の穴は換気口だろうか。屋上以外の階にも同様のものがあるので雨樋ではなさそう。窓と窓の間の壁はスクラッチタイル張り。その他の壁面はモルタル塗りコンクリートだったようだ。


 西側玄関 Photo 1995.7.22

 1階の店舗はそれぞれが改装を重ねているので、ようすもばらばら。玄関部分はやや傷みが激しかった。


 西側階段室 Photo 2002.7.27

 階段室部分は他の壁面より前に出ていて、また2階から屋上階まで壁面が連続しており、長大な壁面の中でアクセントになっていた。


 1階・東端の事務所 Photo 2005.3.25

 1階は店舗として使われている区画が多かったが、東端の一角は後期は個人の事務所のようにして使われていた。看板などが無く、外壁や窓がよく見える状態。オリジナルに近い状態だったのだろうか。


 店舗 玄関上部 Photo 2006.1.27

 タバコ店の入口上部のガラス。木製の枠にすりガラスが嵌められ、間には色ガラスの装飾もあった。この部分は相当古かったのではないだろうか。


  当初の外観写真 土木学会図書館|土木建築工事画報|第4巻11号 04-11-0923.pdf

九段下ビル(旧今川小路共同建築) その2(内部)

九段下ビル - Wikipedia
土木学会図書館|土木建築工事画報|第4巻11号 - 04-11-0923.pdf
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大和呉服橋ビル

2022-02-15 | 千代田区 
大和呉服橋ビル
所在地:千代田区 大手町2-6
構造・階数:SRC・9+B3
建設年:1956(昭和31)
解体年:2017(平成29)
備考 :1966、1970、2009に改築
Photo 2006.1.28

 竣工以来、大和証券の本社ビルとして長い間使われていたビル。Wikipedia等によると2007年に大和証券が転出し、その後2010年からはパソナグループの本部ビルになっていたそうだ。

 容積率制に移行する前の絶対高さ規制時代の建物なので、大和証券の看板が載る塔屋以外の部分の軒高は31m以下になっていたのではないかと思う。開口部が大きくシャープな印象のモダニズムのオフィスビル。ガラスなのかブラインドなどの色なのか分からないが、薄緑色の外観が印象的だった。
 南北2ヶ所に塔屋(EVの上屋)があったが、北側の塔屋上にはロケット状の塔が載せられていた。これがアンテナ的なもので実用のものだったのか、単なる装飾・シンボルタワーだったのかは知らず。パソナのビルになった後もこの塔は屋上に載っていた。


 大和証券の転出後、パソナになる前のようす Photo 2009.1.18

 日曜日だったこともあり灯りも点いておらず、このまま壊されてしまうのかと思ったが、その後、外観は大きく変化することとなった。
 後方の黒っぽい高層ビルはJXビル、左端の超高層ビルは朝日生命大手町ビル。


 パソナの本社になってしばらく経った頃のようす  Photo 2014.5.4

 外壁が大幅に改修され窓割も替えられた。外壁は半分ほどが壁面緑化され、1Fには人工照明を用いた水田も作られた。当時、この水田はしばしばメディアにも採り上げられていた。


 壁面緑化のようす  Photo 2014.5.6

 季節によっては花も咲いていた。当時、壁面緑化を大々的に行った建物は都心では珍しかったので、会社の業務内容はともかく、このような建物が増えていくのも面白いなと考えていたのだが、結局、これは数年で終わってしまい、超巨大な高層ビルがこの一帯には建てられることになり、この建物もあっという間に解体されたのだった。


 屋内での稲の栽培  Photo 2011.1.9

 人工照明で光を当て、温湿度も管理されていたのだろう。1月に通り掛かった際にも青々と稲が育っていた。ただ、人工照明を当てて暖房をして稲作をすることが、エネルギー的に本当に環境に優しいことだったのかどうかは知らない。多分にショールーム的なものだったのかもしれないと、今となっては思う。

 大和呉服橋ビルとJXビルは、東京駅前常盤橋プロジェクト(大手町二丁目常盤橋地区第一種市街地再開発事業)に伴い解体された。西側の朝日生命大手町ビルや日本ビルヂングも近日中に解体されるはずである。丸の内、大手町、八重洲、日本橋、界隈の建物は次々に解体され、跡地では巨大かつ超高層のビルの建設が相次いでいる。

大和呉服橋ビル - Wikipedia

Tokyo Lost Architecture 日本橋界隈 - 都市徘徊blog
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博幸印刷/川田邸

2022-02-09 | 千代田区 
博幸印刷/川田邸・東戸陸運貨物協同組合
所在地:千代田区 西神田3-5-1
構造・階数:木・3/2
建設年:1929(昭和4)
解体年:2010(平成22)頃
Photo 2005.3.25

 この界隈では再開発によって千代田ファーストビルの東館(右後方)と西館(左後方)が建てられたが、写真の建物はその2つのビルの間の一角にしばらく残っていたもの。千代田ファーストビルの東館は1998年竣工、西館は2004年に完成していたが、間にあったこの建物は、その後も数年の間残されていた。

 右側の建物は赤瓦の切妻屋根が載ったハーフティンバー様の洋風建築。『日本近代建築総覧』には、この建物が「東戸陸運貨物協同組合」であると記されているが、1973年以降の住宅地図ではその名は見当たらない。ただ、1973年と1982年のゼンリン住宅地図には、この場所に川田邸と千代田運送事業協組の2つが記されている。東戸陸運貨物協同組合と千代田運送事業協組では微妙に名前が異なるが、やはりこの建物が総覧掲載のものに該当していたようだった。なお、1991年の住宅地図では、川田・長島邸になっており、更に1998年には川田邸のみになっている。
 建物1階には、角側(写真右側)に観音開き?の扉があり、左隅のアーチ型の箇所にも入口があったようだ。少々区別が付かないが、どちらかは川田邸、もう一方は小規模な事務所の入口だったらしい。

 一方、左側のモルタル塗り3階建てのシンプルな看板建築は博幸印刷。こちらは1973年の住宅地図には社名が見当たらないが、少なくとも1982年以降はずっと博幸印刷(株)として掲載されていたもの。

 かつてこの街区には最高でも5階建ての建物しか建っていなかったが、千代田ファーストビル西館は32階建て。超高層ビルの足下に木造2階建てが2軒だけポツンと建っている様子は、かなり奇妙なものだった。

 Google Street Viewで見ると2009年12月時点では存続していたことが分かる。そして現在、同所にはウェルスクエア神保町(RC、10F)という2012年2月竣工のマンションが建っている。そこからするとこの2つの建物は2010年頃に解体されたのではないかと思われる。

博幸印刷、他/西神田3丁目 - ぼくの近代建築コレクション

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東京回教徒学校(トルコ共和国大使館文化部)

2022-01-15 | 渋谷区  
東京回教徒学校(トルコ共和国大使館文化部)
所在地:渋谷区 大山町1-19
構造・階数:木・2
建設年:1938(昭和13)
解体年:2016〜17(平成28〜29)
Photo 2013.10.28

 東京ジャーミィのすぐ隣にあった木造の洋風建物。
 『日本近代建築総覧』では、「東京回教徒学校」という建物がこの場所にあることになっていたが、2000年代の住宅地図では「トルコ共和国大使館文化部」となっていて、2つが同一の建物だったのかどうか確証はない。ただ現地で該当しそうな建物はこれだけだった。

 木造2階、瓦屋根で、1階は洋風の下見板張り。2階は白く塗られていた。
 洋風の持ち送りで支えられた庇も付いていたが、大きな窓が並ぶ姿は木造校舎のようで、大使館の文化部というよりやはり回教徒学校だったのだろうなと思わせる建物だった。

 妻側2階の窓の上にはアーチが描かれていて、洋風のイメージを創っていた。

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村林ビル(旧村林商店)

2021-12-24 | 江東区  
村林ビル(旧村林商店)
所在地:江東区 佐賀1-8
構造・階数:RC・3
設計 :関根要太郎
建設年:1928〜29(昭和3〜4)
解体年:2017(平成29).12
Photo 2017.11.23

 佐賀町のとある交差点に建っていたビル。コーナー部に入口があり、テラコッタの大きな装飾が印象的なピルだった。

 縦長の上げ下げ窓で、3Fはアーチ型。2Fと3Fの境には、テラコッタタイルで帯を入れ、最上階との境を見せるなど、小さいながらも様式的なデザインを意識させるものだった。


 西側から Photo 2017.11.23

 西端部にも別の入口があり、階段室があったようだ。2、3Fと屋上はこちらから上がる仕組みだったのかもしれない。


 コーナー部の玄関 Photo 2017.11.23

 玄関扉は木製の立派なもの。扉前のステップの一段目は角地の壁面に合わせてカーブしている。また、扉わきの壁面に赤っぽいタイルで縦に帯が作られているのもワンポイントになっていた。


 玄関上部のテラコッタ Photo 2017.11.23

 全体は凸型、中央部に六芒星のマークがあるのも印象的、建物全体に比してこの部分がかなり大きく、やけに主張しているようで面白い。


 Photo 2002.11.6

 外壁のタイルは細かな凹凸があるもの。補修の際には、同様のものがなかったのかやや異なるものが張られていた。

関根要太郎研究室@はこだて村林ビル(関根要太郎設計作品)その1その2その3その4
村林ビル/佐賀1丁目 - ぼくの近代建築コレクション
村林ビル環境デザインマニアック・Environmental Design Maniac

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東武鉄道本社 旧館

2021-12-21 | 墨田区  
東武鉄道本社 旧館(東武館)
所在地:墨田区 押上1-1
構造・階数:RC・4
建設年:1938(昭和13)
解体年:2010(平成22)
Photo 2008.7.19

 タイル張りのモダニズムオフィスビルだったが、別件で通り掛かった際だったため全景は撮らずじまいになった。
 下記リンク先の写真や、2009年時点のGoogle Street Viewを見ると、西南側の角はカーブした壁面になっていて、その東側に新館?があったようだ。戦前期の建物だが、装飾が全くなく、窓は単純な長方形、壁面の出入りもないなど、当時としてはかなりモダンなデザインだったのではないかと思う。しかしそれもあって、まさか戦前の建物だとは思わず、まともな写真を撮らなかったのだった。

 この写真を撮った2008年夏には、既に東京スカイツリーの建設が本社ビルの東側で始まっていた。そしてこの後、押上2丁目に新しい本社ビルが完成したため、この建物は解体され、この場所も含めて東京スカイツリータウンが建設された。

東武鉄道本社旧館/押上1丁目 - ぼくの近代建築コレクション

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浅草橋ビル(第31イチオクビル)

2021-12-18 | 台東区  
浅草橋ビル(第31イチオクビル)
所在地:台東区 浅草橋1-1-14
構造・階数:RC・5/6
設計 :曽禰中條事務所?
建設年:1928〜29(昭和3〜4)
解体年:2014(平成26)
備考 :1967(昭和42)、2005〜07(平成17〜19)に改築
Photo 2005.3.27

 神田川に架かる浅草橋の北西詰の角地に建っていたビル。鈍角のコーナーを持つビルで、橋詰めの角地だったこともあり存在感を放っていた。
 1階は道路から直接入る店舗。上階へは西端(写真左側隅)の入口から入るようだった。「浅草橋ビル」の文字もこの西端の入口上に付けられている(ルの字は既に脱落していたが・・・)。
 また下記リンク先でも触れているが、1967年に改築されたそうで、恐らくこのとき6階が増築されたのだろう。ただ上写真の頃には1階の店舗もなく、全体にくたびれた状態だった。


 Photo 2009.5.30

 ところが2009年に通り掛かった時には、6階の増築部分が撤去され、窓も直されて外壁もきれいになっていた。コーナー部屋上の軒先にある装飾もシンボリックに見えるようになり良い感じになっていた。
 また、この日はお休みだったが1、2階には服飾店も入居していた。一方で、西端の入口上にあった「浅草橋ビル」の文字は取り外されていた。この頃は「第31イチオクビル」という名だったようだ。


 Photo 2005.3.27

 コーナー部分を下から見上げると、壁面自体はカーブを描いていたことが分かる。窓台が逆三角錐型に張り出しているのでエッジのあるコーナーのように思っていたのだが。よく見ると、ギザギザデザインの窓台は、段々が高いものと低いものが交互になっている。細かいところが妙に手が込んだデザインだった。

 改築されてきれいにもなっていたので、また当分存続するのだろうと思っていたが、その後5年ほどでこのビルも解体されたようだ。Google Street Viewで確認したところ、2014.6には存続していたが、2015.4時点では既に更地になっていた。ネット検索によれば2014年8月から解体が始められたそうだ。
 橋詰交差点に面した角地建物で、目立って街の雰囲気を創るものにもなっていただけに惜しい。

浅草橋ビル、東屋商店/浅草橋1丁目 - ぼくの近代建築コレクション
本日も建築散歩日和 第31イチオクビル
WinterGarten・二十面相の館 浅草橋ビル(現・第31イチオクビル)

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旧理化学研究所43号館(理化学研究所駒込分所)

2021-11-27 | 文京区  
旧 理化学研究所43号館(理化学研究所駒込分所)
所在地:文京区 本駒込2-28-49
構造・階数:RC・3+R
設計 :土浦亀城
建設年:1940(昭和15)
解体年:2010〜12(平成22〜24)
Photo 2006.4.9

 下記リンク先などの記述によると、当初は円筒形の部分にガラスブロックが「大胆にあしらわれていた」そうだ。撮影の時点でも円筒部には一部にガラスブロックが嵌っていたが、当初はもっと大きな面積だったのだろうか。ガラスブロックの円筒のような感じだったとしたら、かなりモダンで格好が良かっただろうなと思う。


 西側から

 壁面は平滑で、軒先にだけ庇が巡らされている。東側ファサードは撮り忘れてしまったが、南北の壁面には大きな窓が開けられておりこれもモダンだ。エアコンの室外機やその配管が外壁にあったが、それがなければ装飾のない非常にシンプルな姿だっただろう。そしてガラスブロックが多用された円筒部がアクセントになっていただろう。

 門扉は後の時代のもののようだったが、門柱は古いものだった。アールデコ?

 玄関庇は水平のスラブがただ伸びて支柱があるだけのような、これまたシンプルなもの。断面にはえんじ色の細いタイルが並べて張られていた。


 西北側から

 跡地には2013年に文京グリーンコートテラスが竣工している。

理化学研究所駒込分室(旧・理研43号館) | 収蔵庫・壱號館
理化学研究所: ★近代建築探訪★
理化学研究所の門/本駒込2丁目 - ぼくの近代建築コレクション

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東京建物ビル

2021-09-21 | 中央区  
東京建物ビル
所在地:中央区 八重洲1-9
構造 :SRC
階数 :8+B2+塔屋
設計 :阿部美樹志
建設年:1929(昭和4)
解体年:2020(令和2)
備考 :八重洲一丁目東B地区第一種市街地再開発事業に伴い解体
Photo 2011.6.21

 東京駅八重洲口駅前、八重洲通りに面して建っていたオフィスビル。市街地再開発事業のため、上写真右側のヤエスメッグビル他とともに解体された。かつて東京駅付近の丸の内、大手町、八重洲などには大型の近代建築が多数あった。しかしそれらは90年代頃から次々に建て替えられて消えていったので、このビルが界隈では最後に残った大型の近代建築だった。


 Photo 2015.4.28

 屋上に装飾が施された塔屋があったのだが、建物後方(北側)にあるため八重洲通りからは先端部しか見えなかった。また、かつては最上階のファサードにも装飾が施されていたそうだが、改装によりそれらは失われていた。


 Photo 2014.5.27

 近くでは見えない塔屋も、駅付近まで離れると見えるようになる。写真は東京駅八重洲口のグランルーフ2階のデッキから撮ったもの。


 塔屋拡大 Photo 2014.5.27

 拡大してみると、テラコッタで飾ったものだったことがわかる。屋内のレイアウトの関係で建物後方に塔屋が位置していたのだろうが、見えない状態だったのは少々残念。


 Photo 2019.7.17

 八重洲通り沿いの様子。改修されて当初の装飾は失われたようだが、クラシックな雰囲気が残るデザイン。


 Photo 2019.7.17

 建物背面にあたる北側の壁面。1階部分にはエアコンの室外機が並んでしまっていたが、2階部分にはアーチ型の窓や丸窓が並び、裏通り側でも端正な表情を見せていた。


 解体時の様子 Photo 2020.10.24

東京建物ビル/八重洲1丁目 - ぼくの近代建築コレクション
環境デザインマニアック61東京建物本社ビル

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