京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

京大の臍、百万遍の思い出

2024年04月28日 | 日記

京大の臍、百万遍の思い出

 

  京都大学に入学した頃は、日本は高度成長期の真っただ中にあった。西陣の織物問屋の二階に下宿したので、千本から百万遍経由の市電①番で毎日、吉田の教養部に通った。

 当時の教養部の南キャンパスには、まだ旧制三高の残り香が至る所に漂っていて、古色蒼然たる新徳館、尚賢館などの木造の建物が構内に残ってた。入学後、剣道部に入り、授業が終わると、キャンバスの少し南にある武道場に通って練習した。練習が終わると、大抵、皆で百万遍のレストラン「円居」(まどい)で食事をとった。当時、円居ではご飯が食べ放題だったので、ソースだけで、おひつを一個、空にする豪の者がいた。円居は歴史の荒波の中で、頑張っていたが、最近廃業したようである。

 百万遍は京都の今出川と東大路の交差点である。当時、東南角は京都大学、西南角は第一勧銀(現在はドラッグストアー)、西北角は本屋(平和堂)とパチンコ屋(モナコ)、北東角は岩崎宝石店があった。

 学部に進学した。当時、化学教室は北部構内の理学部1号館にあったが、百万遍の北門のそばに、生化の赤レンガ建ての分館があり、微生物実験室などのある分館がまだ残されていたので、そこで酵母の培養実験などをおこなった。分館には半地下、一階、二階と屋根裏部屋があり、その中庭には花壇と藤棚、バレーコートがあった。屋根裏部屋には慎ましやかな天窓が付いており、「ゲーテの部屋」と呼ばれていた。フェルーメルの絵に出てきそうな、その優雅な部屋の片隅には、奇妙な形をした古典的なガラスの実験器具がいくつも並べられていて、薄明かりの中で魔法の様に輝いていたのを記憶している。

 しかし、大学院の途中で、この美しい赤レンガ棟は取り壊される運命となり、立ち退く前に、皆で不要になった有機溶媒をドラム缶にボンボン掘り込み、中庭で燃やした。今では、いや当時も、許されなかったことだったがいい加減な時代だった。ところが、予想外に炎と黒煙が高々と舞い上がり、そうこうしているうちに、そばの門衛所から守衛が消化器を抱えて飛んできて、消すの、消さないので一悶着があった。この赤レンガの建物はなくなり石油化学の建物になっている。

 このドタバタな引っ越しが終わり、全員、北部構内に移った。大学院では、主として酵母のステロール代謝の研究を行った。その頃は、医化学第2講座の沼正作先生が、動物の脂肪酸代謝の研究を精力的に展開されていた頃で、時々そのセミナーにも参加した。当時は、またボーリングブームの最盛期で、夜になると実験の合間に、実験がうまくいったといっては、あるいはうまくいかなかったといっては、研究室の仲間と百万遍のおでん屋(「雪野屋」)などにでかけ、遅くまでワイワイといろんなことを議論した。

 これ以外にも百万遍にまつわる筆者の遍歴は、「学士堂」・「カルチェラタン (1969)」・「モナコ」(パチンコ屋)・「吉岡書店」・「京科社」・「進々堂」などいろいろあった。さらに退職後はパスツールビルの5階にあった健康関係の財団法人の研究員として働いたこともある。ここは「ワガ人生の活性中心」みたいな場所でもある。

 いまでもこの付近を少し歩くと、裏道に古い木造の家屋が残っており、懐かしい。

 

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明仁上皇によるシーボルトの『日本動物学誌』研究

2024年01月27日 | 日記

明仁上皇によるシーボルトの『日本動物誌』研究

 コナン・ドイルのシャーロック・ホームズシリーズには手紙や印刷物を手掛かりに事件や犯人を推理する物語がいくつもある。長編「バスカヴィル家の犬」では、古文書に記された筆記体の特徴から、その制作年代を当てるエピソードが出てくる。こういったホームズ張りの推理力を発揮し、学術文献のインク跡を手掛かりに、ある魚の学名を決定した著名な日本の魚類学者がいる。その人は明仁上皇で、問題の魚はハゼ科のウロハゼ、文献はシーボルト編纂の『ファウナ・ヤポニカ(日本動物誌)』であった。上皇がまだ親王の頃、この話に関する論文が日本魚類学雑誌(1966)に掲載されているので紹介する。

 

 

                                   図1. ウロハゼ(Web魚類図鑑より転載)

 海辺で釣れるハゼはマハゼ(真鯊)が多いが、まれに横幅のあるずんぐりしたウロハゼが釣れる。岩の隙間や穴などに隠れる習性からウロハゼと呼ばれるが、舌の先端の切れ込みや頭頂部から背びれにかけての黒斑が特徴である(図1)。マハゼと同様に天ぷらにして食すると美味しい。日本、台湾、中国沿岸、南はトンキン湾にかけて分布しており、国内では新潟、茨城を北限とし九州に分布している。「ハゼ」は、スズキ目ハゼ亜目に分類されている魚の総称で、世界には約2000種以上、日本だけでも約600種類が生息する。これだけ種類が多いと分類する方にも混乱が生ずるのが常であるが、ウロハゼについても例外ではなかった。

 生物の命名法において、同一物と見なされる種につけられた学名が複数ある場合に、それぞれをシノニム(synonym)というが、上皇の論文が発表された当時、和名ウロハゼのシノニムとしては以下の4つが考えられていた。、<Gobius brunneus TEMMINCK&SCHLEGEL 1845>、<Gobius olivaceus TEMMINCK&SCHLEGEL 1845>および<Gobius fasciato-punctatus RICHARDSON 1845>である。国際動物命名規約によると、学名の優先権は、基準を満たした記載を条件として時間的に早い発表にある。データーベースもなく文献の検索も不自由な時代であったので、複数の研究者がウロハゼに別々の学名をつけていたのである。一体、いずれに学名の優先権があるのか?

 上皇は、これらのシノニムを一つ一つ綿密に検討された。まず、Gobius brunneusはファウナ・ヤポニカに掲載されたものであるが (図版74-2、142頁)、タイプ標本の厳密な検査から、これはウロハゼではなくヨシノボリとする研究報告があり除外できるとされた。次に、Gobius giurisについては、もともとフタゴハゼに付けられた学名であったので、これとウロハゼが同種あるいは亜種の関係かどうかが問題となった。そこで上皇は、この2つの魚の複数個体について形態的な比較をされて、いくつかの点で異なっていること、さらに同じ地域に生息することなどより、これらがそれぞれ異なる特定の種と判定された。このことから、フタゴハゼの種名giurisをウロハゼに使用することは不適となった。次にGobius olivaceusは、brunneusと同じくファウナ・ヤポニカに掲載されたものであるが (図版74-3、143頁)、そのタイプ標本はライデン博物館に存在せず、川原慶賀が描いた細密な写生図が残されていた。この図を仔細に観ると、頭部や背中の黒斑や、その他の形態は明らかにウロハゼを表していた。この事実はGobius olivaceusはウロハゼの学名として成立用件を備えていることを示していることになる。標本が無いのにスケッチを基準にするのは、不思議な気がするが、分類学では信頼できる図があれば、これをiconotypeとして標本の代わりすることが認められている。そして、最後のGobius fasciato-punctatusであるが、これもJ.Richardson著のIchythology-PartIII(1845)に、その図が掲載されており、それは明らかにウロハゼと認定できるものであった。

 かくしてウロハゼの学名としては、規約上、Gobius olivaceuとGobius fasciato-punctatusのいずれにも資格があることになるが、どちらが先に発表されたが問題となった。前に述べたように早い記載に先取権があるからだ。RichardsonのIchythology-PartIIIは、表紙に1845年10月出版となっており、命名規約に従い発行日付は月末の10月31日とされた。一方、Gobius olivaceuはファウナ・ヤポニカ魚類編の143頁に記載されているものであるが、これの発表月日の判定は、やっかいな問題があった。ファウナ・ヤポニカ魚類編は1842年から1850年にかけて分冊の形でバラバラに出版されたが、後に分冊は全て図版とテキストに分けて解体され、一冊にまとめられている。分冊では図版の次にテキストが綴じらえていたが、合本ではテキストの後に図版がまとめられた。分冊の表紙も最後にまとめて綴じられているが、どれにも出版の日付けは記載されていない。すなわち143頁が、どの分冊に収められていたのか、いつ発行されたのか全く判らなくなっていたのである。

 一方で、書誌学的な研究により、第7-9分冊は113-179頁をカバーしていること、第7、8 分冊は1845年10月11日に発行されたこと、また第9分冊は1846年5月1日に発行されたことがわかっていた。この事から上皇は、第8分冊と第9分冊のテキストの境目が判明すれば、143頁がどちらに入るかが決まるので問題が解決すると考えられた。もし第7、8 分冊に入っておれば、規約上10月11日がウロハゼの学名命名日となり、10月31日発行のIchythologyに記載されたfasciato-punctatusより優先権があるということになる。門外漢にとっては、ウロハゼの学名が、いつ頃、誰に付けられようとどうでもよい事かも知れないが、一つの標本を新種として確定するのに、論文作成を含めて数年もかかる分類学者にとってはきわめて大切な事なのである。

 どのようにしたら、その境目を見つけることができるのだろうか?ここで、いよいよ上皇陛下はホームズ張りの観察力と推理力を発揮される事になる。上皇は、日本の図書館や大学に保存されているファウナ・ヤポニカ魚類編の初版本を何セットも調査された。そして、学習院本で一連の図版62-93のうちの最後の図版93の裏に次頁のインクが転写していることを発見された。科学警察研究所で画像解析すると、それは153頁のテキストインクの転写であることが判明したのである。このことは、これらの図版とテキスト153-179頁が第9分冊として纏められていたことを示している。すなわち、第8分冊と第9分冊の境目は152-153頁にあったということになる。このようにしてウロハゼの分類学的な学名として、ファウナ・ヤポニカに記載されたGobius olivaceuに先取権があると結論を下された。olivaceuはラテン語で「オリーブ色の」という意味である。後になって、属名はGlossogobius属と変更されたので、学名は今ではGlossogobius olivaceuとなっている。明仁上皇は、この論文を含めてハゼ科魚類に関する多数の論文・著書を発表されている。発見された新種はアワユキフタスジハゼやセスジフタスジハゼを含めて10種にも及び、この分野における世界的な権威者として活躍しておられるのである。

 生物分類学は、学名を付け安定させ人類がその学名を恒久的に使えるようにすることを目的としている。生物科学においては、まず観察に基づく分類学があり、ついで比較によりそれぞれの関係を明らかにする系統学が、さらにその系統が生ずる原因を考究する進化学がある。分類ー系統ー進化という研究の道筋はエルンスト・マイヤ的には三位一体のものだが、扱う生物が何かを知る分類学がまず最初にくるは当然の話だ。このような方法は、人文科学の分野においても有効である 。

 最後にウロハゼが最初に記載されたファウナ•ヤポニカについて少し解説をしておきたい。シーボルトの日本における主要な任務が、自然物のコレクションであった事は本誌の前号で述べたが、彼はそれを体系的にまとめて解説した本を出版した。シーボルトは植物に詳しかったのでドイツ人ツッカリーニ (J.D.Zuccarini )との共著でフローラ・ヤポニカ(日本植物誌)を出版し、日本の植物紹介を行った。一方、動物についての書は編集のみ行い、分類とその解説は動物学の専門家にまかせる事にした。シーボルトが編集したファウナ•ヤポニカは哺乳類、鳥類、爬虫類(両生類を含む)、魚類、甲殻類をそれぞれまとめた5巻から構成される。本文はライデンの自然史博物館の3人の館員によって執筆される事になる。すなわち、哺乳類、鳥類、爬虫類、魚類の各篇はライデン博物館館長テミンク(C.J.Temminck)と脊椎動物部門のシュレーゲル (H.Schlegel)の二人が共同で、甲殻類篇は無脊椎動物部門のハーン (W.D.Hann)が単独で執筆した。ただ魚類編に関しては実際はシュレーゲルが単独で執筆したとされる。シーボルト自身は爬虫類と甲殻類の2篇に序論を書いている。ファウナ•ヤポニカには合計803種もの動物が記載され、そのうち313種が新種とされている。シーボルトが帰蘭した後、ファウナ•ヤポニカは1833年から1850年にわたる長い年月をかけ43分冊で出版された。バラバラな形で出版された各分冊は、上記のように数巻にまとめられ頑丈に製本、 保存された。序文や図版を含めて、全部合わせると1400頁を超える大部なものである。ファウナ•ヤポニカはフローラ•ヤポニカとともに日本の生物相を、西欧に初めて体系的に知らしめた歴史的な出版物であり、現在も分類学における重要文献となっている。京都大学理学部生物系図書室がファウナ•ヤポニカの4巻セットを所蔵しており、貴重資料画像としてインターネットで公開している。京都大学が所蔵するファウナ•ヤポニカの実物の表紙の大きさは、縦40cm、横30cmもある(図2)。表紙に続く扉ページにラテン語で記された奥付があり、最初に編集者であるシーボルトの名に続いて共著者の名が装飾文字で描かれている。魚類篇の場合、発行年代は第一分冊が出版された1842年となっており、このページの背景には、鳳凰、麒麟など瑞祥動物が多面仏を囲む東洋的構図の絵が描かれている。この書物には目次はなく、各魚種をつぎつぎ説明した314頁もの本文があって、登場した558種、種数としては356種を記載した長いリストが続く。そのうち約半数が新種とされている。さらに、そのリストの後に161葉の図版が続き、約290枚の美麗なカラーの石版画がつけられている。そして、巻末には合本の際に剥がされた各分冊の表紙が、一枚ずつ丁寧に綴じ合わされている。この魚類篇の図譜のほとんどは、絵師の川原慶賀(1786-1862)の原画をもとに作成されたものとされる。

 

 参考図書

明仁(1966)「ウロハゼの学名について(On the scientific name of a gobiid fish named "urohaze)」魚類学雑誌 13巻:73-101頁

今村央 (2019)「魚類分類学のすすめ」海文堂出版 

岡西正典 (2020)「新種の発見ー見つけ、名づけ、系統づける動物分類学」中公新書 2589

三中信宏 (2006) 「系統樹思考の世界」講談社現代新書 1849

 

 

 

   

 

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エルンスト・マイヤの種概念

2023年12月21日 | 日記

 

エルンスト・マイヤ 

「これが生物学だーマイヤから21世紀の生物学者へ」(八杉貞雄、松田学訳)

 

 エルンスト・マイヤ(Ernst Mayr:1904-2005)  ドイツバイエルン州生まれの進化生物学者。鳥類の分類学、生態学で顕著な業績を挙げる。ハーバード大学教授。同大博物館館長。進化学における総合説を確立させ、種分化における「異所的種分化説」を唱えた。また「交雑可能」を基準とする生物学的種概念を提唱したので有名である。

 

このマイヤは、形態的基準は種の区分として信頼できないとして、生殖隔離(非交雑性)こそが重要な基準であるとした。これが平衡のとれた調和された遺伝子保護(すなわち種の実態保護)の制度と考えたのである。種間の形態的差異は生殖隔離の結果だと考えた。

マイヤの種概念における生殖隔離説は分かりやすくすっきりしており、現代の生物学者の間では、ほぼ主流をなしている。ダーウィンも、ある時期にこの「生物的種概念説」を唱えていたそうだ。しかし、最後には類型学的種概念説に戻った。何故だろうか。

次のように考えてみた。たまたまA種内に交雑不能な個体が生まれても、それに新たなニッチ獲得の優位性がなければ、たちまち消えてしまう。交雑不能という変異は、必ずしも新たな適応的なニッチ獲得を保証していない。資産のないドラ息子が親戚一同から勘当されているようなものだ。すなわち、単に交雑隔離が起こったとしても、あらたな種Bが種Aから生ずる可能性は限りなく小さい。

逆なんじゃないかと思える。すなわち環境への適応的変異の個体が突然変異で生ずる。それにともなって、体に様々な形態的な変化や生理的変化が生ずる。この突然変異は集団に広がるが、食い物の好みや種類も変わるかもしれない。その結果として、もとの変異の集団とは「相性が悪くなり」生殖隔離がおこる。αという環境に適応した種Aとβという環境に適応した種Bが交雑しても、不適な子孫ができて淘汰される。これは実験生物学的に検証できると思える。

マイアは、著書の中で「ダーウィンの転向」を「不思議なこと」と述べているが(p155)、ダーウィンも、最後はきっとこのように考えたんだと思う。種分化(種の起源)は、二つの条件(環境への適応変異とそれに引き続く生殖隔離)を潜り抜けてきた結果なのだ。異所的種分化も、この二つのプロセスが必要なのだ(単に住み場所が機械的に分かれたためではなく)。Great Bookの題が「種の起源(Orign of Species)]となっている所以である。

 

 

 

 

 

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マルコム・アンダーソンと鷲家口のニホンオオカミ

2023年02月23日 | 日記

  マルコム・アンダーソン(Malcolm Playfair Anderson、1879-1919)はアメリカ合衆国の動物学者である。1905年奈良県吉野郡鷲家口で、若い雄のニホンオオカミの死骸を猟師から得た。この皮と骨格はロンドン博物館におさめられている。これ以降、確かなニホンオオカミの個体サンプルは得られていない。このアンダーソンの事はあまり知られていないが、死後、その母親によって書かれたポートレイト(MALCOM PLAYFAIR ANDERSON by MELVILLE ANDERSON:The Condor (1919), vol.21. No.3 115-119 、Oxford Journals Oxford Univ.Press。https://www.jstor.org/stable/1362461)がその姿を伝えている。これを和訳して解説を加えた。

 

[メルビレ・アンダーソンによるマルコム・アンダーソンのポートレイト}(庵主楽蜂抄訳)

  私の息子マルコムは1879年4月6日、インディアナポリスの郊外で生まれました。両親はどちらも学校の先生で、父はバトラー大学の教授でした。12才から14才までマルコムはドイツで過ごし、そこの学校に通いました。ここで彼は教科書からは何も得るところはありませんでしたが、ドイツ人の同級生からは大いに学ぶところがありました。彼も兄弟もドイツの学校でなんとかやっていくためには、腕力が必要である事を知ったのです。マルコムはまじめで、おとなしい子供でしたが、自分の体格の2倍以上ある悪ガキを恐れなくなりました。彼は意思に反して強制されるラテン語の授業を心から嫌っていました。学校の外でも、彼は不正に対して積極的に戦いました。そしてマルコムはドイツ語についてのいささかの知識といじめや告げ口しかないドイツ人級友に対する嫌悪の情を抱いて、この国を去ったのです。しばらくして彼の父がスタンフォード大学の英文学の教授に招聘されたためです。マルコムはドイツで受けた精神的な障害を回復するためにイレーネ・ハーディー氏の授業を受けました。彼女はマルコムにやさしく接してくれて、精神的治療を施してたので、そうこうするうちに彼はスタンフォード大学で動物学を学び1904年に修士学位を得ました。

 15才になってから、マルコムはいくつかの探検隊に参加するようになりました。学位を得る前に彼は数千マイルも野外を歩くフィールドワークを行ない、アリゾナ、カリフォルニアやアラスカの動物や植物の調査研究を行ないました。1901年に彼はコパー鳥類研究クラブのメンバーに属しました。彼は残念なことに本来なすべき事を沢山残して亡くなったのですが、残された研究ノートは彼が注意深い観察者であり、あくなき鳥のコレクターであった事を示しています。1904年に彼はロンドン動物学会により、ベッドフォード公爵東南アジア探検隊の一員となり、そこでは著名な哺乳動物研究のOldfield Thomas氏の直接の指導を受けたので、マルコムの関心は鳥類だけに限定されることはなく、多様なフィールドの動物に興味を持つようになりました。彼の日記をたどると、東洋に滞在した3年足らずの間に捕らえた鳥と哺乳動物の割合が大まかに分かります。これらのコレクションはロンドンのサウス・ケンジントン動物博物館に収められています。

  1907年4月5日中国山東省煙台市付近で竹林のある寺院に滞在し、そこで日記に次のような記載を残しています 。

「今日は私が28才の最後の日である。この1年間私はなにをししてきたのか?私はフィリピンの最高峰であるアポ山に登り、できうる限りのコレクションを集めた。つぎに日光を訪れた。さらにサハリンを訪れ、かってこの島で得られなかったような哺乳動物のコレクションを得た。北海度でも同様に収集物の数を増やした。朝鮮、対馬、壱岐、五島さらには中国の一部でも仕事をした。これらの地域で私は668個体の哺乳動物、309個体の鳥を得た。ミンダナオを出てから、私は信じられないほどうまくいっている」。

 ミンダナオに滞在中ずっとマルコムはマラリアに罹り、悪寒と熱で衰弱していました。彼のつけていたノートは単なるコレクションの記録ではなく、注意深い探検者の記述となっていますが、さすがにこの病気の間にはノートには書き込みがみられません。 大抵の野外動物コレクションは土地に仕掛けた罠で捕らえ、動物の数は少なく、トラップは大抵、禁止されたり障害が多い事を考えるならば、彼のノートを読んで、彼の捕獲記録がその人並ならぬ勤勉、エネルギーと勇気の賜物であることがわかるでしょう。採集や観察をしない移動中も、船や何事か許可を待っている間や荷造り中も、マルコムは目を見開いて人々に質問し、写真をとったりしていたようです。そんな例として、ここに 1907年元旦の対馬での記録があります。そこでは小さな船の乗組員は皆、一日中酒を呑んで酔っぱらっていたのですが、彼は一人の猟師を伴って丘に登り、そこからの眺望について記述した後、つぎのように書いています。

「丘のてっぺんから、我々は歌ったり口笛を吹きながら道を下っていった。そうすると馬に乗った男と、徒歩でついて歩く男に出会った。馬の男は降りてお辞儀をして行き過ぎてしまったが、徒歩の男は立ち止まって我々に挨拶した。彼は頭がわるそうだったが、愉快な男だった。猟師の折居(彪二郎)が、自分達の仕事(動物収集)について説明し、このあたりに野外動物がいないか質問した。彼も酒を呑んでいるようで、答えはあまり要領を得たものではなかった。しかし、彼の近所の知り合いが最近、ヤマネコを捕らえ、それは多分まだ皮が剝がされていないようだという情報をもたらした。我々はその家がある村を問いただし、すぐそこに向かった。”Shining head” 禿頭のおっさんで村一番の酒飲みの家と聞けば、すぐそのありかはわると教えられていた。その家にいくと、ヤマネコはすでに皮になっていたので、それを2円で買い求めた。「本体はどうしたのか」と聞くと、「隣人に分けてやった」というので、行ってみると一部を食って頭と胴は埋めてしまった言う。しかし、幸いそれを掘り起こすは容易いことであった。かくして我々は対馬の野生猫についての確かな科学的エビデンスを獲得したのである」

  彼のコレクションを集める方法を明らかにするために、1904-1905の間に書かれた日記に出てくる鳥についても羅列しました。(訳注:鳥の約70種ほどの名前の羅列, 愛知県 Obu大府?でのキバシリ、高知御嶽山でのウソの採取の記録がつづくが省略)。このような記述がノートに沢山あります。最後のノートは南アメリカを旅行したときのものですが、これはこの雑誌The Condorの読者には興味ある事が記録されていると思います。1908年、長いアジアの旅から帰還して、マルコムは母とともにヨーロッパに渡り、自分のコレクションをまとめる仕事をしました。それはOldfield Thomas氏によって高く評価され、博物館に収められています。Thomas氏が、どんなに暖かい言葉でマルコムの探検成果を祝福してくれたかをいまでも記憶しています。1909-10の間、彼は再びアジアに同様の目的ででかけ、中国の万里の長城を超えた砂漠や、チベット周辺の山々などを探検しました。

 後になって、彼は南アメリカに2度渡りました。一回目はOsgood氏を伴い、2回目は1913年の夏に結ばれた女性と一緒でした。しかし2回目の旅から帰ると熱病のために健康が損なわれ、野外研究が無理になっただけでなく、科学の研究や記述をしようというプランもかなわないものになってしまった。かれの研究ノートは将来、出版されるべき様々な価値のある内容に満ちているように私には思えます。1914年4月号のOverland Monthlyには彼による「済州島における40日」という興味ある論文が掲載されています。

 第一欧州大戦中の昨年の夏のことですが、男は造船所で働くようにという応召がかけられました。彼はきわめて愛国的であったので、徴兵に応ずるようにしてこれに応募しました。誰れもこれを、止める事はできなかったのです。そして、1919年2月21日、彼はオークランドのMoore Shipyard造船所の足場から転落して亡くなりました。私はマルコムの学者としての特質や業績を正しく評価できる立場ではありませんが、彼が善良で、愛すべきで、公正で、真剣で、忠実で、そして穏やかな人物であったという事だけは言えます。彼は亡くなりましたが、心の清い人に祝福を受けわたしたのです。

(以上メルビレ・アンダーソン夫人の回想録より和訳)

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解説

1905年ロンドンの東亜動物研究会から派遣させたマルコム・アンダーソンは、通訳兼助手として第一高等学校生徒の金井清を雇った。1月7日愛知県の大府での捕獲調査では水田で普通のネズミしか捕れなかったことに失望して、奈良に向かった。奈良市を経由して彼らは1月13日に鷲家口に着いた。この頃はまだ豊かな森林に取り囲まれた村で、マルコムが国内絶滅したニホンオオカミ最後の標本を鷲家口で入手したのは1月23日であった]。この詳しいいきさつについては、京大教授で動物学者であった上野益三が詳しい論説を書いている(以下の参考図書参照)。アンダーソン自身が鷲家口のニホンオオカミについて何か書いているのかどうか、興味がある。彼の研究ノートはどこに保存されているのだろうか。

 

参考図書

荒川晃 「アンダーソンの狼」風媒社 2007

  **アンダーソンの助手を務めた金井清を主人公にして、鷲家口を舞台に小説は展開するがニホンオオカミよりも、天狗党の残党を中心に話がすすむ。語り口は軽快でよみやすいが、尻切れトンボの失敗作である。

上野益三(1969), “鷲家口とニホンオオカミ”甲南女子大学研究紀要 (5): 89-108

 

                   鷲家口のニホンオオカミ像

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小説「1984」のBig Brother と共産党

2023年02月17日 | 日記

 

 英国の小説家ジョージ・オーウェル(1903-1950)の小説「1984」は恐ろしいディストピアを描いた作品である。ここでは独裁者Big brotherが社会の隅から隅まで監視しており「Big brother is watching you」のポスターが街にあふれている。Big brotherを頂点とする「党」は全能で、あやまりを犯さないという信念の上に社会が成り立っている。それゆえに、人々は特殊な「二重思考法」*によってしか生きて行けない。これに似た国家や組織は世界のいたるところ、現実に存在している。

 

 クマのプーさんの様な温和な顔をした習近平が、現代中国の皇帝になろうとは誰も予想していなかった。どのような背景があって、こんなビッグブラザーな独裁者が生じたのかは、さまざまな説がある。一つはファーザーコンプレックス説だ。近平の父、習仲勲(1913-2002)は毛沢東とともに中国革命の英雄の一人である。仲勲は中国の中央部にある陝西(せんせい)省に生まれ、10代で共産党組織に身を投じた。陝甘辺区ソビエト政府で主席となったのはわずか21歳のときだった。当時、中国共産党は国民党軍から逃げるために、1万2000キロ以上にも及ぶ長征を行なっていた。毛沢東は10万人の兵力を数千人にすり減らすような過酷な逃避行を行なっていたが、この「長征」の最終目的地となったのが陝西省だった。そこでは若き習仲勲らが共産党の根拠地を死守していたからだ。共産党政府は同省の延安を臨時首都とした。もし習仲勲らの根拠地(延安)がなかったら、中華人民共和国は成立しなかっただろう。その成立後、仲勲は党中央委員、国務院副総裁などを務めたが、共産党政府の中枢に至らず、文革中は紅衛兵によるひどい迫害を受けた。毛沢東が死んでから復権し、80年代には党中央政治局員などについた。民主化を促進した胡耀邦に同調し、学生運動にも寛容な態度を示した。「人々は意見を提議したり批判を行なったりすることが許されている。批判が誤っておれば反批判を行えばよい。そのようにして始めて党内に生き生きとした活発な政治状況がもたらせれる」とした ***。天安門事件の翌年も全人代常務委会で「意見の異なる者を反対派や反動派とみなしてはならない。異なった意見を保護し、重視して検討すべきである」と主張し、その翌日、鄧小平により役職を罷免された。2度目の政治的幽閉である。中国の歴史で筋の通った無私無欲の義侠人は三国志の諸葛孔明ぐらいかと思っていたが、習仲勲もまれにみる立派な政治家であった**。

 ところが、その息子、近平は社会主義的民主化を主張した父のものでなく、晩年の毛沢東に近い独裁路線をとっている。父と反対の路線をとるのは、ファーザーコンプレックスがある証拠である。父と違って何の実績もない近平が、レガシーを得るには”台湾の解放=中国の統一”しかない。徹した国内の言論抑圧はその体制作りなのかもしれない。彼は必ずそれをやるだろう。毛沢東につづくビッグブラザー、習近平の動向が今後も注目される。

 さて、中国共産党と絶縁しているという日本共産党の状況はいかなるもののであろうか?中国共産党も日本共産党も「民主集中制」を建前としている(これ自体が論理矛盾なのだが)。党内で内々に自からの意見を主張し論争することはあっても、一たび党の方針が決まれば基本的にそれに従い、党中央と対決するよう事は許さないというものである。共産党は、このような美くしい建前を並べはするが、重要な事案については、トップの方針以外認められる事はない。形式的に議論や討論がなされることはあっても、上から派遣されてくる官僚党員が押さえつけるか、下部党員が忖度して従うだけである。日本共産党で異論を唱える根性のある党員はすべて淘汰されており、いまや従順が習い性となった年寄り集団に純化されている。まともな批判に対しては、十年一日のように「反党分子」、「スパイ」、「トロッキスト」の決まり文句が投げかけられる。まったく生きた政治化石以外の何物でもない。

 つい最近も共産党本部の政策委員会で安保外交部長も務めた松竹伸幸氏が党を除名された。共産党がいつまでも党首の直接選挙を実施しない事を党外出版物で批判したというのである。「赤旗」が松竹氏の「異論」を一つの意見として掲載する事はありえないので、やむおえない手段であったようだ。この共産党の対応には朝日新聞も社説で批判している(https://www.asahi.com/articles/ DA3S15550073.htm)。反自民という視点での批判や政策は、他の野党より比較的まともなことを言うが、こんなのが万一、政権をとると日本国がジョージ・オーウェルによる「動物農場」みたいになると思う市民は多い。習近平は精華大学大学院、志位和夫委員長は東大工学部を卒業した「エリート」である。エリート幹部はいつも自分は正しいと思い込んでいる。「科学的マルクスレーニン」主義の絶対性哲学が党の無びょう性信仰に反映されているのかもしれない。まったく「何を偉そうにしとんねん」と言いたくなる。志位委員長はこの問題を記者団に問われ、「赤旗の藤田論説を読んでくれ」と繰り返すのみである。日本共産党のビッグブラザーは20年以上も党首を続けているこの人物である。

 

参考文献

ジョージ・オーウェル 「1984」高橋和久訳 ハヤカワ文庫 p324

二重思考とは、この小説によると二つの相矛盾する思考を心に抱き、その両方を受け入れる能力をいう。[党]は意識的な欺瞞を働きながら、完全な誠実さを伴う目的意識の強固さを保持する。故意にウソを吐きながら、しかしそのウソを心から信じている。それ故に批判にたいしては異常なほどヒステリックに反応する。自民党も共産党もこの二重思考に侵されているが、自民党のほうが、まだある種の寛容さがある。 

柴田哲雄 「習仲勲の政治改革に対する姿勢,並びにその背景にある前半生の経歴」現代中国研究34 (P66)2015

柴田哲雄 「習近平の政治思想形成」彩流社 2016

   **2001年に習近平は父から学んだ5つの事を手紙に書いている。1)正しい人となり、2)功績を鼻にかけない謙虚さ、3)確固たる政治信念、4)天心純潔な気持、5)質素な生活である。

福島香織 「習近平王朝の危険な野望」さくら舎 2018

エドワード・ルトワック 「ラストエンペラー習近平」文芸春秋 2021

城山英巳 「習近平の仮面を剥ぐー愛憎渦巻くファミリーの歴史」文芸春秋 2022/11月号p94-

  ***仲勲語録「私は長い間づつと、一つの問題を考え続けてきた。つまり異論をどうやって学ぶかという事

  である。共産党の歴史を見ると、異論の封殺によってもたらされた社会の厄害はとてつもなく大きい」

 

       

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東京大空襲を予言した寺田寅彦

2020年10月15日 | 日記

寺田寅彦 『科学歳時記』角川ソフィア文庫 2020

 昭和七年 (1932)の寅彦の随筆「烏瓜の花と蛾」を読んで驚いた。後の太平洋戦争における東京大空襲の予言が正確になされているからだ。

「昭和七年の東京市民は、米露の爆撃機に襲われたときにいかなる処置をとるべきかを真剣に論究しなければならない」と述べ、その対策として市民の5分の一が消火防衛隊となって、活躍する必要があるとしている。そして「何ヶ月か何年かないしは何十年の後に、一度は敵国の飛行機が夏の夕暮れ烏瓜の花に集まる蛾のように、一時に飛んで来る日があるかもしれない」という予言をしている。

 この年、第一次上海事変が勃発し、満州国建国、五・一五事件がおこり、ヨーロッパではドイツとソ連がポーランドを分割した。戦争の足音は、たしかに遠くの方で聞こえてはいたが、東京が空爆されるという状況は考え難い。寺田寅彦の恐るべき慧眼であったと言える。寺彦の先生であった夏目漱石は小説『三四郎』の中で、広田先生の口を通じて「日本は滅びるね」と予言していた。日露戦争で勝利して日本人が舞い上がっていた頃の話しである。漱石の影響があったからかもしれない。

 

追記:角川ソフィア文庫 2020版の解説は竹内薫による。それには「一部の物理学者たちは、感染症の高度な数学を駆使して、専門家委員会などより、もっと正確に感染者を予測できるといる。しかし、寺田寅彦の言うように実際はそう簡単にはいかない」と書いている。同感である。

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「忠臣蔵の決算書」ー小野寺十内と妻丹の美学

2020年01月19日 | 日記

山本博文『忠臣蔵の決算書』新潮新書495, 2019

            

       歌川国芳画「小野寺十内秀和」                    『小野寺十内妻丹』    

 江戸時代は幕末を除いてまことに感激の少ない時代であった。これは徳川幕府が鎖国した上に、ひたすら安定を社会に求めたためである。ただ、元禄時代におこった赤穂事件だけは、日本人の心の琴線にふれる物語として残っている。他には、大塩平八郎の乱もあるが思想が純粋だった割にあまり評判はよくない。主人公自身が狷介な人物だったことや、大阪の町で大火を起こしたうえに結末が悲惨すぎたせいであろう。

 上掲の山本氏の書は大石内蔵助がしたためた「金銀請払帳」(会計簿)をもとに、赤穂事件の推移を追った異色の論説である。吉良邸に討ち入るまでの軍資金約700両(現在の価値で約8400万円)の出費明細から、どのように浪士が行動したかを解説している。

 失職した武士は生産手段をもたないのでたいへん困窮した。元禄15年7月に浅野大学がお預けとなり、浅野家再興が絶望となって大石らは討ち入りの決意を固めた。この時、まだ余力のある重臣は大石を除いて脱盟し、残ったのは今後の生活に展望のない中級と下級武士であった。待ち受けているのは野垂れ死にと言う事であれば、大義を掲げて討ち入りを決行せざるを得ない。この頃には軍資金はかなり減っていた。芝居などで有名な内蔵助の一力茶屋での遊興費は、内蔵助個人の持ち金であったというのが著者(山本氏)の見解である。赤穂浪士の討ち入りは、突き詰めれば忠君の儒教思想といえるかもしれない。しかし「命を捨てても大義に付く」という「無私」への尊敬と憧れはどの時代にもあった(三国志の孔明贔屓も同様)。そして登場する魅力ある人物群に読者は感情移入したのである。

 登場する赤穂四十七士の中で、庵主がもっとも好きな人物は小野寺十内秀和である。浅野家では京都留守居役(百二十石)の中級家臣であった。京都留守居役は会社でいうと京都支社長のようなもので、当時の文化の中心であった京都の情報を国元に伝え、そこの流行の物産購入に勤めた。司馬遼太郎によると、京都の着物の流行なども国元に報告していたそうである。

元禄14年(1701)3月14日、主君の浅野内匠頭長矩が江戸城松之大廊下で吉良上野介義央に刃傷に及び、長矩は即日切腹、赤穂藩は改易となった。京都でこの凶報に接した秀和は老母と妻を残し赤穂へ駆けつけた。そして赤穂城開城から討ち入りまで、内蔵助の右腕として活動したようである。元禄15年12月14日の吉良邸討ち入りでは、裏門隊大将として大石良金の後見にあたった。元禄16年2月4日、幕府の命により切腹。主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。享年61歳。

 この小野寺と奥さんの丹(たん)は、共に和歌をたしなむ仲の良い夫婦であったそうだ。十内から丹にあてた次のような手紙が残っている(上掲書より引用)。『老母を忘れ、妻子を思わないではないが、武士の義理に命を捨てる道は、是非におよばないものです。得心して深く嘆かないでほしい。母は余命短いと思いますので、どのようにしてでもご臨終を見届けて欲しい。長年連れ添ってきたのであなたの心を露ほども疑っていないが、よろしくお願いします。わずかなが残した金銀、家財を頼りに、母を世話してほしい。もし御命が長く続き財産が尽きたらともに餓死してください。それもしかたのないことと思います』

この時に「命のつなぎの為」として金十両を丹に送っている。小野寺の母は元禄15年9月に亡くなっている。丹は京都の西方寺に夫の墓を建て、そのあと食を断ち自死したと伝えられる。元禄16年6月の事である。

 

 

 

 

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交通事故死者70万人と自動車メーカーの責任

2020年01月14日 | 日記

 2019年中の交通事故死者数は3215人で1948年(昭和23年)から統計開始以降の史上最少であった。事故死者は1994年頃から減り始め、この10年ほどで1700人ほど減っている。交通事故負傷者数も2004年ごろが最大で約118万人だったが、2018年には約52万に減少している。

自動車の保有台数はほぼ横ばいなので、事故減少の一因は公安委員会のコメントのように、様々な団体がこれの防止に取り組んできた結果であるといえそうだ。シートベルトの着用や道路整備などの装置やインフラの改善もこれに寄与している可能性がある。しかしながら、依然として交通事故で尊い命が失われていることも事実だ。最近も庵主の友達の家族が交通事故にあった。友人の奥さんが運転する車が対向車に激突し、同乗の友人と子供の二人が亡くなった。なんとも衝撃的で悲しむべき出来事であった。

 

    (Car Watchより引用)

 そうゆう事もあって、戦後どれほどの人命が交通事故で失われたか調べてみた。1997(平成9年)の警察白書によると、1946(昭和21年)から平成8年までの51年間で交通事故死者の累計は50万5763人となっている(https://www.npa.go.jp/hakusyo/h09/h090201.html)。それ以降の統計がすぐに見つからないので、平成9年から去年までの年ごとの記録を積算すると約12万6000人 となる(https://car.watch.impress. co.jp/ docs/news/1158374.html)。これを加算すると、戦後になって車の事故で亡くなった人の数は約63万2000人となる。もっとも、この統計は事故が起こって24時間以内に亡くなった人の数である。30日以内の死者の数は、平成5年以降から記録があるが、平均して毎年24時間死者の約10%となっている。これも計算して死者の数にいれると、約70万人もの命が失われたことになる(30日以上たって事故で亡くなった人の数は統計がない)。静岡市の人口が約70万であるから、中規模の地方都市が壊滅するぐらいの人数にあたる。太平洋戦争(1941-45)での日本の戦没者は軍人が約230万、民間人が約80万とされている。74年間という歳月ではあるが、大きな戦争で死んだ民間人の数ぐらいが自動車事故で死んだことになる。一人の死者に父母、兄弟、配偶者、子供などの係累が平均4人いたとしたら、当人を含めて5 X 70万 = 350万の日本人の運命が暗転したことになる。

 死者だけでなく交通事故による負傷者の数もおびただしい。ざっと計算すると戦後74年間の累計はなんと約4500万人!現在の総人口の3人に一人の割合になる。この中にはかすり傷程度の軽傷者から瀕死の重傷者を含む。重篤な傷をおって、それ以後の人生を寝たきりで送らなければならなくなった人や、いままでの正常な社会生活や家庭生活を放棄した人の数もかなりいると思える(こういった統計はあるのか無いのか?)。

交通事故の被害者だけでなく、加害者も事故の瞬間からその人生が激変することが多い。精神的にも経済的にもおいつめられてしまうケースが多々見られる。こういった深刻な社会問題は「交通戦争」と言われていたが、大抵が加害者と被害者との、あるいは保険会社との間の個別問題に解消されてしまった。被害者の多くが社会的弱者であった事や、「日常的」な事として感覚が麻痺してきたせいかもしれない。

 

<戦後の交通事故者データーのまとめ>

死亡者累計約70万人:負傷者累計約4500万人

 

車の交通事故の原因は次のように分類して考えることができる。

1)当事者の過失、違反(飲酒運転など)による責任

2)道路行政の不備・怠慢による責任

3)交通行政の不備・怠慢による責任

4)自動車メーカーの不備・怠慢による責任

事故予防の観点からは1)-3)までの事項がよく議論される。しかし、4)での議論はいままであまり聞いたことがない。これは、まったく不思議な話である。例えば洗濯機の漏電事故で年間数千人もの人が死亡したら、たとえユーザーの不適切な使い方によるとしても、メーカーはその製品を発売停止にしてリーコールするだろう。今まで自動車メーカーがドライバーの安全を車の設計・製造の第一主眼とした事はないように思う。自動車産業の思想は、かっての日本軍の零戦のそれが受け継がれてきた。軽量、操縦性、瞬発性と燃費を重視して運転者と同乗者の安全は二の次にされてきたのだ。

例えば日本でのシートベルト着用義務にいたるまでの歴史をみてみよう。車におけるシートベルト着用の効果は事故における非着用との比較であきらかで、これによりはっきりと死傷率が低減されている。アメリカでは1967年にこれの着用が義務づけされている。日本では1969年に運転席への設置が義務づけされた。全席にそれが義務づけされたのは1975年のことである。着用義務については、やっとのこと1985年に運転席と助手席にそれが法律で定められた。それまでは努力義務であった。2008年には後部座席にも着用義務が定められた。

このように日本で他国に比べてシートベルトの着用義務が遅れたのは、購入者の嗜好(シートベルト嫌い)におもねて、メーカーが積極的に立法化を進めなかったせいである。もっと早い時期にシートベルトの着用を立法化しておけば、いままでの交通事故死者の数は20-30%ほど少なかったはずだ。

 

自動車メーカーは膨大な利潤をあげながら、安全技術の開発を怠ってきた。日本車のコストパフォーマンスの良さは安全の犠牲のおかげである。最近になってやっと衝突防止装置、急発進防止装置、歩行者回避装置などの開発を始めている(遅すぎる!)。車の事故は当事者(運転手や歩行者)の自己責任という考えを改め、それはメーカーも含めた責任であるという思想を持たねばならない。

 

<参考図書>

加藤正明 『交通事故誘因の徹底分析』技術書院 1993

柳原三佳 『後遺障害を負った被害者の家族のひとりとして』(ザ・交通事故:別冊宝島393)。1998

 

追記 (2021/04/23)

自動車メーカーの製品責任は形式的な法律論ではわりきれない側面がある。その例がP社の湯沸かし器による事故例である。P社でない修理業による不適切な修理によって、安全装置が働かないで一酸化炭素中毒の事故が起こった。P社は法的責任はないって、積極的な対応をとらなかった。その姿勢が世間の批判を呼んだ。

(國広正著 それでも企業不祥事が起こる理由 日本経済新聞社 2010)

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ペイオフについて考える:銀行預金はほんとうに安全か?

2019年12月09日 | 日記
不稼働口座に管理料(口座維持手数料)をかける案を某大手銀行が検討していると報道された。銀行は「お金を預けていただく」というのから「お金を預かってやる」といった姿勢になってきた。アベノミクスのおかげでマイナス金利時代となり預金者からお金を預かって、そのお金を貸し付けて利ざやを稼ぐといった本来の銀行の商売がうまくいっていない。地方銀行は経営危機におちいっているものもあるそうだ(朝日新聞Digital 「地方銀行7割が減益、収益モデル崩れ、日銀への恨み節も」2019/05/19参照)。
 
 銀行が万が一破綻した場合に、ペイオフがあるので銀行に預けておいても大丈夫だと思っている人が多い。これが1000万円までの貯金とその利子に限定されていることを知る庶民は意外と少ない(庵主もそうであった)。おまけに1000万円が払い戻されるのには、なんだかだと手続きがいって1年近くかかる可能性が高い。
 
2010年9月に破綻した日本振興銀行がペイオフの適用を受けた最初で唯一の例である。藤原久敏氏の著『あやしい投資話に乗ってみた』を読むと、南大阪にあったこの銀行の支店はなんとも言えない安物の事務所で著者はそこを訪れて愕然としたそうである。この銀行は定期預金専門だったそうであるが、貸し倒れとずさん経営などで破綻した。
この銀行の破綻時5800億円の預金のほとんどがペイオフ限度以下の預金で、約3% (3500人)が1000万を越えていた(総額で120億)。中にはマンション購入費としてたくわえていた資金の4000万円を預けた老夫婦もいたそうだ。総額が意外と少なかったのは、銀行が良心的(?)に1000万以下に預金をおさえるように預金者に指導していたからだという説がある。信じられないが、破綻を予想して運営し後始末を預金保険機構にまかせる魂胆だったと言う。
 
 ともかく現在、普通預金の標準利率は0.001%で、1000万円預けて年100円、定期預金の利率は0.01%で年1000円の利息である。ハイリスクハイリターンの商品に投資し、失敗したら自業自得といえるかもしれないが、こんな些少な利息で恐るべきリスクを預金者は抱えこんでいる事になる。まさか自分があずけている銀行が倒産するなどとは思わないから、平気でいるわけだがはたしてそうだろうか?上記の藤原氏は日本振興銀行の定期利息が他に比較して異様に高いので警戒したが、何か起こったとき本のネタになると思ってお金を預けたそうである。
 
 藤原氏はペイオフのない決済預金(これは利息が付かないが普通預金も同様の状態)にすべしと言っている。庵主もまったく同意見である。あるいはタンス預金するか貸金庫にあずけてもよい。なにも知らないで、地方銀行に有り金(多分1000万以上はあると思う)をほとんど預けている田舎の父母にも、そのようにすすめるつもりだ。
 
ペイオフが発動される前までは、銀行が破綻しても原則全額が払いもどされていた。それゆえにペイオフは庶民のことを考えて作らえた制度ではなく、強欲で無能の故に経営破綻した銀行の責任を一般庶民に背負わせようとする金融業界のたくらみに違いない。くわばらくわばら。
 
参考図書
藤原久敏 『あやしい投資話に乗ってみた』 彩図社 2014
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動物は数をかぞえる事ができるか?

2019年12月01日 | 日記
 
 
人間は幼児の段階から1、2、3、4……と数をかぞえている。抽象化された数の概念がどのように獲得されるのかよくわからないが、他の動物はどうであろうか?
 
今福道夫氏(京都大学名誉教授:動物行動学)著の『おとなのための動物学入門』(昭和堂 2018年出版)に、これに関するおもろしい話がいくつか述べられているので紹介する。
ハーバード大学のマーク・ハウザーはアカゲザルにリンゴの切り身を選択させる実験で、サルが4個までは数の多い方を選択することを明らかにした。ただ4と5個、5と6個の区別はできなかった。1、2、3、4たくさん.....という感じである。一方、ハトは50ぐらの数をかぞえることが、スキナーボックスを用いた実験で明らかになった。鳥はあまり頭が良くないとされているが、そうでもなさそうである。
 
さらに動物に計算できるかどうかの実験が、やはりアカゲザルをもちいて行われた。物を並べて提示し、スクリーンで隠し陰で適当に一個を取り除のぞく。その後、スクリーンをあげてサルの表情を観察する方法により、彼らが1+1=2の計算をしていると結論された。ただ、これは足し算計算をしているのではなく、単に空間配列の予想能によるものかもしれない。またエリザベス・プラノンたちが行った研究で、図形の形によらず数の大小を認識しているらしいことが明らかになった。すなわち少なくともサルは数の概念を持っているようである。
 
アカゲザルのように群れで暮らす動物はおたがの個体識別とともに数概念を進化させたものであろうが、系統的に動物のどの段階までこれがあるのか興味あるところだ。たとえば魚類についてはどうだろうか?さらに社会性昆虫のミツバチはどの程度まで数をかぞえているのだろうか?いろいろ研究してみる価値はありそうだ。
 
追記 (2020/08/17)
正高信男 『ヒトはいかにしてヒトになったか』岩波書店 2006
 
本書に動物の計数能についてのおもしろ観察と実験が紹介されている。
ライオンが群れ同士戦うときは、おたがいに頭数をかぞえあって、相手が多いと、その場から撤退するそうである。ただこの場合も人のように1,2,3....という抽象数の計測ではなく、●、●●、●●●...といった視覚イメージの比較を行っている可能性がある。
ネズミの迷路実験で、3回連続で操作して成功すればエサをそのたびにやる。そして4回目はエサをやらないようにする。そうすると3回連続後の走行テストでは、迷路を走るスピードがダウンする。これは数をかぞえる予測行動ではないかと思われる。
 
 
 
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AI(人工知能)の三原則

2019年08月28日 | 日記

 

(鋼鉄都市)

SFに登場するロボットに「ロボット三原則」を提唱したのはアイザック・アシモフ (1920-1997)とされている。

 アイザック・アシモフはロシアのスモレンスク郊外にあるペトロヴィチという小さな町で生まれた。父親はユダヤ人の会計士であった。ロシア革命後、ユダヤ人は帝政時代よりもひどい迫害を受けていたので、一家はアメリカに移住し帰化した。アイザックは9歳のときに、アメージング・ストリー誌のSFを読んでこれらの作品にとりつかれた。そしてコロンビア大学で化学を専攻するかたわら、SF作品を書きはじめた。処女作は「真空漂流」である。ロボットものとしては『われはロボット』(1950)、『ロボットの時代』(1964)、『バイセンテニアル・マン』 (1976)、『鋼鉄都市』 (1983)、『ロボット帝国』(1985)などがある。 ボストン大学では最終的に化学の教授になった。

 

ロボットエ学三原則とは、つぎのようなものである。


第1条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。またその危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。

第2条 ロボットは人間に与えられた命令に服従しなければならない。ただし与えられた命令が第一条に反する場合はこの限りではない。

第3条 第一条および第二条に反するおそれのない限り自己を守らなけれぱならない。

 この3原則は、実はアシモフが最初に考えたものではなく、アラタウンディング・サイエンス・フィクション誌の編集長キャンベルが、アシモフのReason(『われ思う、ゆえに.....』)などの作品を読んで、まとめたものだある。それをアシモフが認め世間に広めた。それゆえに、文明論的あるいは社会工学的な思索を重ねてまとめられたものではなかった。あくまで小説の世界のものであった。

 一方AIは現実社会で応用が進み、ロボット技術とも組み合わさって利用されている。AI(人工知能)は大きな可能性が期待される一方で、得体のしれない不安もある。2045年には人工知能は人間の脳を超えるシンギュラリティがやってくるといわれている。庵主はロボットと同様にAIに関しても、そのありかたや利用の仕方に「原則」を作るべきであろうと考えた。庵主(楽蜂)のまとめたAI三原則をここに開陳する。

  1)AIによる自己増殖を禁止する。

 進化論を学習しこれを取り入れるAIの出現は必然である。そうすると精妙な「ウイルス」になって世界で自己増殖するAIが出現する。

 2)外部システムへのAIによる出力を禁止する(インターネットに繋いではならない)。

 AIとAIの共同戦線によって、人を疎外するAIワールドが出現するのを予防しなければならない。

 3)運転システム(AIを動かすマシン)へのAIによるアクセスを禁止する。

 「2001年宇宙の旅」の人工知能HAL(ハル)の暴走を止めるには、人がこれを爆破しなければならなかった。

 4)外から制御できない自動停止装置を備える。

 AIとロボットが組合わさったケースについては今後の課題である。

 

参考図書

野村直之 『人工知能が変える仕事の未来』日本経済新聞出版社 2015

ジェイムズ・バラット 『人工知能』ー人類最悪にして最後の発明(水谷淳訳)ダイヤモンド社 2015

追記 1 (2021/03/23)

人は昔、鳥のように飛びたいと願い飛行機を発明したが、その飛行の仕組みは鳥のそれとは全く違うものであった。しかも、飛行機は鳥よりも早く遠くまで移動出来る。同様に思考するAIも人の脳の仕組み真似ることはまったく必要でない。ニューラル深層学習が実際脳のニューロン活動を真に模倣したものかどうかは分からない。

追記 2  (2021/05/27)

2014年再生医療の投資を専門とする香港のベンチャーキャピタル企業はVITALというアルゴリズムを取締役の役員の一人といして任命した。VITALは財政や臨床試験や知的財産に関する膨大なデーターを分析し、投資の方針を出した。(ユヴァル・ノア・ハラリ 『ホモ・デウス』河出書房 2018)。

 

 

 

 

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細胞の進化に関する一考察

2019年07月14日 | 日記

  原始地球にパンスペルミアが起こり、宇宙から多細胞生物が飛来したとする。さらに多細胞は全て同じ種類の細胞で構成されていたとして、それがばらばらになり全て単細胞になったとする。原始地球は、そういった細胞が分裂し代謝が維持できる環境であったと仮定する。ここで細胞死の有無、分裂の有無、変異の有無の3つの仮定の組み合わせで、そういった細胞群の運命を考えてみる。

 

-------------------------------------------------------------------------------------------------------

細胞死   分裂  変異    予想できる事                                     備考

--------------------------------------------------------------------------------------------------------

 X    X    X     環境変動による絶滅

 X    ◯   ◯      生残                                 バクテリア

 X    ◯   X      過剰増殖と環境変動による絶滅

 X    X    ◯     突然変異よる絶滅

 ◯    ◯   ◯      生残                                    ゾウリムシ

 ◯    ◯   X      環境変動による絶滅 

 ◯    X   X      個体数減少による絶滅    

 ◯    X   ◯      個体数減少による絶滅

--------------------------------------------------------------------------------------------------------

 全ての組み合わせを考えると全部で8とうり。生残(せいざん)できるのはX◯◯、と◯◯◯の2組のみである。細胞が分裂することと変異があることが生残にとって必須であることが分かる。X◯◯はバクテリア型で◯◯◯はゾウリムシ型である。バクテリア型(無核)には寿命がなく、ゾウリムシ型(有核)は寿命があり”性(sex)"がある。寿命があるので性があるのか、性があるので寿命ができるのか? 

 進化のメカニズムは環境の変化に対して適応的変異を選択しこれを増やす事と、一方不適な変異を集団から除去することが必要である。バクテリア型では遺伝子は1組なので、不適な変異が起こると、ただちにその細胞は駄目になるが、性のある細胞は相同遺伝子の故に、一本が駄目になっても、もう一本が正常ならば生き残る。すなわち変異遺伝子が生き残る。これは環境の変動が起こったときに有利ではあるが(進化予備軍として)、変異蓄積が過剰になる可能性がある。これを防止するために、古い細胞(変異蓄積が過剰になっている可能性が高い)を死滅させること、すなわち寿命を持たせる事が生物にとって理にかなっている。

 

 

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京都盆地は地震でできた

2019年06月24日 | 日記

 

 京都は1830年(天保元年)に死者280名の被害を出した直下型地震のあと、190年余り大きな地震を経験していない。1995年の阪神淡路大震災と昨年 (2018)の大阪北部地震では、場所により震度5強による家屋の破損はあったが、神社仏閣が倒壊するような大きな被害はなかった。印象としては京都は地震の少ない場所のように思ってしまうが、京都盆地は大地震が繰り返した結果できあがった盆地であることを忘れてはならない。京都の地震の記録は鴨長明の『方丈記』にも見られる(https://blog.goo.ne.jp/apisceran/e/9dba69d115d7d00bbfdf801e3d91611a)

 東山や西山に沿って走る何本もの活断層では、大地震の度に岩盤が数メートル以上ずれ、上昇した部分が山地に、下降した部分が盆地になっている。盆地のそれぞれの端が壁のようなはっきりした境界になっている。この断層の山麓は起伏があり、山紫水明で風光明媚な景観のゆえに建築文化が栄えた。東山(月待山)には足利義政の銀閣寺が、西山(衣笠山)には足利義満の金閣寺が建てられた。東京や大阪のようなのっぺらした平野の都市に比べて、緑が多くメリハリがあるのは断層のおかげである。

 

 

 京都を走る最大級の活断層は、北東から市内を走る花折断層である。これは滋賀県高島市の水坂峠付近を北端として、花折峠、大原、八瀬、左京区吉田山付近を南端としている(約46 kM)。京大北部グラウンドの東の土手(上の写真)は活断層の露出面で、これが南に延び、京大植物園を横切り、さらに今出川通りを横断して、吉田神社付近にいたる。花折断層から南部は市内で分岐し、鹿ケ谷断層、清水山断層、桃山断層などと名がつけられている。

 花折断層は中央構造線についで日本内陸部の最大級の断層の一つで、もしここで地震が起こると、市内は震度6強〜7の激震に襲われ、ほとんどの古い木造家屋は倒壊すると予想される。1662年(寛文二年)の京都北東部の大地震は、三方断層と連動した花折断層北部の地震ではなかったかとされている。この震災では町家100軒が倒壊し、死者は200人と記録されている。花折断層中部については歴史時代になってからは活動の記録がない。調査によると、この辺りの最新の活動痕跡は2000-2500年前の地層に見られ、それより前は7000-8000年前という。1200年前にここに都(平安京)を定めたが、将来起こる大地震を考えると、日本で最悪の場所の一つであったと言える。もっともその確率は、おそらく1000年以上先の事のようであるが。

 西山断層系の運動によりできた丹波山地と東端と京都盆地の境も複雑な活断層となっている。西山の辺りで活断層はジグザグに分岐し、そのズレでできた地形を利用して古い寺社がある。山の麓は大雨で崩れやすいので、竹を植えて崖崩れを防いだとされている。おかげで、この付近は美味しい竹の子の産地になっている。断層に沿って特殊な植物が連続して生える例は北アルプスのイワスゲであるが、京都西山の場合は竹薮である。

 京都は南北に高低差があり、東寺の塔の天辺(約55M)が千本北大路の土地の標高と同じである。町名の「上ガル」「下ガル」はこういった地勢による。さらに京都は扇状地で土地の柔らかなところが多く、震源が比較的遠くても揺れが激しい場合がある。秀吉の居た伏見城が倒壊した慶長地震 (1596)では、ここで200名近い圧死者がでた。これの震源は有馬ー高槻構造線ではないかと言われている。京都盆地の地下構造を調査すると、大昔は海だったが、活断層運動で東山などの山地が隆起し、盆地部分が沈降した。海の底だった岩盤には土砂が堆積して南に行く程深くなっている。その深さは二条城あたりで約200メートル。伏見のあたりで約800メートルである。岩盤が沈み込まずに取り残されたのが吉田山や紫雲山(庵主の住居がある)で、この辺は掘るとすぐに固い岩に突き当たる。一説では京都盆地の下には岩盤と堆積層との間に大きな地下湖があると言われる。そのせいか、京都市には水気に関する地名が多い。こうゆう場所では大地震の時に液状化の被害がでる可能性がある。京都で予測できる次回の大地震は南海トラフである。これのおおよその間隔は100-150年なので前回1946年からすると、確率的には射程距離に入っている。これの備えが京都でも必要とされる。

 

参考図書

尾池和夫 『俳景ー洛中洛外・地球科学と俳句の風景』宝塚出版 1999

尾池和夫 続『俳景ー洛中洛外・地球科学と俳句の風景』宝塚出版 2002

増田潔 『京の古道を歩く』光村推古院書店 2006

 

 

 

 

 

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ブレーキとアクセルの踏み間違事故防止法ー運転前の簡単脳トレーニング

2019年06月07日 | 日記

   最近、ブレーキとアクセルを踏み間違える自動車事故が多い。とくに高齢者ドライバーが、これで深刻な事故を起こすケースが報じられている。そんなバカな間違いをどうしてと思うが、実は庵主も同じような事故を自宅のガレージで起こした経験がある。十年程前のことだが、バックで車庫入れしようとし、アクセルを踏み込んでしまい後ろの壁に激突した。家人の話ではドーンという大きな音がして、家が揺れたそうである。幸いむち打ちにならず、自分を含めて人身事故にはならなかったが、車の修理に30万円近い費用がかかってしました。

  ブレーキを踏んでいるつもりが、アクセルから足が離れておらず、車が減速しないので、あわててますます踏みこむフィードフォワード運動で、ペダルをいっぱい踏みこんで激突したようである。その時の正確な記憶はないが、ブレーキが効かないという感覚になったことは確かだ。早朝の寝起きで、頭も身体もしっかり立ち上がっていなかった状態だったことが、事故の最大の原因と思える。

  それまでそんな事はなかったし、運転には自信があったので、おおいにショックだった。それ以降、車の運転時には次のような「準備運動」をしている。まずエンジンをかけて、ギアーをパーキング位置のままで、ブレーキ、アクセルと暗唱(呼称)しながら足を交互にそれぞれのペダルに移動する。これを十回程繰り返すのである。いままで、無意識にやっていたことを、運転の前に意識下のもとで足と脳に復習させるのである。

  高齢者の事故が多発しているのは確かだが、統計によると事故率は世代間で有意な差はないという。歳をとると反射神経や身体能力が低下するが、一方で慎重さも増すというトレードオフもある。しかし加齢にともなってリスク要因が限界を越えたときには、どんなに「準備運動」をしても事故の可能性が大きいので免許を返納するのが妥当であろう。もっともその見極めがなかなかむつかしい。

 

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E=MC^2 この方程式の単位はなんだ?

2019年02月27日 | 日記

 E=MC^2(質量M X 光速C^2)は世界で最も有名な方程式である。文学者、大学生、新聞記者、八百屋のおじさん、うちのかみさん、小学生おまけに国会議員でさえ(失礼!)知っている。これはアインシュタインの特殊相対性理論から難解な数学と論理を積み重ねて出てきたものである。どうして質量と光速といったものから、エネルギーの単位が出てくるのだろうか?

これについてはアイザック・アシモフ (1920-1996)がその著「時間と宇宙について」(早川書房 1994)で詳しく説明してくれている。アシモフはロシアで生まれたが、3歳の頃にアメリカに移り、ボストン大学の生化学の教授になった。一方でSF作家として精力的に作品を発表し、科学啓蒙書も多数著した。ここではその説明を要約して紹介する。

 

まずニュートンの第二法則から説明は始まる。単位はすべてcgs単位である。

F = m x α (力=質量x加速度)

ここの単位は gr x (cm/sec ^2)

この単位をdyne(ダイン)と呼ぶ。

1ダインは1grの質量に1cm/sec^2の加速度を与える力の大きさである。

次に仕事という概念が必要である。これはエネルギーと等価である。

仕事(W)=力(F)x 距離 (d) で表される。すなわち抵抗力とそれに逆らって動く

距離。この単位はdyne x cmである。これをerg (エルグ)と称する。

エルグは結局、gr  x (cm/sec)^2で表される。

E=MC^2の単位も同じgr x (cm/sec)^2なので、古典力学でのエルグと同じ単位となる。

メデタシメデタシ。

アインシュタインの方程式は特殊相対性理論から、難解な論理と数学を用いて導かれたものであるが、仮にこの方程式からエネルギーに対して別の単位を得ていたとしたら、アインシュタインは間違いに気づき、鉛筆を削り直してまた初めから計算をやり直したであろうとアシモフは言う。

 

 

 

 

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