京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

荒神橋の風景

2013年08月31日 | 日記

  

  荒神橋は京都鴨川にかかるまことに趣のない石造りの橋である。ただ戦後、1953年11月に起こった荒神橋事件の舞台として有名である。これは、当時の京大の学生のデモ隊と警官隊が衝突して多数の負傷者を出した事件である。その生々しい記録が「資料・戦後学生運動3:1952-1955(三一書房編1969年)」におさめられている。以下その抜粋。

 {荒神橋・市警前事件に抗議して全国民の蹶起を訴える!警察暴力事件の真相   共同闘争委員会

『加茂川の水を染めて数多くの尊い学生の血が流されました。太平洋戦争で死んでいった先輩の悲劇をくり返さぬ固い決意を秘めて、全国学生の拠金で建立されるわだつみの像を迎えようと立命館大学へ急ぐ学生を武装警官が五米以上もの橋の上から欄干もろともつき落し、加茂川の水を血で染めたのです。憤りをこめて、朱に染まったハンケチをかかげ抗議に押しかけた七百の学生に対し「落ちたのは引力のせいだ。警官には責任がない」とうそぶき、無抵抗の学生に数百の警官が再びおそいかかり、百人以上に重軽傷をおわせました。無惨にひきさかれた顔、頭を砕かれ、腕を折り、腰を打ち、再び上れない学生をみた時、こみ上げる怒りで、ものを云うことができません。涙も悲しみも何の役に立ちません。労働者、市民のみなさん!今はもう組織された大衆行動あるのみです』

 学生が信じられないぐらい純粋で多感な時代の話でありました。この資料本をさらにパラパラめくっていると大島渚(京大同学会副委員長)の署名で「学園復興への道—京都大学についての試論」(1953年11月号「学園評論」)と題する記録が目にとまった。大島渚(1932-2013)は今年1月に亡くなった社会派の映画監督である。

この時期、学生運動は谷間の時代と言われているが、内容はそれほど過激ではなく至極穏当な主張がなされている。日本の大学が当時、どれほど荒廃しているかを分析し、京都大学での復興の具体的な提案を行っているものだ。この報告で驚くべきことは、約5200名の学生のうち三百数十名が結核にかかっていたという健康診断の結果である。当時の学生にとって、いかに栄養・衛生環境が悪いものであったか分かる。中には貧困のあまり血を売る学生も少なくなかったようである。文字どおり生存が日常的危機に曝されていた時代であった。これがあの頃の学生運動のエネルギーの基盤となっていたのであろう。その後、54年には自衛隊が発足、55年には自由民主党が政権を握り、社会党が野党第一党を占める55年体制が成立した。

  庵主は学生時代に荒神橋の近くの古い町家風の民家に下宿していた。東一条から川端に抜ける医学部ぞいの斜めの道に下宿は面していた。家主のおばあさんはすでに亡くなったが、当時娘夫婦とくらしており、5人ほど下宿人を置いていた。このおばあさんは生粋の京都人で、5月の吉田神社の祭りの頃になるといつも鯖寿司を作ってくれた。 

下宿時代は1960年代後半の事で日本は高度成長期に入っており、学生も物質的には昔ほどの飢餓感はなかったが、急激な経済発展がもたらす社会の歪みと矛盾が渦巻いていた。安保闘争後、分裂により沈滞していた学生運動はベトナム反戦、日韓条約締結反対、エンタープライズ寄港粉砕をテーマに次第に高揚し、東大日大闘争をはじめ全国学園闘争となって燃え広がっていった。

 最近、そのあたりを訪れると周辺の様相は昔とすっかり変わっていた。川端通をはさんで橋の東側には京都大学東南アジア研究所のモダンな建物が延び、少し北側には京都ゲーテインスティチュートの粋な建物が見られる。下宿していた町家は奇跡的に残っていたが、0さんの家族はどこかに引き払い、今はまったく別の人のものとなっていた。

 

 

追記 (2014/11/01) 荒神橋は近世末までは小さな仮橋で、幕末に擬宝珠高欄を備えた本格的な木橋が架けられた。明治十年に架け替えがあって、さらに大正三年に現在のものに改築されたとされる。


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