京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

小林秀雄の「鍔」とセンター試験

2013年02月14日 | 日記

 先月19日に行われた大学入試センター試験の国語の平均点が、今までで最低だったそうだ(200点満点で101.04点)。それは小林秀雄(1902-83年)の評論「鐔」という難解な文章が出題されたためである(朝日新聞デジタルhttp://www.asahi.com/edu/center-exam/TKY201301240041.html)。小林の全集では5ページ半に及ぶもので、その全文を読ませ解答させている。

  新聞に掲載された問題をみると、確かにこれは受験生にとって、とんでもない災難であったろうと思う。鍔や刀の絵入で注釈だけでも21個もある。文章そのものが難解なだけでなく設問も趣旨がたいへん読みとりにくい。

たとえば第4の設問は「もし鉄に生があるなら、水をやれば、文様透は芽を出したであろう」が、どういうことを例えているかを問うている。これは5択になっており朝日新聞(2013年1月20日朝刊20面)の解答例では正答を2番としているが、他の選択肢も間違いとは言えないものだ。短時間で高校生にこんな難解な文章を読みこなせというのは無理であろう。出題委員会では多数の委員がいるのに、どうしてフィードバックがかからないのだろうか?こんな問題では国語力は差分できない。センター試験では、たまにこのような奇問難問が出されるが、責任者は猛省すべきであろう。

   小林秀雄は戦前から活躍していた評論家で、エクセントリックな文章表現を多用し、昔の文学青年がこれに幻惑されさかんに模倣した。その文学青年達が文系の大学教師になり無闇に小林の作品を入試に出した時代がある。

   向井敏(1930- 2002年)はその著「文章読本」(文芸春秋:1988年)において、小林秀雄を「殺し文句にかけては海内無双の名手」と述べ、その一例として「ランボウ論」の一行「酩酊の船は瑰麗な夢を満載して解繿する」を引用している。これは、ほめているのではなく、こけ脅しだと言っているのだ。

小林の言っている事はあきれるくらい単純なのに、その当たり前の事を素直に表現せず、人を幻惑する「殺し文句」を多用し文章を修飾していると批判している。そして、「小林の殺し文句はたしかにみごとなものだが、ただし、それは論じられている当面の問題や批判対象から独立した手前勝手な感情の表明が多い」とし、「殺し文句の効果はたしかに大きいが、一面こうした危うさを蔵していて、そのからくりを見破られたときには失笑を買い文章全体の信用性を失いかねない」と切り捨てるように結んでいる。

   そもそも、小林の美術評論を読むと、内容は単純も単純で底の浅さを感ずる。「鍔」にしてもそうである。鍔は信家、金家としているが、ようするに「巨人•大鵬」と通俗の評価を確認しているだけで何の事はない。体系的に鍔を観賞して得た深い知識と造詣に裏打ちされたものとは、とても読み取れないのである。

  小林秀雄の他の美術評論に「真贋」という作品がある。この書き出しが、またすさまじい。小林は良寛のものといわれる詩軸(詩のみが書かれた掛け軸)を買って悦に入っていた。ところが良寛研究家の友人に「これは偽物だ」と言われると、傍らにあった刀でその掛け軸をバラバラに切り裂いてしまう。

 「よく切れるな。その刀はなんだ」

 「一文字助光だよ。全くよくきれる。何か切ってみたかったんだよ」

まったく子供じみていてバカバカしい。後の話も骨董品の入手とその真贋についてのつまらないエピソードがクダクダと続く。小林秀雄に、深い経験と見識で裏打ちされた審美眼があったようには思えない 。どうして、あの頃、高所に立つ知的な評論家として小林がもてはやされたのかまったく理解に苦しむ。

  (写真:蘭亭コレクション 「葡萄透かし鍔」)

 

 

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真冬のクサカゲロウ

2013年02月08日 | ミニ里山記録

 庭で畑の整地をしていたら、どこからともなく出てきたクサカゲロウ(写真)。指で刺激すると翅を動かして飛ぼうとする。この季節に緑色の動く昆虫を見ると不思議な気持ちになる。

 クサカゲロウは成虫で越冬すると言われているが、緑の体色のまま変化なしで越冬するカオマダラクサカゲロウ(Mallada desjardinsi) の可能性が強い。今冬は寒く気温が零下になる晩が多いのに、こんな細い体でよくぞ凍らずに過ごせるものだと感心する。

 写真のクサカゲロウの翅は少し土で汚れ、片方の触角が欠損しているが、英語ではgreen lacewingと呼ばれる優美な虫である。もっとも幼虫は背中にゴミを載せて擬態しアブラムシを補食する獰猛な肉食昆虫である。外国のクサカゲロウの一種(Chrysopa slossonae)は被食者のアブラムシが出す綿毛様の物質を掻きとり自分の体に着け変装し、それによってアブラムシと共生するアリの攻撃を逃れて補食効率を高めているそうだ。

 クサカゲロウの卵は葉裏などに着いて、憂曇華(ウドンゲ)と呼ばれる柄に植物の種がぶら下がったような奇妙な形をしている。これが何の擬態なのかわからないが、特色のある生活史を示す虫である。庭に放した写真のクサカゲロウが無事に春を迎える事を祈りたい(N3I1)。

                                 

                             月に飛び月の色なり草かげろふ 中村草田男


 

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親切と暴力の非対称について

2013年02月04日 | 評論

   ハーバード大学教授であった進化生物学者のスティーヴン・ジェイ・グールド(Stephen Jay Gould:1941- 2002)は「一万回の親切」というエッセイで、人の社会における親切と暴力の非対称について論じている。これは「八匹の子豚-種の絶滅と進化をめぐる省察」(Eight little piggies:早川書房)という本の中におさめられている話だ。

 日常、我々の生活における99.9%の行為は友好的で善意に満ちあふれているが、まれに起こる暴力や邪悪な行為によって、すべてが覆ると主張する。ほとんどあらゆる瞬間を支配しているのは平和な安定状態のはずだが、稀有な恐ろしい突発的事件が歴史を作ると言う事にもなる。この発想の原点はグールドがメイルズ・エルドリッジと共に提案した生物の進化理論 “断続平衡説”に基づいている。これは、生物の進化は時間とともにゆっくりと連続して進行するのではなく、地質年代的にはほんの一瞬の間で起こるという説である。

 親切と暴力の非対称性は教育の現場でも起こる事で、教師が生徒に対して一万回親切を施していても、たった一回の暴言(暴行)で、いままでの努力が水泡に帰してしまう事がある。まったく教育とはひたすら忍耐することのようだ。生徒の方は忍耐力がないから、当然、一方的に教師にそれが求められる。

 大阪桜宮高校での教師による体罰事件や日本女子柔道の選手に対する監督の暴行事件は、このテーマとはまったく正反対の状況のようである。はたして一万回の暴力が一回の親切により回復するような非対称性があるのかどうか? 昔の親方と徒弟の関係を描いたドラマにそんなのがあったが、今ではとてもありそうもない話だ。

 

 

 

 

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