京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

悪口の生態学:酒飲みが歴史を変える?

2024年05月22日 | 悪口学

酔っぱらいが変えた世界史:アレクサンドロス大王からエリツィンまで ( 2021) 原書房

ブノワ・フランクバルム (著), 神田 順子 , 村上 尚子, 田辺 希久子 (訳)

 

  この著は人類の飲酒が歴史ではたした役割を軽妙な語り口で述べている。これを読むと西洋史に登場する重要な人物(男)のほとんどはアル中のようである。たとえば、第4章に書かれているアレキサンドロス大王も酒乱の人で、酔った勢いで口論のあげく大事な部下のクレイトス(この男も結構な酒乱)を槍で突き殺してしまう。酔いが醒めて、えらい事をしたとオロオロしても後悔後に立たず。

 

 過度のアルコール摂取は体に良くないし、精神にも障害を与える事が多い。抑制が解けて言わないでも良いことを口走り、人間関係が大抵、悪くなる。酒は「気違い水」といわれる根拠である。しかし、たまには生産的な事もおこるという。その例として、第13章「マルクス主義は10日間続いた酒盛りの結実だ」がある。1844年にマルクスとエンゲルスははじめて知り合ったが、パリでのビールの酒盛りで意気投合し生涯の友情を得た。この出会いの10日の酒盛り議論をもとに書き上げたのが有名な「聖家族」である。もっともマルクスもエンゲルスも、根っからのアルコール漬けの生活で、エンゲルスはこの頃、売春婦を相手にしていたという。そのような証拠を示す手紙が残っている。この本の著者はもともとマルクス主義なんか認めてないので、結局は二人の淫蕩な生活を暴露する悪口を書きたかったようだ。

 

 ここからは庵主の試論。人はアルコール(エタノール)を代謝するのにALDHという酵素を必要としている。これにはI型とII型がある。II型は活性が強くI型は弱い。遺伝的にII型をホモで持つ人は酒につよい。ヘテロの人やI型のホモの人は弱いか全然飲めない。ようするに、この遺伝子型の人々は飲んでも楽しくはならない集団である。日本人や中国人などのモンゴロイド系ではII型ホモの人は56%でI型ホモは5%である。残り39%がI型とII型のヘテロタイプである。一方、白人や黒人は、ほぼ100%がII型ホモで、どいつも酒に強い。たとえばフランス人は、子供でも水がわりワインを飲んでいる。

 ようするに、「なんでそんな酒ばかり飲んで」と批判したり馬鹿にする抑止力集団が社会に存在しないので、とことん飲んでしまうことになる。なにせII型ホモにとって酒は飲んでるときは無闇に楽しい。ここでは酒に強いことが一元的な価値基準なのだ。スターリンの宴会パーティーの話(18章)のように酒豪が政治的勝者になるケースが多い。遺伝学者のマシュー・キャリガンによると約1000年前に人類の祖先が、II型酵素(変異型)を手に入れたそうである。サルの仲間には自然発酵した果実を好むものがいる。日本ではII型ホモのアルコール耐性群(A群)とI型ホモ、ヘテロの不耐性型(B群)がほぼ半々まざっているので、話が複雑になる。AとBの会食ではだいたいBの方が寡黙になってAの人々だけが乗りまくって話をしている。これが男女の婚姻や親子関係、会社や組織の人事構成に影響なしとはいえない。夫がA型で妻がB型の場合(A=B型)の離婚率はA=A型やB=B型より高いのではないだろうか?

 

  カール・ジンマーの著わした「進化:生命のたどった道」(2012 岩波新書 長谷川真理子訳)によると、アルコールの選好選択によってショウジョウバエを、そうでないものとわけて累代にわたり遺伝的にわけていくと、アルコール好きの系統ができる。これは、そうでない集団と生殖隔離がおこるらしい(P215)。はたして人間社会ではどうなっているのか?酒好きどうし、酒嫌いどうしが結婚する傾向があるのか?その子孫への影響は?

 こういった事を述べた酒飲みの社会学とかいう本はありませんか。



 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悪口の霊長学的起源

2024年03月18日 | 悪口学

悪口の霊長学的起源

    群れに警戒声を発する動物の種類は非常に多岐にわたる。前にコクマルガラスの例をあげた(悪口の解剖学: サツマイモとカラスの悪口)。霊長類の多くも警戒声を出して周囲の仲間に危険を知らせる。ニホンザルは、危険を察すると「クアン」という警戒音を発し、仲間はすぐにこれに反応し、同じ声をあちこちで発する。この警戒声が人類の「悪口」の起源ではないかと思っている。「人はどのように進化してきたか」(ロバート・ボイド、ジョーン・シルク著)によると、サルの警戒声は利他行動で、当人は捕食者の注意を引いて食われる確率を増やす。すなわち自分のリスクを大きくするが、群れ全体は生き延びる確率が増大するとしている。おそらく、これは他個体の意識推論的な応答ではなく反射的な反応を生み出していたのだろう。しかし発声遺伝子(体質)を持つ個体になんのメリットもなければ、そのうちこういった個体(遺伝子)は群れから排除されてしまうはずである。そうならなかったのは、このアラーマー(警戒声個体)にトレードオフになる別の「よい事(メリット)」があったからだろう。このような行動は単一遺伝子によって支配されているのではなく、複合遺伝子が関与している。アラーマーは交配相手のメスを獲得し易いとか、餌を見つける能力が優れているとかの性質を同時に持っていた可能性が高い。このような個体が群れのリーダーに進化したのかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悪口の解剖学:悪口の人類学的起源

2024年02月01日 | 悪口学

 

 ユヴァル・ノア・ハラリ (Yuval Noah Harari )の名著「サピエンス全史:文明の構造と人類の幸福」によると、初期人類の言語会話は1)外敵や獲物に関する情報交換と2)噂話であるという。ホモ・サピエンスは社会的動物で、その協力は生存と繁殖のカギを握っている。自分が属する集団の中での情報が重要というのである。誰が信頼できるか、あるいは誰は危険で信頼できないかといった情報は、大きな集団へと拡大したり、まとまって行動するときに不可欠としている。噂は大抵、悪行を話題としている。噂好きな人は、元祖第四階級、すなわち、ずるをする人やたかり屋について知らせ、それによって社会をその類の寄生者から守るジャーナリストに役割を果たしている。彼はまた逆に、他者の噂話により、ベネフィットの高い見返りの情報を期待している。ここに仮想の仲間意識が芽生える。政治集団の派閥はこの「見返り」を期待する互助会なのだ。

(注)あの人はいい人だという噂話は、利得の独り占めという観点からするとあまりされない。「いい人」との関係は量的に限界があるので、なるべく独り占めしたいからだ。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生理学者・杉晴夫による分子生物学者・渡辺格へのとっておきの悪口

2024年01月25日 | 悪口学

 

  杉晴夫は1933年生まれの筋肉の生理学者である。東大農学部を卒業後、同大大学院医学研究科を修了、同大医学助手、コロンビア大学、米国NHI研究員を経て、帝京大学医学部の教授を勤めた。筋収縮の生理学的研究で業績をあげ、多数の専門書や啓蒙書を上梓している。不思議な事に『腹背の敵 李舜臣対豊臣秀吉の戦い』(文芸社2016)といった歴史物も書いている。

 杉晴夫氏が、最近出した「日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか」(光文新書1197:2022)には、日本の大学や医学にたいする批判や悪口が満載されている。この本では、その悪口に人が関係する場合は、対象人物の名前は匿名になっている。例えばA教授とか、その大学院生B君のように書かれている。

 ただ、名指しでやり玉にあげている例外が一人いる。それは、日本の分子生物学の草分けといわれる渡辺格氏(1899-1964)である。渡辺氏は東京帝国大学理学部化学科を卒業後、渡米しカリホルニア大学でバクテリアファージの研究を行った。その後、東京大学理学部、京都大学ウイルス研の教授を経て、慶應義塾医学部教授を勤めた。江上不二夫、柴谷篤彦らと日本の分子生物学を立ち上げた人物として知られている。

 杉晴夫氏は、この著名な分子生物学者が、何ら特筆すべき研究も行わず、慶應大学時代にも非生産的教授として過ごしていたかを、細々したエピソードを紹介しながら述べている。そして、彼の悪口は次の下りで最高潮に達するのである。

 『私が渡辺氏と面識を得る以前に彼に注目したのは、利根川進氏が1997年、ノーベル医学賞を受賞された際、ストックホルムでの授賞式で終始利根川氏と同じテレビ放映の画面に入ろうと「努力」している渡辺氏の態度からであった。これは私の偏見ではなく、同じテレビ番組を見ていた友人がみな同じ印象を持ち、「よく恥ずかしくないものだね」と言っていた。なお噂によると、渡辺があまりにしつこいので、「もうやめてください」と利根川氏に言われたという』(同書より抜粋引用)

利根川氏のノーベル賞受賞式に、渡辺氏が登場する理由は、どうも彼が利根川氏の京都大学時代の「恩師」であるからの様である。ただ、短期間の特殊な「師弟関係」であった。それが、どのようなものであったかは、利根川氏の「私の脳科学講義」に、次のように書かれている。利根川氏は京大理学部を卒業した後、ウイルス研の渡辺研究室に入るつもりで、大学院に進学する。彼は分子生物学を目指していたからである。

 『渡辺格先生の研究室にはじめて行くと、渡辺先生が「わたしを教授室に呼んで、「君は真剣に分子生物学者になる気があるのか」と言います。「もちろん、そうです」と言うと、先生は意外なことを言い出したのです。「日本では分子生物学の大学院教育をしているところはない。そんなものは自分のところだってできない。ほんとうにやる気があるならアメリカに行くしかない。自分がどこか当たりを付けてやるからアメリカに留学しろ』(「私の脳科学講義」より)

渡辺教授のありえないような無責任な話だが、たまたま同じ研究所の由良隆氏らの紹介があり、利根川氏はカリフォルニア大学サンチャゴ校に留学できたと書かれている。本当のところは、ウイルス研の渡辺研究室が、ほとんどまともな仕事をしていないのを利根川氏は見て(アメリカから帰国したばかりの由良氏を除き)、ここではダメと見定めたのではないか。せっかく、大学院に入学したのに、ウイルス研では一日も実験をしていない。

 杉晴夫氏の叱咤・糾弾は分からないでもない。あの頃の大学の生物系の大部分の教授連は、何してたのだろうという人が多い。 ただ、日本の分子生物学の黎明期に渡辺格などの「権威」に対抗して、これを推進しようとする集団やグループが存在すれば別だが(そういった意識ある研究者は利根川氏の様に日本を飛び出した)、この人達がいなければ、1回周回遅れどころか、2回遅れになっていたかも知れない。杉氏は、1)教育、2)研究実績、3)研究者育成の3つを教授の任務として挙げているが、この3つを同時に備えている人は日本ではめずらし。そもそも、それが出来る物質的、文化的基盤が、日本の大学にも研究所にもないからである。

(注)杉は渡辺格以外にも、K大の動物行動学者H教授もやり玉に挙げている。何もまともな研究してないじゃないかと言っている。H先生は東大理学部の生物出身で杉とは重なっていないのに、不思議な悪口だ。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悪口の解剖学:学者のクレーム集

2022年11月20日 | 悪口学

(友利昂著「エセ著作権」合同会社パブリブ)

 

 理系文系を問わず、論文不正(剽窃、盗用、データー偽造)が露見して世間を騒がせることがある。このブログの悪口の解剖学シリーズでも「京都大学の憂鬱(2022/10/25)」、「小説的虚構の論文不正(2020/07/28)]、「日本は劣化しているのか?(2019/11/20)」などで、この問題をとりあげた。論文不正は専門家、学会会員、あるいは一般読者によって激しく指弾され、雑誌掲載が撤回されるだけでなく、著者の学者としての地位も危うくなる。

 一方で、まともな論文に対する理不尽なクレームも結構あって、これが事件になることがある。紹介する本書「エセ著作権」はそのような例をいくつか紹介している。その一つが、京大名誉教授の佐伯富氏と元北大教授の藤井宏氏との間で繰り広げた「中国塩政史の研究」事件である。藤井氏が自分の研究の先行先取権が佐伯氏によって侵されたといってクレームをつけ、あまつさえ佐伯氏の学士院恩賜賞受賞を妨げるという行動をとったのである。これは、ついに裁判沙汰にまでに発展する。論争のポイントは「牢盆」(塩を煮るための鍋)の解釈についてのプライオリティーなのだが、著者の友利は、これは藤井氏の無茶苦茶なイチャモンであるとしている。ちなみに、藤井氏は別の事件で北大を分限免職処分を受けた人物である。佐伯氏の方は泰然として学者らしい態度で対応したそうだが、それにして一般市民にとっては、こんなどうでも良い論争で、いわゆる蝸牛上の戦いに過ぎない。東京地方裁判所 平成元年(ワ)5607号 判決は、この訴訟事件に関するもので、インターネットで閲覧できる。この長々とした判決を読むと、バカバカしい蝸牛上の戦いに付き合わされた裁判官に同情してしまうのである。

 この他にもある。東京大学名誉教授の原朗が、早稲田大学教授の小林英夫の50年前の著書の内容にイチャモンをつけて、助手の頃の自分のデーターが盗用されたと主張した。これを小林は名誉棄損として提訴し勝訴している。そんなに暇なら、もっとましな論文や著書を書けよといいたくなる。日本の文系はまことに危うい!

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シーボルトおおいにテミンクの悪口を言う

2022年06月21日 | 悪口学

 

シーボルト

 

 

シーボルトは江戸時代末期の安政年間にオランダから日本に派遣された博物学者である。シーボルトにとって4年に一度の江戸参府旅行は日本の自然物や収集する絶好の機会であった。シーボルトが江戸参府中に最も喜んだ動物コレクションのは、鈴鹿山中で湊長安が持ち込んだ両生類のオオサンショウウオであった。湊長安(1786-1838)は1824年鳴滝塾に入塾、江戸参府でシーボルトに随行したとされる蘭方医である。3月27日の『日記』に次のような記載がある。

 「けわしいがよく整備された山岳地帯の街道を坂ノ下(現亀山市関町坂下)に向かう。同地で2、3日先行していた医師の長安を通じて頼んでおいた山岳地帯の植物、若干の化石、それに非常に珍しいイモリを受け取った。この水陸両生の動物はサンショウウオ (San-sjoo no-iwo) と呼ばれ、山で生息している魚である。この鈴鹿山脈のとくにオクデ(Okude)山の小川に棲み、そこから時々湿地に出て来る。 同じ名前で知られているもっと小さいのを悪液質の病気の治療薬として、頭に棒を刺し小さな板切れに並べて乾かしたものを薬屋で売っている。このイモリ(Triton., Laueat)は長さ13インチ6リーニュ(約36.6cm)、頭部は非常に扁平で幅は1インチ9リーニュ(約4.7cm)、尾は押しつぶされたようになっていて4インチ6リーニュ(約12.2cm)。身体の色は灰色がかった緑色で不規則な黒っぽい小さな斑点がある。前足には4本の指があり、親指の下にはイボのようなものがある。後足の外側には5本の指があるが、この標本の左後足には4本の指しかない。第二指骨の上の親指の外側に、私ははっきりとイボのような形の5本目の足指ができているのを認めた。この動物の再生力?親指の下には前足のところと同じように、ひとつのイボのようなものがある。腹は黄色味がかった緑で斑点はない。皮膚は両側とも身体に沿って縁があり、その襞で波形に見える。側面からだと、生息している状態ではイモリの体は角張って見える。このイモリは、北アメリカで発見されたTriton giganteus cuv.に近似してる。われわれは、さしあたりTriton Japonicusという名称で記載しておきたい」(斉藤訳『日記』69頁)。

  この文章は自然採集物について、江戸参府旅行中にシーボルトが残した記述の中で最も長いものである。オオサンショウウオが、シーボルトにとって、どれほど珍奇な動物と目に映ったかは容易に想像できる。この自慢の収集品は、後日、出島で書かれたテミンクへの手紙 (1829年2月12日付)の中でも次のように報告されている(6)。「私が日本で発見したサンショウウオは良好に保存されております。これは私の認識によれば最大の種だと思われます。この発見物は同じサンショウウオと呼ばれているものと、厳密に比較されなければなりません。そうすれば、おそらくフンボルトの言う幼形成体(Axolotl)に関する若干の解明がふたたび見いだせるかもしれません」(栗原訳『日本報告』273頁)

 シーボルトは「日本の爬虫類の自然史と形態」というタイトルの前説を『爬虫類篇』で書いている。 そこでも、オオサンショウウオ (grande salamanndre)が北緯34~36度の高山の深い渓谷に棲んでいる事、小魚やアカガエルなどを餌にしている事、はじめてそれを見たのは東海道の坂ノ下である事、長安(Tsioan)がこの辺りの漢方薬剤師に依頼して手に入れた事、これはオクデ(Okude)山でよく発見される事、この個体は生きたままヨーロッパまで運ばれオランダの博物館に納められ約3ピエ(約96cm)の大きさに成長した事などが記されている。このオクデ山についてであるが、坂ノ下付近にも三重県内にも、オクデ山やこの発音に近い山は見当たらない。長安が「奥の山(奥山)で穫れた」と言ったのを聞き間違えた可能性が高い。

 

ファウナヤポニカ『爬虫類篇』本文(p.127、図版6~8)では、シュレーゲルによって8ページにもわたってオオサンショウウオが紹介されている (図2)。その内容の大部分は分類学的な視点から形態の記述で占められている。学名はSalamandra maximaとされ、種小名のmaximaはラテン語magna (大きい)の最上級をあてている。その解説は、「これは旅行中になされた動物学上の発見の中で最も重要なものの一つであり、シーボルト氏のたゆまぬ努力によって得られたものである」という賛辞で始まる。そして、生きた2匹のサンショウウオが淡水で満たされた樽でヨーロッパまで運ばれた状況などが細かく記載されている。それによると、航海の途中で餌の魚が足りなくなり最後の2ケ月は食物が欠乏し、一匹が相棒のメスを食べてしまったと書かれている。生き残ったサンショウウオが1829年にライデンに到着した時には、鰓はすでに無くなっており体長1ピエ(約32cm)弱だった。それは1835年には約3ピエほどに成長し、以降はそれ以上大きくならなかった。このサンショウウオはその後、1849年にアムステルダム動物園に貸し出され1881年まで生きていたとされる(16)。ヨーロッパでは化石として知られる巨大なオオサンショウウオは、当時の人々にとって極めて珍奇な動物として受け止められ、これを通じて極東の小国日本を知らしめる展示物となっていた。

 ただ、この展示については、シーボルトは複雑な感情をいだいていたようである。シーボルトはその著『日本』で、次のようなことを述べている。

 「私が日本で発見し、収集し、まとめて国立博物館に送った多数の標本類のうち、そこに展示された、あるいは交換品としてヨーロッパの他の博物館に移されたものの極めてわずかな分についてだけ発見者の名を付している。おそらくこれは大動物学者の狭量なエゴであろう。仮にこのような学術上の我欲から生じた忘恩行為には目をつむるとしても、テミンク氏はさらに気随気儘なことを行ったのである。すなわち、かつて江戸参府の道中で、私は一匹の大イモリ(Salamandra maxima)をかなり多額の金を払って買い求め、これを生きたままヨーロッパに持ち帰り、私の所有物として博物館に納めた。この大イモリをテミンク氏は最初アムステルダム動物園に貸与し、後にこれを同園に引き渡してその所有物としてしまったのである。協会に対する敬意から、私はこうしたデリケートな間題にはこれまで触れずにきた。それは同協会の尊敬すべき管理者各位が、もしテミンク氏の寄贈品の本当の出所を知ったならば、こうした財産を漫然と手中におさめておくことは彼らの願うところではないだろうと確信するからである。 私のイモリは、ヨーロッパの動物園で展示されている動物のなかでも、もっとも珍しく、もっとも貴重な物のひとつであることは疑うべくもない」(加藤ら訳『日本』215頁)。オランダ政府の調査費で入手したシーボルトの収集品の一切は、政府の専有であることは厳格に契約で規定されていた。しかし、シーボルトがライデンの博物館に送ったサンショウウオは、自分の費用で得た私物であるので、テミンク館長が勝手にこれを第三者に譲り渡したのは許せないと言っているのである。この文章が『日本』に載った時には、テミンクはすでに亡くなっていたので、何が真実かは明らかにされなかった。シーボルト研究家の山口隆雄は、テミンクの死後にシーボルトがこのような記事を出したことは公正でないと非難している

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏井先生、ご冗談でしょう!?ー飛ぶカイコの話

2021年11月03日 | 悪口学

     

 夏井いつきさんの「絶滅危急季語辞典」(ちくま文庫2011)は俳句の季語で、使われなくなった日本語を集めて解説したものである。ここには俳句で使われないだけでなく、日常でも使われなくなった美くしい日本語や個性のある日本語が集められ、文章は夏井流のユーモア―に溢れた軽快なタッチで書かれている。「鬼の醜草」「われから」「つまくれない」「相撲花」...........など、おぼえておかなくてはと思いつつ、ふむふむと読み進めていったが、「桑摘」の項目(p42)を読むにいたって、庵主はひっくり返ってしまった。

夏井先生は.テレビ番組のロケで養蚕農家を訪問した時に何匹かのカイコをおみやげにもらって帰る。カイコはしばらくすると熟蚕になって、糸を吐き純白の繭を作った。ここまでは予想された話であるが、読んでひっくり返った部分の文章を、以下にそのまま引用。

「ある日、繭を入れていた紙の箱の中でカサカサ音がするので、不思議に思って蓋をとってみた。すると、中から何匹もの蛾がワタシの顔をめがけて飛び出した。すぐには何事がおこったのか理解できず、紙箱の蓋を持ったまま呆然としていた。蚕が蛾になる、なんて当たり前のことをすっかり忘れていたワタシは、ハッと我に返り、恩知らずにもあの美しい純白の繭にウンチみたいな汁をくっつけて飛んでいった蛾を罵ろうとしたが、逃げ遅れたのが一匹箱の隅でゴソゴソしているだけであった」

 カイコは人類が完全家畜化した昆虫で、養蚕農家で飼育している品種は決して飛ぶことはない。オス蛾は交尾のためにフェロモン情報を得ようと翅をバタつかせることがあるが飛べない。メスは翅をバタつかせもしない。顔をめがけて飛び出してくるなんてことはありえない。夏井流に言うなら「飛ぶカイコがいたら持って来い」ということになる。夏井先生、夢でもみたか? ただ、「繭にかけたウンチみたいな汁」については、蛾が羽化直後に行うgut purge(腸内物排出)による排出物なので、それなりにするどく観察がなされている。夢でなければ、話は夏井いつき流の創作ということであろうか。しかし、生物学的な事実をまげた創作はまったくいただけないし、教育的でない。著者の後書きによると、この本の前著は「絶滅寸前季語辞典」だそうだが、「若気の至りでフザケ過ぎていたり、ほとほと恥ずかしくなった。気になる部分をかなり書き直し、項目も入れ替えた」とされている。次回の改版では、この「桑摘」の項目も是非、修正願いたいものである。

      

       蚕蛾をいっきに飛ばす文庫本  楽蜂

  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悪口の解剖学:京都大学の国語力

2021年04月08日 | 悪口学

シリーズ『悪口の解剖学』:今回は庵主自らが発する京都大学にたいする激辛の悪口である。

 京都大学は「自由の学風」を唱っている。昔は、この自由の学風によって、学生も先生も”おもろい事”を仲間同士で自由自在に議論しあった。議論というより、いわゆるダベリングである。そのために、大学の周りには喫茶店や赤提灯の店が沢山あった。教育や研究指導も「放し飼い方式」で、自学自習を建前にしているが、ようするに自分で好きなことをみつけて、勉強するのがあたりまえであった。京大の教育とは、何か知識や方法を教え込む事ではなくて、好きな事を見つけさせるシステムであったといえる。このようなモコモコした土壌の上に、京都大学はノーベル賞受賞者(湯川秀樹、朝永振一郎、福井謙一、利根川進、野依良治、赤崎勇、本庶佑、吉野彰)を比較的多く輩出したと言われている。益川敏英、小林誠氏も名古屋大学出身だが、京大理学部の教員として自由の学風の恩恵を受けた人々である。権力と金力が集中する東大と違って、こんなものとは無縁なたいていの京大人はオモロイ研究と発想で勝負する以外に勝ち目はなかった。昔は京都という街全体に、それを応援する文化や雰囲気があったように思う。

「自由の学風」は、いまでも京大の旗印になっているようだが、山極寿一前総長が行った学生の立看板排除に見られるように、遊び心は情けなくも萎んでしまったように思える(実行者が別だとしても最終責任は山極氏にある)。この立看排除は、まったく歴史的な愚行であった。市が文句を言ってきたとしても、伝統としての大学の文化を理解してもらう努力も知恵も一切発揮しなかった。一方で、最近キャンパスを歩いて目につくのは、むやみに多い注意書きである。学生の創作看板が並んでいる頃は、それに目が行き見苦しい掲示板は気にならなかった。まともに読む気もしないものばかりだが、よく読むと、おかしな日本語のものが目につく。例えば、この写真は本部構内の出入り口付近に置かれている注意書きである。

 

教育研究環境の

阻害を防止するため、

本学関係者以外の

立ち入りを禁止します。

ペット(補助犬を除く)を連れての立ち入りはご遠慮願います。

                                                                     京都大学

No Unauthorized Persons Allowed in this Area

Please note that this area is restricted to kyoto University students, faculty, staff, and other authorized persons only. 

No animals or pets allowed, except guide dogs.

                                                   Kyoto University

 まず、この文章でひっかかるのは「環境の阻害を防止するため」という奇妙な日本語である。これも言うなら「環境の破壊を防ぐ」がまだましな表現である。「教育研究環境」も2字漢字の3連打でセンスが悪い。ここは普通に『学内の教育と研究環境を守るために、関係者以外の立ち入りを禁止します』ぐらいが妥当である。ペット以下も蛇足である。犬の散歩に来るのは、大抵近所の人だから関係者以外に入るはあたりまえだ。まさか、大学関係者が犬を連れてきて、学内の施設に入ることはないだろう。上で「禁止します」になっているのに、ここでは「ご遠慮願います」になっているのは何故だろうか? 近所の住民には、ことさら気を使っているのだろうか?英語の「No Unauthorized Persons Allowed in this Area」は、訳すと「許可無くこの区域への立ち入りを禁ず」である。これは日本語の「関係者以外の立ち入りを禁ず」とはニュアンスが大分違う。それに気づいたのか、後にPlease note that...以下の冗長な文章が続く。おまけにother authorized persons onlyは最初のセンテンスと重複している。

 日本語、英語ともおかしいだけでなく、内容そのものにも疑義がある。京都大学の構内は研究施設は別としても、道路は部外者に開かれており、市民や観光客は自由に歩いているし通り抜けたりしている。いちいち許可をもらって、時計台の生協ショップやレストランを訪れる市民や観光客は絶対にいない。現に平成28年11月の京大告示8号では時計台前のクスノ木周辺を一般市民の憩いの場としている。それをこの看板はけしからんと言っているのだ。

 こんな恥ずかしい掲示板を並べている大学は、日本でも京大ぐらいだろう。この文章は看板屋が作ったものではない。看板屋だと、定型的だがもっとまともな文言にするはずで、かかる「ユニークな看板」を作るはずがない。本部事務の担当者が作ったものだろうが、おそらく学内で何か事件が起きた時に、頭をクチャクチャにしながら作製したものと思える。「環境の阻害を防止するため」という部分に、作者の性悪説的な思想を感じてしまう。京大の事務官の国語力が、この程度なのは分かるとしても、SECOMのシールを貼ったこんな醜悪な看板を毎日見て、キャンパスに通う京大の先生は何も感じないのだろうか?それとも、感じても文句を言わないのか?なんとも不思議な風景である。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悪口の解剖学: 種の学名を通じたアカデミックな悪口

2021年03月13日 | 悪口学

 

 エルザ・ウォーバーグとオルヴァル・イスベルグは、いずれもスエーデン人で20世紀の前半に活躍した古生物分類学者であった。ウォーバーグはユダヤ人で、イスベルグは親ナチの極右支持者であった。当然、二人の仲は良くなかった。最初に、分類学上の名前によって戦いの口火を切ったのは、ウォーバーグだった。彼女は1925年の博士論文で、ある三葉虫の属にイスベルグから取った名前をつけたのである。自分が研究する化石を集めてくれたイスベルグに愛想良く感謝の意を表しているように見えたが、命名はあきらかに悪意に満ちたものであった。新たなイスベルギア属には2種類があったが、ウォーバーグは、それをIsbergia parvulaIsbergia planifronsと命名した。ラテン語でparvulaは「取るに足りない」をplanifronsは「平べったい頭」を意味している。ナチスは、その人種理論で平べったい頭を劣等人種としていたのである。

   

 

 それに対して9年後になってイスベルグは反撃した。彼は絶滅したイシガイの属をWarburugiaと命名した。ウォーバーグが大柄で肥えた女性であったのをあてこすり、4種の種小名にそれぞれ、crassa (太っている)、lata  (幅広い)、oriforimus  (卵形)、inique (邪悪)と名命した。そしてこの属が、近縁種と区別する特色としての大きな形質はschliessmuskel (肛門括約筋)のような閉殻筋だと記述した。

 ウォーバーグとイスベルグにとって、それぞれ不名誉なこれらの生物の学名は文明が存続する限り文献に永遠に記録されている。

 

<参考文献>

スティーブン・B・ハード 『学名の秘密^生き物はどのように名付けられるか』(上京恵訳)原書房 2021

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悪口の解剖学:レーニンという男

2021年01月15日 | 悪口学

 社会の不合理に敏感な大正時代のインテリ青年達は皆、マルクス主義に傾倒した。そしてロシア革命以後はマルクス主義を発展させたマルクス・レーニン主義が、世界の未来を導く輝かしい思想であると多くの若い労働者や学生が信じて活動した。

 

 戦後、庵主の学生時代には新左翼系の思想家や活動家は共産党のスターリン主義に反対し、「レーニンに帰れ」という主張を繰り返していた。ロシア共産党のおぞましい過ちは、スターリンから始まったので、偉大な理論家、哲学者そして革命の実践者であった、レーニンに過ちはなかったと信じた。もっともレーニンの膨大な書き物の中で読まれていたのはせいぜい、『国家と革命』と『一歩前進、二歩後退』『何をするべきか?』ぐらいであったような気がする。庵主は、有名な『帝国主義論』を読んでみたことがあるが、あまりの難解かつ退屈さのゆえに10頁ほどで放棄してしまった。

ロシア革命の父といわれたレーニンが1924年に亡くなって、ほぼ一世紀がたつ。さらにソ連が崩壊したのは1991年。時間は流れ世界の様は変わったが、レーニンの評価は変わっているのだろうか。ウラジミル・レーニンとは何ものであったのか?庵主なりに考えてみた。

 レーニン(ウラジミル・イリイチ・ウリヤノフ)は1870年4月22日にヴルガ河沿いのシンビルスクで生まれた。父親(イリア・ウリヤノフ)は貴族社会に属する物理学者であったが、奴隷制度や階級制度に反対する進歩的な人物であったそうである。レーニンの徹底した理づめの論法はこの父親ゆずりである。

 レーニンには、5人の兄弟姉妹がいた。この5人ともいずれも革命運動に身を捧げたというから、家庭環境だけでなく多分に遺伝的気質が影響していたのようだ。おそらく強い分裂質の傾向が一家にみられたのではないだろうか。なかでもレーニンは幼少のころから神童と呼ばれるほど学校の成績がよく、法律家になることを目指していた。チェスと音楽そして読書がなによりも好きであった。愛読書はストウ夫人の「アンクル・トムの小屋」だったそうである。

 レーニンの人生の転機が16歳ごろに来た。1886年に父イリヤが心筋梗塞でなくなり、翌年アレクサンドル3世の暗殺を企てた兄のアレクサンドル・ウリヤノフが逮捕されて絞首刑に処された。これ以来、レーニンは敬愛する兄を殺したロシア帝政に強い憎しみを抱くようになった。兄の処刑からほどなくして、レーニンは兄の書棚を埋め尽くしている社会主義に関する禁断の書に触れて、革命家を目指すようになる。

思想的に最も影響あたえた本はニコライ・チェルヌイシェフスキーの『何をなすべきか』であった。主人公の革命家ラフメートフに感銘し、彼のようにウエイトトレーニングに励み、生肉を喰らい、心のなかで囁く誘惑の声を遮るために針を打ち付けたベッドで寝た。好きだったチェスも音楽も捨て、古典言語の学習もやめてしまった。このころに「革命こそがすべて」のレーニンが生まれた。

 若い日のレーニンは、実践を伴わない書斎派の急進主義にすぎなかった。周りの仲間は頭脳明晰で弁のたつ彼を”じいさん”と呼んで一目置いていた。ただ、レーニンがその思想を実行に移す機会が訪れると、冷酷な過激派の貌をさらけだしたという。次のようなエピソードがある。

レーニンが21歳頃に、ヴォルガ河流域は飢餓に見舞われて農民達は困窮した。姉のアンナは心やさしい女性だったようで、困った農民のために医療活動を行った。ところが、レーニンは彼女を叱りつけた。それどころか、地代を滞納した農夫を告訴したりした。これは帝政に苦しむ農民を救わんとする革命家の所業であるのか?

 これについてのレーニンの理屈は以下のようなものであった。ロシアの農民が悲惨極まりない状況に落ち入っていることが、革命の目前に迫っていることの証でありバネでもあるのだと。一種の貧窮化待望論である。もっとも、1917年にロシア革命が起こってからも、レーニンは農民が穀物を隠匿しているといって、赤軍を農村に派遣しこれを徴収した。そのために多くの農民が餓死したと言われる。後になって作家のマクシム・ゴーリキはレーニンについて次のように述べている。「大きく言えば、レーニンは人民を愛していたと言えよう。しかし惜しみなく愛していたわけではない。彼の愛は憎悪という霧を通したものであった」と。

 山川均の本(『レーニンとトロッキー』改造社 1922)に、次のようなバートランド・ラッセルのレーニン評が紹介されている。『レーニンは訪問客を凝視するが、よく笑う。初めは彼の笑うのが唯だ親しげにまた楽しげに見えたが、段々独裁的で平静で大胆不敵でしかもあくまで私欲がなく、殆ど理論そのものの化身であることが分かった。私には、彼が可成り多くの人々を馬鹿にしている知識的貴族であるという印象を受けた。(中略)レーニンが自由を愛さない事は、尚ほダイオクレアンによって迫害された耶蘇教徒のごときである。彼らは権力を握ると報復を行った。自由を愛することは、全人類の疫病に対する万能薬に対する信仰とは両立し難いものである』(ラッセルは当時社会主義者であったが、レーニンやトロッキーのボルシェビキ革命を厳しく批判した)

 1887年にレーニンはカザン大学法学部に入学した。しかし反体制運動にかかわった廉によりその年の内に退学となった。しばらく母親と暮らしていたが、1895年にサンクトペテルブルグに移った。そこでも労働運動を組織化したものの、秘密警察に逮捕されてシベリアに流刑となった。帝政時代のシベリア流刑地は、スターリン時代のような過酷なものではなく、まだ人間的な場所であった。そこで、昔からの恋人のナデジタ・クルプスカヤと結婚している。

 1900年にレーニンは刑期を終えてシベリアを去りスイスに亡命した。そこにはプレハーノフをはじめとする錚々たるロシアの社会主義者たちがいて、さかんに交流をした。この革命家達が、ある日アルプス地方の美しい村にピクニックにでかけた。人々は散策しながらすばらしい自然と景色を楽しんでいた。しかしレーニンだけはそれに関心をしめすことなく、途切れる事なく社会運動と革命の話をしつづけていた(向坂逸郎の「マルクス伝」(新潮社1962)によるとマルクスはそのような情景でまったく違っていたらしい。リープクフネヒトの回想によるとロンドン亡命中のマルクス一家とのピクニックの楽しさは千歳の年になってもそれをわすれないだろう」と書いてある)。そして、レーニンの弁論の特質は言葉の繰り返しと論争相手の徹底したこき下ろしであった。この点はのちのヒトラーとよく似ている。

 レーニンがスイスに亡命していたころ、カイム・ワイズマン(1874-1952)がジュネーブ大学の化学の教授でいた。ワイズマンはロシアのベラルーシのユダヤ人の一家に生まれ、ドイツとスイスで化学を学び、1903年からスイスに滞在していた。二人は交流はあったものの、ワイズマンがシオニズム運動に傾斜していったので衝突した。しかし、この二人は大変、容貌が似ていたので、ワイズマンはレーニンに間違えられ、刑事によく尾行されたという。ワイズマンは後に英国にわたり、アセトンの醗酵製造に協力したので、チャーチルの信頼を得て、後にイスラエルの初代大統領に就任した。

 ヨーロッパを転々とするレーニンが言葉の弾丸を打ち続けている間にロシアの情勢は急変しつつあった。1894年のアレクサンドル3世の跡をついだニコライ2世にはつぎつぎ災難が襲いかかっていた。1904年からの日露戦争の敗北、1905年のサンクトペトロブルグでの血の日曜日事件と革命政府の樹立。そしてのこの年に政治犯の恩赦がくだされレーニンは11月に帰国したのである。そして1907年再度スイスに亡命。1914年に第一次世界大戦勃発。1917年4月封印列車で帰国。引き続く数々の激動を奇跡的にくぐり抜けてロシア革命を導くことになる。

 さきほどの山川の本に有名な「封印列車」の話しが出てくる。それによると、以下のような事が書かれている。1917年ロシア3月革命の結果、ケレンスキー政府ができると、スイスに亡命していた社会主義者達はロシア亡命者の帰国を助ける為に、委員会を組織した。この委員会は帰還者の為に旅費を募集し、フランス、イギリス、スイス政府にアルハンゲリスク経由でペトログラードに帰る許可を求めた。しかし連合国はこれを許さなかった。そこで、委員会はドイツ政府と交渉した。その結果、ロシアに捕虜となっていたドイツの非軍事市民と交換に、約300人のロシア人がドイツ経由で帰国できるようになった。(注:追記7の渡辺の著書によると32名となっている)この列車にはレーニンの他にメンシェビキやケレンスキー政府の支持者も含まれていた。通説では、ドイツ政府とレーニンが、直接、交渉して話しが成立したようになっている。しかし、山川の書ではそうはなっていない。当時のロシアの情勢からみて、レーニンの影響力のあるボルシェビキは弱小勢力であったので、ドイツ政府が革命勢力の切り札としてレーニンを選抜して送り込んだという通説には無理がある。多分、駄目もとで、ドイツはレーニンを含めた社会主義者、共産主義者その他を一派ひとからげにして送り返したのだろう。

 レーニンの『何をなすべきか?』に感銘してロシアの革命運動に参加した二人の青年がいた。ヨシフ・スターリンとレオ・トロッキーである。スターリンは一貫してレーニンを仰いだが(少なくとも表面的には)、トロッキーはそのうちレーニンを批判するようになり、革命党から独裁者が出るであろう事を予言した。しかし、トロッキーも1917年にはレーニンとよりを戻して行動をともにした。レーニンという戦略家とトロッキーという戦術家がそろっていなければ、おそらく1917年のロシア革命は成功しなかったであろう(クルツイオ・マラブルテの『クーデターの技術』参照)。

 1917年のスターリンがはたした役割は、後年の公式の記録(ただしフルシチョフ報告まで)に書かれているほど華々しくもなければ、トロッキーをはじめスターリンの敵が主張したほどひどくもなかった(アラン・ブロック『対比列伝ヒトラーとスターリン』、草思社2003)。ただ、スターリンにとって不運な事に彗星のように頭角を現したトロッキーの前にその存在はすっかり薄くなってしまった。その後、1921年3月ボルシェビキの独裁に反対するクロンシュタット水兵の反乱をトロッキーは「鉄の帚」でもって鎮圧した。これにより多数の水兵が処刑されたり投獄された。レーニンの死後、たとえスターリンに代わってトロッキーが共産党の権力を握っていたとしても、ロシアは「収容所群島」になっていたろう。もっとも、ユダヤ人の犠牲者はスターリン粛正に比較して少なかったろうが。

 澁沢栄一は『論語と算盤』という自伝風の評論において「偉き人と完き人」という話をしている。「偉い人」は人間の具有すべき一切の性格の欠点があっても、その欠陥を補って余りあるだけ他に超絶した点がある者とし、一方、「完き人」は知情意の三者が円満で具足した常識人としている。澁沢は「偉き人」より「完き人」のほうが大事だと言っているのだが、レーニンはまさにこの「偉き人」であった。そして知情意の中で徹底して「情」の欠けたロシア人であった。こういった人物は、どんな集団でも一人や二人はいるものである。よく勉強もしており頭も切れるし論も立つ。しかし何故か人間味と情にかけている。こんなのを組織のヘッドにすると、うまくいきそうでも大抵は大失敗する。たとえば昭和の軍国主義時代に辻正信という、この手の典型の軍人がいて、日本国をボロボロにした。

 マルクス・レーニン・スターリン・毛沢東といった一連の革命家の思想に通底するのは、人民を社会の桎梏から解放するという崇高な理念や希望ではなく、結局は”暴力”と”独裁”による全体主義的な人民の支配ではなかったかという主張が繰り返しなされている。確かに、これらは革命を成就するための便宜的な手段のはずだったのに、それが目的となってしまったのが、共産主義運動の歴史のようにみえる。手段が目的になった悪しき例の最たるものである。指導者個人の資質によってそうなったのではなくて(スターリンに関しては多分にそのきらいはあるが)、元祖マルクス思想そのものに、”暴力”の起源があったのか、あったとすると、それは何故なのかを今後は考究しなければならない。

共産主義や社会主義を標榜した革命家の中で、庵主が敬愛しているのは人間的なホー・チ・ミンだけである。若い頃はチェ・ゲバラが好きだったが、脱走した部下をみずからの手で射殺したエピソードを知って嫌いになった。

 

あとがき

 本稿はを多分に参考にした。最初のカルダーの本は独裁者の思想の分析といった社会学的な著書ではなく(それぞれの主張の引用や根拠がほとんど書かれていない)、多分に悪口的な雰囲気の本である。著者の話には全てとは言えないが、かなりバイアスがかかっているところがある。たとえば、ヒトラーは第一次大戦で戦死者ゼロの「しんがり好きの豚」とよばれた伝令兵にすぎなかったと主張している。すなわち臆病者だったとこきおろしているのだが、そうであれば鉄十字章を2回も授与されるわけがない。当時の伝令兵の戦死者がゼロという話も信じられない(ヒトラーが勇気ある男だったといいたいのではなく、庵主は作者の記述に矛盾があると言いたいのである)。それはともかく話半分として読めば、この本はそれなりに面白い。著者も述べているように、このなかで一番傑作なのはムッソリーニの伝記である。この書はここだけ読むことをおすすめする。

参考図書

ダニエル・カルダー 『独裁者はこんな本を書いていた(上下)』黒木章人訳、原書房 2019

アラン・ブロック『対比列伝ヒトラーとスターリン』鈴木主悦訳、草思社2003

澁沢栄一 『論語と算盤』角川ソフィア文庫 2031

鈴木肇 『レーニンの誤りを見抜いた人々』恵雅堂 2014

ヴィクター・セベスチェン 「レーニン・権力と愛」(白水社2017)

 この書は人間レーニンをより知るために良い本である。イレッサ・アルマンドというレーニンの愛人が登場する

 

追記1)エレーヌ・.カレール・ダンコース 「レーニンとは何だったのか」藤原書店 2006 

この書によると、1905,1917年のソビエトの形成は民衆の自発的なもので、ボルシェビキは何もしていなかった。さらにレーニンについては「すべてのユートピア主義者と同様に常に人類の幸福を望んだ。しかしすべてのユートピア建設者と同様、人間そのものを棄てて、抽象的な実体を追い求めた。レーニンは人間の不幸に哀れみの言葉や、まして後悔の言葉を一言も発することはなかった」と記している。レーニンは多数の著作をものした。当時も今もだが、えてして左翼はまとめればA41枚ですむ内容を、長々と無内容な言辞を並べ、ボリュームで自分を権威づけるといったアホらしい風習がある。まったく時間の無駄。シモーヌ・ヴェーユは、その著「抑圧と自由」で、レーニンの著書は「ほとんど退屈で、教えるところがほとんどない」と酷評している。

追記2:(2020/12/19)

革命家の実像は多分に分かりにくい。一方で英雄として虚飾にまみれ、一方では無慈悲な独裁者として全否定されているからだ。そういった意味で、チャールズ・フェンノ著の『ホー・チ・ミン伝』(岩波新書D59 陸井三郎訳)は、客観的な資料にもとずく、優れた伝記である。これに載せられたホー・チ・ミンの遺書」は感激的な文章である。以下一部採録。「生涯を通じて私は心から力の及ぶかぎり祖国と革命と人民に奉仕してきた。この世から去るにしても心残りは何もない。ただ、これ以上奉仕できないことを残念に思う。私亡きあと、盛大な葬儀をして人民の時間とお金を消費しないようにしてほしい」...........レーニン、スターリン、毛沢東などからは、決して聞けなかった言葉だ。

追記3:(2021/02/26)

 当時の革命家の中でも屹立したインテリゲンチャーであったレーニンは、思想的に「残酷」なところがあっても、人間的には人を平気で殺すなどの残忍なところは無かったと信じていた。しかし、アラン・ブロックは、その著『対比列伝ヒトラーとスターリン』において、次のような事を書いている。テロを制度化し、チェーカーを国家の掣肘をうけない特務機関としあげたのは、スターリンではなくレーニンであると。さらに1918年8月にベンザのボルシェビキに宛てて書かれた指令を紹介している。「富農(クラーク)を見せしめに100人吊るし首にせよ。この指令を受け取ったこと、そのとうり実行したことを電報でしらせよ。レーニン(サイン)」とある。この指令ほ後にレーニン全集にも収録されている。1924年のレーニンの死にいたるまでの5年間に、チェーカーが行った処刑は少なく見積もっても20万人とされる。これに対して、1917年までの治世の最後の50年間の歴代ツアリーのもとで行われた処刑は、1万4000件であった。レーニンが打倒した帝政よりボルシェビキの方がずっと人を殺した。その死後はスターリンによって、ボルシェビキ党員を含めたもっと多くの人が殺されている。これではロシア革命によってロシア人が幸せになったと言えるわけがない。

追記4(2021/03/14)

カール・ポパーは『開かれた社会とその論敵』と『歴史主義の貧困』において、マルクス主義を批判したが、一方でマルクス個人がプロレタリアのみじめさに本当に深く心を打たれていたや、プロレタリアを助けようとしていたことは認めていた。ただマルクスは個人的にひどい野心家で権力を求める人間であったが、それをどこにも得る行き先がなく、ひねくれていたと述べている(『未来は開かれている』思索社 1986)。

追記5(2022/05/19)

レーニンの妻クリプスカヤによる伝記「レーニンの思い出」(青木書店1970)には、シベリアでの楽しい思い出がたくさん述べられている(p31)。

『寒い冬がすぎて、春になると、自然はすさまじい勢いでめざめていった。春は力を強め、夕映えの野原の広々とした春の出水に野生の白鳥が泳いでいた。また森のへりにたてば、小川は激しく流れ、やまどりが愛をもとめて鳴いていた。ウラジミール・イリイチ(レーニンの本名)は森に行き、愛犬のジェニカを抑えているように頼む。イリイチはいつも「もしウサギが出てきても撃たないよ。皮ひもを持ってこなかったので、運びにくいからね」 だが、ウサギが飛びさすとイリイチはやはりバンバン撃つのだった。』

この書は、クリプスカヤ自身の記載部分がどれほどか疑わし官製伝記であるが、シベリア時代の記述は真実であろう。

追記6 (2023/01/09)

当時の大阪朝日新聞記者である中平亮による「赤色露国の一年」というルポルタージュ(1921)でとレーニンとトロッキーの関係が述べられている。「レーニンは思想家、立法家としてはるかに群を抜いている。労農露国の元首として動かぬ眼目は実にここにあるが、実行家としてはトロッキーにおよばない。会議に出席しても、レーニンはトロッキーは必ず相並んで座る。そしていかにも親しげに話し合っている」(森田成也著トロッキーと戦前の日本:社会評論社2022)

追記7(2024/01/15)

渡辺惣樹「虚像のロシア革命ー後付け理論で綴った唯物史観の正体」は歴史の必然と偶然を考える素材にはなりうる。第一次大戦のような全面d戦争を当時のロシアやドイツ、オーストリアの皇帝たちは望んでいなかったのに、何故引き起こされたのか?レーニンやトロッキーがいなければ、ロシア革命は起こらたのかのか?大きなフレームで考えると帝国主義間戦争は必然だったように思えるし、労農階級による革命もあの時代では起こるべきしておこったようにも思える。しかし、この著者は、それは教科書的な後付理屈であるという。この本の中でもレーニンのアジテーターとしての病的な徹底性が描かれている。生物の進化においても同様の偶然と必然の問題がある。太古の昔、脊椎動物の先祖といわれるピカイアがもし、絶滅していたら現在の生物相は全然違っていたろう。進化生物学者のグールドはピカイアが生き延びたのはまったく偶然であるとしている。

追記8「トロッキー暗殺と米ソ情報戦-野望メキシコに散る」(社会評論社2009)の著者篠崎務によると、レーニン一行を載せた「封印列車」には32名の革命分子が車中に閉じ込めれられていたが、ブラインドはなく車内の雰囲気は陽気なものであっそうだ。この著者はまたトロッキーを「クロンシュタットの虐殺者」と呼び、「スターリンもスターリンならトロッキーもトロッキー」と述べている。そのくせ、「あとがき」ではトロッキーのことを「地主に搾取された農奴や経営者に隷属した産業労働者といった弱者のみならず世界中の被抑圧者を救済しようという野望を抱いていた革命家」としている。わけのわからない矛盾である。

追記9(2014/05/01) 以上、かなり直観的に述べたことは、高木茂の著「忘れらた革命:1917」(幻冬社ルネッサンス 2011)で、整理されて書かれていた。この著者によるとレーニン主義を旗印にした戦後学生運動は日共を含めて、すべて赤色テロリズムの系譜であるとしている。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悪口の解剖学ー裁判官の批判と悪口

2020年12月21日 | 悪口学

瀬木比呂志 『絶望の裁判所』(講談社現代新書2250)2014、講談社

 批判は個人、システム、集団に対する否定的な表明であるが、筋道の通った基準の存在が大事である。一方、悪口は得てして個人の行状に対する感情のこもった発言や文章が多い。感情がこもる分だけ、筋道がぼやける。掲書は、日本の裁判制度が、裁判官の出世主義や権力や上司への忖度思考のために、いかに劣化・腐敗しているかを著者の経験をもとに縷々述べたものである。

これによると、裁判所の伏魔殿は事務総局という司法の中枢のようである。ここの事務総局長が、代々とんでもない権力を持っており人事その他を仕切っている。ともかく、これを読むと、刑事事件はもとより民事事件でも裁判所(官)のお世話には、決してならないようにしたいと大抵の人は思うであろう。その意味で、この書は批判本であるが、二人の個人が名指しでやり玉にあがっている。すなわち悪口本でもある。

 一人は矢口洪一第11代最高裁判所長官(1920-2006)である。矢口はWikipediaの記事では、比較的、物の分かった進歩的な裁判官のように書かれているが、本書では分類不能な怪物とされており、個人的な悪口としては以下のようなエピソードが紹介されている。

 私(瀬木)は最高裁で行われたあるパーティーの席で一度長官と話したことがある。ふと気が付くと長身の長官が前に立っている。両脇の人々がさっと引いてしまったために、言葉を交わさざるを得なくなった。

 (君は民事局の局付けだそうじゃないか)

 (はい、そうです)

  (そうか、しかし私からみれば局付けなんて何でもない)

 (はあ、そうでしょうね)

ということで、幸い先方が向こうに行ってしまった。

 最高裁判所長官が自分の部下にその役職の価値をこのように面と言うのは信じがたい。このたわいもないエピソードの後で、瀬木は矢口の事をビジョンや人間観に関してゆがんだ部分の大きい人物であると切り捨てている。矢口は2006年に亡くなっており、上記のようなエピソードが真実かどうかは確かめようもない。それに、生きていたとしても、多分憶えてはいないだろう。瀬木が古い話しを、わざわざ書いて読者に示す背景がきっとあるはずだ。多分、最高裁判所時代に、矢口に酷い目にあったのだろう。

 悪口を言われたもう一人は、竹崎博允第17代最高裁判所長官 (1944~)である。彼については、その個人的言動については取り上げていないが、裁判員制度の導入者としてやり玉にあげている。竹崎の時代に、裁判所の統制が強化され上命下服、上意下達のどうしようもない司法組織が完成したように書かれている。

 この傾向は、現代日本の政府、行政、司法、大学、企業、町内会などほとんどすべての組織に蔓延するジャパニーズ・シンドロームといえるのではないか。これを原因とする日本国のおぞましい劣化は、コロナ禍における政府や地方行政の無為・無策で見事に証明されつつある。もっとも、このような情けない人達は、漱石の『坊ちゃん』にも教頭の赤シャツ、太鼓持ちの野田として登場するので、明治時代にすでに発生していたようである。彼らは、言葉使いなどから、とても士族の出とは思えないので、どんな背景から教師になったのか、社会歴史的な研究が望ましい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悪口の解剖学:チャールズ皇太子への皮肉な献辞

2020年12月06日 | 悪口学

『代替医療解剖』(2010 新潮文庫)はサイモン・シンとエツアート・エルンストによる代替医療学に関する総括的なレポートである。訳者は青木薫氏。

 

     チャールズ皇太子

 鍼、ホメオパシー、カイロプラティック、ハーフ療法など代替医療のほとんどがインチキであり、効果があったとしても、プラセボ効果によるものであるとしている。無知な人々が高額な治療費をこういった代替医療行為に支払っている。

 ところで、本書の表紙には、英国のチャールズ皇太子に対する献辞が掲げらえている。チャールズ皇太子が、代替医療の無意味さや危険性を大衆に啓蒙しており、その活動に対する賞賛の故かと思って読んでいったが、まったくその逆であった。

 チャールズ皇太子はつぎのような発信をしている。

「これらの代替治療法は、主流の医療と同じぐらい効き目があるのではないか?場合によっては主流の医療よりも効くのではないだろうか?」

「末期ガンで、もう一度化学療法を行っても、治療が終わるまでいきられないだろうと言われたのにゲルソン療法(食事療法とコーヒー浣腸)に切り換えた女性患者がいます。その女性は、7年後の今日もちゃんと生きています。つまりこうした例を否定するのではなく、むしろそういう治療法の効き目についてさらに調査を行うことは、生命にかかわる問題なのです」

この書の著者らは、すでに信頼を失い危険でさえある代替治療を奨励しているとチャールズ皇太子を非難しているのだ。冒頭の献辞は、その警告であった。彼は他の社会問題(環境、雇用など)には真剣でまともな発言をしているのに、代替治療に関しては眼が見えない。健康問題というのはかくも難しいという例えにあげられる話しだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悪口の解剖学—手紙の返事がない場合のすごい悪口例

2020年10月15日 | 悪口学

アーノルド・C・ブラックマン 『ダーウィンに消された男』(羽田節子、新妻昭子訳)朝日新聞社 1984年

 1858年6月、ダウンの屋敷でダーウィンはアルフレド・ラッセル・ウーレスの手紙を受け取った。それは、生物の進化論を見事に述べた論文が同封されていた。ウーレスはインドネシアのモルッカ諸島のテルナテから、まだ誰も発表していなかった進化のメカニズムを簡潔に述べた論文をダーウィンに送り、それをライエルに渡してほしいと頼んだのだ。

科学史の多くの記述では、同年8月のリンネ学会でダーウィンとウーレスの進化に関する論文が同時に発表されたとなっているが、実際に発表されたのはウーレスの「テルナテ論文」だけで、ダーウィンのほうは論文は無く、エザ・グレイへの手紙が添えられた概要のみであった。ブラックマンの掲書は、ダーウィンがその手紙を受け取ってから、いかに「ずる」をして、進化論に関する優先権を手にいれようとしたか、手に入るあらゆる資料を基に論じている。

この著を読むとブラックマンが比類ない粘液質のドキュメント作家であるかがわかる。ここでのダーウィンに関する進化論の優先権に関する記述は、悪口ではなく、純粋に倫理的な批判である。詳しくは本書を読むか、内井氏の論考ダーウィンの自然選択説に関する二つの疑惑(https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/ 2433/59170/1/jk15_ 001.pdf)を参照されたい

               

         アルフレド・ラッセル・ウオーレス

 

  ここで紹介するブラックマンの悪口は、「著者取材ノート」という後書きに書き込まれたものである。「ダーウィンの不正」の話しとは、関わりのない彼の私的なエピソードであるが、結構強烈なもので、以下のその部分を転載する。

「夢想家のウーレスは、誰もが協力的だとはかぎらないと知ったら、きっと心を傷めたにちがいない。ルイス・マッキニーのばあいがそうである。マッキニーは『ウーレスと自然淘汰』(1972)その他の著作で、ウーレスの二人の孫のことを書いている。199710月、私はイギリス再訪の準備中に、マッキニーに手紙を書いて、ウーレスの孫たちの住所を教えてくれるよう頼んだ。返事はなかった。11月にふたたび手紙を書いたが、やはり返事をもらえなかった。12月、私はマッキニーが努めるカンザス大学に電話し、当方払いで電話をくれるよう伝言した。電話はこなかった。アメリカン人のいいぐさでは三振アウトである。このエピソードになぜあきれるかというと、私や他の税金支払者は、ウーレスに関するマッキニーの研究を一部財政的に援助しているからだ。マッキニーは二つの財団と連邦政府の国立健康研究所 (NIH)から研究費を受けている。NIHの研究助成金統計課の記録によると、彼はウーレスの研究に対して少なくとも1 6850ドルを受け取っている。公金を受けている個人は大衆に対して義務を負っている」(以上一部省略して引用)。

  マッキニーの研究費を担当課に問い合わせて悪口の資料にするとは、著者のおそるべき粘液質が発揮されている。このような場合、大抵の人は、返事がないのには不快な気持ちを持つが、邪魔くさいので、次の仕事にかかるものだ。

ただ、この著者のしつこい悪口が救われているのは、最初の書き出し「夢想家のウーレスは、誰もが協力的だとはかぎらないと知ったら、きっと心を傷めたにちがいない」がいささかのユーモアを含んでいるのと、税金利用者の義務についての理屈を述べたところである。マッキニーは情報が提供できない理由があったのであろうが、それを知らせるべきであった。

忙しい時期には、人からの手紙にもメールにも応答しないことがたまにある。しかし、油断すると、このような粘液質の人物によって、それだけのことで、悪口を公開される事があるので注意が必要である。

追記:本来、「ウーレスの進化論」が「ダーウィン・ウーレスの進化論」に、そして今や「ダーウィンの進化論」になってしまった理由はいくつかある。それはウーレス自身にも問題があった。ウーレスは心霊術を信じていたことや、ダーウィンと違ってヒトの進化を意識的に取り上げなったことである。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悪口の解剖学: 悪口は健康に良いか悪いか?

2020年08月30日 | 悪口学

 

  今まで有名な悪口をいろいろ取り上げ、その背景や理由を分析して紹介してきた。悪口も「アホ、バカ」の類いから、名人級の芸に近いものまである。

悪口については、倫理的に良からぬ行いで、それは廻り回って自分にはねかってくるという否定的な考え方が一般的である。おまけに、悪口は身体に悪いとまで言う人がいる。不健康になるという説の論法は以下のようなものである。悪口をいう人は評判が悪くなり、信頼されなくなって、孤立し精神的に不健康になって、あげくは身体も不調を来すそうである。

一方、悪口は健康に良いという説もある。悪口をいうのは、その相手に、不快な事をされて、なんらかのストレスを感じているからである。ストレスを溜めると身体に悪い。すっきりと血圧を下げるべきであるという。

無論、どちらが良いかは決まっている。臆さずに嫌な奴の悪口を言うのが正解である。正しい悪口は社会に役立つ。ただ、その形式がエレガントなものでなければならない。人が聞いたり読んだ時に、ほれぼれとするものでなければならない。悪口にはそれなりに修行がいるのである。頭が悪くては立派な悪口はつくれない。最近のSNSの悪口は、たいてい動物の鳴き声のようなもので、悪口になっていない。芸にまで高まらない悪口は我慢して言わない方がよい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悪口の解剖学: サツマイモとカラスの悪口

2020年08月24日 | 悪口学

 サツマイモはその葉が虫などにかじられると強い匂いの化学物質を放出して、自分だけでなく、近くに生えているサツマイモの葉にも、消化を妨げるタンパク質(スポラミン)を合成させるようにする。この匂いは、植物の葉が周りの仲間に害虫への防御を促す一種の警報フェロモンである。植物では、サツマイモ以外にもこのような例は多い  

 

 動物の場合は、匂いを使わず大抵、音声情報で警報を発する。コクマルガラスの悪口警報の話しが有名である。

ある男がいたずらで、木に止まっている一匹のコクマルガラスに石を投げつけた。そうすると、そのカラスは、その男を記憶していて、彼がそばを通る度にガアガアと叫び続けた。そのうち、その辺りのほとんどのカラスに情報が広まり、どのカラスも男の姿をみると騒ぐようになった。行動学の権威、コンラード・ローレンツ博士の著に出てくる有名な話である。

サツマイモの警報フェロモンやカラスの騒がしい鳴き声などの危険情報は、それぞれ生存価を高めるための重要な「悪口」なのである。

 

 

参考資料

日経サイエンス 2020/05月号 p18 「サツマイモの警告」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする