京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

時間についての考察 : コロナ禍による社会的脱同調が体内時計に及ぼす影響

2020年09月02日 | 時間学

María Juliana Leone, Mariano Sigman, Diego Andrés Golombek (2020)

『Effects of lockdown on human sleep and chronotype during the COVID-19 pandemic』Curr. Biol. 17;30(16):930-931 (DOI: 10.1016/j.cub.2020.07.015)

 

動物の体内時計の同調因子としては、光や温度が主なものであるが、哺乳動物やラットなどでは、社会的コンタクトもその一つとして考えられる実験結果がある。

たとえば、ラットやマウスを複数同じゲージで育てると、それぞれの自由継続リズムが相互作用をおよぼして変化する例が知られている。

 

人の場合は、学校生活、仕事、集団作業などが体内リズムに影響を与えている(下図)。光や温度など本来の同調因子 (Zeitgeber)よりも、むしろこれらが生活のリズム性を支配している。そのために、文明社会では若者のほとんどが、太陽出入りと関係なく夜中の12時過ぎまで起きている。

中国発のCOVID-19(コロナ禍)は、世界中でロックダウンや活動自粛をもたらし、深刻な社会問題を引き起こしている。それによるライフスタイルの変更、外出自粛、自己隔離、社会的距離のために、人々は今までにない生活を送らざるをえない。

こういった社会的脱同調が体内時計にどのような影響を及ぼすか、厳しいロックダウンをしたアルゼンチンで調べたのが、上掲の論文である。それによると、正常な睡眠阻害、就寝や起床時間の遅延、活動中央時間のずれが観察された。

体内時計は人の生理的、精神的健康におおいに関わっている。これの乱れは、免疫力の低下を誘発して、病気のリスクを高める。こういった観点からの対応も今後必要である。

 

  追記 (2022/02/05)

 バイオリズム(Bioryhthm)は体内時計を表す科学的な現象であるが、占星術と関連した用語でもある。本屋のコーナーにこの手の本がずらりと並んでいる。会社や工場での労務管理にはどの時刻に身体活動が盛んか、あるいは低下するかを知ってラインの動きを調整する事が重要になってくる。それゆえに生理学としてのバイオリズムの知識は大事なことだ。ところが、鎌田慧著「自動車絶望工場」(講談社文庫2005)には、豊田(トヨタ)自動車の組み立て工場において、占星術のバイオリズムで各労働者の「要注意日」を「計算」して勤務時間を割り当てていたと書かれている(p168)。1970年代の話だが、いまでもそんな事がそんなことしてるのだろうか?

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時間についての考察: 時間と意識

2020年08月17日 | 時間学

 

 ジェレミー・リフキンによるとホモ・サピエンス(ヒト)はTime binding「時間に繋がれた」 唯一の動物らしい。彼は「自分自身と世界に関するわれわれの知覚はすべて、時間を想像し、説明し、利用し満たすという方法で伝達される」と述べている。

空間については言うまでもなく、全ての動物の知覚がそれにbinding(繋が)っているのは明白である。これは、その多様な感覚器の存在によって証明される。意識のないバクテリアさえも、光や化学物質の濃度を読んで適応的な走性行動を示す。

正常な意識の発現には、空間と時間を一体化する脳内での活動枠(アルゴリズム)が必要と思える。空間(物体)の認知は一瞬だけですむが、世界は因果律を持った連続体であるので、すなわち常に変化・変動する実体なので、それをまるごと感知するもとして、人の意識は適応・進化したものである。

そして、大事な事は空間(一瞬)をスムーズに運動させる(即ち時間を付与する)道具として言語(シンボル)が発明されたことだ。こう言ったシンボルを空間や時間毎に出会うたびに作っていると能率が悪いので、これらはmemory(記憶装置)の中に蓄えられている。蓄積は幼児の段階からの学習によってなされる。たとえば「桜」という言葉は3歳の幼児でも知っているが、この言語には「桜が咲く」「桜が散る」「桜を見る」「桜を切る」....などという時間を包摂する別の言語が付随する。それが実際に文法的に付くか付かないによらず、桜という言葉には時間が「付着」して学習されているのである。

メモリーの中には単語に関するものと、エピソードに関するものがある。単語を連結するアルゴリズムとエピソードの光景を連結するアルゴリズムなどの働きで意識が生ずる。それぞれのアルゴリズムの作動にはクロック (clock)が必要である(コンピュターが内蔵するクロックを想起されたい)。

 このように考えると意識とは、刺激に応じて脳のメモリーから記憶情報を積極的に取り出し、それらを組み合わせて、対面する世界に意味を持たせようとするシナプス活動といえる。AIの『人工意識』を考える上で参考になる。

時間感覚は意識の流れであるとする。意識は脳内での言語の流れであるとする。チャールズ・ダーウインは『人間の由来』で人間の言語はテナガザルの”歌(ソング)”が進化したものではないかと述べている。人間の意識の基底にはリズム(音楽)があって、それに記号としての言語が乗っかっているのではないか?(正高信男の『ヒトはいかにしてヒトになったか』を参照されたい)。

 
参考図書

ロバート・レービィン 『あなたはどれだけ待てますか』 (A geography of time) 忠平美幸訳 草思社 2002

 

 

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時間についての考察: 相対論的な同時性の問題

2020年03月06日 | 時間学

 

 

 時間学の本によく出てくる「同時の相対性」について考えてみよう。これは光の動きを対象にすると、ある慣性系で観察された「同時」現象が、別の慣性系から観ると同時でなくなるという不思議な思考実験の結果について述べたものである。具体的には以下のような内容である。

図(森田邦久著『時間という謎』より転載)

 

 静止地面に対して速度vで走る列車の真ん中から、列車の前方と後方へ向かって光(光子)を発射する(図参照)。このとき、光の速度をCとおく。列車の真ん中にいる観測者Aからは、これらの光か車両の先端と後端に同時に到着するのを観測するはずである。ところが、光を発射したときに、ちょうど列車の真ん中の位置にいた地上の観測者Bが観測すると、列車が動いている分、光は前端より後端に早く到着したように観測されるはずである。つまり、列車内の観測者からは同時であった出来事が、地上の観測者から観ると同時でない。なぜ日常的な常識と違うのか?これは「同時の相対性」と称する難問である。

 

 まずニュートン力学(日常空間)で考えてみる。この場合は光のかわりに速度Vで撃ちだされた弾丸を考える。窓のない車内のAにとって弾丸は左右に飛ぶ。中点から車両の端までの距離をLとすると、進行方向の壁に弾丸が到達するまでの時間ΔtはAの計算によると。

Δt = L/V

一方反対の壁に弾丸が到達するまでの時間Δt'

Δt' = L/V 

これから Δt = Δt'

Aにとって弾丸が前と後ろの壁に到達する時間は同じ。すなわち同時性が成り立つ。

 

一方、車外からこれを観察するBは次のような計算をする。

Δt = L/{(v + V) ー v} = L/V

Δt' = L/{(V-v)+v} = L/V = L/V

弾丸は動く列車内で慣性を持っており、発射される前から列車と同じ速度vで動いている。計算結果は観察者Aの得た時間とまったく同じである。

もしAが窓のある列車に乗っていたら、Aは最初からBのような計算をしていたかもしれないが、いずれにせよ結果は変わらない。ニュートン力学では慣性系が変わっても時間は変化しないのである。

 

しかし、弾丸のかわりに光が真ん中の光源から発射されるとすると、話は途端に複雑になる。

前と同様の計算を窓のない列車内のAが計算すると

Δt = L/C, Δt' = L/C よって Δt = Δt'

すなわち光は同時に前端と後端の壁に到着するとなる。これは弾丸での実験結果と同じである。Aの観察場では空間は前も後も等質で、光も同じ条件でそれぞれの方向に投射されているので単純にこの計算ですませることができる。

一方、列車外の静止系にいるBの計算結果は違う。光は電磁波で質量がなく慣性を持たないこと、および光速不変の原理を前提にしている(そうしないと弾丸の実験と同じ事になってしまう)。

Δt = L/(Cーv)

Δt' = L/(C +v ) 

v>0だから、 Δt > Δt'

 静止系の観察者のBからすると、光は後端より前端に遅れて到達する事になる。すなわちAが観察した同時性が観られない事になる。ニュートン力学の常識世界の思考法では、この矛盾は解決しない。直感的には、静止系と慣性系では時間の動きや空間の構造が違っているという仮説(すなわちアインシュタインの相対性理論)を導入しないかぎり解決しないように思えるのである。

 そこで次のような思考実験を行うことにしてみよう。上の実験はAが観察した同時性だったが、Bにも公平に同時性を観察させて、それに要する時間の比較をしてみることにする。

具体的には以下のような実験を行う。列車の前端と後端にそれぞれ鏡を置く。そして列車の中点から投射された光が鏡に反射して、もとの中点にもどるまでの時間を、AとBがそれぞれ計測する。前後の空間はまったく等質であるので、観測者A,Bのいづれも光が同時に中点にもどることを確認するはずである。

列車内のAの計測では、中点に帰ってくるまでの時間は前後の反射光とも

 ΔTi = 2L/C

一方、列車外のBにとっては前後の反射光とも

ΔTo = L/(Cーv) + L/ (C +v)  = 2LC/(C^2ーv^2)

ただ相対性理論では静止系から運動系を観察したときにローレンツ収縮というのが起こる。もし列車が高速で動いていると、動いていないときに比べて進行方向に車体が縮んでいるように見えるはずである。

ここでγ =1/√{1ー(v/C)^2}とすると(これは有名なローレンツ因子である)

ΔTo = L(1/γ)/(Cーv) + L(1/γ)/ (C +v)  = 2L(1/γ)C/(C^2ーv^2)=2L/C(1/γ) x γ^2 =ΔTiγ

まとめると

ΔTo (Bからみた時間) = ΔTi(Aからみた時間) x (γ )(ローレンツ因子)

この式から、列車のスピードvが光速Cに比較して小さいときは、ΔTiとΔToはほとんど変わらない。しかしvが大きくなりC に近づくと、ΔTo/ΔTiが大きくなり、Bからみると列車の時計(時間)が自分のものよりゆっくり動いているように見える。これは天井に光をあてピタグラスの定理で計算した結果と同じで理屈は一緒だ。

この実験系では光が中央で出会うのはA、Bにとって同じ時刻である。別々の時刻にAのために一回、Bのために一回などと言う事はありえない。ただしBにとってAの時計が遅れて見え、かつ車体が縮んで見えるといった状況となっている。反対にAにとってはBが後方に移動している列車に乗っているとも言えるので、同じ論法でBの時計が遅れていると主張できるのである。

 

 この”同時性”問題は車内のAの観察する同時性だけにこだわって考えていたらなかなか解けない。AとBが公平に観察できる同時性を設定してやり、その時間の相対的な比較によって理解することができたのである。

 

参考文献

森田邦久著『時間という謎』春秋社 2019

 

 

 

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特殊相対性理論のニュートン力学的解釈

2020年01月08日 | 時間学

<特殊相対性理論のニュートン力学的解釈>

 世界で最も有名な科学方程式はアインシュタインのE=mc^2(エネルギー=質量 X 光速の2乗)であろう。これは特殊相対性理論から導き出されたもので、エネルギーと質量が等価で相互に互換性があり、エネルギーが質量に変換されるのと同様に質量もまたエネルギーに変換されることを示している。この方程式により人類は「原子の火」を手に入れ、まず原爆が、ついで原子力エネルギーが生み出された。 特殊相対性理論によると、光速はいかなる慣性系でも不変である(光速不変の法則)。さらに物の速度が光速に近づくと、静止系から観察したばあい次第にその質量が増加し時間が遅れ空間が縮むといわれている。いずれも特殊な数学的手続きと論理に従って出される帰結である。ここでは、相対性理論ではなく古典的なニューートン力学でもエネルギー・質量変換が予測可能であることを示したい。

 

 

 (アインシュタインの相対性理論論文)

 

特殊相対性理論では4次元空間(ミンコフスキー空間)での物質の(4元)運動量Pと速度(Vx, Vy, Vz, Vt)との関係は以下のように表される。

Px=γmVx=m’Vx

Py=γmVy=m’Vy

Pz=γmVz=m’Vz

Pt=γmC=m’C

m’=γm

 Cは光速、mは静止質量、γはローレンツ因子1/√{1-(V/C)^2}である。これらの式によると速度vが大きくなって、光速に近づくと質量m’や運動量Pが無限大に近づいてしまう。

速度vで動く慣性系の時間(T)と静止系の時間(t)の関係はT=√(1-(V/C)^2) x tと表せる(運動系では静止系に対して時間の進み方が遅くなる)。√(1-(V/C)^2) はローレンツ因子γの逆数である。また、それぞれの長さについては、L=√(1-(V/C)^2) x lの関係(ローレンツ収縮)がある。これらの式は、”光速不変の原理”(光速は誰から見ても一定)と”相対性原理”(どんな慣性系でも物理法則は同じ)という二つの原理(前提命題)から導かれる。

さらに最後のPtの式の両辺に光速cを掛けると

cPt=m’C^2=γmC^2=1/(√{1-(V/C)^2)}) mC^2

これをテーラ展開すると、この式はV/Cが小さいときには近似的に

cPt=mC^2+1/2mV^2

この最初の第一項は静止質量エネルギーで、おなじみのアインシュタインの方程式E = mC^2である。そして第二項は不思議なことにニュートンの運動エネルギーが表されている(注1)。

 

さていよいよここからが本題である。

F=dp/dt=d(mv)/dt=m(dv/dt)=mα

 この式はニュートン力学の第二法則で高校の物理の教科書にも出てくる。Fは物体(粒子)を加速させるための力、pは運動量、mは質量、αは加速度。無論この式だけではエネルギー・質量変換は出てこない。そこで『質量を持った物質の速度は光速を超えることはできない』と仮定をする(この命題は特殊相対性理論の光速不変の原理とは違う事に注意)。そうすると粒子の速度が光速Cに近づくにつれて、同じ量の力Fを加えても加速度αの (dv/dt)は次第に小さくなり0に近づくと考えられる。いくら力を加えても物が動きにくくなるということは、質量mが増加し重くなったと考えることができる。不思議の国のアリスのように、いくら走っても同じ場所にいつづけるというエピソードのような状況だ。力が加えられて得た物質のエネルギーが質量に転換したと考えればよい。光速に近づくとαは無限に0に近づくが、質量はそれに応じて無限に大きくならなければならない。しかし、一つの粒子の質量が無限に大きくなる事はありえないので数学的に以下のように考える。

mも変化すると考えると最初の第二法則は次の式で表さなければならない。

F=dp/dt=(dm/dt)v+m(dv/dt)

速度vの小さなときはdm/dt ≒ 0でもとの第二法則と同じになる。速度が光速cに近いとdv/dt ≒ 0によりF ≒(dm/dt)cとなる。

さらに時間tと力を加えて加速させた後の時間t'での運動エネルギーはそれぞれ

Et=1/2mtvt^2

Et'=1/2mt'vt’^2

ここで光速近くではVtとVt'はほとんど変わらないので、これをともにC’とすると

Et' -E= 1/2(mt’-mt)C’^2

ΔE = 1/2ΔMC’^2

mt’-m= 2ΔE/C’^2>0

最後の式の右辺は常に0より大ということは、mt’がmtに比べて増加したということになる。

 かくして、第二法則に「光速上限の原理」の仮定をつけ加えることによりエネルギーの質量変換ΔMが予想されるようになる。ニュートン力学では運動する物体の速度が変わりこそすれ、その質量が変化するなどという”非常識”なことは考えないことにしていた。特殊相対性理論では「光速不変の原理」が非常識原理として登場したが、ここでは「光速上限」がそれである。
ちなみにアインシュタインの特殊相対性理論では、運動量保存則を光速Cで成り立たせるために、速度が大きくなるほど粒子の質量も増えるという「相対論的運度量」が前提となっている。
 
ニュートン力学では光速Cで動く(動けたらという仮定)質量M0の物体の運動エネルギーは、上記の理屈により
 
E =1/2 (M0+ ΔM)C^2 (M0は静止質量、 ΔMは運動により物体が増加した分の質量)
 
ここでもしΔM = M0ならば E =M0C^2となりアインシュタインの方程式と同じになる。
 
それを確かめるために相対論的運動エネルギーを計算する。特殊相対性理論では相対論的運動エネルギーは
 
E'=γM0C^2 -M0C^2 = (M0 + ΔM)C^2 - M0C^2 = ΔMC^2          ( γはローレンツ因子1/√{1-(V/C)^2)
 
ここでE = E'とすれば、
1/2 (M0+ ΔM)C^2  = ΔMC^2
これより ΔM =M0 
 
 すなわち光速では質量が静止質量分M0だけ増加し、全部で2倍になる。どのようなメカニズムでそのような事が起こるのかはわからない。光速Cは質量を持たない電磁波や重力波にしか許されない「特権」で、質量をもった粒子が光速を得るためにはエネルギーに”変身”しなければならない。そのため原子核の内部の素粒子の構成や相互作用が変化するのが原因かもしれない(一つの仮説としては質量が同じ反粒子の生成が考えられる)。
 
 粒子加速器などで「光速上限」の現象を発見しておれば、相対性理論なしにエネルギー・質量変換の法則は発見されたはずであるが、巨大な加速器が必要で昔は不可能であった。今では、兵庫県佐用町で理研が運営する放射光施設SPring-8が電子を光速の99.9999998 %まで加速できるそうである。加速器中で粒子の質量が増加する現象が観察されたのは相対性理論が出てからだいぶ後のことで、感動もなく予想される当然の事とされてしまった(注2)。
 
注1)空間と時間をひとまとめにして4次元時空を考えたのはアインシュタインではなく、ヘルマン・ミンコフスキーである。アインシュタインは最初ミンコフスキーの考えを単なる数学的な置き換えとして気に入らなかったそうだが、後に一般相対性理論を作るに当たって、4次元時空の概念が重要であることを悟ったと言われている。

注2)光速度不変の原理は連星から発せらえる光の観測やCERN(ヨローッパ合同素粒子原子核機構研究所)での加速器実験から証明されている。この加速器実験において、ほぼ(?)光速で飛ぶ素粒子から発射された光の速度は光速の結果が得られている。これは光速上限の原理を証明したと言って良いのかも知れない。

 

 {参考図書}

山田克哉 『E=mC2のからくり』:エネルギーと質量はなぜ「等しい」のか。 講談社 ブルーバックス2048, 2019

竹内淳 『高校生でもわかる相対性理論』ブルーバックスB-1803, 講談社、2013

 

追記(2020/04/19)

ジル・アルプティアン 『疑惑の科学者たち-盗用・捏造・不正の歴史』(吉田春美訳) 原書房  2018

この書によると、相対性理論を最初に考えついたのはアインシュタインではなくアンリー・ポアンカレであったとする。ポアンカレは1900年に論文「ロレンツの理論およびその作用・反作用の原理」でE=mC2の公式を発表していた。アインシュタインは1905年に「物理学年報」に「空間と時間の新しい理論による運動物体の電気力学」を発表したが、ポアンカレの先行論文を引用しなかった。アインシュタインは後年になってそれを読んでいなかったと抗弁した。これはフェアーではないと、フランスの作家ジュール・ルヴーグルが追求した。ただ、問題はその物理的な意味付けと解釈ではアインシュタインの方が勝っていたことは確かだ。『ポアンカレ予想』の著者ドナルド・オシアも科学史研究家ピーター・ガリソンの著を援用し、それぞれ特殊相対論が形成された背景(ポアンカレは経度局、アインシュタインは特許局に勤めていた)を分析している。

 

 

 

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時間についての考察:「今」を刻むリズム

2020年01月05日 | 時間学

青山拓央 『心にとって時間とは何か』講談社現代新書2555, 2019

この書の著者は時々「今」とつぶやいて、「今」をひきもどす作業と「時間しおり」を生活にはさむ作業をしているそうである。意識下で時間に今の打点を打つという発想は面白い。この場合はおそらく数時間の間隔であろうが、実はこういった打点作業を無意識のうちに脳がもっと短い周期で行っている可能性がある。

「太鼓の達人」という子供向けのゲームがある。太鼓を打つタイミングをメロディーにのって流れてくる丸の図形に合わせる単純なゲームだが、音痴の大人がやるとけっこう難しい。環境のリズムに内的な振動体を同期させることで時間が生じているのではないだろうか?一種の符号モデルといえる仮説である。

 

 

ギリシャ人は人の思考が営まれている器官は脳ではなく、横隔膜であると考えていたそうだ。呼吸をともなう横隔膜の不断のリズムが思考をうみだす仕組みだとしていたのである。思考によって脳内時間が生ずるのであれば、横隔膜リズムが時間を生み出していることになる(セルゲーエツ、1975)

 

参考図書

ポリス・フヨドヴィッチ・セルゲーエツ著 『記憶の奇跡』松野武訳 東京図書 1975 (8頁)。

 

 

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時間についての考察:カルロ・ロヴエッリ『時間は存在しない』詳解

2019年12月30日 | 時間学
カルロ・ロヴエッリ 『時間は存在しない』(富永星訳) NHK出版 2019
 
 
この本の著者はイタリア出身の理論物理学者である。専門は「ループ量子重力理論」というもので、これは「超ひも理論」とともに万物の根源の理論の一つとして注目されている。量子重力理論ではとびとびになった特定の時刻しかなく、時間そのものが量子化されている。ここでは、とどまることなく一様に流れつづける古典的なイメージの時間などは存在しない。数学的な手続きででてきた理論なので、素人の我々は「ああそうですか」と聞くしかない。
 
  この本の原著タイトルは「L’ ordine del tempo (時間の秩序)」。各国でベストセラーになったそうである。人は何故か自分の理解できない難解な理論に魅力を感ずるものだ。1988年に「ホーキング、宇宙を語る」が出版され、1000万部を超えるベストセラーになった。もっとも大部分の読者は数ページであきらめたそうだ。一方、ロベエックのこの書は一般向けに平易に記述されているので、挫折なしでなんとか読めそうである(と最初は思っていた)。一章づつ解説していこう(斜体は庵主のつっこみ)。
 
{第一部}
まず時間(time)の定義を行っている。
1)特定の時間(A点、B点)(生物時計、特定の時間帯でのイベント、適応的
2)出来事の間隔(A-B点)(睡眠の間隔など、適応的
3)連続の意識(ーーーー)(意識の問題?生命の寿命
4)継続を計るための変数(標的の速度を計るためのアルゴリズム、適応的
 
第一章
地上の高度の違いにより時間の進み方がちがう(山の上の方が時間の流れが速い)。すなわち時間は相対的なもので、単一性という特徴を失い場が違えば異なるリズムを示す。「たいこの達人」の選曲によってテンポもメロディーもまったく違っているのと同様である。そして、物理学は事物がどのように展開するかを記述する科学で、世界はお互いに影響を及ぼし合う出来事のネットワークである。この関係こそが時間である。
 
第二章
ニュートン力学、マックスウエルの電磁気方程式、重力に関するアインシュタインの相対性理論、量子力学のハイゼンベルグやディラックの方程式、素粒子理論において時間の方向性はない。即ち過去と未来の区別はないとしている(過去と未来は対称)。
一方、ルドルフ・クラウジウス(Rudolf Julius Emmanuel Clausius, 1822年 - 1888年)の熱力学第二法則(熱は冷たいものから温かいものに移れない)が唯一過去と未来の区別するものである。これがエントロピー増大の法則(ΔS>0)である。すなわち熱が発生するところに限って時間に方向ができるように思える。頭でものを考えると頭の中で熱が生じて時間の流れが出来る。負のエントロピーを食って熱を発生する生物にも時間の方向性がある。
ところがそれは浅はかな考えではないのかといって登場するのはルートヴィヒ・ボルツマン(Ludwig Eduard Boltzmann, 1844年- 1906年)である。ボルツマンは我々が世界を曖昧な形で記述するのでエントロピーが存在するといった。過去と未来の違いは結局ぼやけ(粗視化)のせいである(すなわち一種の錯覚だというのだ。なんだか物理学の理屈というより哲学のような話)。
 
第三章
地球から4光年離れた惑星にいる人の情報を得ようとしてもできないので、今は何の意味もないという不思議な議論をしている。光円錐図を提示して宇宙時間の構造を概念化しているが理解困難。ブラックホールの光円錐図はますます理解困難である。
 
第四章
アリストテレスの時間論は「事物の変化があるから時間が実存する。時間は事物の変化に対して己を位置づけるための方法で、変化を計測したものである」とした。時間は動きの痕跡にすぎない。(すべての人がこの世にいなくても時間は実存するか?犬や猫に時間はあるか?ショウジョウバエにも時間はあるか?)人間が暗闇で思考するだけで心のなかに変化が生じて時間が流れる。一方ニュートンはそれとは関係なしに絶対時間の存在を仮定した。これこそが本当の時間であるといった。ニュートンの時間は人が知覚できるものではなく計算と観察によって演繹するしかないものあった。これが近代における時間概念の基準になった。
この二つの時間にかんする考えを統合したのがアインシュタインである。彼の時空理論(重力場)が二つの考えを統合した。それによって解釈すると、ニュートンの数学的な時間は重力場のリアルな実存である。一方でアリストテレスがいつどこでが何かの関係で決まると考えたのも正しかった(アリストテレスは「関係」と言ったのではなく「変化」といったので著者の関係という言い方にはひっかかる。変化は関係のある事が多いがアイソトープの崩壊のように関係のない変化も多い)。ようするに時間と空間は現実のものではあるが、絶対的なものではなく、生じた事柄から独立ではないということ。
 
第五章
時間は連続ではなく量子化されておりとびとびである。最小の時間はプランク時間(10-44秒)。一方最小の長さはプランク長(10-33cm)。時空も電子のような物理的な対象であり揺らいでいる。ある時間に限って予測不能な形でほかの何かと相互作用することにより不確かさが解消される(この仮説は細胞レベル以上の現象に当てはまる論理ではないと思える)。
 
ミクロ世界の時間理論が我々の生活するマクロなそれにスライドできるとは思えない。ただ関係としての時間概念が哲学として応用できるのかどうかはテーマの一つでありうる。(時間と他者 / エマニュエル・レヴィナス [著] ; 原田佳彦訳 参照)。
 
(第2部割愛)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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時間についての考察:時間感覚の生起について

2019年12月27日 | 時間学
 
 
 感覚としての色(color)は実存ではない。物質の表面が放出あるいは反射する光(電磁波)を網膜の視物質が受容し、その神経信号を幾つかのニューロンで変換統合した後に脳の視覚野が生ずる感覚(色覚)にすぎない。電磁波は物理的な実体であるが、それを人あるいは動物が色として感じている。リンゴの赤い色が空中に漂っているのではなく、漂っている実体は電磁波である。こういった意味で色は実存とはいえない。
 
世界における空間・物質およびその変化や運動はどうも実存であるようだ。これらが脳の生み出した幻影や錯覚であるとするのは、世界の多数の人々で同時にそうなる確率を考えるとあり得ない。時間はその変化と運動に付随した物理量のように思える。熱が熱素によるものではなく物質に付随した物理量であるのと同様である。
そして時間が色のように脳で生み出された感覚ではなく、物理量の一種であることを証明したのはアインシュタインの相対性理論であった。物の運動の様態によって時間は短くもなり長くもなる。これは心理的な機構が時間の生成の根源であるとすれば、決してあり得ない事実である。
 
物の変化は千差万別なので人がそれらを数量的に規格化したものが、標準1秒 (second)である。 これは国際度量衡局により規定されたものである。セシウム133原子の基底状態にある2つの超微細準位の間の遷移に対応する放射9192631770周期を1秒と定義している。これはおおよそ人間の心臓拍動の間隔に近いのである。
 
ただ、前にも述べたように時間を受容する特殊な器官はヒトには存在しない(時間に関する考察 XII:時間の受容器はあるか?)。人は視覚(眼)、聴覚(耳)、圧覚(皮膚)などで捉えてなんらかの変化・運動を感じるとる。これから時間感覚が、いかにして生ずるのかが問題になる。
 
 視覚により人がみる物は変化・運動であって時間そのものではない。同様に聴覚で聞くものは音の変化で時間ではない。そして時間がかかわるは運動の変化の早さ(V)である。
 
  V = ΔD/ΔT (ΔDは環境の変化の量、ΔTは観察時間)
  これから
  ΔT =  ΔD/V
 
 時間は変化・運動の中に包摂されるパラメターで、直接に人(ヒト)が感覚としてとらえるのは「早さ」である。これは生物学的に当然のことで、捕食や被食、その他の生活行動においては速度の評価が重要であったからだ。100メートル競争のタイムの確認や認識よりも、ライオンやオオカミより早いか遅いかといった速度が原始人類にとっては大事であった。
 
しかし上記の方程式が示すように、早い遅いの評価には時間微分という脳内アルゴリズムが必要である。脳ではある種のクロック(振動体)が働いていると思える。いわば「脳秒」[1.0brain sec]の単位で動く振動体が脳内時計を刻んでいる(専門的にはウルトラディアリズムという)。このような基準振動体が存在しないと速度の感覚は生じない。このクロックは加齢を含めた生理的な条件によって変化するようだ。年をとると若い頃より間延びして周期が長くなる。そうすると一日や一年が短く感じられる。この振動の単位は単純に心拍ではないかと想定されるが、激しい運動の後でも心的時計はあまり変化しないとされている。机を指で繰り返して叩くタッピング法によって心地よく感じるテンポがある。このテンポが基準振動数になっている可能性もある。
 
ただ時間感覚や時間認識は環境の変化・運動の刺激そのものから生起するものではない。田舎の時間は都会に比べてゆっくり流れてゆくようにみえる。これは田舎の風景やひとの活動がのんびりしているせいだが、こういった時間感(認識)は景色そのもの観察から即時的に生まれるのではなく大脳での言語化(内省)によってである。
 
(視覚・聴覚etc情報)→(大脳での情報の統合と評価処理→時間感覚)→(行動)
 
さらに大事な事は外的刺激なしに時間感覚は生ずる。夜中、灯を消して眼をつぶっても寝付けないことがある。こういうときにいろいろつまらない事を考えるが、時刻と時間のことが気になる。内的な環境すなわち身体的(生理的、生化学的)刺激が時間感覚を生起している。脳内での思考もまた変化の一種といえる。
 
時間 (span)と「今何時?」の時刻(time)は別の仕組みで認識されるのではないかと思える。時刻認識でも体内時計が働き、人の場合は当然知能が関与している。これについては、いつか考察を加えたい。
 
参考図書
一川 誠 『大人の時間はなぜ短いのか』 集英社新書 0460, 2008
この書は錯視と時間感覚を結びつけようとした点でユニークな書であるが、大部分の現象は神経の情報処理の遅延などによって説明できる。時間生成の根本に肉薄しているとは思えない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
       
 
 
 
 
 
 
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時間についての考察:2足歩行への進化が時間と空間の意識を生んだ

2019年10月14日 | 時間学
 
 
 哺乳動物はヒト (Homo sapience)を除いて4足歩行である。犬、猫を始めとする大部分の哺乳動物は4符リズム(1,2,3,4)(1,2,3,4)(1,2,3,4)・・・・を身体に刻み付けているはずである。 ところがヒトはナックル歩行を経て2足歩行に進化した。 その理由については幾つかの仮説があるが、ともかく右足、左足の (1,2) (1,2) (1,2)・・・・の繰り返しが、体内リズムの基本エレメントになった。
 
 足が体内リズムを作ったということは足が2拍子を単位とする「時間」を形成したといえる。 そして歩行から自由になった手は自由に物を持ちそれを操作することにより、脳のシナプス領域に「空間」の概念をより精緻に形成することができるようになった。 ヒトはある進化的段階で足が時間を分担し手が空間を分担するようになった。 犬や猫にも時間や空間の認識はあると思うが、ヒトだけが手足の分業によってそれぞれ高度の概念を操れるようになったといえるのである。
 
 少なくとも俳句や和歌の詩形は二音あるいはその倍の四音の区切りの音律で読むようになっている。
例えば蕪村の句「秋風のうごかしてゆく案山子かな」は(あき)(かぜ)(の△)(うごかし)(て△)(ゆく)(かがし△)(かな)と二拍のリズムで読み下すと心地がよい(△は間の拍)。あるいは同じく蕪村の「月天心貧しき町をと通りけり」は(つき)(てんしん)(まずしき)(まち)(を△)(とおり△)(けり)となる。実際はこのような拍は意識せずに読み下している。音律的な必然性があるのかよくわからないが、俳句では2拍のリズムが単調な連続音階にならぬように、さらに構文の上層に5x7x5の区切りを付けている。
 
 二拍を基本とするリズムが脳で時間を形成し、この時間な流れに沿って意識が生ずると考える。リズム→時間→意識といったシークエンスである。意識が時間を生ずるのではなく、時間が意識を生むのである。いわば時間というプラットフォームの上で意識が生成するといえる。そうすると言語がない音楽にけるリズムでも意識は生成するかという問題がある。これについては、ヒトの言語は動物の原始的な発声の進化産物であると仮定すれば、音楽はその歴史的な回帰といえそうである。
参考文献
坂野信彦 『七五調の謎をとく』 大修館書店 1996年
 
追記:「文学の時間性」について論じた九鬼周造(『時間学:文学の形而上学』)は、57調あるいは75調の12音が俳句や和歌の詩形の単位であるとし、これは人間の一呼吸のリズムに同期したものであるとした。
 
 
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時間についての考察:碁打ちの時間哲学

2019年10月05日 | 時間学

  藤沢秀行著『野垂れ死に』(新潮社 2005)は秀行のエッセイー風伝記である。藤沢秀行( (1925-2009)は碁打ちなら必ず知っている昭和を代表する天才的なプロ棋士である。酒乱の気があったが、一方で豪放磊落な人柄で、碁は芸であると主張し若い棋士に多大な影響を与えた。

この本には、秀行の幼い頃にトンボを取っていて近所のドブ川に落ち意識不明となり死にかけたことや、戦争中に横浜で空襲にあって九死に一生を得たことなどが書かれている。こういった経験が「死んだら死んだでしょうがない」という勝負師の死生観を養ったといっている。この書はゴーストライターがまとめたものであろうが、最初は軽快な語り口で秀行の個性をよく表現していたのに、後半は有名人との交友録のようになってつまらない。

 同じプロの碁打ちで依田紀基著『どん底名人』(角川書店 2017)にも「九死に一生」の話がでてくる。依田が27歳のころ、中国で杭州行きに予定していた国内線飛行機をキャンセルしてバスにきりかえた。ところがそのキャンセルした飛行機が空中爆発して乗客乗員が全員死亡したというのである(開高健の旅行記でも同じような事を読んだ記憶がある)。このとき以来、依田は「生きているだけで丸儲け」という考える一方、「我々は何かに生かされている」のだとも考えるようになったそうだ。依田はこれと関連して時間と人生についても論じている。これはなかなかの時間哲学になっており、感心した。以下本文引用。

『そして、私は時間とは「ある」と言えるものなのだろうか? と考える。宇宙が誕生して137億年らしいが、この膨大な時間も過ぎ去ってみれば、1秒にも満たない。例えば、私は1時間前と現在の時間を区別することができない。昨日と今日の時間の区別もできない。できるとすればそこに記憶があるからに過ぎない。これを拡大解釈すると、現在と死ぬ間際との時間の区別はできないのではないか?と考えるのである。その中で自分が人生を生きる意味とは何なのだろうか?私は色々な経験をして、色々なことに挑戦して、色々な人と関わり合い、少しでも、今よりマシな人間になりたいと思っている。それが現在のところ、私が人生を生きる意味だと思っている。そして、今この瞬間に意識を持って生きでいるということは物凄く貴重でありがたいことだと思う。時間というものは、肉体を持っているからこそ感じるものではないかと私は思う。いずれ肉体が使い物にならない時が必ず来て必ず死ぬことになる。それは自分の周りの人を見ても間違いないと思う。そうすると、今、この瞬間に、自分が生きていて、意識を持って生きている瞬間が凄いことで、ありがたいことだと思わずにはいられない。死ぬ間際になって後悔はしたくない。積極的に、自分が生きたいと思う』

 

 

  時間学のテーマと関連はないが、人は「九死に一生」を得るという事を一度は二度は経験しているのではないだろうか?庵主の場合は、幼児期の赤痢、自動車の交通事故二回、バイク事故一回、300V・ACでの感電事故(ヨーロッパで)など何度も恐ろしい目に会っている。いずれも状況によっては死亡していてもおかしくない事故(疾病)ばかりであった。合わせて確率計算すると生存率10%以下で現在生きている事になる。友人に聞いてみても結構この手の話は多い。ある友人などは子供の頃に三度海で溺れかけたが、いづれもたまたま人がいて何とか助かったそうだ。まったく神様に「生かされていると」としか思えないが、なんの為に生かされているのかよくわからないのが問題ではある。

厚生省の生命表(https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/20th/p03.html)によると昭和22年 (1947)では60歳の死亡率は50%である。すなわちこの時代は60歳になるまでに約半数の人が死亡していた。戦争の影響が大きかったのだろう。それが、平成17年 (2005)には10%に低下している。誰もが庵主のような九死に一生の経験を何度もしていたら、死亡率はもっと高いはずである。「不幸中の幸い」がたまたま重なったのか、あるいは意外と人は死にそうで死なないのかもしれない。

 

追記

筒井康隆の『アホの壁』という本に事故多発者の話しだでてくる。これだけ怪我や負傷をしても人間は死なないというおそるべきサンプルである。

 

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時間についての考察:ロマン・ローランの回帰する時間

2019年07月29日 | 時間学

 

 

『ひとつの世界の苦悩!同じ時刻に、多くの国々が圧迫と貧窮のために滅びつつある。大飢饉はヴオルガの民どもを貪り食ったころだ。ローマには黒シャツの先駆警吏どもの斧と鍼がふりかざされている。ハソガリーとバルカソ諸国の牢獄は拷問をうける人々の叫喚を窒息させている。古い自由の国フラソス、イギリス、アメリカは、自由が犯されるのを見殺しにして、腹を裂くやつどもを養成している。ドイツはその「先駆者たち」を虐殺した。モスクワ付近の白樺の森では、レーニンの澄んだ瞳が消え、彼の良心が滅びる。革命はその水先案内を失う。闇がヨーロッパを襲うかに見える。このニ人の子供の運命などがなんだろう。彼らの歓び、彼らの苦しみが、この海の中で一滴にとけ合った。耳を立てて聞け! おまえはそこに海のとどろきを聞くだろう。海全体が一滴一滴の中にあるのだ。あらゆる苦悩がそこに反射している。もしもその一滴一滴が、聞くことを欲したならここへおいで、うつむいてごらん! わたしが渚で拾った、水のしたたる貝殻に耳をつけてごらん! ひとつの世界がそこに泣いている。ひとつの世界がそこに死滅しつつある…..しかし、自分はまたそこに、すでに嬰児が泣くのを聞く』(ロマン・ローラン 『魅せられたる魂』より宮本正清訳)

 

  時間の矢がエントロピー増大とともに一方向に飛ぶように、世界の歴史は正義が増大する方向に進歩すると信じたい。しかし、人類は何度もおそろしい暴虐と愚かさを繰り返している。社会の歴史は、進歩の矢の時間ではなく、理不尽な環の時間で出来ている。マルクスは一度目は「悲劇であるが、二度目は喜劇である」といった。しかし二度どころか何度も愚行と悲劇を繰り返したのが人類の歴史である。それでも、ロマン・ローランは天性の楽天主義でもって、愛という希望が生まれくると信じたのである。

 

ロマン・ローランの生涯

  • 1866年1月29日 フランス中部のニエーヴル県クラムシーに生まれる.父エドム・ホール・エミール・ロランは公証人で、母はアントワネット・マリー。
  • 1868年 妹マドレーヌ生まれる(三歳で死亡)。
  • 1872年 2番目の妹マドレーヌが生まれる。
  • 1873年 クラムシーの公立中学校(現ロマン・ローラン中学校)に入学。
  • 1880年 パリに移住。高校サン・ルイに転入学、父は不動産銀行員となる。
  • 1882年 高校ルイ・ル・グランに転校。
  • 1883年 スイスのレマソ湖畔ヴイルヌーヴで夏をすごす。このときヴイクトール・ユゴーと出会う。
  • 1884年 シェイクスピアやユゴー、スピノーザに親しみ、ベートーヴェン、ワーグナーの皆楽に熱中する。5月15目再びユゴーに会う。高等師範学校の入学試験に失敗。
  • 1885年 5月21日、臨終のユゴーを見揃い、6月1日その葬儀に参列する。高等師範の入学試験に再び失敗。
  • 1886年 高等師範の入学試験に十番で合格、歴史学を専攻する。
  • 1887年 トルストイに手紙を書き、長文の返事をうる。
  • 1888年 スイスに旅行する。
  • 1889年 23歳 優秀な成績で高等師範学咬を卒業し政府の研究生としてローマに留学。
  • 1890年 モノーから紹介されたドイツの亡命婦人マルヴィーダ・フォン・マイゼンブークを訪ねる。『ジャン・クリストフ』を着想。
  • 1891年 シチリア旅行。サルヴィアティに関する報告を脱稿。
  • 1892年 十月、コレージュ・ド・フランス教授ミシェル・ブレアルの娘クロチルドと結婚。学位論文執筆のためローマに旅行する。
  • 1893年 戯曲『聖王ルイ』『マントーヴァの包囲』執筆{未刊)。
  • 1895年『近代抒情劇の起原ーリュリー及びスカルラッティ以前のヨーロッパ歌劇の歴史』と『十六世紀のイタリアにおける絵画はなぜ顛廃したか』の二論文によって文学博の学位を得る。母校の講師に任命され、芸術史・音楽史を講ずる。ベルギー、オランダを旅行。
  • 1896年「演劇芸術』誌の編集に協カ。
  • 1897年5月妻とともにローマに旅行。トルストイヘ3度目の手紙。戯曲『敗れし人々』を執筆。 
  • 1898年 戯曲『ダントン』執筆。戯曲『狼J Les Loupsを執筆したが反ドレフェース派の陰謀を避けるために『死者たち』と題名を変えサン・ジュストの仮名で五月上演。
  • 1899年『パリ評論』の編集に参画。ベルリンに旅行し、R・シュトラウスを訪ねる。九月、妻とともにスイス旅行。ヌンツィオに再会。戯曲『理性の勝利』Le Triomphe de la Rajson執筆、上演。
  •  1900年 5月、ローマに旅行、スイスのルツェルソに旅す。論文『理想主義の害毒』発表。
  • 1901年 2月妻のクロチルドと離婚し、パリのモンパルナス通りのアパートに住む。ボン、ウイーンにベートーヴェンの生家とそのすごした家を訪ね、ベートーヴェン記念音楽祭のためマインツヘ旅行、トルストイヘ四度目の手紙。
  • 1902年 エコール・デ・オート・エチュード・ソシアルで音楽史の講座を担当。スイス、イタリアに旅行し、ローマでマイゼンブークに会う。戯曲『七月十四目』執筆、上演。『時は来たらん』Temps viendra執筆発表。伝記『フラソソワ・ミレー』を英文で刊行
  • 1903年 伝記『ベートーヴェンの生涯』La vie de Beethovenを発表。
  • 1904年 パリ大学の芸術史の講師となり、音楽史を開講。カイエ・ド・ラ・キャンゼーヌから小説『ジャン・クリストフ』Jean‐Christopheの(曙)および(朝)刊行
  • 1905年 アルザス・ロレーヌに旅行。シュヴァイツァー、リクタンベルジュ、プリュニエールと相識る。『ジャン・クリストフ』(青年)、評論『ミケランジェロ』、戯曲『三人の恋する女』、論文『音楽都市としてのパリ』刊行。
  • 1906年 ジャン・クリストフ (反抗)、伝記『ミケランジエロの生涯』La vie de lVlichel‐Angeを刊行。
  • 1907年年 スペインに旅行。『ジャン・クリストフ』(広場の市)。
  • 1908年 シャン・クリストフ」(家の中)および『革命劇集』Le Thatre de la R6volutionを刊行。
  • 1910年  10月、パリで自動車事故のため負傷し、三ヵ月床につく。『ジャン・クリストフ』(女友達)、評論『ヘンデル』。11月トルストイ死す。
  • 1911年 ラヴイニャックの『音楽百科辞典』の編集に協力。病後の静養のためにローマに旅行。『ジャン・クリストフ』「燃えろ茨】、『伝記トルストイの生涯』La Vie de Tolstoi刊行.
  • 1912年 パリ大学を辞任。『『ジャン・クリストフ』(新しい日)を刊行、完結。
  • 1913年 『ジャン・クリストフ』』にたいしてアカデミー・フラソセーズから文学大賞を授与される。戯曲集『信仰の悲劇』Les Tragedie de la Foi刊行。
  • 1914年  48歳。 第一次世界大戦勃発。その報をスイス旅行中に聞き、スイスにとどまり、平和運動に専心する。ツヴァイクの協力を得て国際知識人会議をスイスで開こうと計画したが失敗。翌年までジュネーブの万国赤十字社俘虜情報局に志願して勤務。評論『戦いを越えて』を発表。小説『コラブリオン』執筆。 
  • 1916年  1915年度のノーベル文学賞を授与されるが、賞金はすべて赤十字社や社会市業団体に寄贈する。「クレランボー』執筆
  • 1917年 3月ロシア革命起こる。レーニンからロシアに同行を要請される
  • 1918年 平和に関してウィルソン大統領への公開状を発表。評論『エソベドクレース』Empedocle d'Agrigente、および小説『ピエールとリユース』を執筆。この年 11月休戦。
  • 1919年 5月母アントワネット死亡(七十四歳)、.6月ヴェルサイユ講和条約調印される。『精神独立の宣言』を『ユマニテ』紙に発表。
  • 1920年 『クレランボー』、『ピエールとリュース』Pierre et Luce刊行。
  • 1922年 スイスのヴィルヌーヴに妹のマドレーヌと移住。小説『魅せられたる魂』L'Ame Enchantee(アソネットとシルヴィ)、戯曲『敗れし人々』。 
  • 1923年 ロンドンで第一回国際ペンクラブ大会が開催され出席する。マリイ・クーダチェフ(のちのローラン夫人)と文通始まる。『ヨーロでハ』誌創刊。『魅せられたる魂』(夏)
  • 1924年 ガンヂーとの交友始まる。戯曲『愛と死の戯れ』を執筆。
  • 1925年 ドイツに旅行。
  • 1926年『ロマン・ローラン友たちの書』刊行。戯曲『花の復活祭』
  • 1927年ウイーンのベートーベン百年祭に出席、講演。反ファシズム委員会(アインシュタイン会長)が創設され、第一回集会で司会をする。
  • 1928年戯曲『獅子座流星群』刊行。
  • 1930年『ベートーベン研究』第二巻「ゲーテとベートーベン』刊行。
  • 1931年 6月16日父エミール死去(94歳)12月ガンジー来訪。
  • 1932年 アムステルダムで聞かれた世界反戦反ファシズム大会の議長となる。『魅せられたる魂』(予告するもの)。「ひとつの世界の死」および「マルヴィーダとの書簡集』刊行。
  • 1933年 ヒ″トラー政府よりゲーテ賞授与の申し出があったが拒絶する。六月、国際反ファッシズム委員会の名誉総裁となる。『魅せられたる魂』完結。
  • 1934年68歳。反ファッシスト行動委員会の第一回宣言に署名。マリイ・クーダチェフ(ロシア公爵の未亡人、父はロシア人、母はフランス人)と結婚。
  • 1935年政治論文集『闘争の15年』『革命によって平和を』刊行。
  • 1936年70歳。人民戦線内閣の援助で革命劇『ダントン』『七月十四日』上演。
  • 1938年 スイスのヴイルヌーヴからフランスのヴュズレーに転居。評伝『ルソー』戯曲『ロベスピエール』執筆。
  • 1939年フランス国立劇場で『愛と死の戯れ』上演。9月1日第二次世界大戦勃発。
  • 1940年 6月14日パリ陥落。
  • 1942年 『内面の旅路』刊行
  • 1943年 『ベートーベン研究』第4巻「第九交響楽」第5巻「最後の四重奏曲」刊行
  • 1944年8月パリ解放される。ソビエト大使館の革命記念祝宴に出席。12月30日ヴェズレーで死去。78歳。プレーヴに埋葬される。
 
参考図書
 世界の文学 31 『ロマン・ローラン:魅せられたる魂』宮本正清訳 中央公論社 (1963) 

 追記 1)

 晩年のロマン・ローランを批判する人々もいる。ローランがスターリンの暴虐な本性を見抜けずに、世界人民の希望の星と見なしていたことである。ワルター・クリヴイツキーが書いた暴露本『スターリン時代』(みすず書房 2019年第2版)には「この著名な作家が、その大きな威信のマントでスターリン独裁の恐怖を覆いかくすことによって全体主義に与えた援助は、はかりしれないほどだ」と述べている(p7)。ローランは文通していたゴーリキがスターリンによって暗殺されたことを知るべき立場にあったのである。

 
追記 2)
 終戦前の1944年に亡くなったローランは、ナチスドイツのホロコーストを知らなかったはずである。ジャンクリストフの祖国ドイツの蛮行をローランが知ったとすれば、どのように悲しんだであろうか?
 
 
 

 

 

 

 

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時間についての考察 :時間治療学(クロノセラピー)

2019年07月23日 | 時間学

   人体の生理的な特性は時間軸に沿って変動する。事象の変動は時間の実存を意味するので、体内には時間が存在することは明白である。これも老化のように時間の矢のように流れる現象と、周期性を持って規則的に繰り返す現象がある。一日のうちのほぼ一定の時刻に繰り返しおこる場合は日周性という。これは大抵、概日(約24時間)的な体内時計に支配されている。

人(哺乳動物)では、おおもとの体内時計はSCN(視交叉上核)という脳の中の小さな器官に存在する。これは1ペアーで1個は8000個ほどの細胞群で出来ている。

 

 

-------------------------------------------------------------------------------------

  午前3時  最低血圧
  午前4時  喘息発作が最も激しい
  午前6時  花粉症・寒冷ジンマシンが一番ひどくなる
      関節リュウマチ炎が一番ひどくなる
  午前7時  一日のうちで血圧の上昇が最大
      扁桃痛、心臓発作、脳卒中が最も起きやすい
  午前9時  尿量最大
  午後3時  精神的活動がピークになる
  午後4時  肺機能がピークになる(一分間当たりの呼吸量が最大)
  午後3時一6時 変形性関節炎の症状が最もひどい
      健康体ならスポーツに最適な時間
  午後9時  血圧が降下しはじめる
  午後11時 アレルギー性反応が増えはじめる

-------------------------------------------------------------------------------------

  上の表には、人の様々な疾患がどの時刻に表れるかを示している。例えば心臓発作は朝の7-9時の間におこる確率が一番高い。この時間帯には、血圧の高くなることは避けたほうがよい。

 

 ガンなどの薬の効果についても、どの時間帯に服用するのがよいか、研究されている。薬の分解や吸収あるいはガン細胞の感受性などが、一日の時刻で異なっており、効果のある時間とない時間がはっきりしているケースが知られている。急性白血病の子供の投薬治療を、半数の患者には午前中に、残り半数の患者には夕方か夜早い時間帯に投薬を行った。すると、治療効果は後者の方が3倍も高かった。このように、時間を重視する医学を時間治療学(クロノセラピー)という。薬はいつ飲んでもよいというものではない。

 

参考図書

ジョン・D・パーマ 『生物時計の謎をさぐる』小原孝子訳 大月書店 2003

 

 

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時間についての考察 :時は金なり

2019年07月21日 | 時間学

  

 

 現在、株式市場の取引では、超高速のロボットトレーダーが活躍している。これはマイクロ秒(10-6 sec) 単位で電子取引を判断・実行し、その圧倒的なスピードを武器にして、市場で儲けようとするものだ。これを利用した手法の一つが「先回り」である。

 アメリカでは10以上の証券取引所が存在するために、分割されて送信された注文が届くまでに、わずかな時差が生ずる。高速ロボットトレーダーは、最初に取引所に着いた情報を取得し、時差を利用し別の取引所に先回りして、そこで注文して悪い価格提示に置き換える。これをマイクロ秒の単位で処理するのである。その利益はわずかだが、チリも積もれば山となるで、同様の手法で無数に「先回り」を繰り返すと大きな利益がでる。

  これは、いまのところ違法ではないが、こういった装置には高額な投資が必要で、それができるものと、できないものとの間の不公平さが問題とされている(総合的には損するのは一般投資家)。家のパソコンで、できるような仕事ではないのだ。2010年5月6日アメリカの株式市場でに短時間で株が乱高下する事件(フラッシュ クラッシュ)がおこったが、これの原因は高速ロボットトレーダーだと言われている。

 高速ロボットトレードは単純で機械的な取引であるが、規模の大きいヘッジファウンドでは、これとAIを組み合わせて相場の変動パターンを分析し、アルゴリズムによる取引に応用しているらしい。いずれにせよ、一般投資家は、どこの国でも金持ち(情報所有者)の餌食になる仕組みになっている。

 

参考図書

桜井豊 「人工知能が金融を支配する日」東洋経済新法社 2016

マイケル・ルイスフ 『フラッシュ・ボーイズ-10億分の1秒の男たち』 渡会圭子、東江一紀(訳)文芸春秋、2014

 

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時間についての考察:Time flies like an arrow.

2019年07月11日 | 時間学

  1960年代、英文の意味をつかむために設計された初期のコンピューター・プログラムの一つに時間の推移をめぐる叙述のなかでも古典の「Time flies like an arrow. (光陰矢のごとし)」を分析させた。そのコンピューターの解釈は以下の5とおりであった(無論原文は英語打ち出し)

 1. 時間は矢のように進む。

 2. 矢の速さを計るのと同じやりかたで、ハエの速さを計るべきだ。

 3. 矢がハエの速さを計るのと同じやりかたで、人はハエの速さを計るべきだ。 

  4. 矢に似たハエの速さを計りなさい。

  5. 時間にたかるハエは矢が好きだ。

  中学生英語では正解は1で、『光陰矢のごとし』と憶えさせている。しかし、4-5もそれぞれ間違いではない。5番の解釈は哲学的でなかなかセンスがある。果物にたかるショウジョウバエをfruit flyというのでtime flyはおかしな表現ではない。最初この英文に出くわしたときは、人はどのような思考回路で正解の1に至るのであろうか?インターネットでアクセスされる翻訳ソフトにTime flies like an arrow.を日本語訳させてみた。結果は以下のごとし。

Google和訳 『時間は矢のように飛びます』

Webelio和訳 『光陰矢のごとし』

Excite和訳 『時間は矢のように飛ぶように過ぎる』

Bing Microsoft和訳 『時は矢のように飛ぶ』

Infoseek和訳『光陰矢のごとし』

 

逆に『光陰矢のごとし』を英訳させてみる。

Google英訳 It's like a light arrow

Webelio英訳 Time flies like an arrow.

Excite英訳 jo of time arrow.

Bing Microsoft英訳 Like a light arrow

Infoseek英訳  Time flies like an arrow.

  WeblioとInfossekは光陰矢のごとし=Time flies like an arrow.がセットでデーターベースにあるようだ。ここも『光陰矢のごとし』で入力すると、全然だめな英訳になる。それにしてもExciteの英訳は何だろう?意味不明である。

   時間が矢のように流れさるというのは、心理的な時間の様態を暗喩している。心理的な時間を引き延ばしす方法は、催眠術や幻覚剤、禅の修行などが知られている。1分が1〜2時間にも感じられるようになり、その間に多くの思念がわいて出るそうだ。究極まで修行した武道家は瞬間的に心理的な時間の動きをコントロールできる。相手の動きがスローモーションのように見えるので攻撃をはずし、その急所をやすやすと打つのだそうだ。

 

 

 参考図書

ロバート・レビイーン『あなたはどれだけ待てますか』ーせっかち文化とのんびり文化の徹底比較 草思社 2002

 

 

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時間についての考察 XV:時間の矢、時間の環

2019年07月04日 | 時間学

 

  時間は宇宙的、物理的、生物的、心理的あるいは経済的時間などいくらでも分類できる。ここでは生物的時間について考えてみる。

 

     『生物学者の思索と遍歴 / 八杉龍一著』より転載

   進化は逆戻りしないといわれているので、一応ここでは時間は直線的に一方向に流れる(時間の矢)。そして個体(ヒト)レベルでは発生のプログラムに従って生まれ育ち、最後は老化して死ぬ(時間の矢)。これも後戻りはない。しかし、途中で生殖し子供を生むので、種としてのサイクル(環)がみられる。すなわち、誕生→死によって個体は死ぬが、子孫が残り、これが繰り返される。これを進化軸を上向きにとって図式化すると、螺旋が描ける。さらに細かくみると、地球上では、生物は周期的な変化(日周性、年周期、月周期、ほぼ半月の潮汐周期など)にさらされており、体内にはこれに適応的に働く生物時計の仕組みを備えている。図の螺旋の線自体が、螺旋のバネのような構造になっている。生物の時間とはこのように、直線と環が組み合わさってできたものと考えればよい。

追記 (2019/08/02)

スティーヴン・グールド『時間の矢・時間の環』(渡辺政隆訳、工作舎 1990)は、チャールズ・ライエルの地球の歴史にかかわる「斉一説」について論じたものであるが、時間の矢と環についても詳細な議論を展開している。「矢か環か?」の二分法は、そもそもどちらが正しいかの選択を前提にしたものではなく、弁証法的な方法であると述べている。 時間の矢は聖書の思想であり、ユダヤの教えであるとする。それ以外の世界では時間の循環という考え方であった。

「矢の時間」では歴史は反復しない事象の一方向の連続で、各一瞬は時間の流れのなかで、独特の位置を占め、関連した出来事が流れ物語が作られる。一方、「環の時間」では根本的な状態は時間に内在し、見かけの運動は反復する環の一部であり、様々な過去が、未来で再び現実のものとして繰り返される。そこでは時間は方向性はない。因果律は短い時間ではあるが長い時間ではなくなるという不思議がある。

 

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時間についての考察 XIV 疎外と時間について

2019年07月03日 | 時間学

 

 

 神と人間の関係で、疎外 (Entfremdung)の本質を抽出したのは、ルートビィッヒ•フォイエルバッハ (1804-72)であった。フォイエルバッハはベルリン大学でヘーゲルの影響を受けた哲学者である。その著「キリスト教の本質」は、キリスト教とその神学の人間学的秘密を解き明かした歴史的な書である。愛と感性と身体を原理として掲げ、宗教や信仰に含まれる欺瞞性を暴露し、マルクスやエンゲルス、ニーチェなどに影響を与えた。フォイエルバッハによると、神はもともと人間自身の本質、その力と能力を映し出したもので、人間が一番大切で神聖なるものと感じたものの名前をリストアップしたものであるとした。言い換えると、神は有限な現実の人間存在そのものであると言える。フォイエルバッハは宗教を撤廃するのではなくて、媒介と宥和の愛による「神と人間の真の統一」を説いた。「愛は人間を神にし神を人間にする」とした。ところが、主客転倒がおきて、人間が脳で創造したものが、神は天におり、宇宙も人間も創造した絶対者とされてしまった。樹からほり出した木像を拝んでいるうちに、その木像が自分をこの世に生み出したとする錯覚が生じたのである。西洋では、神は教会やそれと結びついた国家を通じて、人の生活や人生を支配するようになった。神が人間から引き離され、人間が自己疎外されること、つまり人間の最高の本質が人間の手の届かない所に置かれて、人間自身が疎外されるにいたった。そして、「キリスト教の本質」は宗教の虚偽性を暴露した本としてではなく、この疎外という哲学概念を誕生させた著書として有名になった。

  若きマルクスは『経済学•哲学草稿』において、つぎのように考えた。資本主義においては資本が「神」に相当する。資本は自分を増殖させることを目的にするが、労働は価値の源泉で、資本は蓄積された労働である。労働者は労働によって資本を増やすが、それは自分のものにならず、敵対的で搾取を拡大するものとなる。マルクスは賃労働が生み出す疎外を4つに分類した。まず、自分が生産物が自分のものとならず、敵対物に転化するという疎外が生じたと。第二は労働者と労働行為そのものとの疎外である。「幸福なパン屋」と違って、資本主義生産で分業に携わる労働者は、ベルトコンベアーの脇で袋詰めの賃労働に従事して一日をすごす。自分の手が自分のものではなく、機械の一部になっている。第三は労働者と人間の類的本質の間に生じる疎外関係である。人と類との関係の認識が、民主主義の根底的な基盤であり、弱者強者の差別を排除する唯一の哲学である。天才がある画期的な発明をしたからといって、その天才と周りの目ざとい資本家が大もうけするのではなく、天才の発揮した能力は全人類の共有財産であり、その努力や幸運にはそれなりの対価を授けるとしても、一方的に私するものではない。逆に、弱者(例えば先天性障害者)に対しても逆の同じ論理が必要である。そして第四の疎外は労働者と他の人間との間に生じる疎外である(ただ疎外の認識の共有によって、疎外はともに打破されるものなるはずである)。このマルクスの言明のなかで最も重要な抽出概念は「類としての本質」についてである。フォイエルバッハが考えた類の本質は「自然的」(エコロジカル)なものであったが、マルクスのそれは「社会的」(ソシアル)なものであったという。エンゲルは「フォイエルバッハに関するテーゼ」において、マルクスのこの概念転換(自然→社会)を新しい世界観の天才的萌芽を宿す文書として高く評価した。

 さらにマルクスはフォイエルバッハの人間理解に含まれる「本質論」を批判し、これに対置して「関係論」を唱えた。人間の本質とは個人が内包する抽象物(たとえば才能とか性格、容貌のようなもの)ではなくて、「社会的関係の総体(アンサンブル)」であるとした。ここで始めて関係との関わりのなかで、疎外論において時間を取り上げることができる。エマニュエル•レビナスの言うように、「時間はまさに主体と他者との関係そのものである」からだ(レビナスの『時間と他者』からの引用であるが、この著書を読んで意味が唯一理解できる貴重な一行である)。時間の定義をアリストテレスのように「物や事象の変化や運動の基準数」とすれば、レビナスの言明はなんだということになるが、関係も変化の一形態と考えれば矛盾はしない。むしろ関係は時間の「形質」にあたるものである。マルクスも上記の労働における4種の疎外形態において、それぞれにおける関係は述べているが、その時間の構造は詳しくは述べていない。

疎外を時間論の立場で論述しようと試みたのは内山節 (1995)である。概略、内山は次のように述べている。

「村にいる頃は、そこの自然及び共同体社会と横の時間(関係)で生きていた。しかし商品経済社会が発達し、都市を中心とする近代的市民社会の中で人々は縦軸の時間世界に入り込んでいった。そこでは、村での因習に縛られた時間の桎梏からのがれて、自由で個性に裏づけされた人間的な生活が営めると期待された。しかし大部分の人にとって、圧迫され管理され平準化された時間が流れるだけであった。かくして近代産業社会において浸透する縦の時間と,まだ持っていた山里的な時間との不調和。この不調和こそが現代の疎外なのではないか?

しかし、内山の説は明治の産業勃興期の頃の話のようであまり現実感がない(1960年代の話のように書いてはいるが)。ただ、前にも述べたがマルクスは社会的人類の登場を急がせるかり、遺存形質(レリック)を持つ自然的人類の特質を軽視したことは問題である。疎外はいかなる心的なものとして表出するのかどうか議論せねばならないが、疎外の進化的な背景については研究の余地がありそうだ。

 

追記

ミツバチなどの社会性昆虫研究を紹介した本田睨氏の「蜂の群れに人間を見た男」(NHK出版1991)では、ハチの疎外といった言葉は出ず、「部品化」という特異な用語が使われており、面白いとおもった。昆虫に労働や仲間に対する感覚 があるのかどうか?

 

参考図書

鈴木 直『マルクス思想の核心』-21世紀の社会理論のために NHK出版 2016年

木田 元 (編)『哲学の古典101物語』新書館 1998年

内山 節 『時間についての十二章』岩波書店 1995年

エマニュエル•レビイナス『時間と他者』法政大学出版会 1986年 

 

 

 

 

 

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