京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

サイモン・シンの『フェルマーの最終定理』を読もう。

2024年06月26日 | 評論

サイモン・シン Saimon Signh (1964-)著『フェルマーの最終定理』( Fermat's last theorem)(青木薫訳) 新潮文庫 (2000)

ともかく面白い。ただ「知的に面白い本」なので、これがためになるかどうかは読者によるのである。

サイモン・シンはインド系のイギリス人。ケンブリッジ大学で素粒子物理学の博士号を取得。ジュネーブの研究センターに勤務後、BBCテレビ局に転職。TVドキュメント「フェルマーの最終定理」で各種の賞を受賞。その後、同名の書を書き下ろす。他に「暗号解読」、「宇宙創成」、「代替医療」、『数学者たちの楽園―ザ・シンプソンズを作った天才たち」などの著書がある。

その粗筋は以下のごとし。

{ xn+yn=zn n>2のとき、この方程式には整数解が存在しない }

 十七世紀「数論の父」と呼ばれるピエール・ド・フェルマー(1607-1665)は、古代ギリシャの数学者ディオファントスが著した『算術』(Arithmetica) の注釈本をの余白に「私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない」と書き残す。この予想は後に「フェルマーの最終定理」と呼ばれ、多くの数学者たちが,長年にわたって挑戦したが成功しなかった。しかし、二十世紀末(1995)にイギリスの数学者アンドリュー・ワイルズが完全証明に成功し、フェルマーの最終定理は解かれた。

 このドキュメントは数学(数論)史であり、また関係する数学者の人間ドラマの歴史でもある。 ここで 登場する数学者達はピタゴラス、エラクレカテス、ディオファントス、インド・アラビアの数学者達、フェルマー、オイラー、ジェルマン、ラメ、コーシー、ガロア、谷村・志村、岩澤、フライ、リベット、コーシー、メーサー、テイラー、アンドリュー・ワイルズなどである。最終的には1995年、イギリスの数学者であるアンドリュー・ジョン・ワイルズ(Sir Andrew John Wiles,)によって解決される。

 この物語でのポイントは谷山―志村予想である。谷山–志村予想(Taniyama–Shimura conjecture)とは「楕円方程式(曲線)はすべてモジュラーであるう」という予想である。1955年に谷山豊によって提起され、数学者の志村五郎によって定式化された。結局、ワイルズは谷山–志村予想を解決することでフェルマーの最終定理をとくことになる。この物語は数学におけるピラミッド建設の物語でもある。

 エピソードがつぎつぎ連続していくドラマ仕立てだが、話に途中飽かさない。ともかくアマゾンで本を買って読んでほしい。

 

 

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環境問題 III 火の利用と人類の進化

2024年06月05日 | 環境問題
   人間は生物的進化と個体的発生の帰結として今ここに存在している。それ故に、人間は生物的特性を持った現存在として規定さる。人間は神様が創りあそばしたと信ずるのは自由だが、ヒトは類人猿の一種で数百万年前にチンパンンジーとの共通祖先から分かれて進化してきた事が明らかにされている。そして個体は母親の卵子と父親の精子が受精し、発生・発育がすすんで形成される。ヒトは時間論的には二つの「時間の矢」の先端に位置している。いずれの過程にも環境が大いに関わっている。人間は環境の産物であるが、人口が増え過ぎてその活動が地球環境に影響し始めている。まさに原始地球におけるシアノバクテリアのごときものである。シアノバクテリアは、当時の嫌気性生物に毒である酸素を発生し、大気の雰囲気を変えてしまった。
 
ヒトと人の違いは「自然の中のヒト」と「社会の中の人」という風に表現できる。人がヒトから分離した時期を知ることはむつかしい。この二つは完全に分離する事はなくその割合を変えつつ、今でも人間の中で存在していたと考えられる。二分法で自然(ヒト)か社会(人)かを問題にされはじめたのは、つい最近のことである。産業革命以降に、この二つの深刻な乖離と相克が始まった。
 
   人類が進化した理由はいろいろ考えられる。二足歩行や道具の使用、言語の発達などである。他に大事な要因は火の使用ということがあげらえる。40万年前のドイツのヒトの遺跡からも火打石や炉の跡が見つかっているし、ネアンデルタール人も火を使っていたことは確かである。火は食糧加工、暖房、野生動物防御と野焼きなどに利用された。加熱処理で食べられる食物のレパトリーが広がり、かつ保存がきいた。火を利用して青銅器や鉄器がつくられ、それらが文明の礎になった。一方でそれは、環境破壊の原因ともなった。ユバアノア・ハラリは「たった一人の女性でも、火打ち石か火起こし棒があれば、わずか巣時間のうちに森をそっくり焼き払うことが可能だった。火の利用は、来るべきものの前兆だった」と述べている。時代がすすむと蒸気機関のエネルギーとなって産業革命をおこし、今では火力発電所で電気の源になっている。「人類の文明進化は火とともにあり」というわけである。
 
人類が火を使うことによって地表の様相は大きく変化した。地球環境変動の端緒は初期人類による野焼きであったが、それは現代にいたるまで継続されている。最も大きい影響を受けたのはオーストラリア大陸であった。乾燥した気候のせいで火が簡単に広がった。サバンナや温帯の森林でも乾燥期には容易に火が放たれた。火はバクテリアよりも素早く有機物を分解し、栽培植物のために灰分を供給した。火に耐性の植物が人類の移動とともに地球に広まった。
 
 
火の利用で初期人類の生活に重要であったのは「炉端話」であったと思える。夜中に仲間と一緒に火を見つめ合いながら談話し、今日の出来事を振り返り明日の行動を確認しあった。仲間の結束がこれによって固まり、知識が伝承された。子供の教育にもなった。このような過程で言語の発達がうながされたかもしれない。この時代は火を怖がる子供は淘汰されたのではないか?時には周辺の他の家族や集団を招待し、炉端の周りに食べ物を並べたパーティーも開かれたに違いない。このようにして部落社会が生まれたものと思う。
 人間がまだ自然と共存していたヒトの時代の話である。いまでも寒い冬の日、道端でたき火をすると、いつのまにか人が周りに集まってくるのは、あのころの遺存形質が残っているからに違いない。
 
参考図書
ユヴアル・ノア・ハラリ 「サピエンス全史」河出書房新社 2017
ピーター・S・アンガー( 河合信和訳) 『人類は噛んで進化した』 原書房 2019
武内和彦他 『環境学序説』 岩波書店 2002
ウィリアム・H・マクニール、ジョン・R・マクニール 『世界史 I』桑工社、2015
ロバート・ボイド、ジョーン・シルク 『ヒトはどのように進化してきたか』松本晶子。小田亮訳 ミネルヴァ書房 2011
佐倉統 『現代思想としての環境問題』 中公新書1073 中央公論社 1992
  (この本の読後感想ー環境問題について生態学と進化生物学の視点から軽快なテンポで論議しているのでよく書けていると感心して読んでいたが、途中で「DNAメタネットワーク」などというわけの分からない話が提案されてガックリきてしまった。)
 
追記(2020/05/28)
ウイリアム・マクニールという歴史研究家の説によると、原始人は狩猟の前後に焚火を囲んで踊りをおどったそうだ。集団をなす人間が長時間にわたって拍子をそろえて一斉に手足の筋肉を動かしていると、非常に強力な社会的紐帯が生ずると言っている(W.マクニール 『戦争の歴史』(高橋均訳)刀水書房 2002年)(高島俊男 『ちょっとヘンだぞ四字熟語』(文春文庫)文藝春秋、2009)
 
追記(2022/03/13)
コーディー・キャッイーの「人類の歴史を作った17の発見」(河出書房)は読むに値する。火は火打ち石(黄鉄鉱)で起こしたとしている。食物の熱処理がどれほど生理的影響をあたえたかポイントになったいる。
 
追記(2024/06/05)
岡本 剛(「焚き火の脳科学ーヒトはなぜ焚き火にはまるか」(九州大学出版:2024)によると、脳科学的研究によってヒトは焚き火のそばにいると、脳波のアルファー波やシーター波が増えるそうである。これは脳活動の覚醒化を表していrのだそうだ。ただ上でのべたような文化人類史的な考察は無い。
 
 
 
 
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生きとし生ける物すべて意味あり。

2024年06月03日 | ミニ里山記録

 

 

<生きとし生ける物すべて意味あり>

 チャールズ・エルトン(Charles Sutherland Elton :1900-1991)は、イギリスの動物学者で動物の個体群生態学を確立させた。長い間、オックスフォード大学の動物個体群研究所所長を勤め、自然史博物学を生態学に高めた人物とされているが、現在の個別解析的な生態学者には、どちらかと言うと忘れられた存在である。

 そのエルトン氏には、大学敷地の広大なワイタムの森の自然を記述した「The pattern of Animal Comunities(1966)」(日本語の訳本は「動物群集の様式」思索社:1990)がある。日本語訳本で約650頁もあり、ワイタム丘陵の生物の子細な記述が延々と続く。一部の野外研究家にとっては、たまらない自然叙事詩だが、大抵の読者には、とんでもない退屈な読み物である。「生態調査の究極の目的は、ある地域に棲むすべての種についてある一定の期間にわたってその個体群とその動的関係を確かめかつ測定することである」(訳本p36)といった自己の主張を、具体的に示したイコン的著作といえる。

 

 ともかく点や線でしか考えなかった関係が面で考えるようになった。そうなると関係も極めて複雑になり「飛び越えた関係性」が問題になる。いわば”風が吹けば桶屋がもうかる”といった構造を考えなければないなくなる。地球の エコシステムはバランスを保ちながら動的に成立しているように見える。存在する物がすべて関係して、このバランスがなりたっていると仮定すると、人類の災禍であったペスト菌やインフルエンザ、コロナウイルスも地球にとってなんらかの意義が存在するのではないかと考えたくなる。彼らは人類にとって、とんでもない”悪玉”(悪い関係)ではあるが、異常に繁殖しすぎた人類の人口調整に地球(ガイア)が遣わした”善玉”(他の種にとって良い関係)ではないのか?コロナウイルスはヒトに感染発病させるのに他の動物は感染しても発病しない事実はこのことを暗示している。

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