荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

深川 霊厳寺と「どうする家康」

2023年05月17日 | 散文

大河ドラマを毎回観ています。今回の「どうする家康」は、当初戸惑いました。慣れるに従ってコレもありか、と思うようになっています。事実は誰も知らないんだから・・・。「そうだ、あそこへいってみよう!」とやって来たのは霊厳寺です。

 

松平定信の墓所です。界隈は複数の松平家の屋敷が在った場所です。そんな徳川将軍家に関わりがある界隈で、近くの雲光院には、2代将軍徳川秀忠を養育し、豊臣家滅亡の元となった、大坂城の堀の埋め立てを淀君に説得した阿茶局の墓も有りますが、それは以前に報告しています。

 

 

霊巌寺も複数の塔頭を持った大きな寺でしたが、太平洋戦争の空襲で焼かれて、ここに集約されたものです。

その塀の隣に、古い墓石が並んだ一角が在ります。松平定信の墓所と間に私有地道路を塀で挟んだ場所です。ずっと以前に寺男から、「この界隈は昔『殿様墓』と呼ばれていて、古い墓が沢山ありましたが、空襲で壊されて整理しました。徳川四天王のうちの2家が在ると、歴史好きの参拝者が来ます」と聞いていました。そんなことで、この度の訪問となりました。私にとっては別の理由で、時々訪れる墓所でもあります。

 

「膳所藩主本多家」の墓です。

 

 

膳所藩本多家の家紋「丸に立葵」です。

 

「膳所藩本多家は、戦国時代に三河国宝飯郡伊那城の城主だった家(伊那本多家、彦八郎家)で、膳所藩初代藩主となった本多康俊の名から康俊系本多家とも呼ばれる。康俊は伊那本多家に養子に入った人物で、実父は酒井忠次(左衛門尉酒井家)であり、母方で松平清康(徳川家康の祖父)の血を引く。生母は松平広忠の妹なので、徳川家康とは従兄弟に当たる。」ウィキペディアより。

 

一つ隣の墓です。

 

徳川四天王の一人、榊原康政から数えて9代政純が1741年に姫路藩から越後高田藩に国替えになり、以降高田で6代、明治まで続きました。康政から14代続いた大名です。

家紋は「榊原源氏車」です。

 

 

榊原家の卒塔婆です。

 

さて、2つの墓の間に、もう一つ徳川家康縁の墓があります。

 

石灯籠を配した墓です。

 

石灯籠と水盤の星梅鉢紋は、伊予今治藩主久松家の墓です。

 

久松俊勝と家康の母於大との間に生まれた3男の次男の子孫の墓です(長男が武田信玄の人質となって、脱出したものの、凍傷で両足の指を無くしたストーリーがありました)。つまり、於大の孫、家康の異父甥の子孫です。次男が伊予今治藩主となり、長男が伊予松山藩主になりました。

 

大河ドラマの久松俊勝役は、リリー・フランキー氏が相変わらずとぼけた、味のある演技を見せてくれています。ここに、「豫洲今治城主」の記載が有ります。

この墓には久松家2代目と5代以降の藩主が合祀されています。2代目は江戸城代を務めて江戸で死に、5代以降は江戸在住でした。1代、3代、4代の3基が集まった「今治藩主の墓」は今治市郊外に在ります。本多家・榊原家も同様に、他の親藩や譜代藩主も江戸で亡くなっている人が多いかと思います。

東京深川にはこんなお寺が在ります。


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