京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

「蕪村評論」の評論

2024年07月06日 | 評論
(呉春筆 蕪村像)
 
 蕪村の俳句を評論した文集は多い。江戸期後半には、俳人として、ほぼ無視されていた蕪村俳句を掘り起こしたのは、明治になって正岡子規である。以来、多数の俳人あるいは評論家が蕪村の俳句を独自の視点で解釈・評論している。それぞれの特徴を取り出し、その評価と批判を行なった。
 
1) 中村稔「与謝蕪村考」(青土社)2023 
 著者は弁護士さんのようである。弁護士の俳句評論とは、かかるものかと納得した。著者は、まず他の評者の意見を紹介し、裁判における相手側の陳述書に対するように、これに反論していく。たとえば蕪村「春風馬堤曲」の章では尾形功の解釈を紹介し、たまに同意することもあるが、ほとんどケチをつけている。その立場は、有体に言って弁護士リアリストとしてのもので、揚げ足取りで面白くない。たとえば、俳詩「春風馬堤曲」に登城する主人公を軽佻浮薄な女の子の道行ととらえている。中村は、「尾形は学者のくせに想像力が過剰すぎる」と批判してるが、尾形の解釈の方が、ずっと豊かで楽しい。ようするに面白くないのだ。かといって弁護士的リアリズムに徹しているかというと、そうでもない。たとえば、蕪村の「離別(さら)れたる身を踏込んで田植えかな」の解釈を、離縁された女性が田植え時期に員数合わせで婚家に呼び寄せられ手伝う情景としている。これは、珍しく尾形の「蕪村全集」での校註に従ったようだが、常識的にはありえない話だ。藤田真一は、出戻ってきた娘が実家の田植えの作業に参加するときの複雑な心境としている。これが普通の解釈であろう。また、蕪村「鮎くれてよらで過行く夜半の門」の句でも、中村は「くれて」と「過行く」の措辞が矛盾していると述べている。しかし「過行く」は家に入らないでという意味に決まっているではないか。それに、この句の主人公は友人でも家の主人でもなく「鮎」であることを忘れている。釣り上げて足の速い鮎を配る友人の心遣いが、よみとれないようでは駄目だ。ただ、本書は、蕪村の生活句を「境涯詠」などに分類するなど、いままでにみられない新たな分類を行った点で評価できる。子規や朔太郎は生活者としての蕪村の句をまとめなかった。100点満点で65点。
 
2)藤田真一 「蕪村」(岩波文庫705)2000
 これは蕪村俳句の評論集ではなく、俳人蕪村を多角的に分析した評伝のような構成になっている。藤田は当時、京都府大の教授であった。春風馬堤曲の鑑賞においては、藪入り少女のちょっとはしゃいだ気持ちと故郷への想いが錯綜した道行きとして無理なく解説されている。「融通無碍な発想があって、そのくせ人間らしい心が、ふわっと伝わる蕪村の俳諧世界を紹介したい」と著者はいっている。学者の評論であるが、蕪村のほのぼのとした人柄を伝える佳作である。藤田には他に「蕪村の名句を読む」(河出書房)や「風呂で読む蕪村」(世界思想社)がある。いずれも蕪村自身の独白でもって、代表句を紹介するユニークな著書である。この中の蕪村「滝口に燈を呼声やはるの雨」は、貴人と武士が経験する時間の対比論で鑑賞した名解釈である。90点。

 

3)正岡子規 「俳人蕪村」(講談社文芸文庫)1999
 明治30年4月13日から11月15日まで、子規が「日本」及び「日本付録通報」に連載したものである(底本は明治32年「ほととぎす発行)。子規によると生存中、蕪村は画人としてより俳人として有名だったそうだ。それが死後、画人蕪村として知られ、その俳句はほとんど評価されなかったそうだ。しかし子規派の再評価により、その俳名が再び画名を上回ってきたと自画自賛している。ここでは、蕪村の俳句を「積極的美」「客観的美」「人事的美」「複雑的美」「理想的美」などに分類し、用語の自由性、句法の革新性、句調の斬新性、味のある特殊な文法(間違った文法なのに句に趣をあたえている)、材料の特殊性を挙げている。そして、それぞれの項目で該当する例句を挙げている(材料の特殊性では「公達に狐ばけたり宵の春」など}。すべての句をくまなく読み込んで整理したのであろうが、おそるべき気力と分析力である。春風馬堤曲に関しては、あまり詳しい解説はないが、「蕪村を知るこよなきもので、俳句以外に蕪村の文学としてはこれ以外にはない」としているが、一方で新体詩の先駆けを開けなかったことを惜しいんでいる。ともかくこの評論や「蕪村と几董」などによって、埋もれていた蕪村俳句は、近代によみがえった。只一点ケチをつけると、子規は最後の方で「蕪村の悪句は埋没して佳句のみのこりたるか。俳句における技量は俳句界を横絶せり、ついに芭蕉其角の及ぶ所に非ず」としているが、蕪村俳句全集をみるに必ずしもそうでない。駄句、凡句も結構ある。99点。
 
4)萩原朔太郎 「郷愁の詩人・与謝蕪村」岩波文庫 1988
詩想(ポエジイ)にあふれたセンチメンタリストとしての蕪村を定着させた朔太郎の有名な書である。個人誌「生理」に昭和8-10年連載された。ここでは、まず子規派が、蕪村俳句を写生主義として規定してしまったことを批判している。しかしこれは明らかに誤解である。前の「俳人蕪村」を読んでも、たしかに「直ちにもって絵画となしうべき」ような作品を「客観的美」として分類しているが、それは蕪村俳句のジャンヌの一つにすぎない。ほかに人事句など、あまりロマンにみちたものではないのも子規は紹介している。朔太郎も「我をいとふ隣家寒夜に鍋を鳴らす」を紹介しているが、これなんかロマンどころか生活がにじみ出た俳句だ。むしろ、リリシズムの極致である「愁ひつつ岡にのぼれば花いばら」の引用を抜かしている。これを抜かしてはいかん。蕪村はクリスタルグラスのような多面体である。時代のせいかも知れないが、朔太郎の読みは浅いのではないか。ただ蕪村の飄逸な書体を評して、彼を「炬燵の詩人」としたのは慧眼である。90点、
 
5) 竹西寛子「竹西寛子の松尾芭蕉集 与謝蕪村集」集英社 1996
 竹西寛子は原爆体験をもった小説家であり文学評論家である。ここで竹西寛子は蕪村の俳句を一句づつ解釈していくが、その内容は極めて良識的で納得できるものである。壮大な「菜の花や月は東に日は西に」から生活句「菜の花や笋見ゆる小風呂敷」まで蕪村世界を無難にこなしている。「鮎くれてよらで過行く夜半の門」の夜半は夜中ではなく、夜半亭の事だとする宮地伝三郎(京大教授で動物学者)の説も紹介している。それなりに勉強したということであろう。ただ驚くほど新鮮な解釈を披露しているわけでない。80点

6) 小西甚一 「俳句の世界(第七章 蕪村)」 講談社学術文庫 1995
 俳諧の起源から説きはじめた俳句の歴史書における蕪村論である。「樟の根をしずかにぬなすしぐれかな」の「しずかに」の用法が当句を名品に仕上げたという解説には感じいった。断章での解説であるせいか、評論対象の選句が自由で斬新な雰囲気ではあるが、短いのでものたりない。75点。
 
7) 森本哲郎 「詩人与謝蕪村の世界」講談社学術文庫 1996
 森本哲郎(1925-2014)は)新聞記者を経て評論家となり東京女子大教授。「世界の旅」など多数の著書がある。俳人でも文学者でもない政治畑のジャーナリストの蕪村論である。雑誌「国文学」に掲載されたものをまとめたらしいが、理由はあとがきを読んでもよくわからない。ただ「私は蕪村が好きだ。蕪村の世界をこのうえなく美しいと思う」と述べている。好きでなかったら書けない。テーマ別に18章で構成されている。どれも蕪村俳句を様々な角度から解説するが、著者の博覧強記にはおどろくほかない。「島原の草履にちかきこてふかな」の句について、プラトンのイデア論を挽きつつ、「世界は仮の相であり、夢であり、幻であり、影であるというあの荘子の哲学は、蕪村の芸樹の中では独特の美学となり十七文字に結晶している」と述べている。子規、朔太郎の評論に次ぐ記念すべき書である。95点。
 
8)高橋治 「蕪村春秋」朝日文庫 2001
高橋治(1929-2015)直木賞作家、映画監督。「蕪村に狂う人、蕪村を知らずに終わる人。世の中には二種類の人間しかいない」と強烈なフレーズで始まる映像作家の蕪村論。80点
 
 
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サイモン・シンの『フェルマーの最終定理』を読もう。

2024年06月26日 | 評論

サイモン・シン Saimon Signh (1964-)著『フェルマーの最終定理』( Fermat's last theorem)(青木薫訳) 新潮文庫 (2000)

ともかく面白い。ただ「知的に面白い本」なので、これがためになるかどうかは読者によるのである。

サイモン・シンはインド系のイギリス人。ケンブリッジ大学で素粒子物理学の博士号を取得。ジュネーブの研究センターに勤務後、BBCテレビ局に転職。TVドキュメント「フェルマーの最終定理」で各種の賞を受賞。その後、同名の書を書き下ろす。他に「暗号解読」、「宇宙創成」、「代替医療」、『数学者たちの楽園―ザ・シンプソンズを作った天才たち」などの著書がある。

その粗筋は以下のごとし。

{ xn+yn=zn n>2のとき、この方程式には整数解が存在しない }

 十七世紀「数論の父」と呼ばれるピエール・ド・フェルマー(1607-1665)は、古代ギリシャの数学者ディオファントスが著した『算術』(Arithmetica) の注釈本をの余白に「私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない」と書き残す。この予想は後に「フェルマーの最終定理」と呼ばれ、多くの数学者たちが,長年にわたって挑戦したが成功しなかった。しかし、二十世紀末(1995)にイギリスの数学者アンドリュー・ワイルズが完全証明に成功し、フェルマーの最終定理は解かれた。

 このドキュメントは数学(数論)史であり、また関係する数学者の人間ドラマの歴史でもある。 ここで 登場する数学者達はピタゴラス、エラクレカテス、ディオファントス、インド・アラビアの数学者達、フェルマー、オイラー、ジェルマン、ラメ、コーシー、ガロア、谷村・志村、岩澤、フライ、リベット、コーシー、メーサー、テイラー、アンドリュー・ワイルズなどである。最終的には1995年、イギリスの数学者であるアンドリュー・ジョン・ワイルズ(Sir Andrew John Wiles,)によって解決される。

 この物語でのポイントは谷山―志村予想である。谷山–志村予想(Taniyama–Shimura conjecture)とは「楕円方程式(曲線)はすべてモジュラーであるう」という予想である。1955年に谷山豊によって提起され、数学者の志村五郎によって定式化された。結局、ワイルズは谷山–志村予想を解決することでフェルマーの最終定理をとくことになる。この物語は数学におけるピラミッド建設の物語でもある。

 エピソードがつぎつぎ連続していくドラマ仕立てだが、話に途中飽かさない。ともかくアマゾンで本を買って読んでほしい。

 

 

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民主主義とファシズム:池内紀の「ヒトラーの時代」より

2024年04月26日 | 評論

 

 池内紀著の「ヒトラーの時代: ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか」は形式的民主主義が、油断していると、たちまちファシズムに転化してしまうことを述べている。

 ナチスはその政権の独裁制を世界から非難されるたびに、その決定は民主的な手続きのもとに生まれたことを力説した。いかなる武力(クーデター)で権力を強奪したわけでなく、憲法で規定された民主的な選挙で選ばれたこと、つねに国民の審判を仰いだことを強調した(ただ悪賢いナチスはワイマール憲法の”バグ”=非常事態法を利用した)。確かに政権についた1933年1月より政局の展開のたびに国民投票が実施された。国際連盟脱退、ヴェルサイユ条約軍備制破棄、再軍備、ラインランド進駐など、国運を左右する決定のたびに国民投票で、それの可否を問うた。さすれば、有権者の多数の意思(意見)を集約する形式だけでは、なんの意味はなく、ファシズムの培養器ですらある。民主主義のかめのは、形式だけでなくプラスαとして何が必要なのか? 

 

 

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どうして人はだまされるのか?

2023年12月15日 | 評論

どうして人はだまされるのか?

ブライアン・インズ、クリス・マクナ(著)

定木大介・竹花秀春・梅田智世(訳)

日経ナショナルジオグラフィー(2023)

 

この書は、だます方の大全であるが、だまされる方にも多様なパターンが存在することがわかる。「だまされる人」を類別すると、おおよそ次のようになる。

 

1)頭が悪すぎる。

2)頭が良すぎる。

3)強欲すぎる。

4)”権威”を信じすぎる。

5)「疑い遺伝子」が少なすぎる。

 

1)は理解しやすい。街角の詐欺師に、エッフェル塔や自由の女神を”破格の安値”で売りつけられた観光客はこの類である。客の中には日本人もいたそうである。

2)の場合は、自分は頭が良いのだと思い込む過信による。たとえば、大学教授が簡単に詐欺に会うのはこのケースである。大学教授は頭がいいと思っているので「自分が騙されるはずがない」と思い込んでいるが、詐欺師はそれよりずっと頭が良い。「コティングリーの妖精」を信じ込んだコナン・ドイルの場合も、この例に当たるかもしれない。もっともドイルは、晩年、相次ぐ身内の死去により、心霊主義への傾斜を強めていた。理屈の問題ではなくて、「心の病」の問題であったともいえる。写真にトリックがあるのではという仮説なんか、頭から吹っ飛んでいたのである。

3)詐欺の被害者は、大抵そのカラクリを見抜いていることが多い(本ブログ「バーナード・マドフ事件」参照)。それでも、結局、被害にあうのは「まだまだ行ける」と思って欲を張るからである。

4)これもよくあるケースであるが、”権威者”が善意でやっている事が、結果として「だまし」になるケースがある。”名医”と言われる医師の臨床データー(何人殺したか何人生かしたのか)は調べておきたい。

5)疑い(臆病)は、人類の本性であり適応的形質である。交雑のはずみで、これに関する遺伝子が少なすぎる人は何度でも、性懲りもなく騙される。そして淘汰される。

 

 

 

 

 

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 医師シーボルトの功績

2023年11月03日 | 評論

 医師シーボルトの功績

 江戸時代に長崎・出島のオランダ商館にやってきた外国人の医師としてはシーボルトが最も有名である。フィリップ・フランツ・フォン・バルタザル・シーボルトは1796年、神聖ローマ帝国・バイエル州のヴュルツブルクに生まれた。シーボルト家は代々、医者の名門で父親はヴュルツブルク大学医学部教授であったが、シーボルトが2歳の頃に若死にしてしまった。そのため叔父のもとで母親に育てられた。人は幼児期に父と死別すると、後になって困難な状況での強い意志力と決断力、自分自身や家族のための成功への強い欲求心をしばしば引き起こす。シーボルトも、その人生の軌跡をみるとこの例外ではなかった。

 ヴュルツブルクの高校卒業後、1815年にヴュルツブルク大学医学部に入学している。ナポレオン戦争後のことで、ドイツの医学は急速に進展期に入っており、各地に多くの医学校が設立され、医学教育が充実し、医学生は解剖学や生理学などの基礎的な科目を学びながら臨床的な経験を積んでいた。さらに細菌や感染症の研究が進み、パストゥールやコッホらによる細菌理論の確立はまだ少し先のことだが、感染症の伝播や予防に関する研究も盛んであった。ヴュルツブルク大学医学部のレベルは高く、臨床関係の多くの研究所を備えていた。シーボルトが履修した科目の記録は存在しないが、外科、内科、眼科を中心に勃興しつつあるドイツ近代医学を習得したものと思える。   

 

                           

 このような時代の雰囲気を背景にシーボルトは青年期を過ごしたが、彼は医学の他にも植物・動物・地理・人類学をひろく履修したと言われる。シーボルトは亡父の友人で解剖学のイグナーツ・デルリンゲル教授の家に下宿していたが、そこで様々な分野の学者や研究者者と交流し自然博物学の関心を高めた。もっともこの頃は、かなりの荒くれ学生であったようで郷土のメナーニア学生団に属して何度も決闘し、顔に消えない傷跡を残した。                              

 1820年大学卒業後、国家医師免許を取得しハイディングスフェルトでしばらく開業していた。この頃は内科医とか外科医といった区別はなく、医者は「なんでも屋」の時代であった。そして1822年オランダ政府に就職し、東インド陸軍病院の軍医少佐となってバタヴィア(現在のジャカルタ)に派遣された。前から熱望していた東洋の自然研究を行なう絶好の機会と考えたのである。しばらく、そこに滞在していたが、1823年(文政六)ファン・デル・カペレン総督により日本に派遣される事になる。帆船「三人姉妹号」に乗り込んだシーボルトは8月12日に長崎・出島に到着した。このとき役人による人別改めにおいて、シーボルトのオランダ語発音が疑われたが、日本人通詞が「彼は高地オランダ人である」と機転を利かせてくれたので虎口を逃れることができた。そして来日した翌月には、早々と長崎・丸山の遊女であった楠本滝(基扇)と結婚している(遊女ではなかったという説もある)。後にシーボルトとツッカリーが『ファウナヤポニカ(日本植物誌)』でアジサイの種小名をotaksaとしたのは、この「お滝さん」の名を採ったことは有名な逸話だ。しばらくして、お滝さんとの間に娘(いね)をもうけた。

 第1回の訪日時(1823年8月1日~1829年12月30日)シーボルトは、出島でオランダ商館の館員の病気や怪我を診る医官としての役割を果たすとともに、日本の動物・植物などの自然物を収集し、そのコレクションをオランダ政府に送った。シーボルトは出島に来て1年3ケ月ほど経ってバタビアのオランダ政庁総督に宛てた報告書のなかで、「博物学やその他諸学の研究と医療活動を自分が並行して行なうのは困難なので、別に医師1名を日本に派遣して、自分が自然調査に専念できるようにしてほしい」と要求している。この頃は、医師としての任務よりも博物学研究を一義的に考えるようになっていた事を示している(あるいは最初からそのように考えていたかもしれない)。

 1826年には館長のスチュルレルに随伴して約5カ月かけ江戸参府旅行に出かけた。このとき江戸滞在中に幕府天文方書物奉行高橋景保と接触し、伊能忠敬が作成した『大日本沿海輿地全図』(日本全土の実測地図)の写しを手に入れた。景保はかわりにクルーゼンシュテインの著『世界周航記』をシーボルトから受け取ったとされる。後に、これが幕府に発覚しシーボルト事件を引き起こすことになる。シーボルトは1829年(文政12年)に国外追放の上、再渡航禁止の処分を受け、12月に多数の収集品とともにオランダに向け出航した。オランダに帰着してからはライデンに居を構え、コレクションの整理と『日本』『日本動物誌』『日本植物誌』の著作・編纂に努めた。48歳にあたる1845年には、ドイツ貴族出身の女性、ヘレーネ・フォン・ガーゲルンと結婚し、3男2女をもうけている。                

1859年、63歳になったシーボルトは13歳の息子アレキサンダーを伴って、オランダ貿易会社顧問として再来日した。その5年前に日本は開国し、さらに前年には日蘭修好通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除されていたのである。彼は鳴滝に居を定め、オランダ政府の為に外交にかんする献策をしながら日本研究を続けた。午前は日本人訪問客の応接に務め、午後は植物研究のために遠出した。白髭をたくわえたシーボルトが町や村に現れると、名主や町医者に歓待されて病人を診断した。そこでは患者には欧州の薬を処方するように乞われる事が多かったそうである。1861年には貿易会社との、契約が切れたため、幕府の外交顧問・学術教授となり江戸に向かった。江戸・横浜に滞在し、今度は幕府のために助言を行い、赤羽根の接待所で日本人に様々な教科を講義した。並行して博物収集や自然観察なども続け、風俗習慣や政治など日本関連の記述を残している。1862年に幕府により職を解かれ、5月長崎から帰国した。故郷のヴュルツブルクで「日本博物館」を開設するなどの活動をしていたが、1866年12月21日に70歳で没した。           

シーボルトの日本における活動は、多面的なもので、自然博物学者、医師、情報収集官、外交官(2回目の訪日時)に分類できる。その中で自然博物学者としての活躍がもっとも顕著で有名であるが、医師としての実績や評価についてはどのようなものであったろうか。シーボルト関係の書にあるように本当に名医だったのであろうか?

 それまでの商館医ケンペルやツュンベリーなども日本人の患者を診たが、出島に出入りする者や長崎の要人に限られていた。一方、シーボルトは身分の上下に関係なく広範な日本人患者の治療にあたった。一切、金銭を受け取らなかったので、患者達は感謝の意をこめて諸国の物産、美術品、工芸品、薬草、珍しい自然物などを置いていくようになった。シーボルトが、こういった物品をコレクションしているのを知っていたからである。診療活動の範囲は、最初は出島と長崎市内に限られていたが、郊外の鳴滝塾で患者を診るようになる。商館医へのこのような優遇は、それまで考えられなかった事であった。江戸参府中の日記には、シーボルトの噂を聞いて、道中いたるところで蘭方医や患者が宿屋に押しかけてきた様子が記録されている。                                   

 シーボルトが来日していた頃、日本では天然痘が流行していた。種痘は1796年に英国人エドワード・ジェンナーによって発明されたものであるが、西洋ではようやく汎用されるようになっていた。記録によると、牛痘ワクチンをオランダから持参したシーボルトは出島に着いた直後に、男の子3人に種痘を施している。さらに江戸滞在中にも子供5人にこれをおこない、そのやり方を幕府の医師に教えている。ただ、ワクチンが失活していたために、うまくいかなかった。種痘が本邦に根を下ろしたのは、約20年後の緒方洪庵が除痘館を設立した頃の事である。シーボルトは叔父宛てに「私が初めて日本に牛痘種を導入しました」と報告しているが、彼の前任者の商館医テュリングがすでにそれを行なっており、長崎の蘭方医吉雄幸載がこれに立ち会っている。                               

 シーボルトは江戸滞在中、眼科の侍医の訪問を受け、豚の眼の解剖実習を行ない、ベラドンナで人の瞳孔を開く実験を見せている。この時の様子をシーボルトは『江戸参府紀行』の中で「私は眼科についての書物と眼科関係の器具をいっしょに見せた。さらに瞳孔をベラドンナによって拡げる実験を行なう。その著しい効能に人々は驚き喝采した」と記している。ベラドンナとは、ナス科植物で外国産のAtropa bella-donnaの根から調整した薬剤であった。このとき見学していた侍医の中に土生玄碩(はぶげんせき)がいた。彼はシーボルトからベラドンナを分譲してもらうかわりに、将軍から拝領した葵の紋服を贈った。後に、これが露見して処罰されることになるが、この奇跡のような薬をどうしても手に入れたかったのである。玄碩は、シーボルトから、日本にもベラドンナが自生していると聞き、その植物を取り寄せ、白内障治療の虹彩切開手術に成功している。ただ、この植物はベラドンナでなくハシリドコロ(Scopolia japonica)であった。これらは属の違うよく似たナス科の毒草で、水谷助六(豊文)の描いた写生図に出てくるハシリドコロをシーボルトがベラドンナと見間違っていたのである。

 この頃の西洋の内科治療は、漢方と同じく薬草に頼る薬物療法であった。シーボルトが植物学に蘊蓄が深かったのは、自然博物学的な興味があっただけでなく、このような実用的な関心があったからである。シーボルトは欧州で使われている薬草を持参して治療に利用した。また長崎郊外に出かけて薬草探しも行なっている(実際は薬草収集を名目にした植物採集といったほうが当たっている)。また出島の植物園でも多くの薬草を育てた。当時の日本人医師の中には、漢方とさほど変わらないオランダ内科に批判をくわえる者もいた。たとえば建部清庵は「オランダ人医者は年々、出島にやって来るが、まともな内科というものがない。オランダ流といっても膏薬と油薬を使うだけだ」と杉田玄白への手紙で悪口をいっている。     

 シーボルトの最大の功績は治療活動そのものよりも、日本人医師(蘭方医)に対する医学教育であったといえる。それまでのオランダ商館医は出島の通訳や周りの限られた日本人に西洋医術を個別的に伝授していたが、シーボルトは長崎郊外に「鳴滝塾」を開設し、全国から若い優秀な医師を集め、授業と臨床講義を行なった。美馬順三、岡研介、伊藤玄朴、石井宗謙、伊藤圭介、二宮敬作、高良齋、湊長安、小関三英、鈴木周一、本間玄調、高野長英などの蘭方医が集まった。多くは後に日本の近代医学の発展に貢献した。先ほど述べた種痘にしても、シーボルトに方法を伝授された多くの弟子がそれを広めた。                     

 シーボルトの書いた医学的論文としては、大著『日本』の付録に載せた「日本の鍼術知見補遺(烙針法)」と「艾(もぐさ)の効用」がある。いずれも短いものだが、門人が提出したオランダ語論文をシーボルトが細かく添削してドイツ語に翻訳したものである。鍼についてはシーボルトが自ら試し「まったく痛みを起さず炎症もない」と感想を述べている。また美馬順三が加川流の産科教科書(『産論』」)をオランダ語にまとめて提出したレポートを、これも添削後、自分の名前でドイツの産科雑誌で発表した。シーボルト自身が医学的関心や興味でまとめた論文は見当たらない。                        

 シーボルトは1829年に帰蘭後、コレクションの整理と日本研究に集中し、医師としての活動はほとんど行なっていない。息子のアレキサンダーはそれを見て、「父は医学の才能を先祖から受けついでいたのに、自然科学を偏愛して医学の分野をなおざりにしたことは、まことに残念な事である」と述べている。もっとも再来日時には、30年間診断から遠ざかっていたにもかかわらず、日本人患者を診ており医師とも交流している。たとえば長崎町年寄の後藤惣佐衛門の陰嚢潰瘍手術の記録と処方箋が残されている(注1)。1861年7月6日、浪人が横浜のイギリス公使館を襲撃した東禅寺事件に際しては、シーボルトは現場に駆けつけて負傷者を手当した。シーボルトの再来日した頃、松本良順の奔走により長崎医学伝習所が幕府により開設されており、ヨハネス・ポンぺが招聘され教授をしていた。シーボルトとポンぺが直接、接触した形跡はないが、シーボルトが斬首された囚人の遺体を検分し、それをポンぺが解剖実習に用いたという記録が残っている。良順とは1986年9月1日に長崎で会って情報交換している。                           

 高野長英は医師シーボルトを高く評価し、父にあてた手紙で「この度の医者は格別秀いでている」とベタ褒めしている。一方、弟子の一人、本間玄調は「とかく評判は高いが、これといって特段の技術を持っているわけではなく、外国人というだけで初学者のようである」と手厳く批評をした手紙を知人に送った。玄調は全身麻酔を行った華岡青洲の弟子でもあった。弟子の間でも、このように評価は分かれていた。

 後に呉秀三はその圧巻の著「シーボルト先生ー其生涯及功業」においてつぎのように述べている。

  「シーボルト先生が出島を出でて、鳴滝塾に臨むはたいてい一週間に一回を例とし、その合間に楢林・吉雄氏は険悪なる症状にして診断治療に困難なるものを集め置き、シーボルト先生の来らるるを待ちて居り、先生はその病人を診て、いちいち症状を説明し、診断の仕方・治療の方法をうけるときは、鳴滝校舎にておこなえり。腹水穿刺を最初の手術として、腫瘍切除・その他外科・眼科・婦人科の諸手術並びに内科的処置は容易ならぬ難病を平癒せしめ、幾多の人命をいと危うき瀬戸際に救ひたり」

 呉秀三は、もともとシーボルト教の教祖のような人だったので、この評価はだいぶ割り引いて聞く必要があるが、他にもシーボルトは名医であったという説を唱える人は多い。しかし、シーボルトがどれほど有能だったとしても、開業医経験がわずか2年で「名医」といわれるレベルに達していたとは思えない。ただ、彼が学んだ西洋医学のレベルと当時の日本のそれとの落差や、持ち前の積極性、実行力、人間的魅力が人々を惹きつけたことは確かである。それまでの商館医には見られなかった活躍を行なったことは間違いない。 

(注釈)長崎のシーボルト記念館に残されている記録文書では、その処方箋は次のようになっている。「タンポポの根(4オンス)、忍冬(2オンス)、山帰来(2オンス)、キナ皮(1オンス)、大黄(2ドラム)1.5フラスコの水を1フラスコになるまで煮る。毎日、朝晩にそれぞれ小さい湯呑茶碗一杯分宛」ドイツ語でシーボルトが記したメモを蘭方医になった娘のいねが日本語に訳したものである。

 

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狐目の宮崎学と犬

2023年07月07日 | 評論

(「実話web」より転載)

宮崎学氏(1945-2022)については、その死後も様々な評価・評論がなされている。思索者、体制批判者として彼がどれだけ世界や社会を透徹して見ていたのかは問題があるが、一つだけ感心して彼の文章を読んだ記憶がある。その著「突破者外伝」(祥伝社2014年)において次のようなことを述べている(p216)。

最近、農村や一部の都市でもクマが出没して問題になってるが、この原因の一つは村や町内で結界を作っていた放し飼いのイヌがいなくなったためである。昔は犬は放し飼いが基本で、これらが習性から自然に集団化して縄張りをもち、集落の周辺に現れる野生動物を追いかけた。クマよりずっと小さくて弱いイヌも集団になると強い。日本のようにイヌの放し飼いを禁止している国家もめずらしい。イヌが人を噛む、吠えてうるさい、糞で道路が汚れるなどの小市民的な理由から、農村部でも都市でもイヌの放し飼いをやめるようになった。その結果、シカ、クマ、イノシシなどの野外動物がそこに進出してきた」

 筆者も比叡山延暦寺のお坊さんに同じようなことを聞いたことがある。昔は、叡山にはかなりの野犬がいて、彼らのお陰でシカやイノシシが畑に入り込まなかったそうである。さらに個人的な思い出を述べると、昭和20年代には都市でも犬は放し飼いで、幼稚園に通う道すがら町の辻々にボス犬がいて、これと闘いながらの通園だった。また、1970年代ごろでも京都市内の某大学の植物園内に夜な夜な野犬が集まってきて、夜中に園内で作業をする人を取り囲んだりしていた。日本では大昔から人と犬は密着して暮らしてきたし、そのような記録がある。そもそもホモ・サピエンスが栄えてネアンデルタール人が滅びた原因の一つがイヌとの共生の有無だったという説もある。

 暴力団対策法で新宿のヤクザ(町内の犬)が取り締まれて、いなったくなったので、”本物の犯罪者”である中国マフィア(熊)が縄張りに入り込んで来たという。社会でも身体でも無菌状態にすると、かえって脆弱になるという理屈に、どれだけの根拠があるかわからないが、宮崎氏の主張はなんとなくエコロジカルで合理的なものと思えた。

 ところで、須田慎一郎氏がYutubeで語る宮崎氏の「追悼番組」(追悼 宮崎学さんから学んだこと - YouTube)にはかなりやばい話がでてくる。ホテルのロビーで宮崎氏が須田氏を恐喝し、いう事を聞かないので、ちゃぶ台返しをしたというのだ。これはチンピラヤクザの常とう手段で、ここでは町の野良犬を演じていた。”権力と戦うアウトロー”のはずが、チンピラヤクザの裏の顔を持っていたのである。それが魅力といえば魅力だったかもしれないが、こんな事で論客宮崎が”しのぎ”をしていたとは情けない。

(注1:「宮崎学」をインターネット検索していると写真家の宮崎学(みやざきがく)氏とかぶる。この人は長野県出身で、社会的視点にたって自然と人間をテーマに活動しているまじめな報道写真家である)こっちの宮崎氏の著「イマドキの野生生物」(農文協2012)には、ツキノワグマの生態の話がでてくる。森林構造の変化により、その活動分布が変化してきたという。

(注2:「ヒトとイヌの共生」から「人と犬の共生」への進化的考察が今後のテーマである。犬が街にいない社会がどのようになるのか? また人が減少すると犬はどのようになるのか文化動物学的考察の展開が期待できる。各民族におけるその形態と変遷を比較生態的に考究する必要がある。林良博の「日本から犬がいなくなる日 時事通信社 2023)も参考になるが、文化史的考察は希薄である。

 

追記(2023/07/17)

人と犬の「共生」を破壊したのは、明治政府であることをアーロン・スキャブランドが「犬の帝国-幕末日本から現代まで」(岩波書店、2009)で書いている。鑑札のない犬に懸賞金をつけて始末させた。

 

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アインシュタインの方程式

2023年07月02日 | 評論

  世界で最も有名な科学方程式はアインシュタインが発見したE=mc2(エネルギー=質量 X 光速の2乗)であろう。これは特殊相対性理論から導き出されたもので、エネルギーと質量が等価関係を持ち、相互に互換性があり、条件が整えばエネルギーが質量に変換されるのと同様に、質量もまた適切な条件のもとではエネルギーに変換されることを示している。この方程式により人類は「原子の火」を手に入れて、まず原爆が、ついで原子力エネルギーが生み出された。  

 アインシュタインは、純粋にこの式を理論から導きだしたので、核分裂によるエネルギーの解放などは予想もしていなかった。それを物語る有名なエピソードがある。 1920年の年末、ベルリンにいたアインシュタインのもとに一人の青年が分厚い原稿を抱えて訪れ、会って話したいと言い張った。受付で押し問答があり、面倒な手続きの末、青年はようやくアインシュタインに会うことができた。彼はアインシュタインに、あの有名な方程式E=mc2を基にして、軍事目的に利用できる驚異的な爆発力を持つ兵器が作れると語った。その場に居合わせた人たちの話では、アインシュタインはこの話をまったく相手にしようとせず、こう言ったといわれる。 『まあ落ち着きたまえ。きみのばかばかしい説の詳しい話に立ち入らなければ、きみはさらに恥をかかずにすむよ』 ところがなんと、それから二十五年後、広島・長崎への原爆投下をもたらしたのは、アインシュタイン方程式の応用にほかならなかったのである。  

 原子物理学の分野で飛躍的な発展が遂げられ、核反応が発見されたのは、レオ・シラードが神がかり的な直感を得た1933年のことだった。すなわち、もしある元素内の原子が衝撃を受けて二つの中性子を放射すると、連鎖反応が始まるのではないかというものだった。ヨーロッパの数人の科学者たちが実際に核分裂を発見したのは、1938年になってからだった。イタリアのエンリコ・フェルミが、その第一発見者だと言われている。それに続いてキュリー夫人の義理の息子であるフランスのフレデリック・ジョリオ、ドイツでは化学者オットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンもそれを発見した。ニールス・ボーアは、核分裂の実験が成功し、その理論的な説明もすでにできているというニュースを、1939年にワシントンで開催された第5回理論物理学会の席上で、アメリカの研究者たちに知らせた。このニュースは、またたく間に全科学界に広がった。核分裂に伴う質量欠損により膨大なエネルギーが生ずる事が実証されたのである。  

 ナチスがなぜ原子力を軍事目的に利用しなかったのか、いまでも謎とされている。世界中の科学者の半数が、原子物理学の発展やその利用法について討論していた。軍事面で応用できそうな発見には、いつでもすぐに飛びついていたナチスドイツが、核に関しては反応が遅かった。 第一の理由としてあげられるのは、幸いアドルフ•ヒトラーは原子力のもたらす現象にまるで興味がなかったという事だ。第一次大戦の伍長には原子力の重要性を理解する能力はなかったようだ。第二の理由は、ドイツの中心的な科学者たちが、故意に核分裂発見のニュースを隠したという点である。彼らは結果を見越して、ナチスにその秘密を敦えるべきでないと考えた。とくにハイゼンベルクの努力によって、ナチスは核兵器の開発で連合国に遅れをとった。  

 大事な事は、連合国側は核開発でドイツより優位に立っていることを、終戦の直前まで自覚していなかったことである。いつもナチスに先を超されているのではないかという強迫観念があったので、アメリカはマンハッタン計画を推進し、1941年から核兵器開発に莫大な投資をした(心の片隅には大戦後のソ連との軍事的対抗戦略の事もあった)。連合国の核兵器開発ブログラムを作るに当たってアインシュタインが果たした投割についてはすでに伝説化してしまったが、その背景に潜む事実はしばしばあいまいにされ、一連の計画推進への関与については甚だしく誤解されている。  連合国における核兵器開発プログラム推進の音頭を取ったのは、ハンガリー出身の物理学者レオー•シラードだった。彼は、核爆弾製造の競争でドイツに勝つ必要性があることをルーズヴェルト大統領に知らせなければならないと思った。だが、アインシュタインほどの大物でないと大統領を動かすことはできないことも分かっていた。シラードは1938年七月、アインシュタインを訪問することにした。その夏、アインシュタインはロングアイランドの友入のもとに滞在していた。シラードと彼の意見に共感したプリンストン大学物理学教授のユージン・ウィグナーは、アインシュタインの居場所をつきとめて突然に訪問し、この危険な状況を説明した。  

 アインシュタインは、核分裂を原子爆弾に利用するという考えに仰天したという。1930年代から40年代にかけての彼の研究テーマは物理学の主流からはかけ離れた統一場理論の研究をしていた。おそらく、核分裂の利用についてのホットな議論は追いかけていなかったのだろう。第二次大戦が終結した直後に、アインシュタインはシラードが待ちかけた話について雑誌記事のなかで言及している。「われわれの時代に、それが本当に実現するとは思いませんでした。理論的には可能だとは思いましたが」  アインシュタインは科学界の代表として発言することに同意し、シラードが起草した核分裂の利用について大統領に行動を呼びかける手紙に署名した。1939年8月2日付のルーズヴェルト大統領あての手紙は次のようなものだった。 『大統領閣下  エンリコ・フェルミとレオ・シラードの最近の研究の結果によりますと、近い将来ウランが重要なエネルギー源として利用される可能性があると思えます。ある意味でこの状況は警戒を要しますし、必要となれば政府の早急な対応が望まれます。したがって、これから述べる事実をお知らせし、ご注意を喚起させていただくのが私の任務だと考える次第です。 この四か月で、フランスのジョリオ、ならびにアメリカのフェルミ、シラードの研究によって分かったことは、大量のウランを用いて核分裂の連鎖反応を起こし、それにより強大なエネルギーと大量のラジウムのような新しい元素を発生させ得る可能性があるという点です。近く実行に移されることは、まず間違いありません。  この新しい現象は、爆弾の製造に結びつくかもしれません。そして確信は持てませんが、強力な新型の爆弾が作られることが十分に考えられます。この型の爆弾は、一つだけでも船で運ばれて港で爆発すれば、周辺部を含めて港全体を壊滅させる力を持っています。おそらくそのような爆弾ですから、重すぎて航空輸送には耐えないでしょう。  アメリカにもある程度ウラン鉱石はあるものの、品質は著しく劣っています。カナダや旧チェコスロヴァキア領からはかなり産出するものの、世界最大の鉱山はベルギー領コンゴにあります。 この状況にかんがみて、政府と密接な関係にある核連鎖反応の研究チームを組むことが望ましいというお考えに至るのではないでしょうか。そのためには、閣下が信用されるしかるべき人物に、非公式に仕事を委ねるのが賢明かと思われます。その人物は、次のような任務を果たすことになるでしょう。  (a)政府各省と連絡を取り、新しい発見を逐一知らせ、政府が取るべき行動を進言する。とくに、アメリカがウランを確保できるよう心がける。 (b)現在、大学研究室の予算内でおこなわれている実験を促進する。そのためには、当該の人物がこの目的のために進んで寄付をしてくれる個人と接触して必要な限りの資金を供給してもらい、必要な設備の整った企業の研究所の協力を仰ぐ。  ドイツは、占領したチェコスロヴァキアの鉱山のウラン輸出を禁じたと聞いています。このように迅速な行動に出るということは、ドイツ国務次官の息子フォン・ワイツゼッカーがベルリンのカイザー・ヴィルヘルム研究所と結んでいて、そこでアメリカと同様のウランの実験がいま繰り返されているためと推察されます。   敬具 A・アインシュタイン』

 この手紙を仲介したのは大統領にかなりの影響力を持っていた経済学者のアレグザングー・ザックスだった。アインシュタインの手紙を読むと、ルーズヴェルトはすぐに対策を講じると発表した。その晩のうちに、核分裂の利用法について調査する小委員会を設置した。その瞬間に、ヒロシマヘの道が聞かれたと言われている。  シラードが核兵器開発プログラムで助力を求めてきたとき、アインシュタインは大きな道徳的ジレンマに陥った。二、三年のうちに、彼の政治的見解は極端な平和主義から核兵器推進へと変身した。だがこの心変わりも、単なる思いつきではなかった。もし連合国が原子爆弾を製造しなかったら、遅かれ早かれナチスが製造することになるだろう。その場合、消極的に抵抗しても効果はない。そう考えたために、彼は手紙に署名したのだった。アインシュタインはロマン•ローラン的な反戦主義を棄却して反ファシズム戦争の推進者となっていたので、当然の帰結であった。  

 署名したことによって、彼は後に「原爆の父」というありがたくない名前を頂戴することになったが、これはまったく事実に反する。アインシュタインは、E=mc2という方程式を作ったが、ヒロシマとナガサキに落とされた原爆を製造したマンハッタン計画にはまったく関与していなかった。核実験に立ち合ったことも、一度もなかった。マンハッタン計画を主導したのはユダヤ系アメリカ人で、当時、ロスアラモス国立研究所の所長であった物理学者ロバート・オッペンハイマー(J. Robert Oppenheimer, 1904年 - 1967年)であった。  

 1945年8月6日の朝、史上初の厚子爆弾がヒロシマに投下された。瞬時に七万人もの日本人が命を落とし、その後に火傷や放射線障害で亡くなった人は十万人にものぼった。連合軍の核兵器製造計画が、ついに実現したのだった。アインシュタインはそのニュースをラジオで知った。彼は茫然として、「なんと恐ろしいことを」と言ったといわれる。ドイツがまるで核兵器を製造できる状況になかったことを連合国側が知ったのは、終戦後になってからだった。世界で最初の実験原子炉であるシカゴ•パイル1号が臨界に達したのは、1942年12月2日で、ここで生成したプルトニュウムが長崎の原爆に利用されたと言われている。この原子炉もマンハッタン計画の一部であった。    

 第二次大戦後、冷戦のもとに核兵器が世界中に拡散していく状況を見て、アインシュタインは、世界が悲惨な核地獄への道を歩んでいることを懸念した。戦争終結から亡くなるまで、彼は核兵器の廃絶を訴え続けた。体調が許す限り、彼はどこにでも行って熱弁を振るった。めったにプリンストンを離れることはなかったが、彼が強く気にかけていた核兵器拡散の恐怖について講演をするために、ときに短期間ニューヨークを訪れることもあった。アインシュタインはためらうことなく戦前のように平和主義に逆戻りした。その目的を達成するために、彼はイギリスの友人である哲学者で数学者のバートランド•ラッセルとの親交を深めた。二人は平和主義を広めるために、さまざまな策を練った。そして第二次大戦の教訓を忘れて、またもや不条理を繰り返そうとする時流を、力を合わせて押しとどめようとした。    

 アインシュタインが最も貢献したのは、原子科学者緊急委員会という組織を通じた反核運動だった。彼はその理事会の会長兼議長であり、必要とされる一般大衆の興味を引く作戦のうえで、彼の知名度が大いに役立った。その組織の目的は核兵器の危険性を一人でも多くの人に知ってもらい、ひいてはその開発に力を注ぐ政府の非道徳的な行為に目を向けさせることだった。そのためにアインシュタインは講演を行い、ニュース映画やラジオ向けのインタビューに応じた。全国紙に寄稿したり、雑誌や緊急委員会の機関誌にも執筆した。核兵器廃絶を訴えたラッセル•アインシュタイン宣言(アインシュタイン没後で遺言と言われる)には湯川秀樹博士も共同宣言者として名前を連ねている。  

 このような活動を続けていたが、1955年4月12日、アインシュタインは大動脈瘤破裂のためにプリンストンの自宅で倒れ、18日に息を引きとった。享年76歳。世界最初の商用原子力発電所として、イギリスセラフィールドのコールダーホール原子力発電所が完成する1年前の事であった(ガロア)。

「人間性について決して絶望してはならない。なぜなら我々は人間なのだから(アインシュタイン語録より)

参考図書 マイケル•ホワイト、ジョン•グリビン「素顔のアインシュタイン」(仙名紀訳)新潮社,

より)この書には日本人がいかに”科学的好奇心”の旺盛な民族だったかが分かるエピソードが書yかれている。1922年11月アインシュタインは日本を訪問した。たいへんな歓迎をうけたが、最初の大衆を相手にした講演は4時間を超えるものであったが、聴衆は最後まで静粛に聞いていた。翌日の講演では、さすがに長すぎると考えてアインシュタインは2時間30分に短縮した。ところが、終わると主催者は、今日の講演時間は昨日よりも短かったと気を悪くして文句をいったそうだ。

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井波律子〖完訳論語〗を読む

2022年07月22日 | 評論

宗教は人の救いのためのものだが、そのためにはある規範や倫理を要求する。キリスト教でも仏教でもそうだ。悪いことをすると地獄におちるとまでいって脅かす。ところで中国の儒教は宗教だろうか?孔子は中国では神格化されているが儒教は宗教ではない。「論語」は人としてあるべき姿を指し示したものである。人生の規範を集大成したものといってよい。これは当時の農民や一般人むけのものとは思えず、インテリにしか通用しない話のように思えるが、これが二千五百年以上生き延びてきた背景には、確かな論理性と登場人物群の豊かな個性によるものであろう。井波律子の「完訳論語」から、感銘を受けた名言を挙げてみた、

1)子曰く、君子は周して比せず。小人は比して周せず。

2)子曰く、学んで思わざれば即ちくらく、思うて学ばざれば即ちあやうし。

3)子曰く、利に放りて行えば,怨み多し。

4)子遊曰く、君に事えて数しばすれば、ここに辱めらる。朋友に数しばすれば、ここに疎んぜらる。

5)子曰く、之れを知る者は之を好む者に如かず。之れを好む者は之をれを楽しむ者に如かず。

6)子 南子を見る。子路説ばず。夫子 之れに笑いて曰く、予否らざる所の者は、天 之れを厭てん、天  之を厭てん。

7)子曰く、憤せずば啓せず。ひせずんば発せず。一隅を挙げて三隅を以て反らざれば、則ち復たせざる也。

8)子は怪・力・乱・神を語らず。鬼神を敬して之を遠ざく。知という可し。

9)子夏 絽父の宰相と為りて問う。子曰く、速やかなるを欲するなかれ。小利を見るなかれ。速やかならんと欲すれば、則ち達せず。小利を見れば、則ち大事成らず。

10) 葉公 孔子に語げて曰く、我がを党に身を直くする者あり。其の父 羊を盗む。而して子はこれを証す。孔子曰く、我が党の直き者は、これに異なる。父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の中に在り。

11) 子曰く、君子は無能を病みとす。人の己を知らざるを病みとせざる也。

12) 子曰く、君子は世を没わるまで称せらざるをにくむ。

13) 子曰く、君子は和して同ぜす。小人は同じて和せず。

 

いくつか印象深いものを列挙した。論語の孔子は意外と人間くさい。6)は美人に弱い男の習性を話題にしたもので、南子は論語で出てくる唯一の女性。9)など読むと、孔子は結構プラグマティックな現実主義者で現代中国の人々の思考にも影響していることがわかる。金儲けを悪とはしていないし、大儲けするには小事にかかわるなと諫めている。11)と12)は矛盾しているようにみえるが、結局、なんらかの名をあげることが大事だと言ってるのだろうか?子究9-23に「四十五十にして聞ゆること無くんば其れ畏るるに足らざるのみ」といってるので、「名声」は君子たるものの必要条件のようではある。前からまえからこの2つの文言は気になっている。13)もどちらが、どちらか混乱する。小人の方が「そうだそうだ」と言いながら、心では人を馬鹿にしている。

 

 

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孫子の兵法とウクライナ戦争

2022年05月21日 | 評論

 2月24日、プーチン大統領がウクライナへの軍事作戦を行うと述べた演説の後、ロシア軍によって砲撃や空襲が開始された。これを受けてウクライナのゼレンスキー大統領は同日、戒厳令を発布。さらに、18歳から60歳の男性を出国禁止にする「総動員令」に署名し、戦争状態に入った。ところがロシアは短期間で首都キエフを占領する予定が、ウクライナ軍の予想外の抵抗に合い、撤退せざるを得なくなり、いまや東部地区の専守防衛といった情勢になっている。プーチンは何を間違えたのか? 中国の兵法書『孫子』を読んで考えよう。

 『史記』によれば兵法書『孫子』の著者孫武は、斉の人、兵法書13編を著すとある。春秋時代の人で呉王闔閭(在位前515~前496)に仕え、西は楚を破り、北は斉、晋を脅かして天下にその勇名をとどろかせた。呉王が諸侯の覇となりえたのも、孫武の力に負うところが多かったという。「孫子」は単に兵法書というよりも、深い人生訓を含んだ哲学書として読まれている。

  兵法書「孫子」の著者孫武

 

 兵は国の大事なり、死生の地、存亡の道、察せざるべからず

<戦争は国の一大事であり、人民が生きるか死ぬかの瀬戸際に追い込まれることが多い。国家の存亡を左右するものなので、最も慎重に考慮すべき事である>

プーチンは米国やNATOに挑発され、追い込まれるようにして戦端を開いたが、ウクライナ側の軍事体制を含めた情報不足や、クリミヤでの成功の驕りで、相手をなめきったために、とんでもない危機に陥ってしまった。ロシアは国内的にも国際的にもただではおさまらにだろう。真珠湾攻撃の奇襲で米国に開戦した大日本帝国の状況とよくにている。一国の命運を左右する決定をプーチンは安易に行ってしまった。もとKGBの中佐は大国を率いる器ではなかった。

 

兵は拙速を聞く。未だ巧みの久しきを聞かず。

<戦いは、たとえ拙速でも速決が大事である。いかに戦争巧者でも、長引いて成功したためしはない>

ロシア軍は、奇襲をとらず開戦前に演習と称してダラダラと時間を過ごした。その間、ウクライナ側は準備をととのえる事ができた。一点突破でキエフに奇襲突入し、主要施設を占拠しておれば、指揮系統が混乱してウクライナは相当にピンチだったろう。

 

兵を用いるの法は、国を全うするを上と為し、国を破ること之れに次ぐ。

戦争は敵国を滅亡させないで勝をおさめるのが最上である。敵国を破滅させるのはやむをえない場合だけである>

ロシア軍はいまや無差別に市民を殺戮し、施設や家屋を破壊する戦術を取っている。これでは、ウクライナ市民の怨嗟と怒りでもって、軍はますます苦境に陥るのは目にみえている。

 

百里にして利を争えば,即ち三将軍を虜にせらる。

<無理して遠くに攻め込めば、結局、将軍を3人も捕虜にされてしまうほどの敗北を喫する>

ウクライナではロシアの将軍クラスの軍人がスナイパーによって何人も戦死している。それだけでなく敗勢の責任をとらされて罷免された将軍が何人もいるといわれる。これでは士気は落ちる一方だ。

 

始めは処女のごとく、後には脱兎のごとし

<始めは処女のように静かだが、時期がくれば野兎のように行動する>
ウクライナ軍はロシア軍を防衛ラインまでひきよせ、隠し持っていた最新兵器でつぎつぎと撃破した。

 

軍に輜重なければ即ち亡び、糧食なければ即ち亡ぶ

<軍隊に十分な軍備品がなければ、戦いに敗れ、食料の準備がなければ敗北する事は必定である>

ロシア軍は2週間ほどで片がつくと考えて装備、弾薬、食料をその分しか準備してなかった。その結果は目にみえていた

 

彼を知り己を知れば、百戦危うからず。彼れを知らずして己を知れば、一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず危うし。

これは有名な孫子の命題なので解読は略す。プーチンは、どうもウクライナのこともロシアのことも分かっていないらしい。

 

亡国は以って復た存すべからず、死者は以って復た生くべからず。

<亡んだ国を再興することはできない。死んだ人を生き返らせることもできない>

亡びるのはウクライナかロシアか?あるいはその両方か?なんのためにスラブ人同士戦うのか?大義のない不思議な戦争だが、いままでアメリカがベトナム、南米やイラク侵攻などで、さんざんやっきた手本をもとにロシアがまねているように思えてならない。いま世界の正義の基軸が問われているが、ロシアが悪いからといって、米国やNATOが正義とは言えないのだ。

 

追記(2022/0523)

[呉子]も戦国時代の軍人呉紀の言葉をまとめたものだ。

国の和せざれば以って軍を出だすべからず。

死を必すれば即ち生き、生を幸すれば即ち死す。

三軍の災いは狐疑より生ず。

近きを以って遠きを待ち、いつを以って労を待ち、飽を以って餓を待つ。

など銘記すべき文章を残している。

 

追記(2022/11/20)

クラウゼウィツ語録(加藤秀治郎翻訳一芸社

 

名将は精神的教養の高い国民の中からしか生まれない

敵に勝つには、敵全体の重心を目指し、全力で突進せよ。

防御して反撃しないものは亡びる。

 

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キケロ「老年について」を読む

2022年03月03日 | 評論

 

キケロ著 大西英夫訳 「老年について」(講談社学術文庫2019) 

 

「無謀は華やぐ青年の特性、智謀は春秋を重ねし老人の特性」という名言で有名なキケロの著である。

 キケロ自身は登場せず、主に大カトー(84歳)が語るが、それとスキピオーとラエリウスとの対話の形式を取っている。古代ギリシャ人と現代人とでは平均寿命が違うので、老人といっても、今の老人よりもかなり若かったと思えるが、当時の哲学者や知識人はけっこう長命だったようだ。

 カトーの訓話には様々な偉人のエピソードが入混じ、いささか退屈であるが、要は「老人になったから衰えたのではなくて、そもそもそれ以前からの心構えや生き様が悪かったからだ」としている。「学問研究や仕事に常に孜々として携わって生きる者には、老年がいつ忍びよったか分からない」とも述べている。これは、当時のギリシャ人にとっても稀に幸せな環境(人生)の人だけの話だろうね。また、死は苦しみではなく、労苦に満ちたこの世を離れ、先だって黄泉の国に行った懐かしい人々にあえる至福の時であると述べている。これは母親が亡くなったときに、浄土宗のお坊さんがお通夜で話していたのと全く同じ話なので驚いた。老人がこの世を去るのは木の実が熟すれば自然に落下するのと同じだとも言っている。

 訳者の大西氏が後書きで詳しい解説をしている。ただ、そこには大カトーが自然(Nature)との結びつきを大事にしている話(15章16章17章)の考察が抜けている。ここでは青々と茂る牧場と並木、大地の稔、ブドウの栽培、農耕、ミツバチの群れなどの記述がある。老年になり書斎にとじこもり思念をこらしているだけではだめで、自然とのふれあいが大事だといっているのだ。これは現代人にも心すべき忠告といえる。

養生訓めいた話は出てこないが、老年とは何かを考える必読本である。

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『くらしのアナキズム』(松村圭一著)について

2022年03月02日 | 評論

 この著は混迷する文明社会を考察する一助となる。一番考えされられたのは、多数決=民主主義という考えは誤りだという指摘だ。これは少数者をコミュニティから排除してしまうからとしている。単純多数決ではなく、少数意見でも自分が無視されたと思わせない社会の例として、南スーダンのダサネッチという部族の生活を挙げている。しかし、はたして文明社会でそんなやりかたが通用するのだろうか?高知県窪川町の原発誘致問題などが日本での例として取り上げられているが、あまり納得できる話ではなかった。

 たしかに未開部族社会には本能的(innate)とも思えるコミュニケーションの方法があるようだ。今西錦司(人類学者・サル学の開祖)はその著「ダーウィン論」(中公新書479)で、未開部族民が以心伝心でもって共同作業における分業をおこなうと述べている(p105)。ポナペ島の島民は、誰の命令や打合わせもないのに、各自適切な作業をばらばらに行って立派な小屋を建てたそうである。この部族社会の労働における平等な分業体制が、少数者を排除しない民主主義を成立させているのかもしれない。しかし、これは文明の発達した開発諸国では適用できる話ではない。それに代わるのは、スイス型の直接民主主義と無制限討論方式しかないが、これはすごく時間のかかるものだ(下村湖人「次郎物語:後編」のテーマだったような気がする)。よほど気の長い民族でないと無理っぽいし、クダクダ議論しているうち、プーチンみたいな気の短いらんぼう者にたちまちやられてしまうだろう。

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読解「人新世の資本論」(斎藤幸平著)

2022年01月25日 | 評論

 

 

GDPはなぜ毎年増加しなければならないとされていたのか?

 いままでは、GDPは増え続けなければならないと考えらえていた。この成長神話の背景には、1) 地球のフロンティアは限りなくひろがっているという幻想、2)それと連動して人口も制約なしに増加するという幻想があった。こういった幻想を現実が、木っ端みじんに打ち毀しつつあることを本書はまず指摘する。西部開拓史のように未来が希望にあふれたフロンティアは消滅し、残された宇宙スペースは人類が快適にすめる空間ではない。文明諸国では政府の少子化対策にかかわらず人口は減りつづけている。資源のフロンティアが喪失しただけでなく収奪するべき安価な労働力のフロンティアがなくなりつつある。一時期、中国の膨大な安価な労働力を求めて日本を含めた資本はここに工場を建設したが、そこでの賃金の高騰をうけて、他の東南アジア諸国(ベトナム、タイなど)に移転しつつある。フロンティアが限界に到達したというだけでなく、人類の活動によって地球環境は破綻し、気候変動やパンデミックによって、とんでもない厄災が人々に降り注ごうとしている。それにも関わらず、資本主義と文明社会が、さらなる「発展」をもとめて、いかに悪あがきしているのかを、マルクス主義の立場から本書は批判・告発しようとする。

 SDGs運動に象徴される「持続可能的な発展」や「緑の経済成長」は矛盾の外部転嫁にすぎない。外部転嫁には空間的なものと時間的なものがある。EV(電気自動車)や水素燃料自動車は都市部や文明国の局所的環境(都市)を保護し、周辺部の地方や他の国の環境を破壊している。おまけに地方の火力発電所が発生する炭酸ガスや廃棄ガスは回りまわって都市部にも到達した上、地球全体の温度環境を上昇させる。子供でもわかるこんな理屈を無視して成長路線で経済活動をつづける資本主義には、グレタ・テューンベリさんでなくても怒りがわいてくるというものだ。「中核部の廉価で便利な生活の背景には周辺部からの労働力の搾取だけでなく、資源の収奪とそれに伴う環境負荷の押し付けがある」と著者はいう(p33)。それゆえに地方や未開発国の収奪や環境破壊は、ここに棲む若者の離脱・過疎化を促進する。一方、都市はますます過密化し、その自然環境は劣化する。

 

洪水よ我が亡き後に来たれ!

 矛盾の空間的転換だけでなく、時間的転嫁を資本主義は行なおうとしている。「炭酸ガスの排出量を制限して地球温暖化を防ごう」というスローガンはもっともらしが、これがまさに時間的転換である。「10年後に起こるクライシスを20年後までに引き伸ばそう、その間に、賢明なるホモ・サピエンスは科学の力で解決法を考えつく」と説諭するのである。余命宣告1年の末期がん患者に抗がん剤を投与して、生存期間を2~3カ月延ばすようなものだ。その間に魔法の抗がん剤が発明されるよ...。たとえ炭酸ガス問題をクリヤーする方法を発明しても、別の新たな矛盾が出てきて、世界は必ず暗礁にのりあげる。たとえば、低温核融合が完成したとする。これの燃料は水素(重水素H2、トリチュウムH3)なので、エネルギーは無尽蔵に供給される。CO2も出ないし、原子力発電のように危険な核燃料廃棄物も出ない。すなわち無限にクリアーなエネルギーを得ることができる。しかし、エネルギーが、たとえ無尽蔵でも、他の資源は有限なので、文明の律速物質が人類の経済を制約する(このクリティカルな「物」が何かは研究が必要である。おそらくレアーメタルのようなものではないかと著者はいう)。自然のフロンティアは有限かもしれないが、人の英知のフロンティア(イノベション)は無限であるという考えもある。しかし、どんなに工夫しても無から有は生じないし、どの分野にも収穫逓減の法則がある。世界における資源の総消費量は約1000億トンである。2050年には1800億トンがみこまれる。一方、リサイクルされているのはわずか8.6%。これでは持続可能性なんかありえない。ともかく、今が良ければ、未来社会の迷惑などでうでも良いというのが現代文明であり資本主義なのである。マルクスの資本主義分析は資本家でも参考にしているように、著者のグローバル資本主義分析は正鵠を得ている。

 

弁証法の魂は否定である。

 マルクス哲学(思考法の基本)は唯物弁証法である。物と物の発展的な関係が、運動の法則の基盤をなすと考える。発展的な関係のベースには否定があると考える。ある時点でAの状態がBになるのは、Aを否定する力がはたらいてBになるからだ。資本主義では労働者の労働(価値)を否定(搾取)して、その価値を新たな資本に転換する。新たな資本は、そこでまた労働者を搾取する否定の循環が生じる。この資本による「労働の否定」を否定するのがマルクス主義である。否定こそが弁証法の魂であり、否定によってこそ世界は変転し進化する。マルクスはそのように考えた。社会における発展原理は、それぞれの時代で否定の主体である階級(あるクレードの人の集団)が存在したので明確である。

 それでは資本主義による自然(地球)の否定(破壊・収奪)についてはどうなるのだろうか。著者(斎藤氏)によると、マルクスは社会と同様に資本主義が地球を収奪していると主張したとしている。はたしてどうか?マルクス自身もそのような事例を散発的に文献引用しているだけで、体系づけてこのテーマを展開していないように思う。そもそも、人類が自然を破壊してきたのは、石器時代、古代メソポタミア、アテネギリシャ時代からのこととされている。近代の産業革命以降になって規模が拡大した。ひょっとすると、原始人類が火を発明したあたりから自然破壊は始まったかも知れない。自然対資本主義ではなく、自然対人類とすれば、考え方は根本的に違ってくる。自然と人社会の矛盾を、一羽ひとからげに資本主義のせいにできないとすると、話が全然ちがってしまう。

 

エコロジストとしてのマルクス

 斎藤氏によると対自然(地球)に対するマルクスの思想は生産力至上主義(1840-1850)、エコ社会主義(18860年代)、脱成長コミュニズム(1870-1880)と変遷(発展?)したとしている。最後の脱成長コミュニズムについては著者による新説である(多分)。ゴータ綱領批判の一節を引用するなどして、論じているが牽強付会の感をまのがれない。

この説と労働者の解放との関係についても何も述べていない。資本主義からの労働者と地球の解放はカプリングしたものであるはずだ。社会における資本による人の収奪にたいしてのマルクスの姿勢は明確である。教科書的には「共産党宣言」を読めばよい。労働者は団結して資本家を打倒することになる。それでは資本主義を廃止すればおのずと、地球に対する収奪はなくなるのだろうか? 著者によると、マルクスの書き物やノートで本としてまとめらえている部分はごく一部だそうだ。膨大な未収集の資料を編集して、欠落した思想を完成させる必要があるとすると大変な努力がいる。きっとマルクスAとマルクスBとか、いろいろなマルクス思想が出てくるだろう。なんとも気の滅入る話である。

 著者はマルクスを引用して「否定の否定は、生産者の私的所有を再建することはkせず、協業と、地球と労働によって生産された生産手段をコモンとして占有することを基礎とする個人的所有をつくりだすのである」としている。著者は、さすがにこれではまずいと考えたのか、この後で、「コミュニズムはアソシエーション(相互扶助)に支えらえたコモン主義である」という論を展開している。環境学に出てくる「コモンズの悲劇」は、誰でも利用できる共有資源の適切な管理がされず、過剰摂取によって資源が枯渇してしまい、回復できないダメージを受けてしまうことを指摘した経済学における法則のことである。著者は分別のあったゲルマン民族のマルク協同体やロシアのミールを規範としているが、中世やロシア封建制の頃の生産システムや意識が、近代や現代にどのように適応できるのだろうか? 

 <労働と資本>の矛盾、<生産と自然>との矛盾の相互関係およびそれの超克の方法が、この書では明示されていない。これらは一元化されて解決できるのか、2元的に扱われのかといった問題が取りあつかえわれるべきテーマといえる。これは残念ながらどこにも見当たらない。

 

階級はどこにいったのか?

著者は矛盾の超克の具体的な方法として、ワーカーズ・コープ(労働者協同組織)というものを提唱する。これは労働の自治、自律に向けたもので、組合員が出資し経営し労働を営むものである。しかし資本主義と並行して、このようなシステムがあったとしても、競争に勝てるわけがない。これは資本の徹底廃棄の上で可能なものである。しかし資本家が、やすやすとそれを許すはずがなく必然的に厳しい階級闘争が起こる。「否定の否定」には断固とした意思としての階級が登場する必要がある。しかし、本書はマルクスを論じた著書にもかかわらず、階級という用語はほとんど出てこない(ケア階級という意味不明な言葉は出てくる)。階級闘争という言葉は、もうしわけ程度に一度出てくる (p214)。ここではバスターニの民主社会主義的コミュニズム批判がなされ階級闘争の視点が抜けていると批判しているが、著者の文脈にも総体として、それが抜けているのだ。その意味でも不思議な本である。

 

感染症についての考察

 コロナ禍を人新生の産物としている。しかし、中世のペストをはじめ古代からエピデミックやパンデミックの歴史は数しれない。近代資本主義のパンデミックは、スペイン風邪からと思えるが、それ以前のものとの質的・構造的な違いを明らかにしてほしかった。規模と速度の問題以外に、むしろ、その影響の質的な違いがあるはずである。さらに、余計な注文をつけると、ウイルス感染から「思想の実効再生産数R」についても考察してほしかった。起源ウイルスはたとえ一匹でRが2でも、短期間にパンデミックになる。一人の革命思想家ー共鳴グループー階級意思へと「思想感染」がおこる道筋(おそらくローマ時代のキリスト教の拡大に似た)のダイナミックスを疫学が提示してくれている。

分業による疎外の問題

資本主義労働による人間疎外は分業の徹底によっておこっている。生産手段や土地をコモンにするだけでは解決しない問題である。著者は個人の趣味(全体作業)によってそれが補完されるというが(p267)、それではあまりに寂しい。カール・マルクスは「経済学・哲学草稿」において、労働によって人々が没落し貧困化するのは労働と生産の間の直接的な関係における「労働の本質における疎外」にあるとしている。これはフォイエルバッハの人間主義的で自然主義的を基準にしたものである。

総合評価

 総合していうと、この本の著者は博覧強記の若手社会学者で様々な視点で問題提議してくれているが、マルクス思想の「筋」(疎外された労働、階級の問題)から外れているように思える。

 

参考文献

鈴木直 「マルクス思想の核心」NHKBOOKS 1237 NHK出版 2016

座小田豊 「マルクスー経済学・哲学草稿」(哲学の古典101) 親書館 1998

鎌田慧「自動車絶望工場」(講談社文庫2005)

追記:「マルクスは人間が自然に働きかける外に生きる道のないのをさとった。自然に働きかけるのが労働である。自然のもっている物質をとってこれを生産手段とした瞬間に人間は動物から分かれて人となった」と向坂逸郎は書いている(「マルクス伝」(新潮社1962).。そうそうなら道具の発明から人と自然の対立関係が発生していたのかもしれない。

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保坂正康を読むー今も昔も教育エリートの弊害が日本をダメにする

2021年11月16日 | 評論

 

すこし古い本だが、保坂正康の「あの戦争は何だったのか」(新潮新書125)を読む。昭和天皇の戦争責任について、あいまいなところがあるが、おおむね納得できる内容であった。

 冒頭に、軍事的にはほとんど白痴のような当時の軍人達がどのように養成させたかが詳しく書かれている。陸軍の場合、陸軍幼学校、士官学校予科、本科、陸軍大学校の狭き門を潜り抜けた50人がエリートとなって枢要な地位におさまる。とくに上位の10名は天皇から恩賜の軍刀を受け取る超エリートであった。海軍でもほぼ同様のシステムでエリート軍人が選抜された。この連中には成績優秀でも、いざとなると独創性、状況識別能、勝負勘はまったくなかった。官僚的事務や戦術レベルの計画には、それなりに活躍できても、戦略的な構想や大きな理念が欠如していたので、最後は精神論にたよらなくてはならなかった。この傾向は現代日本にもあてはまると保坂は主張する。

 司馬遼太郎も同じような事を講演で述べている。司馬は1986年10月にNHK「雑談—昭和への道」で、「秀才信仰と骨董兵器」という放送を行っている。ここでは、学校で偏差値の高かった旧日本軍の軍人が、いかに情報を軽んじ想像力が欠如していたかを述べている。
「頭がいいということは要するに偏差値の事です。本当の意味の頭のよさとは違う。本当の頭のよさというものは測定しがたいものです」と言う。さらに、戦前戦中の日本ではドイツのヒットラーのような独裁者を生み出さなかった。これは官僚が支配する国だったからだと話している。「軍人も全部官僚でした。軍の中心にいる軍人は、作戦課長なら作戦課長、作戦部長なら作戦部長あるいは陸軍省の何々ポスト。あるいは内務省でもいい。その椅子がですね、だれが座ろうとその椅子の思想で振る舞い、物を言い、そして1年ないし2年で交代していく。日本の軍部は独裁的になっていきましたが、独裁者を出さない国でした。独裁者なき独裁でした。ですから、だれが悪いということを言えない昭和史のいらだち、得もいえぬいらだちの一つは、ここにあります」と。

 たしかに現在の日本の社会も当時とあまり変わらない。強力な独裁者は出でてこない。ともかく社会を、小さい頃から塾通いしてきた「偏差値の高い頭のいい」政治家や官僚がいつまでも牛耳っている。帝国軍人のように、彼らにとって国や自治体の命運が主題ではなく、自分の保身と立身出世だけが関心のようだ

 

追記(2021/12/01):渡辺昇一「ドイツ参謀本部」(祥伝社:2009)を読むと日本陸軍が廃頽していった、背景を読み解くことができる。モルトケ、バルダーゼ、レーデンブルグ、ゼークトなどの筋の通った軍人にめぐまれたプロイセン軍部が劣化してヒトラーに通ずる道は、日清、日露戦争を戦った軍人がいなくなって、東条英機が出た日本の歴史に通底している。

 

 

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京都大学の憂鬱

2021年10月25日 | 評論

 

  京都大学新聞は大学が承認した学生団体が発行する1部100円也の学内新聞である。その最新号(10月16日発行)を読んで憂鬱になった。まず1面トップには「元教授論文4本捏造ー実験実施の確認とれず」という記事が出ている。京大霊長類研究所の元教授正高信男氏(2020年3月定年退職)が発表した4報の論文が捏造とされ、正高氏に当該論文の撤回を勧告し、今後処分を検討しているという内容である。この事件の原因について学内の調査委員会は、正高氏の倫理観の欠如を指摘し、今後は学術誌への掲載が決定した時点での研究データーを「研究公正部局」に提出することの義務付けを主張している(それでも「2重帳簿」のようなものであれば防ぎようがないのだが)。正高氏は実験ノートは大学の研究室に残して来たと主張しているようだが、試薬の購入記録や被験者の記録も証拠ないので、捏造と判断されたものである。4報とも単著論文だそうだが、定年近くなった京大教授で、しかも多数の著書をものしてきた人物が、どうして論文を捏造する必要があったのか、まったく不可解な事件である。この霊長類研究所は、チンパンジーの行動学で有名な元教授松沢哲郎氏(懲戒解雇済み)の不正会計処理事件で解体(改組)の方向で話がすすんでいる。この研究所は世界で霊長類学を主導してきた歴史ある拠点である。これまで築き上げてきた先達の苦労が水の泡となりつつある。

 この記事のとなりには「論文不正新たに37件ー19年に懲戒の理・元教授」と別の論文不正事件が載っている。これは熊本地震に関する論文不正で2019年に停職処分を受けた理学研究科の林愛明元教授(昨年2月に退職)について、新たに4本の論文で37箇所のデーター捏造や改ざんが見つかったというものだ。これで学内規定にもとづき懲戒解雇となった。京大は林氏に文書で論文撤回を勧告したが、反応がなく不正認定や処分に対する見解は不明とのことである。こちらは共著者がいたが、所属機関から処分されたかどうかは不明である。彼らに何のペナルティーも課されないとしたら問題であろう。共著者にも罰則を与えれば、捏造論文や雑な論文の数は激減するはずである。ちなみに停職処分を受けた原因の論文はサイエンス誌に掲載されたものである。有名学術誌だからといって、信用してはならない例をまた一つ付け加えてくれた。

 この記事の下に「中島浩教授死去ー元学術メディアセンター長」の記事が並ぶ。中島教授はスーパーコンピューターの権威者であったが、今月6日夕方、大津市の自宅付近で交通事故にあって亡くなられた。これはまことに残念で悲しむべき話であるが、問題は{本紙の取材に京大は「大学としては把握していない」と回答した}いう記述である。この大学の回答は官僚的で非人間的な京大事務の体質をまざまざと顕している。何事においても、責任のある返答を避けようとしてきた習慣がこのような奇妙で非常識な返答をさせているのである。新聞が取材(問い合わせ)をどの時点で行ったかわからないが、こういった場合は「大学としては情報を収集しているところです」と回答するのが普通である。名物のタテカン文化も消え、自由の学風はどこへやら、上から下まで管理大学と変貌し、おまけに有名教授が不正論文を乱発するこの大学に明るい未来はあるのだろうか?まことに心配になってくる。

                  

               十団子も小粒になりぬ秋の風  許六

追記 1: 同じく11/11日付京都大学新聞にも改廃後の組織図が掲載されている。一部は「ヒト行動進化研究センター」という組織に、他の分野は既存の学内関連の分野にそれぞれ「分配」されるようである。松沢氏と正高氏のかかわった分野は廃止されるらしい。一部の教員の不祥事のために、伝統あるマスとしての京大霊長学の解体には賛成できない。

この研究所で不祥事が生じたのは、専門分野でおたがいコミュニケーションが無かったからではなく、研究機関としてのまともなコーポレートガバナンスが欠如していたからである。この傾向は、ここだけでなく、大学全体に蔓延する宿痾となっている。組織解体しても、なんの解決にもなっていない。コーポレートガバナンスは企業でも取り組みがなされているが、どこもうまくいっていない。大学のように責任主体が、だれかも明確でないところでは、ますます対処が難し。

追記2 同じく11/16付同新聞の見出しは「霊長類・再編に学界から憂慮の声・撤回求める署名も」とある。ここでは元所長の杉山幸丸京大名誉教授らが中心となってインターネット署名サイトで撤回を求める運動を展開していると報じている。また霊長研ではこの件でつよいかん口令がひかれ、個人の自由な発言が封じ込められているらしい。学内の所外からも強力な反対運動が起こらないのは何故か?教職員そのものが劣化しているのか?京大が香港化ているのか?そもそもこの「京都大学新聞」そのものに主体としての主張があるのか?昔のこの新聞なら見出しは「解体に断固反対!」であった。

 

追記3 (2022/03/10)

Chang.orgから[不正会計再発防止は霊長類研解体ではなく危機管理意識欠如の反省でおこなってください]という声明が出されている。まったく同感である。

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動物行動学の昨今

2020年09月03日 | 評論

 一昔前に、日本でもエソロジー(動物行動科学)というものがはやった時代がある。コンラッド・ローレンツの『ソロモンの指輪』がベストセラーになり、サロンでは、ちょとした知的なご婦人もその分野の話題をしていた。

動物行動における鍵刺激とか解発因という用語が使われ、本能、生得的(innate)と学習の区別は何かといった議論がよくなされた(アイベル・アイフェルベスト著 『比較行動学 1,2』みすず書房 1978)。

 たとえばイトヨ(魚)の求愛行動では1)ジグザグダンス、2)求愛、3)導入、4)追尾、5)巣口提示、6)入巣、7)身体の蠕動、8)産卵、9)射精といった美しいシークエンスが、その手の教科書に掲示されていた。

イトヨには何の意志力も思考力もなく、本能に組み込まれたプログラムを順番にとりだしていけば、目的を達することができると考えられた。このシークエンスが、途中で遮断されると、最初にもどってはじめるか、葛藤行動が起こるとされた。庵主は昔これを聞いて、イトヨはそんなに頭が悪いのに、よくぞこれまで滅びずに生き延びて来たものだなと思ったものだ。

無論、あの頃も動物の記憶、知性や意志などの存在と働きを論ずる人もいたが(たとえばインベルト・グリフィンの『動物に心があるか』など)、心の存在などと言うと、たちまち「擬人主義」というレッテルを貼られ、批判が浴びせられた。

 しかし、最近の動物行動学では反対に、動物一般の「心の問題」をとらえる方向にすすんでいるように思える (National Geographic 別冊『動物の言葉—驚異のコミュニケーション』を参照: 2020/07/06)。AIの開発によって、人の意識とは何かを探求する傾向が、この背景にあると思える。様変わりしたようだが、心の起源の探求こそ生物学の本来の目的の一つだった。

 旧エソロジーが人間以外の動物を「機械」と見なしていたのに対して、21世紀のニューエソロジーは彼らをヒトと同じ「心的存在」と見なして研究しはじめている。彼らは多様な感覚器をそなえ、言語を使用し、感情を持ち、文化や学習を行う。ヒトにおけるこれらの心的特性はヒト起源ではなくて、段階的に前の祖先から進化してきたもののようである。

このように考えると、人がイルカを殺して食べる根拠はあるのだろうか?ライオンがリカオンを捕食するのとは違うように思える。イルカにも家族がおり、知性を使い、感情を持っている。イルカにも惻隠の情があり、溺れた人を助けることもある。一方でチンパンジーは、群れで他の霊長類を狩るという。ライオンーイルカーチンパンジーーヒトー人の境目は何なんだろう?

 

追記 1 (2020/12/27)

エマ・タウンゼンドの『ダーウィンが愛した犬たち』(勁草社 渡辺正隆著2020)は、まさに動物の感情表現が人のそれと同等にあることをダーウィンの観察を通じて述べているものである。少し言い過ぎかもしれないが、ダーウィンの進化論は、ガラパゴスフィンチの研究よりもむしろ愛犬の行動(表情)の観察から出たとしている。ダーウィンは『人間の由来』で、人間と動物は深淵によって隔てられた世界ではなく、地続きだと主張している。犬が棒をくわえて行ったり来たり走り回るのは主人をからかうというより認識力によるのであり、それにより人間と動物に共通の起源がある証拠の一つとしている。人間的な美徳というものも、もとはというとヒトと動物の共通の祖先から受けついだものと言える。

 

追記2(2020/12/28)

人と犬が共感できる背景はそれぞれのネオテニー化であると思える。自然の動物は、食う食われる、安全な場所で寝る起きる、子孫を増やす育てるで精一杯の生活をしている。余裕のあるのは親によって保護されている子供の頃だけである。ある意味、文化は幼児期にしかない。人は寿命が延びて幼児期が延長してネオテニーがすすんだ。人類はますます幼児化してきて、コロナ禍の対応で分かるように、危機に対応できなくなっている。犬は本来、猟犬や番犬として選抜されたが、いまでは形態や性質の可愛い品種が好まれる。

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