京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

原発の俳景

2012年03月11日 | 日記

  原発の俳景

 

                                                                                                                 

蹌々踉々大ないの国の桜かな

原子炉を冷やしてくれよ春の雪

福一に怯えて縮む列島弧

原子炉は破れて白い東風来る

E=mc2の方程式を恨む鮎

栗の太り行く日の放射線

セシュウムの薪燃やさぬ大文字

Fukushimaのノート重ねし九月尽

原発をののしる声や茸苅り

臨界のニュースが届く今朝の秋

避難地区日めくり換らず年を越す

放射線貫き通す去年今年

悔恨の弥生や黒き海の色

 

 平成二十三年三月十一日の大地震発生後に来襲した津波により、東京電力福島第一原子力発電所(福一)は主要建屋設備の全域が浸水、一~六号機の交流電源は、六号機の非常用ディーゼル発電機一台を除きすべて喪失し、一、二、四号機では、交流電源喪失時に監視機能を確保する直流電源盤も機能を失い、さらに、原子炉の除熱や各設備を冷却するために必要な冷却系もすべて使用不能となった。そのために、原子炉内の核燃料の崩壊熱により高温となり、燃料棒が融けはじめ、圧力容器の底にたまり、さらにそれを貫通して格納容器の底のコンクリートを熱で分解し、最大六十五センチ侵入した可能性が報じられている。容器を覆う鋼鉄まであと三十七センチという際どさで、首の皮一枚を残し、今のところ止まっている。電力資本や政府が膨大な金と時間を使って築き上げた「安全神話」が、あっという間に崩れ去った瞬間である。

 三月十二日15:36 一号機水素爆発、 十四日11:01 三号機水素爆発、十五日6:00 四号機で爆発、二号機で衝撃音……。 新聞はこの頃、「極めて深刻な放射能放出が始まった。甚大な健康被害の可能性」と報じた。夕刊紙は一面に巨大な活字で「逃げろ!」というセンセーショナルな見出を掲げた。アメリカ政府は日本にいる自国民に八十キロ圏外への立ち退きを命じた。海外便の飛行機は乗客で満員になった。

 しかし、幸運なことに、結果として住民に急性放射線障害が出る程の事態に至らなかった。これは、事故現場に留まって原子炉の暴走を必死になって押しとどめた技術者や作業員の献身的努力があったとしても、事故の経緯を調べると、たまたまの僥倖によるとしか思えない。

 そして重要な事は、福島原発事故は、野田首相の冷温停止宣言にもかかわらず、いまだ収束どころか、事故の進行中であるという事だ。今のところ、原子炉内のメルトダウンした核燃料は、仮設的な冷却設備で冷やされてはいるが、不安定な状態で置かれている。十一月の始めには二号炉でキセノンが検出され、再臨界の可能性が報道された。後に、核反応生成物の自発核分裂によるものと否定されたが、周りの水がメルトダウンしたウラン燃料に浸潤して減速剤として働き、熱中性子を増やせば、再臨界の可能性は否定できない。

 膨大な量の放射性物質が破壊された原子炉から漏出し(それでも原子炉内の全体の1%ほど)、放射性雲に乗って飛び散り、大地も海洋も汚染した。一説では広島原爆の三十個分、チェルノブイリ原発事故のときの十パーセントもの放射能が撒き散らされたという。放射性物質の中には長い半減期を持ったものがあり、除染のメドが立っていない。中でも放射性セシュウム、ストロンチュウム、プルトニュウムなどは比較的、量も多く、長期にわたり環境中に滞留する。一部は生物濃縮され、魚類や、ある種のキノコに蓄積する。

 今年八月、京都大文字の送り火では、福島の放射性物質に汚染した松材を燃やすか、燃やさないかで、すったもんだした。低線量の放射能でも、どこまでが絶対的に安全レベルか、科学的に確定していないので、人々はすっかり怖じけづいているのが現状だ。

 放射性物質の漏出は止まったわけではなく、今でも毎時一億ベクレルも、壊れた原子炉から漏れているという。福島では、高濃度の放射性物質に汚染された地域の約十二万もの人々が、住み慣れた自宅に帰れず、避難所で年を越す事になる。Fukushimaは、今やチェルノブイリと並んで、世界的に名の知れわたった地域となってしまった。

 福島原発事故は日本の文明社会の驕り昂りが露呈し、高転びに転んだ姿であると言えるだろう。この重苦しい社会現象を五七五の俳句でもって詠みこむのは、難しい。しかし、東北で身をもって原発事故の被害に遇った人の作品は印象深いものが多い。

  相馬よりいま沈黙の葱坊主  高橋央尚

  被曝地の薫風の野に牛痩せし 桜井字久夫

  脱原発デモに知る顔梅雨激し 下島章寿

  原発の風上にある夏祭り   下向良子

  鮟鱇の腸煮え返る放射能   多田 敬

          (朝日新聞「俳壇」より引用)

 当事者のこういった体感句に比べると、遠く京都の地で、恐れおののきながら事故を傍観していただけの筆者の掲句は及ぶべくもない。しかし、深刻な時代の記憶として、ここに書きとどめた。

 俳句では自己作品の解説はタブーとされているが、最初の掲句の最後から二句目のものについてだけ少し述べておきたい。これは本年一月に朝日新聞の俳壇で金子兜太氏の選を受けたものである。

 高浜虚子の有名な「去年今年貫く棒のようなもの」は昭和二十五年の作品である。この前年に、湯川秀樹博士が日本人で初めてノーベル賞を受賞し、この年の六月には朝鮮特需が始まった。この頃、日本を貫いていたものは、復興という明るく輝く希望であった。しかし、今、社会と自然を貫いている白々としたものは、放射線である。一日も早く、日本国よりこの棒が取り除かれる事を祈りたい。

 

コメント
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