都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

八ツ山橋

2006-10-20 | 港区   

 JR品川駅から品川宿方面へ向かう。高輪口を出て、第一京浜をとぼとぼ南下。大型トラックが轟音をたてながら行き交い、乗用車も高速で駆け抜けていくので、大きな幹線道路沿いは歩くのがいやになる。それを我慢して500mほど進むと八ツ山橋。

 八ツ山橋は、1872年(明治5)に、新橋・横浜間の鉄道開通に際して掛けられたもので、日本の跨線橋第一号なんだそうだ。当初は木造だったが、1914年(大正3)にアーチ型の鉄橋に架け替えられ、1930年(昭和5)にもう一つ造られたらしい。

 ところがネットで検索するとそのへんがなんだかよく分からない。一部の記述では「大正3年に架けられて、昭和5年に同じ形で再築」とあったりする。もう一つ造ったという記述も見られる。しかし15年ほどしか経っていない橋を同じ形で架け替えたりするものかしら? その間に関東大震災があるので被害を受けた可能性はあるけれど、大震災で被災したので再築した、とは書かれていない。現在で四代目というが、どうカウントして四代目なのか読んでいてよく分からない記述が多い。

 とあるサイト昭和40年代の八ツ山橋周辺の写真が載っている。

昭和40年代の八ツ山橋周辺
(http://www.pp.iij4u.or.jp/~keiichir/shina-st.htmから引用)

 左側のアーチ橋が八ツ山橋で、右の鉄道橋は京浜急行の八ツ山鉄橋。

 写真からすると、八ツ山橋は昔は複数のアーチが横に並ぶ橋だったようだ。どうやら1つのアーチ橋と、幅が倍で中央にもアーチが立つ橋が並んでいる、ないしはくっついて一つになっている。どちらかが大正で、他方が昭和なのかもしれない。一つでは足りなくなって、追加でもう一つ架けたのなら、同じ形で造られたということと符合する。写真だけでは分からないが、架け直したというよりは、幅は違うが同じ形の橋をもう一つ造って、二つ合わせて改めて八ツ山橋と呼ぶことにしたというあたりなのかも。一枚の写真を元に想像したという域を出ないのですが・・・。

 どなたか正確なことを御存知の方がいらしたらお教え下さいませ〜。

 しかし、無精してネット検索で済ませようとするから分からないのか、検索の仕方がまずいのか、根気が無いからか・・・? そもそもそんなこと気にする人は少ないのか →そんなことは無いはずなんだけど。

 このアーチ型の鉄橋は、昭和60年(1985)に老朽化のために架け替えられたという。あれ、意外に最近まであったんだなぁ。小さい頃に新幹線で上京したときに、私も何度も下をくぐってたんだな。でも残念ながら全く記憶が無い。

 しかし、アーチが並んだ上にトラス橋も並ぶ姿は壮観だ。今ではあまりないこういう景色、一度でも良いから見ておきたかったなー。

 現在の八ツ山橋はなんの変哲もない鋼桁橋なので、現場に行ってもあまり撮る気が起きなかった。一方、相変わらず存在感があるのは、その隣にトラス橋で掛かる京浜急行八ツ山鉄橋。

京浜急行八ツ山鉄橋
所在地:港区港南2丁目
建設年:1933(昭和8)
Photo 2006.3.11

 こちらの方は、昭和初期に架けられてからは変わりがないらしい。だが、京急のHP他をちゃんと調べなければ、分からないことが意外に多くて、このことに辿り着くのには案外難儀してしまったのでした。

 「京浜急行の歴史」によれば、京浜急行は明治31年(1898)に設立された大師電気鉄道(株)が始まりで、翌32年に六郷橋〜大師間の約2kmが開通。その後、京浜電気鉄道(株)となり、路線を伸ばし、明治37年(1904)に品川〜川崎間が開通したという。

 そう聞くと、その時に鉄橋が造られたのかと思ってしまうのだが、そうではない。この時の品川駅は現在の北品川駅付近(八ツ山)で、新橋・横浜間に開通していた鉄道(東海道線)の東側が起点になっていたのだそうだ。だから鉄道を跨ぐ鉄橋はまだ無かった。明治末の国土地理院の1/10,000地形図を見ると、確かに当時の京浜急行線は現在の北品川駅あたりが起点で、鉄橋は無い。

 その後、大正14年(1925)に品川鉄橋(八ツ山橋)〜高輪間が開通し、路線が東京市内へ入ったとある。この時になって京浜急行は、ようやく東海道線を跨いで品川駅の方まで行くようになった。だから現在の鉄橋の完成・利用は大正末(かと思ったらそれも間違いだった。)。

 昭和8年(1933)には、省線品川駅への乗り入れが開始され、八ツ山〜高輪間の軌道が廃止されたとある。大正末にできた路線は今とは異なっていたらしい。えっ、それどういうこと??

 とりあえず、よく分からないまま、10/20の早朝にこの記事は一度アップしたのだが、半日後にもう少し検索をしてみたら、土木学会の「土木デジタルアーカイブス」というページを発見。そのなかに「歴史的鋼橋集覧」というページがあり、ここに現在の京浜急行八ツ山鉄橋(八ツ山跨線線路橋というらしい)が載っていた。しかもこれには開通年月日が1933.4.1と明記されていた。うわっ! やっぱり調査不足だったー。

 ということで、現在の京浜急行八ツ山鉄橋は大正末期のものではなく、昭和8年4月に開通したものでした!。品川駅乗り入れの時に路線のすじが変わったので改めて橋を架けたのかな。結局、しかるべききちんとしたデータベースサイトで調べれば案外簡単に分かったことなのでした。ふぅ。やっぱり調べ方が下手なんだな。ちゃんと調べてから書けば良かった・・・。

 ところで、鉄道の鉄橋も現場であちこち見回してみれば、竣工年とかがちゃんと書いてあるのかもしれないな。現場でそういう作業を端折ると後で面倒なことになるってことを、今回は痛感いたしましたです。はい。

 しかし、昔の鉄道路線は小さな会社が合併しながら、線路を延長したり、付け替えたりを頻繁にやっていることが多いので、鉄道のある風景の変化を推定するのが難しいことが結構多い。もちろん鉄道ファンの方なら、そのあたりかなり詳しい方もおられるのだろうが。

京浜急行八ツ山鉄橋そばの踏切
Photo 2006.3.11

 品川駅の方から八ツ山橋を渡ると、そのすぐ先に京浜急行の踏切がある。ここの風景は印象的なので、鉄道写真を撮っているファンがしばしば居る。以前から、ここの景色は、どうも不思議というか奇妙で面白いなと思っていた。道路と並ぶようにしてJRを跨ぐ京浜急行が、直後に急カーブを描いて斜めに道と交差する。

 京浜急行の線路が蛇行することになった理由は、結局よくわからなかった。でも昔の1/10,000地形図を見ると、なんとなく当時の様子と蛇行の理由が想像される。つまり、

・品川宿の街を邪魔しないようにしながら、省線を跨げる高さに至る緩く長い坂道を造ろうとすると、省線に沿って上る以外には場所がなかった。
・長い跨線橋は技術的にも予算的にも大変なので、跨線橋のスパンを短くするため、できるだけ直角に近い角度で省線とクロスさせようとした。

 この二つの条件を満たそうとすると、ルートは蛇行せざるを得なくなる。

 若干線路のカーブが変わった今でも、京浜急行の電車は品川駅を出た後、しばらくの間あまりスピードが出せない。急カーブで車輪を軋ませながらやや大儀そうに進んでゆく。

 一方、明治末の時点ではまだなかった、現在の国道15号線(第一京浜)は、大正〜昭和初期に建設された。こちらの方も鉄道敷設と条件がほぼ同じだったのか、同じようなルートで建設されている。更に橋の袂からの坂道では、道路内に線路が造られ、京浜急行の電車は車などと一緒に坂を上り下りしていたようだ。道路内を電車が走る状態は、戦後に新八ツ山橋が架けられるまで、続いていたらしい。

八ツ山橋親柱         八ツ山通から下りる階段
Photo 2006.3.11                 

 昭和60年に取り壊されたアーチ型の鉄橋に付いていた親柱は、保存されて橋詰に立っている。装飾スタイルの細かいことは知らないので即断できないが、セセッション的な装飾であるように思う。20世紀の初め頃に流行ったセセッションデザインの採用は、大正から昭和にかけての時期に架けられた橋ならでは。

 さて、踏切を越えた後、品川宿の方に向かう八ツ山通は下りのスロープになるが、その片隅に坂上から低地へ一気に下る階段がある。八ツ山橋は高輪の台地と品川宿付近の低地を結ぶ橋でもあるので、その橋の袂から下る階段も、ある意味、地形と関連を持つ階段ということになる。だが、新しく人工的な感じの階段には少々グッタリ。いくら階段巡りが好きでも、こういうのはあまり多く歩きたくないし、地形に関連する階段としてカウントするのもあまり気が進まない。

 「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」の中に、F.ベアト撮影の「海に面した品川の街」というものがある。現在の八ツ山橋付近から撮影したと思われているこの写真を見ると、周辺の地形の高低差がよく分かる。高輪の台地の下に細長く低地が広がり、そのすぐそばまで海が迫る。

 現在、八ツ山橋付近に立ってみても当時の面影は全くない。鉄道が出来て、道路が建設され、海は埋め立てられ、建物が林立し、街の景色は激変した。だが、どのようにして今のような景色が造られてきたのか、その過程をあれこれ考えるのはとても興味深く面白い。

#鉄道  #橋  #モニュメント  #旧東海道 
コメント (5)
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