京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

分蜂:連作俳句

2024年07月08日 | ミニ里山記録

 

 目出度さも知らで荒ぶる箱の蜂

 春疾風への字くの字とハチは飛び

 待箱を置けば我が家は里めきぬ

 分蜂の山越えて来る羽音かな

 楠樹の蜜蜂共に博士号

 蜜蜂の滅び行く日も梅雨やまず

 蜂の巣もメルトダウンの暑さかな

 巣の奥で面型雀蛾(メンガタスズメ)鳴く夜かな

 蜜房を割く丸く小さな背を曲げて

   廃兵となって巣を出る蜂を追う

 

 シャーロック・ホームズがそうしたように、ちょっとした庭のある英国人は、退職後、庭で養蜂を行う。ロンドン近郊のシルウッドパークという学園都市に立ち寄った時、多くの民家の花壇に、ミツバチの巣箱が置かれているのを見た。趣味と実益といった事もあるのだろうが、ヨーロッパにおける養蜂の長い歴史文化を垣間みた気がした。

 イギリス人にならったわけではないが、定年後、ニホンミツバチを飼い始めた。幸い、現役時代にミツバチの行動研究を行っていたので、飼育のノウハウは分かっている。いま住んでいる家は京都市の真如堂のそばにある。庭に待ち箱を置くと、ほとんど毎年、ニホンミツバチの分蜂群が入る。付近の吉田山や京大構内には、いくつもコロニーが存在する。それは時計台前の楠のウロ、神社の古い井戸、墓の下、民家の床下などに見られる。これらミツバチコロニーが、我が家に飛んで来る分蜂群のソースになっている。

 春先、分蜂の季節になると、待ち箱にニホンミツバチの偵察蜂がやって来る。偵察蜂は候補となる巣の位置、大きさ、巣口の広さ、内部温度などを総合的に判断して、そこが定住するのに好適であると判断すると、もとの巣や蜂球でダンスを踊り、他の仲間にアピールする。そのうち偵察蜂の数がどんどん増え、巣口の出入りだけ観察していると、すでに分蜂群が入ったのかと錯覚する程になる。これは。だいたい二〜三日かけて行われ、いい場所には占有権を主張するためか、偵察蜂の一部が夜中も居残るケースがある。同じ箱の中で違ったコロニーの蜂同士がであった場合、取っ組み合いのけんかが始まる。

 そのうち、ニホンミツバチの分蜂群がやって来る。無数の蜂の羽音で、あたりに異様なうなりが溢れる。彼等は、女王を中心に一旦集結するか、あるいはすでに入居を決定している場合は、直接そこに向かう。集結しても大抵、数時間以内に新たな巣を見つけて、全員が飛び去ってしまう。この時期のミツバチは刺さないモードになっているので、刺激を与えないで静かに見守るのがよい。殺虫剤などをかけて追い払おうとすると、かえって興奮し飛び回り収拾が付かなくなる。

 丸胴の巣に、分蜂が入居すると、日ごとに巣盤が大きくなっていく。働き蜂は毎日、半径約二〜三キロ以内に餌を探しにでかけ、花粉と蜜を集めてくる。時期によって、咲く花が変わるので、足についている花粉の色が変わる。花粉分析をすると、周囲にどのような花資源があるかわかる。

 京都の夏は、彼等の元のすみかである熱帯林よりも高温多湿である。ミツバチにとって、この暑さはまことに要注意で、巣盤が融けて崩落することがたまにある。出入り口で何匹もの働き蜂が扇風行動をおこして空冷するのだが、あまりに暑いと追いつかないのだ。こういった崩落を防ぐために、巣を二階建にして、上下の通気をよくしてやる必要がある。

 今世紀初め頃から、米国各地で養蜂用のセイヨウミツバチが、巣箱から逃亡してしまう現象が、頻繁におこりはじめ、これは CCD (蜂群崩壊症候群) と呼ばれている。この現象の特徴は、働き蜂の大部分が逃去し、しかも死骸が巣の周りに見当たらないことである。女王と幼虫が巣にとり残されているが、働き蜂がいないので、コロニーはすぐに全滅してしまう。今までのミツバチの行動に関する知識からすると、常識はずれの不可解な現象といえる。比較的病気に強いと言われるニホンミツバチでも、原因不明で、コロニーが次第に弱り消滅する事例が多くなっているそうだ。

 ミツバチは、狭い空間に密集してくらしている社会性昆虫である。このような生活形態は、迅速な情報伝達を含めた効率の良い生活を営む基盤となっているが、一方で病原体や寄生虫に感染すると、たちまち巣全体に広がるという弱点を備えている。これはヒトを含めた社会性の特質であるが、風通しの良さが災いして病気が短期間に蔓延する傾向がある。

 ある秋の夜、巣箱でギギギ•••といった異様な音がするので、巣の蓋をはずし、懐中電灯で中をのぞくと大型の蛾がいた。ミツバチの巣を襲って蜜を盗むメンガタスズメガ(面形雀蛾)の成虫だ。背中にドクロのような不気味なマークを持っているので、面形という。おまけに体のどこを振動させるのか、蛾のくせに鳴くのである。こんな不気味な特殊な蛾が、近所に生息している事が信じられなかったが、ある日、石崎先生(名大名誉教授)のお宅にうかがったとき、庭の花壇にこの幼虫が発生するとお聞きした。我が家は、白川通りをはさんで、先生宅とは五百メートルも離れていない。

 ニホンミツバチは、西洋蜜蜂に比べて温和で、取り扱やすいと言われている。テレビでも、養蜂家が素手で巣盤をさわっている映像が流されたりする。しかし、これは春や夏の季節の事で、越冬中の連中は極めて神経質になっており、少しでも巣箱に刺激を加えると興奮し、頭を狙ってブンブン攻撃してくる。野外で熊にさんざん襲われてきた種の習慣が、遺伝子に刷り込まれているのだ。

 京都美山町の里山でフィールド調査したことがある。このあたりの農家は、ミツバチの巣箱を置いてくらしている。孫が来たときに、瓶に詰めてもたせるぐらいしか蜂蜜は、とれないそうだが、分蜂群の飛来を吉兆として大切に保護している。筆者のように、京都の街中でも、ニホンミツバチの自然群を飼育できるのは、たいへん幸運なことと思う。

 

追記(2024/07/08)

セルゲーエフ・ボリス・フェドロヴィチという人の書いた本「おもしろい生理学」(東京図書:金子不二夫訳、1980)によるとメンガタスズメの出す音は、女王バチが巣内で出す音と同じで、門番バチをだます声色だそうだ。擬態ならぬ擬声?

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「蕪村評論」の評論

2024年07月06日 | 評論
(呉春筆 蕪村像)
 
 蕪村の俳句を評論した文集は多い。江戸期後半には、俳人として、ほぼ無視されていた蕪村俳句を掘り起こしたのは、明治になって正岡子規である。以来、多数の俳人あるいは評論家が蕪村の俳句を独自の視点で解釈・評論している。それぞれの特徴を取り出し、その評価と批判を行なった。
 
1) 中村稔「与謝蕪村考」(青土社)2023 
 著者は弁護士さんのようである。弁護士の俳句評論とは、かかるものかと納得した。著者は、まず他の評者の意見を紹介し、裁判における相手側の陳述書に対するように、これに反論していく。たとえば蕪村「春風馬堤曲」の章では尾形功の解釈を紹介し、たまに同意することもあるが、ほとんどケチをつけている。その立場は、有体に言って弁護士リアリストとしてのもので、揚げ足取りで面白くない。たとえば、俳詩「春風馬堤曲」に登城する主人公を軽佻浮薄な女の子の道行ととらえている。中村は、「尾形は学者のくせに想像力が過剰すぎる」と批判してるが、尾形の解釈の方が、ずっと豊かで楽しい。ようするに面白くないのだ。かといって弁護士的リアリズムに徹しているかというと、そうでもない。たとえば、蕪村の「離別(さら)れたる身を踏込んで田植えかな」の解釈を、離縁された女性が田植え時期に員数合わせで婚家に呼び寄せられ手伝う情景としている。これは、珍しく尾形の「蕪村全集」での校註に従ったようだが、常識的にはありえない話だ。藤田真一は、出戻ってきた娘が実家の田植えの作業に参加するときの複雑な心境としている。これが普通の解釈であろう。また、蕪村「鮎くれてよらで過行く夜半の門」の句でも、中村は「くれて」と「過行く」の措辞が矛盾していると述べている。しかし「過行く」は家に入らないでという意味に決まっているではないか。それに、この句の主人公は友人でも家の主人でもなく「鮎」であることを忘れている。釣り上げて足の速い鮎を配る友人の心遣いが、よみとれないようでは駄目だ。ただ、本書は、蕪村の生活句を「境涯詠」などに分類するなど、いままでにみられない新たな分類を行った点で評価できる。子規や朔太郎は生活者としての蕪村の句をまとめなかった。100点満点で65点。
 
2)藤田真一 「蕪村」(岩波文庫705)2000
 これは蕪村俳句の評論集ではなく、俳人蕪村を多角的に分析した評伝のような構成になっている。藤田は当時、京都府大の教授であった。春風馬堤曲の鑑賞においては、藪入り少女のちょっとはしゃいだ気持ちと故郷への想いが錯綜した道行きとして無理なく解説されている。「融通無碍な発想があって、そのくせ人間らしい心が、ふわっと伝わる蕪村の俳諧世界を紹介したい」と著者はいっている。学者の評論であるが、蕪村のほのぼのとした人柄を伝える佳作である。藤田には他に「蕪村の名句を読む」(河出書房)や「風呂で読む蕪村」(世界思想社)がある。いずれも蕪村自身の独白でもって、代表句を紹介するユニークな著書である。この中の蕪村「滝口に燈を呼声やはるの雨」は、貴人と武士が経験する時間の対比論で鑑賞した名解釈である。90点。

 

3)正岡子規 「俳人蕪村」(講談社文芸文庫)1999
 明治30年4月13日から11月15日まで、子規が「日本」及び「日本付録通報」に連載したものである(底本は明治32年「ほととぎす発行)。子規によると生存中、蕪村は画人としてより俳人として有名だったそうだ。それが死後、画人蕪村として知られ、その俳句はほとんど評価されなかったそうだ。しかし子規派の再評価により、その俳名が再び画名を上回ってきたと自画自賛している。ここでは、蕪村の俳句を「積極的美」「客観的美」「人事的美」「複雑的美」「理想的美」などに分類し、用語の自由性、句法の革新性、句調の斬新性、味のある特殊な文法(間違った文法なのに句に趣をあたえている)、材料の特殊性を挙げている。そして、それぞれの項目で該当する例句を挙げている(材料の特殊性では「公達に狐ばけたり宵の春」など}。すべての句をくまなく読み込んで整理したのであろうが、おそるべき気力と分析力である。春風馬堤曲に関しては、あまり詳しい解説はないが、「蕪村を知るこよなきもので、俳句以外に蕪村の文学としてはこれ以外にはない」としているが、一方で新体詩の先駆けを開けなかったことを惜しいんでいる。ともかくこの評論や「蕪村と几董」などによって、埋もれていた蕪村俳句は、近代によみがえった。只一点ケチをつけると、子規は最後の方で「蕪村の悪句は埋没して佳句のみのこりたるか。俳句における技量は俳句界を横絶せり、ついに芭蕉其角の及ぶ所に非ず」としているが、蕪村俳句全集をみるに必ずしもそうでない。駄句、凡句も結構ある。99点。
 
4)萩原朔太郎 「郷愁の詩人・与謝蕪村」岩波文庫 1988
詩想(ポエジイ)にあふれたセンチメンタリストとしての蕪村を定着させた朔太郎の有名な書である。個人誌「生理」に昭和8-10年連載された。ここでは、まず子規派が、蕪村俳句を写生主義として規定してしまったことを批判している。しかしこれは明らかに誤解である。前の「俳人蕪村」を読んでも、たしかに「直ちにもって絵画となしうべき」ような作品を「客観的美」として分類しているが、それは蕪村俳句のジャンヌの一つにすぎない。ほかに人事句など、あまりロマンにみちたものではないのも子規は紹介している。朔太郎も「我をいとふ隣家寒夜に鍋を鳴らす」を紹介しているが、これなんかロマンどころか生活がにじみ出た俳句だ。むしろ、リリシズムの極致である「愁ひつつ岡にのぼれば花いばら」の引用を抜かしている。これを抜かしてはいかん。蕪村はクリスタルグラスのような多面体である。時代のせいかも知れないが、朔太郎の読みは浅いのではないか。ただ蕪村の飄逸な書体を評して、彼を「炬燵の詩人」としたのは慧眼である。90点、
 
5) 竹西寛子「竹西寛子の松尾芭蕉集 与謝蕪村集」集英社 1996
 竹西寛子は原爆体験をもった小説家であり文学評論家である。ここで竹西寛子は蕪村の俳句を一句づつ解釈していくが、その内容は極めて良識的で納得できるものである。壮大な「菜の花や月は東に日は西に」から生活句「菜の花や笋見ゆる小風呂敷」まで蕪村世界を無難にこなしている。「鮎くれてよらで過行く夜半の門」の夜半は夜中ではなく、夜半亭の事だとする宮地伝三郎(京大教授で動物学者)の説も紹介している。それなりに勉強したということであろう。ただ驚くほど新鮮な解釈を披露しているわけでない。80点

6) 小西甚一 「俳句の世界(第七章 蕪村)」 講談社学術文庫 1995
 俳諧の起源から説きはじめた俳句の歴史書における蕪村論である。「樟の根をしずかにぬなすしぐれかな」の「しずかに」の用法が当句を名品に仕上げたという解説には感じいった。断章での解説であるせいか、評論対象の選句が自由で斬新な雰囲気ではあるが、短いのでものたりない。75点。
 
7) 森本哲郎 「詩人与謝蕪村の世界」講談社学術文庫 1996
 森本哲郎(1925-2014)は)新聞記者を経て評論家となり東京女子大教授。「世界の旅」など多数の著書がある。俳人でも文学者でもない政治畑のジャーナリストの蕪村論である。雑誌「国文学」に掲載されたものをまとめたらしいが、理由はあとがきを読んでもよくわからない。ただ「私は蕪村が好きだ。蕪村の世界をこのうえなく美しいと思う」と述べている。好きでなかったら書けない。テーマ別に18章で構成されている。どれも蕪村俳句を様々な角度から解説するが、著者の博覧強記にはおどろくほかない。「島原の草履にちかきこてふかな」の句について、プラトンのイデア論を挽きつつ、「世界は仮の相であり、夢であり、幻であり、影であるというあの荘子の哲学は、蕪村の芸樹の中では独特の美学となり十七文字に結晶している」と述べている。子規、朔太郎の評論に次ぐ記念すべき書である。95点。
 
8)高橋治 「蕪村春秋」朝日文庫 2001
高橋治(1929-2015)直木賞作家、映画監督。「蕪村に狂う人、蕪村を知らずに終わる人。世の中には二種類の人間しかいない」と強烈なフレーズで始まる映像作家の蕪村論。80点
 
 
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サイモン・シンの『フェルマーの最終定理』を読もう。

2024年06月26日 | 評論

サイモン・シン Saimon Signh (1964-)著『フェルマーの最終定理』( Fermat's last theorem)(青木薫訳) 新潮文庫 (2000)

ともかく面白い。ただ「知的に面白い本」なので、これがためになるかどうかは読者によるのである。

サイモン・シンはインド系のイギリス人。ケンブリッジ大学で素粒子物理学の博士号を取得。ジュネーブの研究センターに勤務後、BBCテレビ局に転職。TVドキュメント「フェルマーの最終定理」で各種の賞を受賞。その後、同名の書を書き下ろす。他に「暗号解読」、「宇宙創成」、「代替医療」、『数学者たちの楽園―ザ・シンプソンズを作った天才たち」などの著書がある。

その粗筋は以下のごとし。

{ xn+yn=zn n>2のとき、この方程式には整数解が存在しない }

 十七世紀「数論の父」と呼ばれるピエール・ド・フェルマー(1607-1665)は、古代ギリシャの数学者ディオファントスが著した『算術』(Arithmetica) の注釈本をの余白に「私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない」と書き残す。この予想は後に「フェルマーの最終定理」と呼ばれ、多くの数学者たちが,長年にわたって挑戦したが成功しなかった。しかし、二十世紀末(1995)にイギリスの数学者アンドリュー・ワイルズが完全証明に成功し、フェルマーの最終定理は解かれた。

 このドキュメントは数学(数論)史であり、また関係する数学者の人間ドラマの歴史でもある。 ここで 登場する数学者達はピタゴラス、エラクレカテス、ディオファントス、インド・アラビアの数学者達、フェルマー、オイラー、ジェルマン、ラメ、コーシー、ガロア、谷村・志村、岩澤、フライ、リベット、コーシー、メーサー、テイラー、アンドリュー・ワイルズなどである。最終的には1995年、イギリスの数学者であるアンドリュー・ジョン・ワイルズ(Sir Andrew John Wiles,)によって解決される。

 この物語でのポイントは谷山―志村予想である。谷山–志村予想(Taniyama–Shimura conjecture)とは「楕円方程式(曲線)はすべてモジュラーであるう」という予想である。1955年に谷山豊によって提起され、数学者の志村五郎によって定式化された。結局、ワイルズは谷山–志村予想を解決することでフェルマーの最終定理をとくことになる。この物語は数学におけるピラミッド建設の物語でもある。

 エピソードがつぎつぎ連続していくドラマ仕立てだが、話に途中飽かさない。ともかくアマゾンで本を買って読んでほしい。

 

 

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環境問題 III 火の利用と人類の進化

2024年06月05日 | 環境問題
   人間は生物的進化と個体的発生の帰結として今ここに存在している。それ故に、人間は生物的特性を持った現存在として規定さる。人間は神様が創りあそばしたと信ずるのは自由だが、ヒトは類人猿の一種で数百万年前にチンパンンジーとの共通祖先から分かれて進化してきた事が明らかにされている。そして個体は母親の卵子と父親の精子が受精し、発生・発育がすすんで形成される。ヒトは時間論的には二つの「時間の矢」の先端に位置している。いずれの過程にも環境が大いに関わっている。人間は環境の産物であるが、人口が増え過ぎてその活動が地球環境に影響し始めている。まさに原始地球におけるシアノバクテリアのごときものである。シアノバクテリアは、当時の嫌気性生物に毒である酸素を発生し、大気の雰囲気を変えてしまった。
 
ヒトと人の違いは「自然の中のヒト」と「社会の中の人」という風に表現できる。人がヒトから分離した時期を知ることはむつかしい。この二つは完全に分離する事はなくその割合を変えつつ、今でも人間の中で存在していたと考えられる。二分法で自然(ヒト)か社会(人)かを問題にされはじめたのは、つい最近のことである。産業革命以降に、この二つの深刻な乖離と相克が始まった。
 
   人類が進化した理由はいろいろ考えられる。二足歩行や道具の使用、言語の発達などである。他に大事な要因は火の使用ということがあげらえる。40万年前のドイツのヒトの遺跡からも火打石や炉の跡が見つかっているし、ネアンデルタール人も火を使っていたことは確かである。火は食糧加工、暖房、野生動物防御と野焼きなどに利用された。加熱処理で食べられる食物のレパトリーが広がり、かつ保存がきいた。火を利用して青銅器や鉄器がつくられ、それらが文明の礎になった。一方でそれは、環境破壊の原因ともなった。ユバアノア・ハラリは「たった一人の女性でも、火打ち石か火起こし棒があれば、わずか巣時間のうちに森をそっくり焼き払うことが可能だった。火の利用は、来るべきものの前兆だった」と述べている。時代がすすむと蒸気機関のエネルギーとなって産業革命をおこし、今では火力発電所で電気の源になっている。「人類の文明進化は火とともにあり」というわけである。
 
人類が火を使うことによって地表の様相は大きく変化した。地球環境変動の端緒は初期人類による野焼きであったが、それは現代にいたるまで継続されている。最も大きい影響を受けたのはオーストラリア大陸であった。乾燥した気候のせいで火が簡単に広がった。サバンナや温帯の森林でも乾燥期には容易に火が放たれた。火はバクテリアよりも素早く有機物を分解し、栽培植物のために灰分を供給した。火に耐性の植物が人類の移動とともに地球に広まった。
 
 
火の利用で初期人類の生活に重要であったのは「炉端話」であったと思える。夜中に仲間と一緒に火を見つめ合いながら談話し、今日の出来事を振り返り明日の行動を確認しあった。仲間の結束がこれによって固まり、知識が伝承された。子供の教育にもなった。このような過程で言語の発達がうながされたかもしれない。この時代は火を怖がる子供は淘汰されたのではないか?時には周辺の他の家族や集団を招待し、炉端の周りに食べ物を並べたパーティーも開かれたに違いない。このようにして部落社会が生まれたものと思う。
 人間がまだ自然と共存していたヒトの時代の話である。いまでも寒い冬の日、道端でたき火をすると、いつのまにか人が周りに集まってくるのは、あのころの遺存形質が残っているからに違いない。
 
参考図書
ユヴアル・ノア・ハラリ 「サピエンス全史」河出書房新社 2017
ピーター・S・アンガー( 河合信和訳) 『人類は噛んで進化した』 原書房 2019
武内和彦他 『環境学序説』 岩波書店 2002
ウィリアム・H・マクニール、ジョン・R・マクニール 『世界史 I』桑工社、2015
ロバート・ボイド、ジョーン・シルク 『ヒトはどのように進化してきたか』松本晶子。小田亮訳 ミネルヴァ書房 2011
佐倉統 『現代思想としての環境問題』 中公新書1073 中央公論社 1992
  (この本の読後感想ー環境問題について生態学と進化生物学の視点から軽快なテンポで論議しているのでよく書けていると感心して読んでいたが、途中で「DNAメタネットワーク」などというわけの分からない話が提案されてガックリきてしまった。)
 
追記(2020/05/28)
ウイリアム・マクニールという歴史研究家の説によると、原始人は狩猟の前後に焚火を囲んで踊りをおどったそうだ。集団をなす人間が長時間にわたって拍子をそろえて一斉に手足の筋肉を動かしていると、非常に強力な社会的紐帯が生ずると言っている(W.マクニール 『戦争の歴史』(高橋均訳)刀水書房 2002年)(高島俊男 『ちょっとヘンだぞ四字熟語』(文春文庫)文藝春秋、2009)
 
追記(2022/03/13)
コーディー・キャッイーの「人類の歴史を作った17の発見」(河出書房)は読むに値する。火は火打ち石(黄鉄鉱)で起こしたとしている。食物の熱処理がどれほど生理的影響をあたえたかポイントになったいる。
 
追記(2024/06/05)
岡本 剛(「焚き火の脳科学ーヒトはなぜ焚き火にはまるか」(九州大学出版:2024)によると、脳科学的研究によってヒトは焚き火のそばにいると、脳波のアルファー波やシーター波が増えるそうである。これは脳活動の覚醒化を表していrのだそうだ。ただ上でのべたような文化人類史的な考察は無い。
 
 
 
 
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生きとし生ける物すべて意味あり。

2024年06月03日 | ミニ里山記録

 

 

<生きとし生ける物すべて意味あり>

 チャールズ・エルトン(Charles Sutherland Elton :1900-1991)は、イギリスの動物学者で動物の個体群生態学を確立させた。長い間、オックスフォード大学の動物個体群研究所所長を勤め、自然史博物学を生態学に高めた人物とされているが、現在の個別解析的な生態学者には、どちらかと言うと忘れられた存在である。

 そのエルトン氏には、大学敷地の広大なワイタムの森の自然を記述した「The pattern of Animal Comunities(1966)」(日本語の訳本は「動物群集の様式」思索社:1990)がある。日本語訳本で約650頁もあり、ワイタム丘陵の生物の子細な記述が延々と続く。一部の野外研究家にとっては、たまらない自然叙事詩だが、大抵の読者には、とんでもない退屈な読み物である。「生態調査の究極の目的は、ある地域に棲むすべての種についてある一定の期間にわたってその個体群とその動的関係を確かめかつ測定することである」(訳本p36)といった自己の主張を、具体的に示したイコン的著作といえる。

 

 ともかく点や線でしか考えなかった関係が面で考えるようになった。そうなると関係も極めて複雑になり「飛び越えた関係性」が問題になる。いわば”風が吹けば桶屋がもうかる”といった構造を考えなければないなくなる。地球の エコシステムはバランスを保ちながら動的に成立しているように見える。存在する物がすべて関係して、このバランスがなりたっていると仮定すると、人類の災禍であったペスト菌やインフルエンザ、コロナウイルスも地球にとってなんらかの意義が存在するのではないかと考えたくなる。彼らは人類にとって、とんでもない”悪玉”(悪い関係)ではあるが、異常に繁殖しすぎた人類の人口調整に地球(ガイア)が遣わした”善玉”(他の種にとって良い関係)ではないのか?コロナウイルスはヒトに感染発病させるのに他の動物は感染しても発病しない事実はこのことを暗示している。

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悪口の生態学:酒飲みが歴史を変える?

2024年05月22日 | 悪口学

酔っぱらいが変えた世界史:アレクサンドロス大王からエリツィンまで ( 2021) 原書房

ブノワ・フランクバルム (著), 神田 順子 , 村上 尚子, 田辺 希久子 (訳)

 

  この著は人類の飲酒が歴史ではたした役割を軽妙な語り口で述べている。これを読むと西洋史に登場する重要な人物(男)のほとんどはアル中のようである。たとえば、第4章に書かれているアレキサンドロス大王も酒乱の人で、酔った勢いで口論のあげく大事な部下のクレイトス(この男も結構な酒乱)を槍で突き殺してしまう。酔いが醒めて、えらい事をしたとオロオロしても後悔後に立たず。

 

 過度のアルコール摂取は体に良くないし、精神にも障害を与える事が多い。抑制が解けて言わないでも良いことを口走り、人間関係が大抵、悪くなる。酒は「気違い水」といわれる根拠である。しかし、たまには生産的な事もおこるという。その例として、第13章「マルクス主義は10日間続いた酒盛りの結実だ」がある。1844年にマルクスとエンゲルスははじめて知り合ったが、パリでのビールの酒盛りで意気投合し生涯の友情を得た。この出会いの10日の酒盛り議論をもとに書き上げたのが有名な「聖家族」である。もっともマルクスもエンゲルスも、根っからのアルコール漬けの生活で、エンゲルスはこの頃、売春婦を相手にしていたという。そのような証拠を示す手紙が残っている。この本の著者はもともとマルクス主義なんか認めてないので、結局は二人の淫蕩な生活を暴露する悪口を書きたかったようだ。

 

 ここからは庵主の試論。人はアルコール(エタノール)を代謝するのにALDHという酵素を必要としている。これにはI型とII型がある。II型は活性が強くI型は弱い。遺伝的にII型をホモで持つ人は酒につよい。ヘテロの人やI型のホモの人は弱いか全然飲めない。ようするに、この遺伝子型の人々は飲んでも楽しくはならない集団である。日本人や中国人などのモンゴロイド系ではII型ホモの人は56%でI型ホモは5%である。残り39%がI型とII型のヘテロタイプである。一方、白人や黒人は、ほぼ100%がII型ホモで、どいつも酒に強い。たとえばフランス人は、子供でも水がわりワインを飲んでいる。

 ようするに、「なんでそんな酒ばかり飲んで」と批判したり馬鹿にする抑止力集団が社会に存在しないので、とことん飲んでしまうことになる。なにせII型ホモにとって酒は飲んでるときは無闇に楽しい。ここでは酒に強いことが一元的な価値基準なのだ。スターリンの宴会パーティーの話(18章)のように酒豪が政治的勝者になるケースが多い。遺伝学者のマシュー・キャリガンによると約1000年前に人類の祖先が、II型酵素(変異型)を手に入れたそうである。サルの仲間には自然発酵した果実を好むものがいる。日本ではII型ホモのアルコール耐性群(A群)とI型ホモ、ヘテロの不耐性型(B群)がほぼ半々まざっているので、話が複雑になる。AとBの会食ではだいたいBの方が寡黙になってAの人々だけが乗りまくって話をしている。これが男女の婚姻や親子関係、会社や組織の人事構成に影響なしとはいえない。夫がA型で妻がB型の場合(A=B型)の離婚率はA=A型やB=B型より高いのではないだろうか?

 

  カール・ジンマーの著わした「進化:生命のたどった道」(2012 岩波新書 長谷川真理子訳)によると、アルコールの選好選択によってショウジョウバエを、そうでないものとわけて累代にわたり遺伝的にわけていくと、アルコール好きの系統ができる。これは、そうでない集団と生殖隔離がおこるらしい(P215)。はたして人間社会ではどうなっているのか?酒好きどうし、酒嫌いどうしが結婚する傾向があるのか?その子孫への影響は?

 こういった事を述べた酒飲みの社会学とかいう本はありませんか。



 

 

 

 

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今年の二ホンミツバチ分蜂

2024年05月11日 | ミニ里山記録

2024年3月 越冬2群の二ホンミツバチうち1群はアカリンダニのために消滅。

4月22日 生き残った群から、午前11時ごろ第一回分蜂(写真1)。庭の桜の幹に蜂球を作る(写真2)。網で捕獲し、別の巣箱に取り込む。中群で順調に営巣している(写真3)。

 

(写真 1)

 (写真 2)

(写真」3)

 

  4月24日 第二回分蜂群。シロバナキンリョウヘンを傍においた丸胴の巣箱の外側サイドに自然分蜂群がきて、蜂球形成(写真4)。巣に入れるが、再びもとの場所にもどり蜂球形成。そのまま放置する。由来不明。

 

 (写真 4)

 

4月25日 翌日、13時ごろ、隣の別の巣箱に集団で移動。小群ながら順調に巣盤を作りはじめている (写真5)。

 

 (写真 5)

 

 

第三回分蜂 シロバナキンリョウヘンに。小群。ミカン箱の巣箱にとりこむ。由来不明。

 

5月11日アカバナキンリョウヘンに第4回分蜂群(中群)。重箱巣にとりいれる。、おそらく野生の他群由来。

 

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京大の臍、百万遍の思い出

2024年04月28日 | 日記

京大の臍、百万遍の思い出

 

  京都大学に入学した頃は、日本は高度成長期の真っただ中にあった。西陣の織物問屋の二階に下宿したので、千本から百万遍経由の市電①番で毎日、吉田の教養部に通った。

 当時の教養部の南キャンパスには、まだ旧制三高の残り香が至る所に漂っていて、古色蒼然たる新徳館、尚賢館などの木造の建物が構内に残ってた。入学後、剣道部に入り、授業が終わると、キャンバスの少し南にある武道場に通って練習した。練習が終わると、大抵、皆で百万遍のレストラン「円居」(まどい)で食事をとった。当時、円居ではご飯が食べ放題だったので、ソースだけで、おひつを一個、空にする豪の者がいた。円居は歴史の荒波の中で、頑張っていたが、最近廃業したようである。

 百万遍は京都の今出川と東大路の交差点である。当時、東南角は京都大学、西南角は第一勧銀(現在はドラッグストアー)、西北角は本屋(平和堂)とパチンコ屋(モナコ)、北東角は岩崎宝石店があった。

 学部に進学した。当時、化学教室は北部構内の理学部1号館にあったが、百万遍の北門のそばに、生化の赤レンガ建ての分館があり、微生物実験室などのある分館がまだ残されていたので、そこで酵母の培養実験などをおこなった。分館には半地下、一階、二階と屋根裏部屋があり、その中庭には花壇と藤棚、バレーコートがあった。屋根裏部屋には慎ましやかな天窓が付いており、「ゲーテの部屋」と呼ばれていた。フェルーメルの絵に出てきそうな、その優雅な部屋の片隅には、奇妙な形をした古典的なガラスの実験器具がいくつも並べられていて、薄明かりの中で魔法の様に輝いていたのを記憶している。

 しかし、大学院の途中で、この美しい赤レンガ棟は取り壊される運命となり、立ち退く前に、皆で不要になった有機溶媒をドラム缶にボンボン掘り込み、中庭で燃やした。今では、いや当時も、許されなかったことだったがいい加減な時代だった。ところが、予想外に炎と黒煙が高々と舞い上がり、そうこうしているうちに、そばの門衛所から守衛が消化器を抱えて飛んできて、消すの、消さないので一悶着があった。この赤レンガの建物はなくなり石油化学の建物になっている。

 このドタバタな引っ越しが終わり、全員、北部構内に移った。大学院では、主として酵母のステロール代謝の研究を行った。その頃は、医化学第2講座の沼正作先生が、動物の脂肪酸代謝の研究を精力的に展開されていた頃で、時々そのセミナーにも参加した。当時は、またボーリングブームの最盛期で、夜になると実験の合間に、実験がうまくいったといっては、あるいはうまくいかなかったといっては、研究室の仲間と百万遍のおでん屋(「雪野屋」)などにでかけ、遅くまでワイワイといろんなことを議論した。

 これ以外にも百万遍にまつわる筆者の遍歴は、「学士堂」・「カルチェラタン (1969)」・「モナコ」(パチンコ屋)・「吉岡書店」・「京科社」・「進々堂」などいろいろあった。さらに退職後はパスツールビルの5階にあった健康関係の財団法人の研究員として働いたこともある。ここは「ワガ人生の活性中心」みたいな場所でもある。

 いまでもこの付近を少し歩くと、裏道に古い木造の家屋が残っており、懐かしい。

 

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民主主義とファシズム:池内紀の「ヒトラーの時代」より

2024年04月26日 | 評論

 

 池内紀著の「ヒトラーの時代: ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか」は形式的民主主義が、油断していると、たちまちファシズムに転化してしまうことを述べている。

 ナチスはその政権の独裁制を世界から非難されるたびに、その決定は民主的な手続きのもとに生まれたことを力説した。いかなる武力(クーデター)で権力を強奪したわけでなく、憲法で規定された民主的な選挙で選ばれたこと、つねに国民の審判を仰いだことを強調した(ただ悪賢いナチスはワイマール憲法の”バグ”=非常事態法を利用した)。確かに政権についた1933年1月より政局の展開のたびに国民投票が実施された。国際連盟脱退、ヴェルサイユ条約軍備制破棄、再軍備、ラインランド進駐など、国運を左右する決定のたびに国民投票で、それの可否を問うた。さすれば、有権者の多数の意思(意見)を集約する形式だけでは、なんの意味はなく、ファシズムの培養器ですらある。民主主義のかめのは、形式だけでなくプラスαとして何が必要なのか? 

 

 

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悪口の霊長学的起源

2024年03月18日 | 悪口学

悪口の霊長学的起源

    群れに警戒声を発する動物の種類は非常に多岐にわたる。前にコクマルガラスの例をあげた(悪口の解剖学: サツマイモとカラスの悪口)。霊長類の多くも警戒声を出して周囲の仲間に危険を知らせる。ニホンザルは、危険を察すると「クアン」という警戒音を発し、仲間はすぐにこれに反応し、同じ声をあちこちで発する。この警戒声が人類の「悪口」の起源ではないかと思っている。「人はどのように進化してきたか」(ロバート・ボイド、ジョーン・シルク著)によると、サルの警戒声は利他行動で、当人は捕食者の注意を引いて食われる確率を増やす。すなわち自分のリスクを大きくするが、群れ全体は生き延びる確率が増大するとしている。おそらく、これは他個体の意識推論的な応答ではなく反射的な反応を生み出していたのだろう。しかし発声遺伝子(体質)を持つ個体になんのメリットもなければ、そのうちこういった個体(遺伝子)は群れから排除されてしまうはずである。そうならなかったのは、このアラーマー(警戒声個体)にトレードオフになる別の「よい事(メリット)」があったからだろう。このような行動は単一遺伝子によって支配されているのではなく、複合遺伝子が関与している。アラーマーは交配相手のメスを獲得し易いとか、餌を見つける能力が優れているとかの性質を同時に持っていた可能性が高い。このような個体が群れのリーダーに進化したのかもしれない。

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悪口の解剖学:悪口の人類学的起源

2024年02月01日 | 悪口学

 

 ユヴァル・ノア・ハラリ (Yuval Noah Harari )の名著「サピエンス全史:文明の構造と人類の幸福」によると、初期人類の言語会話は1)外敵や獲物に関する情報交換と2)噂話であるという。ホモ・サピエンスは社会的動物で、その協力は生存と繁殖のカギを握っている。自分が属する集団の中での情報が重要というのである。誰が信頼できるか、あるいは誰は危険で信頼できないかといった情報は、大きな集団へと拡大したり、まとまって行動するときに不可欠としている。噂は大抵、悪行を話題としている。噂好きな人は、元祖第四階級、すなわち、ずるをする人やたかり屋について知らせ、それによって社会をその類の寄生者から守るジャーナリストに役割を果たしている。彼はまた逆に、他者の噂話により、ベネフィットの高い見返りの情報を期待している。ここに仮想の仲間意識が芽生える。政治集団の派閥はこの「見返り」を期待する互助会なのだ。

(注)あの人はいい人だという噂話は、利得の独り占めという観点からするとあまりされない。「いい人」との関係は量的に限界があるので、なるべく独り占めしたいからだ。

 

 

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明仁上皇によるシーボルトの『日本動物学誌』研究

2024年01月27日 | 日記

明仁上皇によるシーボルトの『日本動物誌』研究

 コナン・ドイルのシャーロック・ホームズシリーズには手紙や印刷物を手掛かりに事件や犯人を推理する物語がいくつもある。長編「バスカヴィル家の犬」では、古文書に記された筆記体の特徴から、その制作年代を当てるエピソードが出てくる。こういったホームズ張りの推理力を発揮し、学術文献のインク跡を手掛かりに、ある魚の学名を決定した著名な日本の魚類学者がいる。その人は明仁上皇で、問題の魚はハゼ科のウロハゼ、文献はシーボルト編纂の『ファウナ・ヤポニカ(日本動物誌)』であった。上皇がまだ親王の頃、この話に関する論文が日本魚類学雑誌(1966)に掲載されているので紹介する。

 

 

                                   図1. ウロハゼ(Web魚類図鑑より転載)

 海辺で釣れるハゼはマハゼ(真鯊)が多いが、まれに横幅のあるずんぐりしたウロハゼが釣れる。岩の隙間や穴などに隠れる習性からウロハゼと呼ばれるが、舌の先端の切れ込みや頭頂部から背びれにかけての黒斑が特徴である(図1)。マハゼと同様に天ぷらにして食すると美味しい。日本、台湾、中国沿岸、南はトンキン湾にかけて分布しており、国内では新潟、茨城を北限とし九州に分布している。「ハゼ」は、スズキ目ハゼ亜目に分類されている魚の総称で、世界には約2000種以上、日本だけでも約600種類が生息する。これだけ種類が多いと分類する方にも混乱が生ずるのが常であるが、ウロハゼについても例外ではなかった。

 生物の命名法において、同一物と見なされる種につけられた学名が複数ある場合に、それぞれをシノニム(synonym)というが、上皇の論文が発表された当時、和名ウロハゼのシノニムとしては以下の4つが考えられていた。、<Gobius brunneus TEMMINCK&SCHLEGEL 1845>、<Gobius olivaceus TEMMINCK&SCHLEGEL 1845>および<Gobius fasciato-punctatus RICHARDSON 1845>である。国際動物命名規約によると、学名の優先権は、基準を満たした記載を条件として時間的に早い発表にある。データーベースもなく文献の検索も不自由な時代であったので、複数の研究者がウロハゼに別々の学名をつけていたのである。一体、いずれに学名の優先権があるのか?

 上皇は、これらのシノニムを一つ一つ綿密に検討された。まず、Gobius brunneusはファウナ・ヤポニカに掲載されたものであるが (図版74-2、142頁)、タイプ標本の厳密な検査から、これはウロハゼではなくヨシノボリとする研究報告があり除外できるとされた。次に、Gobius giurisについては、もともとフタゴハゼに付けられた学名であったので、これとウロハゼが同種あるいは亜種の関係かどうかが問題となった。そこで上皇は、この2つの魚の複数個体について形態的な比較をされて、いくつかの点で異なっていること、さらに同じ地域に生息することなどより、これらがそれぞれ異なる特定の種と判定された。このことから、フタゴハゼの種名giurisをウロハゼに使用することは不適となった。次にGobius olivaceusは、brunneusと同じくファウナ・ヤポニカに掲載されたものであるが (図版74-3、143頁)、そのタイプ標本はライデン博物館に存在せず、川原慶賀が描いた細密な写生図が残されていた。この図を仔細に観ると、頭部や背中の黒斑や、その他の形態は明らかにウロハゼを表していた。この事実はGobius olivaceusはウロハゼの学名として成立用件を備えていることを示していることになる。標本が無いのにスケッチを基準にするのは、不思議な気がするが、分類学では信頼できる図があれば、これをiconotypeとして標本の代わりすることが認められている。そして、最後のGobius fasciato-punctatusであるが、これもJ.Richardson著のIchythology-PartIII(1845)に、その図が掲載されており、それは明らかにウロハゼと認定できるものであった。

 かくしてウロハゼの学名としては、規約上、Gobius olivaceuとGobius fasciato-punctatusのいずれにも資格があることになるが、どちらが先に発表されたが問題となった。前に述べたように早い記載に先取権があるからだ。RichardsonのIchythology-PartIIIは、表紙に1845年10月出版となっており、命名規約に従い発行日付は月末の10月31日とされた。一方、Gobius olivaceuはファウナ・ヤポニカ魚類編の143頁に記載されているものであるが、これの発表月日の判定は、やっかいな問題があった。ファウナ・ヤポニカ魚類編は1842年から1850年にかけて分冊の形でバラバラに出版されたが、後に分冊は全て図版とテキストに分けて解体され、一冊にまとめられている。分冊では図版の次にテキストが綴じらえていたが、合本ではテキストの後に図版がまとめられた。分冊の表紙も最後にまとめて綴じられているが、どれにも出版の日付けは記載されていない。すなわち143頁が、どの分冊に収められていたのか、いつ発行されたのか全く判らなくなっていたのである。

 一方で、書誌学的な研究により、第7-9分冊は113-179頁をカバーしていること、第7、8 分冊は1845年10月11日に発行されたこと、また第9分冊は1846年5月1日に発行されたことがわかっていた。この事から上皇は、第8分冊と第9分冊のテキストの境目が判明すれば、143頁がどちらに入るかが決まるので問題が解決すると考えられた。もし第7、8 分冊に入っておれば、規約上10月11日がウロハゼの学名命名日となり、10月31日発行のIchythologyに記載されたfasciato-punctatusより優先権があるということになる。門外漢にとっては、ウロハゼの学名が、いつ頃、誰に付けられようとどうでもよい事かも知れないが、一つの標本を新種として確定するのに、論文作成を含めて数年もかかる分類学者にとってはきわめて大切な事なのである。

 どのようにしたら、その境目を見つけることができるのだろうか?ここで、いよいよ上皇陛下はホームズ張りの観察力と推理力を発揮される事になる。上皇は、日本の図書館や大学に保存されているファウナ・ヤポニカ魚類編の初版本を何セットも調査された。そして、学習院本で一連の図版62-93のうちの最後の図版93の裏に次頁のインクが転写していることを発見された。科学警察研究所で画像解析すると、それは153頁のテキストインクの転写であることが判明したのである。このことは、これらの図版とテキスト153-179頁が第9分冊として纏められていたことを示している。すなわち、第8分冊と第9分冊の境目は152-153頁にあったということになる。このようにしてウロハゼの分類学的な学名として、ファウナ・ヤポニカに記載されたGobius olivaceuに先取権があると結論を下された。olivaceuはラテン語で「オリーブ色の」という意味である。後になって、属名はGlossogobius属と変更されたので、学名は今ではGlossogobius olivaceuとなっている。明仁上皇は、この論文を含めてハゼ科魚類に関する多数の論文・著書を発表されている。発見された新種はアワユキフタスジハゼやセスジフタスジハゼを含めて10種にも及び、この分野における世界的な権威者として活躍しておられるのである。

 生物分類学は、学名を付け安定させ人類がその学名を恒久的に使えるようにすることを目的としている。生物科学においては、まず観察に基づく分類学があり、ついで比較によりそれぞれの関係を明らかにする系統学が、さらにその系統が生ずる原因を考究する進化学がある。分類ー系統ー進化という研究の道筋はエルンスト・マイヤ的には三位一体のものだが、扱う生物が何かを知る分類学がまず最初にくるは当然の話だ。このような方法は、人文科学の分野においても有効である 。

 最後にウロハゼが最初に記載されたファウナ•ヤポニカについて少し解説をしておきたい。シーボルトの日本における主要な任務が、自然物のコレクションであった事は本誌の前号で述べたが、彼はそれを体系的にまとめて解説した本を出版した。シーボルトは植物に詳しかったのでドイツ人ツッカリーニ (J.D.Zuccarini )との共著でフローラ・ヤポニカ(日本植物誌)を出版し、日本の植物紹介を行った。一方、動物についての書は編集のみ行い、分類とその解説は動物学の専門家にまかせる事にした。シーボルトが編集したファウナ•ヤポニカは哺乳類、鳥類、爬虫類(両生類を含む)、魚類、甲殻類をそれぞれまとめた5巻から構成される。本文はライデンの自然史博物館の3人の館員によって執筆される事になる。すなわち、哺乳類、鳥類、爬虫類、魚類の各篇はライデン博物館館長テミンク(C.J.Temminck)と脊椎動物部門のシュレーゲル (H.Schlegel)の二人が共同で、甲殻類篇は無脊椎動物部門のハーン (W.D.Hann)が単独で執筆した。ただ魚類編に関しては実際はシュレーゲルが単独で執筆したとされる。シーボルト自身は爬虫類と甲殻類の2篇に序論を書いている。ファウナ•ヤポニカには合計803種もの動物が記載され、そのうち313種が新種とされている。シーボルトが帰蘭した後、ファウナ•ヤポニカは1833年から1850年にわたる長い年月をかけ43分冊で出版された。バラバラな形で出版された各分冊は、上記のように数巻にまとめられ頑丈に製本、 保存された。序文や図版を含めて、全部合わせると1400頁を超える大部なものである。ファウナ•ヤポニカはフローラ•ヤポニカとともに日本の生物相を、西欧に初めて体系的に知らしめた歴史的な出版物であり、現在も分類学における重要文献となっている。京都大学理学部生物系図書室がファウナ•ヤポニカの4巻セットを所蔵しており、貴重資料画像としてインターネットで公開している。京都大学が所蔵するファウナ•ヤポニカの実物の表紙の大きさは、縦40cm、横30cmもある(図2)。表紙に続く扉ページにラテン語で記された奥付があり、最初に編集者であるシーボルトの名に続いて共著者の名が装飾文字で描かれている。魚類篇の場合、発行年代は第一分冊が出版された1842年となっており、このページの背景には、鳳凰、麒麟など瑞祥動物が多面仏を囲む東洋的構図の絵が描かれている。この書物には目次はなく、各魚種をつぎつぎ説明した314頁もの本文があって、登場した558種、種数としては356種を記載した長いリストが続く。そのうち約半数が新種とされている。さらに、そのリストの後に161葉の図版が続き、約290枚の美麗なカラーの石版画がつけられている。そして、巻末には合本の際に剥がされた各分冊の表紙が、一枚ずつ丁寧に綴じ合わされている。この魚類篇の図譜のほとんどは、絵師の川原慶賀(1786-1862)の原画をもとに作成されたものとされる。

 

 参考図書

明仁(1966)「ウロハゼの学名について(On the scientific name of a gobiid fish named "urohaze)」魚類学雑誌 13巻:73-101頁

今村央 (2019)「魚類分類学のすすめ」海文堂出版 

岡西正典 (2020)「新種の発見ー見つけ、名づけ、系統づける動物分類学」中公新書 2589

三中信宏 (2006) 「系統樹思考の世界」講談社現代新書 1849

 

 

 

   

 

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生理学者・杉晴夫による分子生物学者・渡辺格へのとっておきの悪口

2024年01月25日 | 悪口学

 

  杉晴夫は1933年生まれの筋肉の生理学者である。東大農学部を卒業後、同大大学院医学研究科を修了、同大医学助手、コロンビア大学、米国NHI研究員を経て、帝京大学医学部の教授を勤めた。筋収縮の生理学的研究で業績をあげ、多数の専門書や啓蒙書を上梓している。不思議な事に『腹背の敵 李舜臣対豊臣秀吉の戦い』(文芸社2016)といった歴史物も書いている。

 杉晴夫氏が、最近出した「日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか」(光文新書1197:2022)には、日本の大学や医学にたいする批判や悪口が満載されている。この本では、その悪口に人が関係する場合は、対象人物の名前は匿名になっている。例えばA教授とか、その大学院生B君のように書かれている。

 ただ、名指しでやり玉にあげている例外が一人いる。それは、日本の分子生物学の草分けといわれる渡辺格氏(1899-1964)である。渡辺氏は東京帝国大学理学部化学科を卒業後、渡米しカリホルニア大学でバクテリアファージの研究を行った。その後、東京大学理学部、京都大学ウイルス研の教授を経て、慶應義塾医学部教授を勤めた。江上不二夫、柴谷篤彦らと日本の分子生物学を立ち上げた人物として知られている。

 杉晴夫氏は、この著名な分子生物学者が、何ら特筆すべき研究も行わず、慶應大学時代にも非生産的教授として過ごしていたかを、細々したエピソードを紹介しながら述べている。そして、彼の悪口は次の下りで最高潮に達するのである。

 『私が渡辺氏と面識を得る以前に彼に注目したのは、利根川進氏が1997年、ノーベル医学賞を受賞された際、ストックホルムでの授賞式で終始利根川氏と同じテレビ放映の画面に入ろうと「努力」している渡辺氏の態度からであった。これは私の偏見ではなく、同じテレビ番組を見ていた友人がみな同じ印象を持ち、「よく恥ずかしくないものだね」と言っていた。なお噂によると、渡辺があまりにしつこいので、「もうやめてください」と利根川氏に言われたという』(同書より抜粋引用)

利根川氏のノーベル賞受賞式に、渡辺氏が登場する理由は、どうも彼が利根川氏の京都大学時代の「恩師」であるからの様である。ただ、短期間の特殊な「師弟関係」であった。それが、どのようなものであったかは、利根川氏の「私の脳科学講義」に、次のように書かれている。利根川氏は京大理学部を卒業した後、ウイルス研の渡辺研究室に入るつもりで、大学院に進学する。彼は分子生物学を目指していたからである。

 『渡辺格先生の研究室にはじめて行くと、渡辺先生が「わたしを教授室に呼んで、「君は真剣に分子生物学者になる気があるのか」と言います。「もちろん、そうです」と言うと、先生は意外なことを言い出したのです。「日本では分子生物学の大学院教育をしているところはない。そんなものは自分のところだってできない。ほんとうにやる気があるならアメリカに行くしかない。自分がどこか当たりを付けてやるからアメリカに留学しろ』(「私の脳科学講義」より)

渡辺教授のありえないような無責任な話だが、たまたま同じ研究所の由良隆氏らの紹介があり、利根川氏はカリフォルニア大学サンチャゴ校に留学できたと書かれている。本当のところは、ウイルス研の渡辺研究室が、ほとんどまともな仕事をしていないのを利根川氏は見て(アメリカから帰国したばかりの由良氏を除き)、ここではダメと見定めたのではないか。せっかく、大学院に入学したのに、ウイルス研では一日も実験をしていない。

 杉晴夫氏の叱咤・糾弾は分からないでもない。あの頃の大学の生物系の大部分の教授連は、何してたのだろうという人が多い。 ただ、日本の分子生物学の黎明期に渡辺格などの「権威」に対抗して、これを推進しようとする集団やグループが存在すれば別だが(そういった意識ある研究者は利根川氏の様に日本を飛び出した)、この人達がいなければ、1回周回遅れどころか、2回遅れになっていたかも知れない。杉氏は、1)教育、2)研究実績、3)研究者育成の3つを教授の任務として挙げているが、この3つを同時に備えている人は日本ではめずらし。そもそも、それが出来る物質的、文化的基盤が、日本の大学にも研究所にもないからである。

(注)杉は渡辺格以外にも、K大の動物行動学者H教授もやり玉に挙げている。何もまともな研究してないじゃないかと言っている。H先生は東大理学部の生物出身で杉とは重なっていないのに、不思議な悪口だ。

 

 

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蜂類におけるシャーマン戦車とティーガ戦車の闘い

2024年01月25日 | ミニ里山記録

 

 巣盤から採ったボールの蜂蜜の残りに、ニホンミツバチとオオスズメバチが集り、そこで乱闘が起こった。しばらくして見てみると、オオスズメバチ5匹にニホンミツバチ約50匹が死んでいた。まさにドイツ軍の重量戦車ティーガに、アメリカ軍のシャーマン戦車が集団で襲いかかるような戦いである。ブラッド・ピット主演の映画「フューリー」でも、ティーガ1台にシャーマン戦車4台で戦い、3台がやられてしまう、最後に主人公の戦車がティーガを仕留める。ここの闘いではオオスズメバチの1匹は、なんとか生き延びたようであるが。

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エルンスト・マイヤの種概念

2023年12月21日 | 日記

 

エルンスト・マイヤ 

「これが生物学だーマイヤから21世紀の生物学者へ」(八杉貞雄、松田学訳)

 

 エルンスト・マイヤ(Ernst Mayr:1904-2005)  ドイツバイエルン州生まれの進化生物学者。鳥類の分類学、生態学で顕著な業績を挙げる。ハーバード大学教授。同大博物館館長。進化学における総合説を確立させ、種分化における「異所的種分化説」を唱えた。また「交雑可能」を基準とする生物学的種概念を提唱したので有名である。

 

このマイヤは、形態的基準は種の区分として信頼できないとして、生殖隔離(非交雑性)こそが重要な基準であるとした。これが平衡のとれた調和された遺伝子保護(すなわち種の実態保護)の制度と考えたのである。種間の形態的差異は生殖隔離の結果だと考えた。

マイヤの種概念における生殖隔離説は分かりやすくすっきりしており、現代の生物学者の間では、ほぼ主流をなしている。ダーウィンも、ある時期にこの「生物的種概念説」を唱えていたそうだ。しかし、最後には類型学的種概念説に戻った。何故だろうか。

次のように考えてみた。たまたまA種内に交雑不能な個体が生まれても、それに新たなニッチ獲得の優位性がなければ、たちまち消えてしまう。交雑不能という変異は、必ずしも新たな適応的なニッチ獲得を保証していない。資産のないドラ息子が親戚一同から勘当されているようなものだ。すなわち、単に交雑隔離が起こったとしても、あらたな種Bが種Aから生ずる可能性は限りなく小さい。

逆なんじゃないかと思える。すなわち環境への適応的変異の個体が突然変異で生ずる。それにともなって、体に様々な形態的な変化や生理的変化が生ずる。この突然変異は集団に広がるが、食い物の好みや種類も変わるかもしれない。その結果として、もとの変異の集団とは「相性が悪くなり」生殖隔離がおこる。αという環境に適応した種Aとβという環境に適応した種Bが交雑しても、不適な子孫ができて淘汰される。これは実験生物学的に検証できると思える。

マイアは、著書の中で「ダーウィンの転向」を「不思議なこと」と述べているが(p155)、ダーウィンも、最後はきっとこのように考えたんだと思う。種分化(種の起源)は、二つの条件(環境への適応変異とそれに引き続く生殖隔離)を潜り抜けてきた結果なのだ。異所的種分化も、この二つのプロセスが必要なのだ(単に住み場所が機械的に分かれたためではなく)。Great Bookの題が「種の起源(Orign of Species)]となっている所以である。

 

 

 

 

 

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