京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

ヤマガラ(山雀)

2014年03月19日 | ミニ里山記録

 

 山の鳥のような名前だが都会でもよくみられる。オスとメスの番で新居の巣箱を探している。箱をたたいてドラミングするのだが、何がわかるのだろうか。先住者か箱の大きさか?

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ジョウビタキ(常鶲)

2014年03月18日 | ミニ里山記録

 スズメ目・ツグミ科(ヒタキ科)。これはメス。オスはあざやかなオレンジ色の体色をしている。繁殖期は大陸で、冬は日本で越冬する渡り鳥である。この季節、都会の民家の庭や公園で良く見かける人なっこい鳥である。尾を上下に振る仕草がなかなかかわいい。

 

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高橋和巳の風景 (IX)

2014年03月10日 | 日記

(京大本部旧学生部建物) 

 1969年。京大学園闘争(全共闘運動)は、東大のそれに遅れる事、約1年で始まった。闘争のきっかけは寮問題での総長団交決裂で、1月16日の寮闘争委員会らによる学生部建物の封鎖で本格化した。3月13日には、京大文学部の全館封鎖が行われ、この頃には、吉田地区の多くの学部が、ストライキで封鎖される状態になっていた。

 この運動が高橋の精神に及ぼした正や負の作用については、二年後に著した「わが解体」に詳しく述べられている。高橋の作品は、学園闘争という社会現象と共振することにより輝きを見せた。

   『スターリンを疑い、レーニンを疑うことからやがてはマルクスをも疑うに至るだろう。仏法のためには釈迦をも斬る精神のほかには、しかし期待しうる何があるだろうか。こうした徹底した精神のいとなみは、従来は、表現を通じて文学の中で試みてきたものである。それと同質の精神が青年特有のラディカリズムさで行動に移されようとするとき、それを自己の内面と無縁なものと意識しうる文学精神などというものは、ありえない』(「我が解体」より)


 

  

 この年の4月頃から、高橋和巳は体調不良を訴え、翌年3月には、京大文学部助教授を辞任し、療養のために東京に移り二度と京都に住む事はなかった。その闘病と最期については、たか子が「高橋和巳の思い出」の中で「臨床日記」として書き記している。


(京大附属図書館に並ぶ高橋和巳とたか子の全集)


(以上のシリーズの参考資料として、国文学第23巻1月号 学燈社、高橋和巳全集(河出書房新社1980年)などを利用させていただいた。)

 

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高橋和巳の風景 (VIII)

2014年03月09日 | 日記

 

(京都後二条天皇の北白川御陵)

 1967年。高橋和巳36歳。ほぼ1年勤めた明治大学助教授を辞職し、6月に京大文学部助教授に就任する。和巳を囲む関西の文人や友人を嫌っていた妻のたか子は、この京大赴任に猛反対し、怒って単身でパリに旅立ってしまった。そのために、高橋は引っ越しの荷物造りを、一人でおこなったと言われる。

 京大農学部入り口近くに下宿する。この家は、農学部に入る車道から北部構内に斜めにつづく小道にあった。二階の二室のふすまを外した約十畳の広さで、西側は鬱蒼と樹の繁った後二条天皇の北白川陵が迫る陰気な処であった。食事は近くの生協か付近の飲食店でとり、銭湯は今出川通りを渡った近くの風呂屋を利用した。  10月「我が心は石にあらず」を新潮社から、評論集「新しき長城」を河出出版から刊行。

 

 

 

 

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高橋和巳の風景 (VII)

2014年03月08日 | 日記

 

(京都帝大時代の学生下宿の風景。京大時計台歴史展示室にて。 

 高橋たか子の著書「高橋和巳の思い出」(構想社、1977年初版)は、正直に、和巳との結婚生活を綴ったものである。その中で、和巳は“弱く哀しいあかんたれ”と描かれており、自閉症の狂人であったとまで書かれている。もっとも、たか子によると文学世界で使う「狂人」とは、大いなる尊敬語だそうである。

「どうして別れもせずに十七年間もいっしょにいたのか」と訊ねられるならば、彼女は「私は終始、主人の頭脳の力に、この上もない尊敬の気持ちを持っていたから」と答えるつもりだと言っている。そう、人格にではなく、その頭脳に!たか子も、和巳がそうであったように普通の人ではなく、特異な人であった事は確かだ。文学の世界では、このような組み合わせの男女が、一緒になる事はよくある。

 たか子のその本の中に「一人碁その他」という随筆がある。

以下抜粋。「主人は一人でいるのが好きな人である。よく一人で碁を打っていた。一人で二人分の碁を打つのである。家ではいつも和服を着ていたが、がさっと着崩れた恰好で座り、一時間でも二時間でもひっそりと一人で碁を打っている。その姿は私にはとても象徴的に思えた。…………………鎌倉の家の座敷での一人碁の姿は、いまもそこにあるように記憶になまなましい。自分のもう一人の自分と闘っているという感じではなく、つまり、そういう対立は感じられずに自分が一番対立しないで済むもう一人の自分と遊んでいる感じであった。時々「あ」という小さな声が漏れたりするが、人間がいなくなったみたいに座敷はひっそりしてしまい、碁石のかちりという固い音が間をおいて鳴る」

 この随想には、和巳の活字中毒とテレビ好きについても述べられており、一人碁の共通点として相手に生身の人間がいないという結論が下されている。冷徹な和巳批判には恐れ入るが、たか子の批判は現在の多くの日本人の男性にも、そのまま適用できるようである。

 

 

 

 

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高橋和巳の風景 (VI)

2014年03月07日 | 日記

 

京都清水坂付近の市営駐車場 


  1953年。この年3月に卒業予定が、単位不足で落第。もっとも、この頃、世の中は不況で卒業しても就職口はなく、文学部の学生にとって留年は当たり前の事のようであった。

  この年の5月、高橋和巳は、酒に酔って自動車乗り逃げ事件を友人とおこしている。1953年5月4日付けの京都新聞朝刊(社会面)によると「昨日午後五時十五分ごろ東山区清水坂の市営駐車場に置いてあった神戸の貿易商、オーバティック氏の所有する小型モーリス青色乗用車を、三上和夫と高橋和巳が盗んで三上が運転、乗り逃げした。松原署は管内に一斉手配。五時半ごろ、清水坂から五条通りを西行、さらに大和大路を南行したのち、七条大和大路の大仏前派出所で窃盗現行犯により逮捕された。調べに対して二人は、いばっている外人バイヤーに好感が持てないから盗んだと自供した」と報道されている。結局、吉川幸次郎が、警察から身柄をもらい下げに行ったといわれる。

  その後、二人が処分されたという記録も様子もない。このような事件を、今の学生がおこすと、自動車窃盗、飲酒運転、公務執行妨害などで厳しい刑事罰が科せられ、大学でも退学処分はまのがれない。第三高等学校時代の学生のバーバリズムは、相当のハメ外しでも、京都市民は大目に見ていたそうだが、そのような伝統がまだ残っていたのであろうか?

 この話は、石倉明の随想「高橋和巳と三上和夫と」(「高橋和巳の文学とその世界:梅原猛、小松左京編。阿部出版、1991)でも述べられている。主犯の三上は、後に、この車の持ち主の外国人バイヤーと懇意になり自分の就職まで世話になっている。三上和夫は、高橋と京大文人同好会の仲間であったが、高橋が若くして死んだ2年後に、後を追うようにして胃がんで亡くなった。

  この年9月、岡本和子(高橋たか子)と知り合う。10月父秋光死去。


 

 

 

 

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高橋和巳の風景 (V)

2014年03月06日 | 日記

 

(京都大学文学部東館)


 1952年高橋和巳4回生21歳。吉田内閣が破壊活動防止法を国会に上程したため全国で労働者学生の反対運動がわき起こった。京大文学部の学生自治会も学生大会を開きこの法案に反対して5月1日のメーデーにストライキを打つ事を決議し、当日、学内集会の後に労働者の街頭行進に参加した。これに対して大学当局(服部峻治郎学長)は学生の責任者3名を停学処分にした。

 高橋和巳は、この措置に抗議し文学部の他の学生2名とともに学長室前廊下でハンストに入った。後に発掘された高橋のメモには、「社会が何者かの手によって狂気の領域へと導かれる時代に、弱々しい個人としてなしうる抵抗は、無為かあるいは小さな自己犠牲だけであるだろう」とその動機が書かれている。

結局、ハンストは5日目でドクターストップがかかって終了したが、その間、各学部は次々とストライキを打ち、後に全学ストライキへと発展した。高橋は情念だけの人ではなく行動の人でもあったエピソードである。

 このような活動の一方で、この年の十月には親友の小松左京らとともに発行した「現代文学」に捨子物語を発表するなど活発な文学活動を続けている。

 

(いまも陰鬱な回廊の片隅に学生自治会のボックスがある)

 

 

 

 

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高橋和巳の風景 (IV)

2014年03月05日 | 日記

 

 (京都大学時計台)

   1951年4月、 高橋和巳は、2年間の教養課程を終了し、吉川幸次郎が主催する文学部中国語学科中国文学科に進学した。厳格そうな吉川教授の印象に、怠け者の文学青年を惹き付けるなにかが、あったようだ。11月には京大天皇事件がおこっている。

 この頃、高橋は京大文学研究会に参加し、同人誌に「月光」「淋しい男」など沈鬱な小説を発表している。彼の沈鬱は、後天的な厭世主義や悲観主義によるものではなく、人について生まれて来た事についての、何ものかのようであった。普通の生涯を送ろうとする者には、これに関わる異常に肥大した感性や感覚ほど厄介なものは、ないであろうが、高橋和巳はそれを文学に昇華する才能があった。司馬遼太郎の評論などを読むと、画家ゴッホにもそのような傾向がみられたという。

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高橋和巳の風景(III)

2014年03月03日 | 日記

 

(京大旧教養部の正面入口。木造の門扉はいまもそのまま保存されている)。

授業が始まり十月になって、旧三高の木造の物理学教室で、文学サークルが結成された。最初の集会には、約三十名が集まったが、人数は会を重ねるにつれて減り、結局、高橋を含めて十名ほどになった。このサークルは、最初、京大文人同好会と称していたが、後に京大作家集団と改称された。これは、五号まで作品集を出すが、途中で小松実(左京)などの共産党の学生メンバーが加入し、引き回しを謀ったため解体してしまう。この辺りの話は「小松左京自伝」(小松左京、日本経済新聞社出版:2008年)に詳しく書かれている。高橋和巳は、三号誌に「片隅から」というはじめての小説を発表している。この頃、教養課程で、桑原武夫の授業を受け「文学は人生にとって必要か」というレポート課題が出され、呻吟したといわれる。

 

 

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アセビ(馬酔木)

2014年03月02日 | ミニ里山記録

 

 

漢字で馬酔木と書くのは、これを食すると馬が酔っぱらったようになるから。

口に含んで噛んでみると葉も花もかなり苦い。意識が朦朧とするまで摂食するのは

かなりの根性がいるようだ。

 

 

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高橋和巳の風景(II)

2014年03月01日 | 日記

   高橋和巳が、新制となった京都大学文学部に入学したのは、1949年の7月である。新学期の授業は、9月から始まった。後に、和巳と結婚した高橋たか子によると、この学年は旧制高校からきた男子が圧倒的で、当時は自由人の気風が濃厚であったそうだ。この年は、三鷹事件、下山事件、松川事件などが起こり、戦後社会は混乱していたが、湯川秀樹博士が日本人ではじめてノーベル物理学賞を受賞した年でもある。

   和巳の最初の下宿は、上京区の荒神口の近くで、京都御所の見える屋根裏の三畳間であった。西日の差し込む蒸し暑い部屋で、上の階に通づる階段の下で、いつも小説を書き続けていたと言う。高橋は、食事を切り詰めても、時間の無駄としてアルバイトはしなかったという。

 

  下宿から河原町通りを渡って少し東に歩くと、荒神橋が鴨川にかかっている。この橋の上でおこった荒神橋事件は、高橋の四回生の時で、小説「黄昏の橋」(未完)のモチーフを生んだ。

 

     

   京大の教養過程では、図書館の書棚の本を、アイウエオ順に読破するという荒業を行っている。早い順に並んだアインシュタイン関係の著作を読んで、相対性理論を理解したと言われている。相対論は、一般解説書で読んでも憂鬱にならない人はいない。人間の日常感覚では、決して理解も納得もできない仕組みで、時空が存在するという認識が、高橋和巳の憂鬱文学の背景にあると思える。たか子の随想によると、高橋は世界一般、宇宙一般に絶望していたそうである。なんと深淵なる憂鬱。

 

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