京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

新型コロナウィルスと症状の個人差について

2020年01月31日 | 環境と健康

       武漢発とされる新型コロナウィルスによる感染症は中国だけでなく全世界に拡大し、パンデミックの様相を呈している。WHOは30日になって、やっと「緊急事態宣言」を出した。これに感染・発症すると高熱、咳、筋肉痛、下痢、呼吸困難をともなって肺炎症状を呈する。いまのところ1/4~1/5の患者が重症化し致死率は約2%ぐらいのようである。高齢者や持病をもった人が、重篤な症状となり死亡するケースが多いらしい。ただウィルスに感染しても、まったく自覚症状のない人や軽症ですむ人もいるようだ。

  検査はPCR (polymerase chain reaction)法のようだが、これはきわめて鋭敏な検査法で増幅操作の際にコンタミ(混入)があると、本来ネガティブなサンプルからも陽性反応が出るので注意が必要である。検体が増えるとたいへんな作業量になると思えるので、国レベルでこういった検査機関の調整と整備が今後は必要と思える。

 罹患した人の症状の個体差の理由はわかっていない。症状の個体差がウィルスに感染した人の体質による可能性はある。その場合は性別、年齢、健康状態(持病の有無など)、地域性や遺伝子多様性などが複合的に関連しているものと思える。中国政府は、これらの情報をすみやかに発信してほしいものだ。

 他にコロナウィルスが変異している事も考えられる。ウイルスの感染力を強い(s)、弱い(w)、毒性を強い(S)、弱い(W)と定義すると、種類としてはsS、wS、sW、wWの4種を想定できる。

自然淘汰の原理でウィルスも宿主(人)をめぐって熾烈な競争をしている。この中でsSが一番強そうに思えるが、患者は死亡、隔離あるいは家で寝込むなどして集団との接触が断たれ拡大の機会が少なくなる。wSも同様なので、勝者はsW、wWのいずれかということになるが、当然sWのほうが拡大には有利である。

 寄生ウィルスの目的は宿主を殺すことが目的ではなく共生することである。かくして弱毒性のウィルスは集団に広まって平衡に達したときに一種の共生関係が成立する。人類は何種類もの風邪コロナウィルスを経験して免疫力を高め、突発的に生ずる凶暴なsSに備えてきた。ただ世代が替わり集団の免疫履歴が切れたり、なんらかの環境の変化でsSがパンデミックを起こす。インフルエンザウィルスは約50年の周期で流行する。

 新型コロナウィルスの場合、発生して2ヶ月弱で自覚症状がない感染者が存在するというのは、強毒性(S)から変異した弱毒性(W)ウィルスが存在する可能性はおおいにある。どのような病原性のウィルスも、最初は強毒性(S)でそれから弱毒性(W)に変異するのが普通である(例えばエイズのHIVなど)。弱毒なウィルスが人集団の中に広まり免疫の壁を作って、流行を低下・終焉させるメカニズムが理論的に考えられる。1918年のスペイン風邪のパンデミックにおいても、人類の大部分がインフルエンザウィルスに感染したのでないかという仮説がある。そのような事を考えると、この新型コロナウィルスのパンデミックピークはすでに過ぎているということかもしれない。それでも、これが終焉するには2ヶ月以上はかかりそうである。万全の防御体制をとらねばならない事はいうまでもない。

 

                  (画像:国立感染症研究所ホームページより転載)

 

 

付記 (2020/02/24)

中国疾病予防控制中心(Chinese Center for disease control and prevention)から新型コロナウィルスによる疾患様態についての報告(2月14日付け)がある。2gahttp://weekly.chinacdc.cn/en/article/id/e53946e2-c6c4-41e9-9a9b-fea8db1a8f51from=timeline&isappinstalled=0&fbclid=IwAR0vI2byMnOUzlbbZQsb4edDI_CVgETT6xdu3j4WUlfS2GIed4QaoQcbXnY)

 

 

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ヒイロタケ(緋色茸)

2020年01月25日 | ミニ里山記録

大学の触れたくもなき緋色茸  楽蜂

ヒイロタケ(Pycnoporus coccineus)。腐朽菌の一種とされ主に広葉樹の枯れ木に寄生するが、不思議な事にこれはホウバの幹からでている。名前のとおり全体が鮮やかな緋色のキノコで、無味無臭であるため食用キノコとしては不適とされる。赤い天然色素はきのこ染めに使われることがあるらしい。色素としてフェノキサジン系色素のシンナバリンなどが同定されている。

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「忠臣蔵の決算書」ー小野寺十内と妻丹の美学

2020年01月19日 | 日記

山本博文『忠臣蔵の決算書』新潮新書495, 2019

            

       歌川国芳画「小野寺十内秀和」                    『小野寺十内妻丹』    

 江戸時代は幕末を除いてまことに感激の少ない時代であった。これは徳川幕府が鎖国した上に、ひたすら安定を社会に求めたためである。ただ、元禄時代におこった赤穂事件だけは、日本人の心の琴線にふれる物語として残っている。他には、大塩平八郎の乱もあるが思想が純粋だった割にあまり評判はよくない。主人公自身が狷介な人物だったことや、大阪の町で大火を起こしたうえに結末が悲惨すぎたせいであろう。

 上掲の山本氏の書は大石内蔵助がしたためた「金銀請払帳」(会計簿)をもとに、赤穂事件の推移を追った異色の論説である。吉良邸に討ち入るまでの軍資金約700両(現在の価値で約8400万円)の出費明細から、どのように浪士が行動したかを解説している。

 失職した武士は生産手段をもたないのでたいへん困窮した。元禄15年7月に浅野大学がお預けとなり、浅野家再興が絶望となって大石らは討ち入りの決意を固めた。この時、まだ余力のある重臣は大石を除いて脱盟し、残ったのは今後の生活に展望のない中級と下級武士であった。待ち受けているのは野垂れ死にと言う事であれば、大義を掲げて討ち入りを決行せざるを得ない。この頃には軍資金はかなり減っていた。芝居などで有名な内蔵助の一力茶屋での遊興費は、内蔵助個人の持ち金であったというのが著者(山本氏)の見解である。赤穂浪士の討ち入りは、突き詰めれば忠君の儒教思想といえるかもしれない。しかし「命を捨てても大義に付く」という「無私」への尊敬と憧れはどの時代にもあった(三国志の孔明贔屓も同様)。そして登場する魅力ある人物群に読者は感情移入したのである。

 登場する赤穂四十七士の中で、庵主がもっとも好きな人物は小野寺十内秀和である。浅野家では京都留守居役(百二十石)の中級家臣であった。京都留守居役は会社でいうと京都支社長のようなもので、当時の文化の中心であった京都の情報を国元に伝え、そこの流行の物産購入に勤めた。司馬遼太郎によると、京都の着物の流行なども国元に報告していたそうである。

元禄14年(1701)3月14日、主君の浅野内匠頭長矩が江戸城松之大廊下で吉良上野介義央に刃傷に及び、長矩は即日切腹、赤穂藩は改易となった。京都でこの凶報に接した秀和は老母と妻を残し赤穂へ駆けつけた。そして赤穂城開城から討ち入りまで、内蔵助の右腕として活動したようである。元禄15年12月14日の吉良邸討ち入りでは、裏門隊大将として大石良金の後見にあたった。元禄16年2月4日、幕府の命により切腹。主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。享年61歳。

 この小野寺と奥さんの丹(たん)は、共に和歌をたしなむ仲の良い夫婦であったそうだ。十内から丹にあてた次のような手紙が残っている(上掲書より引用)。『老母を忘れ、妻子を思わないではないが、武士の義理に命を捨てる道は、是非におよばないものです。得心して深く嘆かないでほしい。母は余命短いと思いますので、どのようにしてでもご臨終を見届けて欲しい。長年連れ添ってきたのであなたの心を露ほども疑っていないが、よろしくお願いします。わずかなが残した金銀、家財を頼りに、母を世話してほしい。もし御命が長く続き財産が尽きたらともに餓死してください。それもしかたのないことと思います』

この時に「命のつなぎの為」として金十両を丹に送っている。小野寺の母は元禄15年9月に亡くなっている。丹は京都の西方寺に夫の墓を建て、そのあと食を断ち自死したと伝えられる。元禄16年6月の事である。

 

 

 

 

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交通事故死者70万人と自動車メーカーの責任

2020年01月14日 | 日記

 2019年中の交通事故死者数は3215人で1948年(昭和23年)から統計開始以降の史上最少であった。事故死者は1994年頃から減り始め、この10年ほどで1700人ほど減っている。交通事故負傷者数も2004年ごろが最大で約118万人だったが、2018年には約52万に減少している。

自動車の保有台数はほぼ横ばいなので、事故減少の一因は公安委員会のコメントのように、様々な団体がこれの防止に取り組んできた結果であるといえそうだ。シートベルトの着用や道路整備などの装置やインフラの改善もこれに寄与している可能性がある。しかしながら、依然として交通事故で尊い命が失われていることも事実だ。最近も庵主の友達の家族が交通事故にあった。友人の奥さんが運転する車が対向車に激突し、同乗の友人と子供の二人が亡くなった。なんとも衝撃的で悲しむべき出来事であった。

 

    (Car Watchより引用)

 そうゆう事もあって、戦後どれほどの人命が交通事故で失われたか調べてみた。1997(平成9年)の警察白書によると、1946(昭和21年)から平成8年までの51年間で交通事故死者の累計は50万5763人となっている(https://www.npa.go.jp/hakusyo/h09/h090201.html)。それ以降の統計がすぐに見つからないので、平成9年から去年までの年ごとの記録を積算すると約12万6000人 となる(https://car.watch.impress. co.jp/ docs/news/1158374.html)。これを加算すると、戦後になって車の事故で亡くなった人の数は約63万2000人となる。もっとも、この統計は事故が起こって24時間以内に亡くなった人の数である。30日以内の死者の数は、平成5年以降から記録があるが、平均して毎年24時間死者の約10%となっている。これも計算して死者の数にいれると、約70万人もの命が失われたことになる(30日以上たって事故で亡くなった人の数は統計がない)。静岡市の人口が約70万であるから、中規模の地方都市が壊滅するぐらいの人数にあたる。太平洋戦争(1941-45)での日本の戦没者は軍人が約230万、民間人が約80万とされている。74年間という歳月ではあるが、大きな戦争で死んだ民間人の数ぐらいが自動車事故で死んだことになる。一人の死者に父母、兄弟、配偶者、子供などの係累が平均4人いたとしたら、当人を含めて5 X 70万 = 350万の日本人の運命が暗転したことになる。

 死者だけでなく交通事故による負傷者の数もおびただしい。ざっと計算すると戦後74年間の累計はなんと約4500万人!現在の総人口の3人に一人の割合になる。この中にはかすり傷程度の軽傷者から瀕死の重傷者を含む。重篤な傷をおって、それ以後の人生を寝たきりで送らなければならなくなった人や、いままでの正常な社会生活や家庭生活を放棄した人の数もかなりいると思える(こういった統計はあるのか無いのか?)。

交通事故の被害者だけでなく、加害者も事故の瞬間からその人生が激変することが多い。精神的にも経済的にもおいつめられてしまうケースが多々見られる。こういった深刻な社会問題は「交通戦争」と言われていたが、大抵が加害者と被害者との、あるいは保険会社との間の個別問題に解消されてしまった。被害者の多くが社会的弱者であった事や、「日常的」な事として感覚が麻痺してきたせいかもしれない。

 

<戦後の交通事故者データーのまとめ>

死亡者累計約70万人:負傷者累計約4500万人

 

車の交通事故の原因は次のように分類して考えることができる。

1)当事者の過失、違反(飲酒運転など)による責任

2)道路行政の不備・怠慢による責任

3)交通行政の不備・怠慢による責任

4)自動車メーカーの不備・怠慢による責任

事故予防の観点からは1)-3)までの事項がよく議論される。しかし、4)での議論はいままであまり聞いたことがない。これは、まったく不思議な話である。例えば洗濯機の漏電事故で年間数千人もの人が死亡したら、たとえユーザーの不適切な使い方によるとしても、メーカーはその製品を発売停止にしてリーコールするだろう。今まで自動車メーカーがドライバーの安全を車の設計・製造の第一主眼とした事はないように思う。自動車産業の思想は、かっての日本軍の零戦のそれが受け継がれてきた。軽量、操縦性、瞬発性と燃費を重視して運転者と同乗者の安全は二の次にされてきたのだ。

例えば日本でのシートベルト着用義務にいたるまでの歴史をみてみよう。車におけるシートベルト着用の効果は事故における非着用との比較であきらかで、これによりはっきりと死傷率が低減されている。アメリカでは1967年にこれの着用が義務づけされている。日本では1969年に運転席への設置が義務づけされた。全席にそれが義務づけされたのは1975年のことである。着用義務については、やっとのこと1985年に運転席と助手席にそれが法律で定められた。それまでは努力義務であった。2008年には後部座席にも着用義務が定められた。

このように日本で他国に比べてシートベルトの着用義務が遅れたのは、購入者の嗜好(シートベルト嫌い)におもねて、メーカーが積極的に立法化を進めなかったせいである。もっと早い時期にシートベルトの着用を立法化しておけば、いままでの交通事故死者の数は20-30%ほど少なかったはずだ。

 

自動車メーカーは膨大な利潤をあげながら、安全技術の開発を怠ってきた。日本車のコストパフォーマンスの良さは安全の犠牲のおかげである。最近になってやっと衝突防止装置、急発進防止装置、歩行者回避装置などの開発を始めている(遅すぎる!)。車の事故は当事者(運転手や歩行者)の自己責任という考えを改め、それはメーカーも含めた責任であるという思想を持たねばならない。

 

<参考図書>

加藤正明 『交通事故誘因の徹底分析』技術書院 1993

柳原三佳 『後遺障害を負った被害者の家族のひとりとして』(ザ・交通事故:別冊宝島393)。1998

 

追記 (2021/04/23)

自動車メーカーの製品責任は形式的な法律論ではわりきれない側面がある。その例がP社の湯沸かし器による事故例である。P社でない修理業による不適切な修理によって、安全装置が働かないで一酸化炭素中毒の事故が起こった。P社は法的責任はないって、積極的な対応をとらなかった。その姿勢が世間の批判を呼んだ。

(國広正著 それでも企業不祥事が起こる理由 日本経済新聞社 2010)

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特殊相対性理論のニュートン力学的解釈

2020年01月08日 | 時間学

<特殊相対性理論のニュートン力学的解釈>

 世界で最も有名な科学方程式はアインシュタインのE=mc^2(エネルギー=質量 X 光速の2乗)であろう。これは特殊相対性理論から導き出されたもので、エネルギーと質量が等価で相互に互換性があり、エネルギーが質量に変換されるのと同様に質量もまたエネルギーに変換されることを示している。この方程式により人類は「原子の火」を手に入れ、まず原爆が、ついで原子力エネルギーが生み出された。 特殊相対性理論によると、光速はいかなる慣性系でも不変である(光速不変の法則)。さらに物の速度が光速に近づくと、静止系から観察したばあい次第にその質量が増加し時間が遅れ空間が縮むといわれている。いずれも特殊な数学的手続きと論理に従って出される帰結である。ここでは、相対性理論ではなく古典的なニューートン力学でもエネルギー・質量変換が予測可能であることを示したい。

 

 

 (アインシュタインの相対性理論論文)

 

特殊相対性理論では4次元空間(ミンコフスキー空間)での物質の(4元)運動量Pと速度(Vx, Vy, Vz, Vt)との関係は以下のように表される。

Px=γmVx=m’Vx

Py=γmVy=m’Vy

Pz=γmVz=m’Vz

Pt=γmC=m’C

m’=γm

 Cは光速、mは静止質量、γはローレンツ因子1/√{1-(V/C)^2}である。これらの式によると速度vが大きくなって、光速に近づくと質量m’や運動量Pが無限大に近づいてしまう。

速度vで動く慣性系の時間(T)と静止系の時間(t)の関係はT=√(1-(V/C)^2) x tと表せる(運動系では静止系に対して時間の進み方が遅くなる)。√(1-(V/C)^2) はローレンツ因子γの逆数である。また、それぞれの長さについては、L=√(1-(V/C)^2) x lの関係(ローレンツ収縮)がある。これらの式は、”光速不変の原理”(光速は誰から見ても一定)と”相対性原理”(どんな慣性系でも物理法則は同じ)という二つの原理(前提命題)から導かれる。

さらに最後のPtの式の両辺に光速cを掛けると

cPt=m’C^2=γmC^2=1/(√{1-(V/C)^2)}) mC^2

これをテーラ展開すると、この式はV/Cが小さいときには近似的に

cPt=mC^2+1/2mV^2

この最初の第一項は静止質量エネルギーで、おなじみのアインシュタインの方程式E = mC^2である。そして第二項は不思議なことにニュートンの運動エネルギーが表されている(注1)。

 

さていよいよここからが本題である。

F=dp/dt=d(mv)/dt=m(dv/dt)=mα

 この式はニュートン力学の第二法則で高校の物理の教科書にも出てくる。Fは物体(粒子)を加速させるための力、pは運動量、mは質量、αは加速度。無論この式だけではエネルギー・質量変換は出てこない。そこで『質量を持った物質の速度は光速を超えることはできない』と仮定をする(この命題は特殊相対性理論の光速不変の原理とは違う事に注意)。そうすると粒子の速度が光速Cに近づくにつれて、同じ量の力Fを加えても加速度αの (dv/dt)は次第に小さくなり0に近づくと考えられる。いくら力を加えても物が動きにくくなるということは、質量mが増加し重くなったと考えることができる。不思議の国のアリスのように、いくら走っても同じ場所にいつづけるというエピソードのような状況だ。力が加えられて得た物質のエネルギーが質量に転換したと考えればよい。光速に近づくとαは無限に0に近づくが、質量はそれに応じて無限に大きくならなければならない。しかし、一つの粒子の質量が無限に大きくなる事はありえないので数学的に以下のように考える。

mも変化すると考えると最初の第二法則は次の式で表さなければならない。

F=dp/dt=(dm/dt)v+m(dv/dt)

速度vの小さなときはdm/dt ≒ 0でもとの第二法則と同じになる。速度が光速cに近いとdv/dt ≒ 0によりF ≒(dm/dt)cとなる。

さらに時間tと力を加えて加速させた後の時間t'での運動エネルギーはそれぞれ

Et=1/2mtvt^2

Et'=1/2mt'vt’^2

ここで光速近くではVtとVt'はほとんど変わらないので、これをともにC’とすると

Et' -E= 1/2(mt’-mt)C’^2

ΔE = 1/2ΔMC’^2

mt’-m= 2ΔE/C’^2>0

最後の式の右辺は常に0より大ということは、mt’がmtに比べて増加したということになる。

 かくして、第二法則に「光速上限の原理」の仮定をつけ加えることによりエネルギーの質量変換ΔMが予想されるようになる。ニュートン力学では運動する物体の速度が変わりこそすれ、その質量が変化するなどという”非常識”なことは考えないことにしていた。特殊相対性理論では「光速不変の原理」が非常識原理として登場したが、ここでは「光速上限」がそれである。
ちなみにアインシュタインの特殊相対性理論では、運動量保存則を光速Cで成り立たせるために、速度が大きくなるほど粒子の質量も増えるという「相対論的運度量」が前提となっている。
 
ニュートン力学では光速Cで動く(動けたらという仮定)質量M0の物体の運動エネルギーは、上記の理屈により
 
E =1/2 (M0+ ΔM)C^2 (M0は静止質量、 ΔMは運動により物体が増加した分の質量)
 
ここでもしΔM = M0ならば E =M0C^2となりアインシュタインの方程式と同じになる。
 
それを確かめるために相対論的運動エネルギーを計算する。特殊相対性理論では相対論的運動エネルギーは
 
E'=γM0C^2 -M0C^2 = (M0 + ΔM)C^2 - M0C^2 = ΔMC^2          ( γはローレンツ因子1/√{1-(V/C)^2)
 
ここでE = E'とすれば、
1/2 (M0+ ΔM)C^2  = ΔMC^2
これより ΔM =M0 
 
 すなわち光速では質量が静止質量分M0だけ増加し、全部で2倍になる。どのようなメカニズムでそのような事が起こるのかはわからない。光速Cは質量を持たない電磁波や重力波にしか許されない「特権」で、質量をもった粒子が光速を得るためにはエネルギーに”変身”しなければならない。そのため原子核の内部の素粒子の構成や相互作用が変化するのが原因かもしれない(一つの仮説としては質量が同じ反粒子の生成が考えられる)。
 
 粒子加速器などで「光速上限」の現象を発見しておれば、相対性理論なしにエネルギー・質量変換の法則は発見されたはずであるが、巨大な加速器が必要で昔は不可能であった。今では、兵庫県佐用町で理研が運営する放射光施設SPring-8が電子を光速の99.9999998 %まで加速できるそうである。加速器中で粒子の質量が増加する現象が観察されたのは相対性理論が出てからだいぶ後のことで、感動もなく予想される当然の事とされてしまった(注2)。
 
注1)空間と時間をひとまとめにして4次元時空を考えたのはアインシュタインではなく、ヘルマン・ミンコフスキーである。アインシュタインは最初ミンコフスキーの考えを単なる数学的な置き換えとして気に入らなかったそうだが、後に一般相対性理論を作るに当たって、4次元時空の概念が重要であることを悟ったと言われている。

注2)光速度不変の原理は連星から発せらえる光の観測やCERN(ヨローッパ合同素粒子原子核機構研究所)での加速器実験から証明されている。この加速器実験において、ほぼ(?)光速で飛ぶ素粒子から発射された光の速度は光速の結果が得られている。これは光速上限の原理を証明したと言って良いのかも知れない。

 

 {参考図書}

山田克哉 『E=mC2のからくり』:エネルギーと質量はなぜ「等しい」のか。 講談社 ブルーバックス2048, 2019

竹内淳 『高校生でもわかる相対性理論』ブルーバックスB-1803, 講談社、2013

 

追記(2020/04/19)

ジル・アルプティアン 『疑惑の科学者たち-盗用・捏造・不正の歴史』(吉田春美訳) 原書房  2018

この書によると、相対性理論を最初に考えついたのはアインシュタインではなくアンリー・ポアンカレであったとする。ポアンカレは1900年に論文「ロレンツの理論およびその作用・反作用の原理」でE=mC2の公式を発表していた。アインシュタインは1905年に「物理学年報」に「空間と時間の新しい理論による運動物体の電気力学」を発表したが、ポアンカレの先行論文を引用しなかった。アインシュタインは後年になってそれを読んでいなかったと抗弁した。これはフェアーではないと、フランスの作家ジュール・ルヴーグルが追求した。ただ、問題はその物理的な意味付けと解釈ではアインシュタインの方が勝っていたことは確かだ。『ポアンカレ予想』の著者ドナルド・オシアも科学史研究家ピーター・ガリソンの著を援用し、それぞれ特殊相対論が形成された背景(ポアンカレは経度局、アインシュタインは特許局に勤めていた)を分析している。

 

 

 

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時間についての考察:「今」を刻むリズム

2020年01月05日 | 時間学

青山拓央 『心にとって時間とは何か』講談社現代新書2555, 2019

この書の著者は時々「今」とつぶやいて、「今」をひきもどす作業と「時間しおり」を生活にはさむ作業をしているそうである。意識下で時間に今の打点を打つという発想は面白い。この場合はおそらく数時間の間隔であろうが、実はこういった打点作業を無意識のうちに脳がもっと短い周期で行っている可能性がある。

「太鼓の達人」という子供向けのゲームがある。太鼓を打つタイミングをメロディーにのって流れてくる丸の図形に合わせる単純なゲームだが、音痴の大人がやるとけっこう難しい。環境のリズムに内的な振動体を同期させることで時間が生じているのではないだろうか?一種の符号モデルといえる仮説である。

 

 

ギリシャ人は人の思考が営まれている器官は脳ではなく、横隔膜であると考えていたそうだ。呼吸をともなう横隔膜の不断のリズムが思考をうみだす仕組みだとしていたのである。思考によって脳内時間が生ずるのであれば、横隔膜リズムが時間を生み出していることになる(セルゲーエツ、1975)

 

参考図書

ポリス・フヨドヴィッチ・セルゲーエツ著 『記憶の奇跡』松野武訳 東京図書 1975 (8頁)。

 

 

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