京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

シーボルトの記録した農村の天然痘

2021年01月17日 | 環境と健康

 天然痘は日本では何度も大流行を重ね、江戸時代には定着し、誰もが罹る病気となっていた。幕末の頃、長州でも天然痘が流行し、吉田松蔭や高杉晋作が罹病したと言われている。1823年に長崎出島の商館医としてオランダ政府に派遣されたシーボルトは『江戸参府紀行』の中で、当時の農村部において、この天然痘に、人々がどのように対処したかを、次のように記録している。場所は長崎の大村藩(現在大村市)である。

 

フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold、1796年- 1866年)

「天然痘は八世紀半ばに日本に伝わり、まもなく全国に広がった。天然痘患者の出た町や村ではしめ縄を張って厄よけとし、そのような家では帚を戸口に立てて知らせる。天然痘が周辺の地域に蔓延すると、ここでは厳しい隔離処理がとられる。この伝染病が部落に発生すると病気にかかっているものは、皆山岳地帯に連れていかれ、完全に治癒するまで看護を受ける。こういった回復期の病人が再び生気のない顔で故郷に行列をなして帰るのを見たことがある。五島列島では長い間、この伝染病からのがれていたが、一度これが侵入すると少数の老人を除いて多くの住民が死亡した。」磯田道史氏(「感染症の日本史」)によると、当時藩によっては患者を棄民のようにして山に放置するところもあったようだ。

 天然痘が出た村の入り口に張ったしめ縄は一種のロックダウンの印だったのであろう。オランダからやって来たシーボルトは1823年8月11日に出島に上陸したが、その24日には種痘を日本人に試みた記録がある。江戸参府でも江戸に着いてから子供5人に種痘を行っている(ただ薬が古かったのでやり方を見せるのが目的)。その後、高良斎、伊藤圭介、伊東玄朴などシーボルトの弟子によって種痘の研究と普及はうけつがれた。

 

参考文献

法政大学フォン・シーボルト研究会 『PH.FR. VON. SIEBOLD研究論集』法政大学 1985.

 

 

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悪口の解剖学:レーニンという男

2021年01月15日 | 悪口学

 社会の不合理に敏感な大正時代のインテリ青年達は皆、マルクス主義に傾倒した。そしてロシア革命以後はマルクス主義を発展させたマルクス・レーニン主義が、世界の未来を導く輝かしい思想であると多くの若い労働者や学生が信じて活動した。

 

 戦後、庵主の学生時代には新左翼系の思想家や活動家は共産党のスターリン主義に反対し、「レーニンに帰れ」という主張を繰り返していた。ロシア共産党のおぞましい過ちは、スターリンから始まったので、偉大な理論家、哲学者そして革命の実践者であった、レーニンに過ちはなかったと信じた。もっともレーニンの膨大な書き物の中で読まれていたのはせいぜい、『国家と革命』と『一歩前進、二歩後退』『何をするべきか?』ぐらいであったような気がする。庵主は、有名な『帝国主義論』を読んでみたことがあるが、あまりの難解かつ退屈さのゆえに10頁ほどで放棄してしまった。

ロシア革命の父といわれたレーニンが1924年に亡くなって、ほぼ一世紀がたつ。さらにソ連が崩壊したのは1991年。時間は流れ世界の様は変わったが、レーニンの評価は変わっているのだろうか。ウラジミル・レーニンとは何ものであったのか?庵主なりに考えてみた。

 レーニン(ウラジミル・イリイチ・ウリヤノフ)は1870年4月22日にヴルガ河沿いのシンビルスクで生まれた。父親(イリア・ウリヤノフ)は貴族社会に属する物理学者であったが、奴隷制度や階級制度に反対する進歩的な人物であったそうである。レーニンの徹底した理づめの論法はこの父親ゆずりである。

 レーニンには、5人の兄弟姉妹がいた。この5人ともいずれも革命運動に身を捧げたというから、家庭環境だけでなく多分に遺伝的気質が影響していたのようだ。おそらく強い分裂質の傾向が一家にみられたのではないだろうか。なかでもレーニンは幼少のころから神童と呼ばれるほど学校の成績がよく、法律家になることを目指していた。チェスと音楽そして読書がなによりも好きであった。愛読書はストウ夫人の「アンクル・トムの小屋」だったそうである。

 レーニンの人生の転機が16歳ごろに来た。1886年に父イリヤが心筋梗塞でなくなり、翌年アレクサンドル3世の暗殺を企てた兄のアレクサンドル・ウリヤノフが逮捕されて絞首刑に処された。これ以来、レーニンは敬愛する兄を殺したロシア帝政に強い憎しみを抱くようになった。兄の処刑からほどなくして、レーニンは兄の書棚を埋め尽くしている社会主義に関する禁断の書に触れて、革命家を目指すようになる。

思想的に最も影響あたえた本はニコライ・チェルヌイシェフスキーの『何をなすべきか』であった。主人公の革命家ラフメートフに感銘し、彼のようにウエイトトレーニングに励み、生肉を喰らい、心のなかで囁く誘惑の声を遮るために針を打ち付けたベッドで寝た。好きだったチェスも音楽も捨て、古典言語の学習もやめてしまった。このころに「革命こそがすべて」のレーニンが生まれた。

 若い日のレーニンは、実践を伴わない書斎派の急進主義にすぎなかった。周りの仲間は頭脳明晰で弁のたつ彼を”じいさん”と呼んで一目置いていた。ただ、レーニンがその思想を実行に移す機会が訪れると、冷酷な過激派の貌をさらけだしたという。次のようなエピソードがある。

レーニンが21歳頃に、ヴォルガ河流域は飢餓に見舞われて農民達は困窮した。姉のアンナは心やさしい女性だったようで、困った農民のために医療活動を行った。ところが、レーニンは彼女を叱りつけた。それどころか、地代を滞納した農夫を告訴したりした。これは帝政に苦しむ農民を救わんとする革命家の所業であるのか?

 これについてのレーニンの理屈は以下のようなものであった。ロシアの農民が悲惨極まりない状況に落ち入っていることが、革命の目前に迫っていることの証でありバネでもあるのだと。一種の貧窮化待望論である。もっとも、1917年にロシア革命が起こってからも、レーニンは農民が穀物を隠匿しているといって、赤軍を農村に派遣しこれを徴収した。そのために多くの農民が餓死したと言われる。後になって作家のマクシム・ゴーリキはレーニンについて次のように述べている。「大きく言えば、レーニンは人民を愛していたと言えよう。しかし惜しみなく愛していたわけではない。彼の愛は憎悪という霧を通したものであった」と。

 山川均の本(『レーニンとトロッキー』改造社 1922)に、次のようなバートランド・ラッセルのレーニン評が紹介されている。『レーニンは訪問客を凝視するが、よく笑う。初めは彼の笑うのが唯だ親しげにまた楽しげに見えたが、段々独裁的で平静で大胆不敵でしかもあくまで私欲がなく、殆ど理論そのものの化身であることが分かった。私には、彼が可成り多くの人々を馬鹿にしている知識的貴族であるという印象を受けた。(中略)レーニンが自由を愛さない事は、尚ほダイオクレアンによって迫害された耶蘇教徒のごときである。彼らは権力を握ると報復を行った。自由を愛することは、全人類の疫病に対する万能薬に対する信仰とは両立し難いものである』(ラッセルは当時社会主義者であったが、レーニンやトロッキーのボルシェビキ革命を厳しく批判した)

 1887年にレーニンはカザン大学法学部に入学した。しかし反体制運動にかかわった廉によりその年の内に退学となった。しばらく母親と暮らしていたが、1895年にサンクトペテルブルグに移った。そこでも労働運動を組織化したものの、秘密警察に逮捕されてシベリアに流刑となった。帝政時代のシベリア流刑地は、スターリン時代のような過酷なものではなく、まだ人間的な場所であった。そこで、昔からの恋人のナデジタ・クルプスカヤと結婚している。

 1900年にレーニンは刑期を終えてシベリアを去りスイスに亡命した。そこにはプレハーノフをはじめとする錚々たるロシアの社会主義者たちがいて、さかんに交流をした。この革命家達が、ある日アルプス地方の美しい村にピクニックにでかけた。人々は散策しながらすばらしい自然と景色を楽しんでいた。しかしレーニンだけはそれに関心をしめすことなく、途切れる事なく社会運動と革命の話をしつづけていた(向坂逸郎の「マルクス伝」(新潮社1962)によるとマルクスはそのような情景でまったく違っていたらしい。リープクフネヒトの回想によるとロンドン亡命中のマルクス一家とのピクニックの楽しさは千歳の年になってもそれをわすれないだろう」と書いてある)。そして、レーニンの弁論の特質は言葉の繰り返しと論争相手の徹底したこき下ろしであった。この点はのちのヒトラーとよく似ている。

 レーニンがスイスに亡命していたころ、カイム・ワイズマン(1874-1952)がジュネーブ大学の化学の教授でいた。ワイズマンはロシアのベラルーシのユダヤ人の一家に生まれ、ドイツとスイスで化学を学び、1903年からスイスに滞在していた。二人は交流はあったものの、ワイズマンがシオニズム運動に傾斜していったので衝突した。しかし、この二人は大変、容貌が似ていたので、ワイズマンはレーニンに間違えられ、刑事によく尾行されたという。ワイズマンは後に英国にわたり、アセトンの醗酵製造に協力したので、チャーチルの信頼を得て、後にイスラエルの初代大統領に就任した。

 ヨーロッパを転々とするレーニンが言葉の弾丸を打ち続けている間にロシアの情勢は急変しつつあった。1894年のアレクサンドル3世の跡をついだニコライ2世にはつぎつぎ災難が襲いかかっていた。1904年からの日露戦争の敗北、1905年のサンクトペトロブルグでの血の日曜日事件と革命政府の樹立。そしてのこの年に政治犯の恩赦がくだされレーニンは11月に帰国したのである。そして1907年再度スイスに亡命。1914年に第一次世界大戦勃発。1917年4月封印列車で帰国。引き続く数々の激動を奇跡的にくぐり抜けてロシア革命を導くことになる。

 さきほどの山川の本に有名な「封印列車」の話しが出てくる。それによると、以下のような事が書かれている。1917年ロシア3月革命の結果、ケレンスキー政府ができると、スイスに亡命していた社会主義者達はロシア亡命者の帰国を助ける為に、委員会を組織した。この委員会は帰還者の為に旅費を募集し、フランス、イギリス、スイス政府にアルハンゲリスク経由でペトログラードに帰る許可を求めた。しかし連合国はこれを許さなかった。そこで、委員会はドイツ政府と交渉した。その結果、ロシアに捕虜となっていたドイツの非軍事市民と交換に、約300人のロシア人がドイツ経由で帰国できるようになった。(注:追記7の渡辺の著書によると32名となっている)この列車にはレーニンの他にメンシェビキやケレンスキー政府の支持者も含まれていた。通説では、ドイツ政府とレーニンが、直接、交渉して話しが成立したようになっている。しかし、山川の書ではそうはなっていない。当時のロシアの情勢からみて、レーニンの影響力のあるボルシェビキは弱小勢力であったので、ドイツ政府が革命勢力の切り札としてレーニンを選抜して送り込んだという通説には無理がある。多分、駄目もとで、ドイツはレーニンを含めた社会主義者、共産主義者その他を一派ひとからげにして送り返したのだろう。

 レーニンの『何をなすべきか?』に感銘してロシアの革命運動に参加した二人の青年がいた。ヨシフ・スターリンとレオ・トロッキーである。スターリンは一貫してレーニンを仰いだが(少なくとも表面的には)、トロッキーはそのうちレーニンを批判するようになり、革命党から独裁者が出るであろう事を予言した。しかし、トロッキーも1917年にはレーニンとよりを戻して行動をともにした。レーニンという戦略家とトロッキーという戦術家がそろっていなければ、おそらく1917年のロシア革命は成功しなかったであろう(クルツイオ・マラブルテの『クーデターの技術』参照)。

 1917年のスターリンがはたした役割は、後年の公式の記録(ただしフルシチョフ報告まで)に書かれているほど華々しくもなければ、トロッキーをはじめスターリンの敵が主張したほどひどくもなかった(アラン・ブロック『対比列伝ヒトラーとスターリン』、草思社2003)。ただ、スターリンにとって不運な事に彗星のように頭角を現したトロッキーの前にその存在はすっかり薄くなってしまった。その後、1921年3月ボルシェビキの独裁に反対するクロンシュタット水兵の反乱をトロッキーは「鉄の帚」でもって鎮圧した。これにより多数の水兵が処刑されたり投獄された。レーニンの死後、たとえスターリンに代わってトロッキーが共産党の権力を握っていたとしても、ロシアは「収容所群島」になっていたろう。もっとも、ユダヤ人の犠牲者はスターリン粛正に比較して少なかったろうが。

 澁沢栄一は『論語と算盤』という自伝風の評論において「偉き人と完き人」という話をしている。「偉い人」は人間の具有すべき一切の性格の欠点があっても、その欠陥を補って余りあるだけ他に超絶した点がある者とし、一方、「完き人」は知情意の三者が円満で具足した常識人としている。澁沢は「偉き人」より「完き人」のほうが大事だと言っているのだが、レーニンはまさにこの「偉き人」であった。そして知情意の中で徹底して「情」の欠けたロシア人であった。こういった人物は、どんな集団でも一人や二人はいるものである。よく勉強もしており頭も切れるし論も立つ。しかし何故か人間味と情にかけている。こんなのを組織のヘッドにすると、うまくいきそうでも大抵は大失敗する。たとえば昭和の軍国主義時代に辻正信という、この手の典型の軍人がいて、日本国をボロボロにした。

 マルクス・レーニン・スターリン・毛沢東といった一連の革命家の思想に通底するのは、人民を社会の桎梏から解放するという崇高な理念や希望ではなく、結局は”暴力”と”独裁”による全体主義的な人民の支配ではなかったかという主張が繰り返しなされている。確かに、これらは革命を成就するための便宜的な手段のはずだったのに、それが目的となってしまったのが、共産主義運動の歴史のようにみえる。手段が目的になった悪しき例の最たるものである。指導者個人の資質によってそうなったのではなくて(スターリンに関しては多分にそのきらいはあるが)、元祖マルクス思想そのものに、”暴力”の起源があったのか、あったとすると、それは何故なのかを今後は考究しなければならない。

共産主義や社会主義を標榜した革命家の中で、庵主が敬愛しているのは人間的なホー・チ・ミンだけである。若い頃はチェ・ゲバラが好きだったが、脱走した部下をみずからの手で射殺したエピソードを知って嫌いになった。

 

あとがき

 本稿はを多分に参考にした。最初のカルダーの本は独裁者の思想の分析といった社会学的な著書ではなく(それぞれの主張の引用や根拠がほとんど書かれていない)、多分に悪口的な雰囲気の本である。著者の話には全てとは言えないが、かなりバイアスがかかっているところがある。たとえば、ヒトラーは第一次大戦で戦死者ゼロの「しんがり好きの豚」とよばれた伝令兵にすぎなかったと主張している。すなわち臆病者だったとこきおろしているのだが、そうであれば鉄十字章を2回も授与されるわけがない。当時の伝令兵の戦死者がゼロという話も信じられない(ヒトラーが勇気ある男だったといいたいのではなく、庵主は作者の記述に矛盾があると言いたいのである)。それはともかく話半分として読めば、この本はそれなりに面白い。著者も述べているように、このなかで一番傑作なのはムッソリーニの伝記である。この書はここだけ読むことをおすすめする。

参考図書

ダニエル・カルダー 『独裁者はこんな本を書いていた(上下)』黒木章人訳、原書房 2019

アラン・ブロック『対比列伝ヒトラーとスターリン』鈴木主悦訳、草思社2003

澁沢栄一 『論語と算盤』角川ソフィア文庫 2031

鈴木肇 『レーニンの誤りを見抜いた人々』恵雅堂 2014

ヴィクター・セベスチェン 「レーニン・権力と愛」(白水社2017)

 この書は人間レーニンをより知るために良い本である。イレッサ・アルマンドというレーニンの愛人が登場する

 

追記1)エレーヌ・.カレール・ダンコース 「レーニンとは何だったのか」藤原書店 2006 

この書によると、1905,1917年のソビエトの形成は民衆の自発的なもので、ボルシェビキは何もしていなかった。さらにレーニンについては「すべてのユートピア主義者と同様に常に人類の幸福を望んだ。しかしすべてのユートピア建設者と同様、人間そのものを棄てて、抽象的な実体を追い求めた。レーニンは人間の不幸に哀れみの言葉や、まして後悔の言葉を一言も発することはなかった」と記している。レーニンは多数の著作をものした。当時も今もだが、えてして左翼はまとめればA41枚ですむ内容を、長々と無内容な言辞を並べ、ボリュームで自分を権威づけるといったアホらしい風習がある。まったく時間の無駄。シモーヌ・ヴェーユは、その著「抑圧と自由」で、レーニンの著書は「ほとんど退屈で、教えるところがほとんどない」と酷評している。

追記2:(2020/12/19)

革命家の実像は多分に分かりにくい。一方で英雄として虚飾にまみれ、一方では無慈悲な独裁者として全否定されているからだ。そういった意味で、チャールズ・フェンノ著の『ホー・チ・ミン伝』(岩波新書D59 陸井三郎訳)は、客観的な資料にもとずく、優れた伝記である。これに載せられたホー・チ・ミンの遺書」は感激的な文章である。以下一部採録。「生涯を通じて私は心から力の及ぶかぎり祖国と革命と人民に奉仕してきた。この世から去るにしても心残りは何もない。ただ、これ以上奉仕できないことを残念に思う。私亡きあと、盛大な葬儀をして人民の時間とお金を消費しないようにしてほしい」...........レーニン、スターリン、毛沢東などからは、決して聞けなかった言葉だ。

追記3:(2021/02/26)

 当時の革命家の中でも屹立したインテリゲンチャーであったレーニンは、思想的に「残酷」なところがあっても、人間的には人を平気で殺すなどの残忍なところは無かったと信じていた。しかし、アラン・ブロックは、その著『対比列伝ヒトラーとスターリン』において、次のような事を書いている。テロを制度化し、チェーカーを国家の掣肘をうけない特務機関としあげたのは、スターリンではなくレーニンであると。さらに1918年8月にベンザのボルシェビキに宛てて書かれた指令を紹介している。「富農(クラーク)を見せしめに100人吊るし首にせよ。この指令を受け取ったこと、そのとうり実行したことを電報でしらせよ。レーニン(サイン)」とある。この指令ほ後にレーニン全集にも収録されている。1924年のレーニンの死にいたるまでの5年間に、チェーカーが行った処刑は少なく見積もっても20万人とされる。これに対して、1917年までの治世の最後の50年間の歴代ツアリーのもとで行われた処刑は、1万4000件であった。レーニンが打倒した帝政よりボルシェビキの方がずっと人を殺した。その死後はスターリンによって、ボルシェビキ党員を含めたもっと多くの人が殺されている。これではロシア革命によってロシア人が幸せになったと言えるわけがない。

追記4(2021/03/14)

カール・ポパーは『開かれた社会とその論敵』と『歴史主義の貧困』において、マルクス主義を批判したが、一方でマルクス個人がプロレタリアのみじめさに本当に深く心を打たれていたや、プロレタリアを助けようとしていたことは認めていた。ただマルクスは個人的にひどい野心家で権力を求める人間であったが、それをどこにも得る行き先がなく、ひねくれていたと述べている(『未来は開かれている』思索社 1986)。

追記5(2022/05/19)

レーニンの妻クリプスカヤによる伝記「レーニンの思い出」(青木書店1970)には、シベリアでの楽しい思い出がたくさん述べられている(p31)。

『寒い冬がすぎて、春になると、自然はすさまじい勢いでめざめていった。春は力を強め、夕映えの野原の広々とした春の出水に野生の白鳥が泳いでいた。また森のへりにたてば、小川は激しく流れ、やまどりが愛をもとめて鳴いていた。ウラジミール・イリイチ(レーニンの本名)は森に行き、愛犬のジェニカを抑えているように頼む。イリイチはいつも「もしウサギが出てきても撃たないよ。皮ひもを持ってこなかったので、運びにくいからね」 だが、ウサギが飛びさすとイリイチはやはりバンバン撃つのだった。』

この書は、クリプスカヤ自身の記載部分がどれほどか疑わし官製伝記であるが、シベリア時代の記述は真実であろう。

追記6 (2023/01/09)

当時の大阪朝日新聞記者である中平亮による「赤色露国の一年」というルポルタージュ(1921)でとレーニンとトロッキーの関係が述べられている。「レーニンは思想家、立法家としてはるかに群を抜いている。労農露国の元首として動かぬ眼目は実にここにあるが、実行家としてはトロッキーにおよばない。会議に出席しても、レーニンはトロッキーは必ず相並んで座る。そしていかにも親しげに話し合っている」(森田成也著トロッキーと戦前の日本:社会評論社2022)

追記7(2024/01/15)

渡辺惣樹「虚像のロシア革命ー後付け理論で綴った唯物史観の正体」は歴史の必然と偶然を考える素材にはなりうる。第一次大戦のような全面d戦争を当時のロシアやドイツ、オーストリアの皇帝たちは望んでいなかったのに、何故引き起こされたのか?レーニンやトロッキーがいなければ、ロシア革命は起こらたのかのか?大きなフレームで考えると帝国主義間戦争は必然だったように思えるし、労農階級による革命もあの時代では起こるべきしておこったようにも思える。しかし、この著者は、それは教科書的な後付理屈であるという。この本の中でもレーニンのアジテーターとしての病的な徹底性が描かれている。生物の進化においても同様の偶然と必然の問題がある。太古の昔、脊椎動物の先祖といわれるピカイアがもし、絶滅していたら現在の生物相は全然違っていたろう。進化生物学者のグールドはピカイアが生き延びたのはまったく偶然であるとしている。

追記8「トロッキー暗殺と米ソ情報戦-野望メキシコに散る」(社会評論社2009)の著者篠崎務によると、レーニン一行を載せた「封印列車」には32名の革命分子が車中に閉じ込めれられていたが、ブラインドはなく車内の雰囲気は陽気なものであっそうだ。この著者はまたトロッキーを「クロンシュタットの虐殺者」と呼び、「スターリンもスターリンならトロッキーもトロッキー」と述べている。そのくせ、「あとがき」ではトロッキーのことを「地主に搾取された農奴や経営者に隷属した産業労働者といった弱者のみならず世界中の被抑圧者を救済しようという野望を抱いていた革命家」としている。わけのわからない矛盾である。

追記9(2014/05/01) 以上、かなり直観的に述べたことは、高木茂の著「忘れらた革命:1917」(幻冬社ルネッサンス 2011)で、整理されて書かれていた。この著者によるとレーニン主義を旗印にした戦後学生運動は日共を含めて、すべて赤色テロリズムの系譜であるとしている。

 

 

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COVID-19ワクチンは有効で安全か?

2021年01月07日 | 環境と健康

COVID-19がパンデミックの様相を示すと世界中で、様々なワクチン開発競争がはじまった。タンパクワクチン、不活化ワクチン、ウィルスベクターワクチン、DNAワクチン、mRNAワクチンなどである。アメリカの製薬大手ファイザとドイツのビオンテックが共同開発したmRNAワクチン(BNT162b2)は、いち早く第3相臨床試験で有効性、安全性が確認され、昨年12月英国と米国でも緊急使用許可を取得して接種が始まった。WHOも12月31日、緊急使用リストにこれを加えると発表した。ワクチン開発競争ではBNT162b2がレースのトップに立っているようだ。米モデルナ社が開発したmRNAワクチン(mRNA-1273)も欧米で承認申請されている。他に英国アストラゼネカとオックスフォード大学が開発したウィルスベクターワクチン(AZD1222)は12月30日英国政府によって承認された。

 国内では、塩野義製薬も遺伝子組み換えたんぱく質ワクチンを開発しており、12月臨床試験を始めたといわれる。他にも数社がワクチン開発に取り組んでいるが、出遅れた上に、いかんせん感染者が少なく治験が困難な状況で、いずれも周回遅れの感が否めない。日本政府は、国民全員が接種できる量のワクチンを2021年前半までに確保する方針で、上記欧米の製薬会社3社との間で、供給を受ける契約を結んでいる。3種のCOVID-19ワクチンはいずれも、これから日本で小規模な臨床試験を実施し申請承認後、2月下旬までに接種を始める方針のようだ (1月5日京都新聞)。

 ファイザーとビオンテック(BNT162b2)、モデルナ(mRNA-1273)のワクチンは、いずれもメッセンジャーRNA(mRNA)テクノロジーを使っている。ウィルスのスパイクタンパク質(SP)に対応する塩基配列情報を持ったmRNAを脂質ナノ粒子(LNP)に包みこみ、これを体内に注射し、疫学調査を行なっている。BNT162b2の場合、ワクチンは21日間隔で2回接種している。その第3相臨床試験では約43000人(16歳以上)の半分をワクチン接種群、別の半分をプラセボ群とした。2回目の投与から7日後のCOVID-19発症者は、接種群で8例、プラセボ群で162例。有効性はなんと95%であったという。WHOはCOVID-19のワクチンに求められる望ましい有効性として「少なくとも70%、最低でも50%以上」との見解を示していたので、この高い有効成績は世界を驚かせた。重篤な副反応は、今回の治験では見られなかったそうだ (N.Engl.J.Med.2020;383:2603-2615,DOI: 10.1056/NEJMoa2034577)。

 このmRNAワクチンの原理は以下のようなものである。まずLNPが細胞膜にくっつき、中のmRNAが細胞に取り込まれ、リボソームで抗原タンパクが産生されてから分泌され、これが抗体の液性免疫を誘導する。さらにmRNAを取り込んだ樹状細胞では、mRNAから産生されたウィルスタンパク質の一部がHLAにより細胞表面に顔を出して、擬似的にウィルス感染細胞と同じ状態を作り出し、これをナイーブT細胞が認識することによって、細胞性免疫が誘導される。ナイーブT細胞は姿を変え、コロナウイルスだけを狙い撃ちするキラーT細胞になる。攻撃をうけた感染細胞はウイルスもろともに破壊される。mRNAワクチンは液性免疫も細胞性免疫も誘導する優れものと言われている。

 こういった原理のワクチンがヒトで承認され利用されるは史上初めてのことである。これがCOVID-19に有効であれば、現代文明の知恵「分子生物学」により邪悪なウィルスを人類が打ち負かした画期的な出来事となろう。しかし、技術の持つインパクトが大いほど、それに潜在するリスクもまた大きい。コロナワクチンは全世界の何十億もの人々に接種される可能性がある。この新規ワクチンが、ヒトの健康にどのような影響を及ぼすかの長期にわたる観察はない。そもそも、ワクチン投与後、どれほど効力が持続するのかと言ったデーターもまだ提出されていない。本来、2−3年かけるべき試験や治験・観察が、緊急事態のためにすっ飛ばされているからだ。拙速な開発・承認について、ワクチンを必要と考える専門家からもリスクが多いとの指摘が出されている。

 COVID-19ワクチンを接種するかしないかは、日本では個人の判断にゆだねられている。自分や子供の年齢、体質、生活形態を考慮の上で、接種した時のリスク、しなかった時のリスクを勘案し判断を下す以外にない。幸い英米が先行して実施しているので、COVID-19ワクチンの効果とリスクは、これからある程度の情報が入手できるはずである。海外SNSの情報やそれを集約して発信しているサイトを点検する必要がある(『文芸春秋』2月号 の宮坂昌之氏の評論も参照されたい)。

 ワクチンを接種するにしても、種類や製品を選択できるかどうかも問題である。直感的にいって塩野義製薬のタンパクワクチンが一番安全そうに思えるが、これはいつ完成するのか分からない。mRNAワクチンのmRNAも単なる核酸分子なので比較的安全なのではと思うが、これも考えだすといろいろ突っ込みたくなる。注入されたmRNAが体内や細胞でどのような運命をたどるのか?変異ウィルスに対して有効か?接種とウィルス感染が重なったときに問題はないのか(ADE抗体依存性感染増殖の可能性)?ファイザーの試験は16歳以上を対象としているが、それ以下の幼児への効果や副作用はどうか?レトロトランスポゾンの逆転写酵素により遺伝子DNAに組み込まれたりはしないか?これらに答えてくれる論文や報告は、筆者が調べた限り見当たらない。ともかく、今のところ「途中結果」オーライなのである。

 日本ではCOVID-19ワクチンの接種は医療関係者や対策の実施に携わる公務員などが優先すると言われている。しかし、日本の医師へのアンケート調査によると、半数近くが早期の接種を受けたくないとしており、受けたいという医師も70%近くが種類を選択したと答えている(日経メディカル2020/12/26)。医師も本来、ワクチン接種を拒否する権利があるはずだが、職場の雰囲気で自分の意志に反して受けざるを得ない状況になるかもしれない。一般の市民は、年齢や既往症の有無で接種時期が決まるようだが、おそらく4−5月以降にどうするか判断をせまらえる事になりそうだ。

参考文献:宮坂昌之 『コロナワクチン本当に安全か』文芸春秋 2月号2021、p210。

 

追記 1: ADE(抗体依存性感染増殖)とは?

免疫でできる抗体にはウイルスを殺したり不活化する中和抗体の他、「役無し抗体」や「悪玉抗体」ができる。悪玉抗体はネココロナの事例のように、ウイルスに結合した抗体ごと食細胞に飲み込まれ、その食細胞が感染し、それが全身に広がる。その食細胞からはサイトカインが大量に放出され炎症を悪化させる原因となる。

 

追記2:リスクのトレードオフとは?

あるリスクを減少させようとすると、それにより別のリスク(対抗リスク)が増加する。水道水に添加する塩素は、源水に含まれる有機化合物と反応してトリハロメタンを生ずるが、これは発ガン性がある。そこで、この発ガンリスクを忌避して、塩素を加えないでおくと、当然、水を媒介とする感染症のリスクが発生する。1990年代にペルー政府は、塩素消毒を中止したが、リマ港の魚介類を感染源としてコレラが発生し、約30万人が罹患し3,516人もの死者がでた。他の例としてはDDTの禁止によって、マラリアによる被害が拡大した。

(國広正著 それでも企業不祥事が起こる理由 日本経済新聞社 2010)

 

 

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Covid-19:特効薬は開発されたか?

2021年01月03日 | 環境と健康

Covid-19のパンデミック以来、これの特効薬探しがはじまり、聞き慣れない薬の名前が次々とマスコミに登場するようになった。その度に、sars-cov2をピタリと押さえ込む薬があれば、どんなに安心かと期待してきたが、はたして状況はどのようなものであろうか。

よく出て来るレムデシビルはアメリカの製薬会社 (ギリアド・サイエンシズ)が、エボラ出血熱治療のために開発を進めていた薬剤である。ウィルスの複製に関すRNAポリメラーゼを阻害する効果があり、これによりsars-cov2の増殖を抑え、症状を改善する効果が期待されていた。とくに、2020年2月に武漢の研究所から、培養した細胞でレムデシビルがsars-cov2の増殖を抑制したとする報告が医学雑誌に発表されたので注目を浴びた。日本では5月に、新型コロナウイルスの治療薬として初めて承認され、アメリカでも10月に正式に承認され、この薬はまさにcovid-19の特効薬として期待の星であった。

 ところが、11月20日にWHOは、世界各地の臨床試験を分析した結果、死亡率の低下、重症化(人工呼吸器の必要性)、それに症状の改善にかかる時間についてレムデシビルは重要な効果はなかったとし、「症状の軽い重いにかかわらず、入院患者への投与は勧められない」とする指針を公表した。この夢も希望も打ち砕くようなWHOの御宣託にたいして、ギリアド・サイエンシズ社は「患者が回復に至るまでの期間は短縮している」などと反論している。厚生労働省も「承認時に根拠にした治験のデータが否定されたわけではないうえ、有効性がないという結果でもないため、承認について見直す予定はない」という何度読んでも理解不能なコメントを出した。

 大半の患者はレムデシビルを5日で6回投与されるが、一人当たり総額で2340ドル(約25万円)もかかる。高額でそれほど有効と思えないこの治療薬に対してアメリカの消費者権利保護団体は抗議の声を上げている(日本と違って医療保険の自己負担分が半端でないから)。一方、これを使用している日本の医療機関の医師の一人は「レムデシビルの効果を実感してきた。命はお金より重いはずだ。ほかに特効薬が出るまでは、私たちとしては引き続き使っていく」と苦しそうに述べている。(NHK:新型コロナ特設サイト等の情報)。

 アビガン(ファビピラビル)は、富士フイルム富山化学が開発したインフルエンザ用の抗ウイルス薬である。レムデシビルと同様にウイルスRNAの合成を阻害する。安倍前首相が5月の記者会見で「日本にはアビガンがあるぞ」と鳴り物入りで宣伝したので有名になった。しかし12月21日、厚生労働省は、薬事・食品衛生審議会の専門部会を開き、アビガンをcovid-19の治療薬として承認するかを審議したが「有効性を明確に判断することは困難」だと判定し継続審議にしてしまった。富士フイルム富山化学が申請の根拠とした試験結果は、「症状の軽快かつウイルスの陰性化までの時間」が、ほんの少し短くなるという頼りないものであった。トランプ大統領が推奨し、みずからCovid-19の予防のために使っていた抗マラリア薬・ヒドロキシクロロキンも、本人が感染したために無効であることが証明された。またノーベル賞受賞者の大村智博士が発見し、Covid-19の治療薬候補の一つにあげられていたイベルメクチンについても、それを有効とした論文に問題があり取り下げられた。

 他の新薬を含めた試験は、現在も進行形なので最終的な評価は後日を待たねばならないが、今のところ著効を発揮したという報告はない(例外としてデキサメタゾンがあるがこれは抗ウィルス薬ではなくステロイド剤)。もともと風邪には「薬」はなく、ただ栄養をとり安静に寝てしかないというのが常識だった。これが大型風邪のcovid-19にも適応されるのだろうか?そうすると後は予防の為のワクチン開発にかけるしかない。

参考記事

勝俣範之 『薬の効果に残る懸念ーコロナ禍を機に「治験」を見直せ  Wedge 2020年11月号 p58-p61

追記1

最近のニュースでは、英国での治験でイベルメクチンが死亡率をかなり低下させたという。(https://news.yahoo.co.jp/articles/4939e4329f7e8a7853526489b0c4b0802a88d789)北里大学などの今後の治験結果が注目される。

読売新聞ニュース (2021/04/28)

https://www.yomiuri.co.jp/choken/kijironko/cknews/20210427-OYT8T50019/

追記2

デキサメタゾンの有効性は昨年6月頃発表され論文がプレプリントサーバーに投稿されている。1日6mを10日間投与するのが標準である。重症者に効果があり軽症者に効果がないのは、重症の多くが免疫反応の暴走によるという説と符号している(Natureダイジェスト2020年8月号)。

 

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