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京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

悪口の解剖学: 筒井康隆老人の非美学

2020年07月31日 | 悪口学

 筒井康隆『老人の美学』新潮新書 8352019

  筒井康隆作品の本質はおおむね「人類への悪口」である。それが乾いたニヒリズムとなって、ときには陽気にときには陰鬱に、浮き沈みしながら漂流している。

筒井の初期のエッセイ集に「暗黒世界のオデッセイ」(星文社 1975年)というのがある。これは、田辺聖子さんとの対談を除いて、ほとんど悪口のオンパレードのような本だ。ここで、この悪口の王者が、悪口の解析をしてくれている。

  ある人がぼくに関して表現した悪意を、ぼくに伝えた友人がいた。

 「筒井のヤロー、って言ってたよ」

  この場合、この友人の意図は、ぼくとその人との仲をより悪くしたかったわけであろうが、ぼくの反感は幾分なりともその友人に向けらてしまうわけである。

  友人Aが自分に、「あの友人Bが君のことでこんな悪口を言ってたよ」と告げ口したとする。Bとは普段仲良くしているので、まさかあいつがと思が、あり得ないことではない。しかし、これは大抵の場合、Aが親切で情報を提供してくれているのではない。まず、Aは、Bを代弁者にして嫌がらせを言っている可能性が大だ。さらに、情報提供者のふりをして、すり寄り、かつBとの関係を悪化させようとする意図があるかもしれない。この手の悪口は、よく経験するが、目的は複合的で狡猾である。

 筒井のある個人に対する最近の悪口は、揚書『老人の美学』の第4章「老人が昔の知人と話したがる理由」に出てくる。このエッセイの要旨は、定年退職後の老人は、昔の職場や仕事上の知人のところに、むやみに出向くべきでないという、常識的な忠告である。

ここに、仁尾一三という、だいぶ前の小説新潮の編集者についての悪口がでてくる。芸術劇場で筒井が白石加代子と朗読劇を共演した楽屋に、突然、仁尾氏があらわれ迷惑したという話しである。その顛末が、ヤケにねちっこく描写されている。

仁尾氏は2010年に亡くなっている。気づかいのある作家なら、エピソードを紹介するにしても、名前は出さないものであろう。しかも、筒井は自分の新人作家の頃に、たいへん仁尾氏の世話になったと書いている。礼儀として名前を出さないのが普通だ。

ここで、筒井が普通でなくなっているのは、きっとこの仁尾氏に昔、忘れられないようなひどい目にあったか、あるいはイヤなことを言われたのだろう。老人になると、不快なエピソード記憶が、カビの生えたメモリー格納庫から、ある日突然、出てくることがある。これを人にしゃべったり書いたりするのは、あまり美的なこととはいえない。

 

追記1) (2020/08/03)

数学者の森毅は「信頼とは悪口の言える関係のことだ。たとえば、友人同士でここにいない別の友人の悪口を言うぐらいのことはよくある。そうした悪口はたとえば本人の耳にも入るものだ。絶対に本人の耳に入らないようようだと、それこそ陰口でいやらしい。そしてその悪口が本人の耳に入っても、友人関係は崩れたりしない。そうした関係が信頼というものである」といっている(『森毅ベストエッセイ集』ー池内紀編 ちくま文庫 筑摩書房 2019)。

筒井と森をとりまく人の質によって、悪口の考え方が違っている。一方は文芸関係者であり、一方はアカデミーの人々であった。

 

追記2) (2020/08/12)

井上泰至は『<悪口>の文学、文学者の<悪口>』(新典社新書 3、2008)で江戸時代の作家(芭蕉、西鶴、近松、蕪村、一茶、上田秋成らが発した悪口の読解を行っている。井上によると、文学者の悪口はけっこう多いそうである。文学には個性が要求され、こだわりをもつ作家は、いきおい悪口が多くなる。おまけに語彙が比較的豊富なので不自由しない。文学者の悪口がその作家の文学の本質とかかわっているとも言っている。

 

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悪口の解剖学:昨日の友は今日の敵

2020年07月30日 | 悪口学

ブライアン・サイクス『イブの七人の娘たち』大野晶子訳 ソニー・マガジン 2001

   科学研究者は、同じ目標に向かって、お互いに仲良く協力しあっているものかと思うのであるが、そのようなケースはむしろまれである。たいていは、商売敵として反目し合っている。この世界では2番手や3番手では意味がなく、一番であることが大事だ。いつもライバルに出し抜かれないかと注意してなければならない。そういったストレスが、相手への敵愾心と闘争心を高めることになる。これは、あらゆる学問分野でみられる傾向である。

ジャナン・レヴィンがドキュメント『重力波は歌う』(田沢恭子, 松井 信彦訳、早川書房 2016)において、物理学者のジョセフ・ウェーバとリチャード・ガーウインとが、重力波の有無をめぐって、MITの会議場で殴り合いになりかけたエピソードを書いている。敵対するマフィアでも、人前では紳士的にふるまっているというのに。

ライバル同士だけでなく、一度、共同研究をしたことのある教授と弟子、しかもその弟子が女性の場合は、相克はたいへん深刻なものになる。その例がブライアン・サイクス(Bryan Sykes, 1947~ )とエリカ・ハーゲルのケースである。ブライアン・サイクスは、イギリスの分子人類学者にしてオックスフォード大学分子医学研究所遺伝学教授である。1989年、『ネイチャー』誌で古代人骨からDNA型鑑定が可能であることを明らかにし、アイスマンのミトコンドリアDNAを解析したり、帝政ロシア・ロマノフ王朝の子孫と称する人のDNA型鑑定、イギリス人の姓とY染色体ハプログループの関係についても研究を行った。エリカ・ハーゲルは1980年代にサイクスの最初の助手になった女性研究者である。彼女は生化学の学位を持っており、DNA分析に関しては優秀な技量をそなえていたという。

サイクスの書によると、「エリカがわたしたちの研究所で過ごした最後の日々、われわれ二人のあいだに亀裂は広がるばかりでだった。それをなんとか修復しようとお互いに試みたことが何度かあったものの、彼女とわたしはあれ以来、ぎこちない関係のままだった。その緊張が、それからくりひろげられようとしていたドラマに特別な一面を加えることになる」と述べている。

要するに同じ職場の男性上司と女性の部下の間になんらかの深刻なトラブルが生じた。エリカは別のグループに移り、しばらくして、意趣返しするように、サイクスの学説を覆す内容の論文を発表した。

すったもんだしたあげく、結局、サイクスはエリカのデーターが間違いであることを自白させる。この著はそのドラマをなまなましく追っている。有名な学者が、これほどある個人との関係をさらけ出して、科学論争の顛末で述べるのはめずらしい。

 

 

 

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悪口の解剖学:小説的虚構の論文不正

2020年07月28日 | 悪口学

神里達博『リスクの正体-研究不正—事実と虚構の壁が溶けたか』岩波新書1836 2020

このエッセーはユニークな研究不正考である。一章をとって問題にしたのは、東洋英和女学院の元院長F氏の不正論文事件であった。

F氏の著作に重大な疑義があるとされ、同女学院が調査委員会をつくった。その結果、著書と論考に、他人の論文の盗用と内容の捏造があることが明らかになった。具体的には著書は『ヴァイマールの聖なる政治的精神-ドイツ・ナショナリズムとプロテスタンティズム』(岩波書店、2012 年 196-199 頁)で、論考は「エルンスト・トレルチの家計簿」(『図書』岩波書店、2015 年 8 月号 20-25 頁)であった。研究と発表は、同学院でのものではなく別の大学に在職中に行われたものであった。

盗用はよくある話しだが、引用文献や資料の捏造はめったにない。科学論文でいうと、データーの捏造に該当する行為である(ただ、調べればすぐウソが判明するのだが)。学長は 2019 年 3 月 で、本件にかかわる著書及び論考の出版社に対し、書籍の回収、論考についての訂正・お詫びの掲載の措置を求める勧告を行なった。そして、2019 年 5 月 の臨時理事会でF教授の懲戒解雇処分を決定した。

盗用は10ヶ所もあるので、ウッカリではすまされない話しだが、ボケてましたとかいえる。しかし、捏造はまったく言い逃れができない。F氏は多数の著書、翻訳書を刊行し、学術受賞も多い実力者である。どうして、こんな馬鹿げた事をしたのであろうか?

掲書の著者は谷崎潤一郎の小説『春琴抄』を援用して、F氏が「実はあの本はある種の小説だったのです。新しい文学表現の実験でした」と弁明していたのではないかと述べている。無論、一種の諧謔であるが、これによって、このエッセイが単なる不正事件の報告に終わらず、気の利いた文化悪口になっている。

 

 

 

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悪口の解剖学:牧野富太郎おおいに怒る!

2020年07月22日 | 悪口学

牧野富太郎 『植物一日一題』ちくま学芸文庫 筑摩書房 2019

(牧野富太郎)

「日本の植物学の父」といわれる牧野富太郎(1862年 - 1957年)が、植物についての和漢の蘊蓄と見識とでまとめたエッセイ集である。ほとんどが、日本の植物を話題にしているが、二題の例外がある。一つは「小野蘭山先生の髑髏」で、もう一つは「二十四歳のシーボルト画像」と題する短編である。ここには、白井光太郎への露骨な悪口が書かれている。白井は牧野とほぼ同じ頃の生まれで、東京帝国大学理科大学を卒業、ドイツに留学して植物病理学を研究、東京帝国大学農科大学に世界初となる植物病理学講座を新設し、これの担当教授になった。1920年に日本植物病理学会を設立、初代会長に就任している。牧野は白井の何を問題にしたのか。その部分を抜粋して紹介する。

 「理学博士白井光太郎君の著『日本博物学年表』の口絵に出てくるシーボルトの肖像画は、もと私の所有であったが、今からずつと以前明治三十五、六年の時分でもあったろうか、私は白井君のこの如きものの嗜好癖を思い遣ってこれを同君に進呈した。この肖像は彩色を施した全身画で、白井君の記しているように二十四歳で文政九年 (1826)東都に来たときの写生肖像絵で、これは『本草図譜』の著者、灌園岩崎常正の描いたものである。そして私は当時これを本郷区東京大学近くの群庶軒書店から購求したもので、同書店ではこれを岩崎家の遺族から買い入れたものである。白井君はこの肖像の上半分だけを同氏著書、すなわち『贈訂日本博物年表』(明治四十一年)に掲げているが、それを私から得た由来はかって一度も書いたことなく、またいささかも謝意を表したこともなかったので、今ここにそれを私から白井氏に渡した顛末を叙して、その肖像画の由来を明らかにしておく。なおこのほかに灌園の筆で美濃半紙へ着色で描いた小金井桜等の景色画二、三枚も併せて白井君に進呈しておいたが、それらの画は今どこへ行っているのだろう。また小野蘭山自筆の掛軸一個も気前良く進呈しておいた』(以下略)

「シーボルトの肖像画」とは、江戸参府に随行したシーボルトを岩崎常正が写生したもので、シーボルトの紹介と服装の説明がされている(下図)。左上に目のスケッチが挿入された面白い絵であるが、現在は国立国会図書館蔵となっている。この貴重な歴史的資料の絵を、高額で牧野が手に入れた。牧野の郷里の酒屋がつぶれる前で、比較的裕福なころの話しであろう。それを、白井にやったのに、資料として出した著書に何のコメントもないのは、不義理なことだと非難している。

牧野と白井は、学科は違うとはいえ、おなじ帝国大学の講師と教授の身分である。実名入りで内容もあまりに露骨すぎるし、白井君と呼び捨てにしているのも、気になる(もっとも白井は牧野が東京帝国大学植物学科で教えた学生の一人であったが)。調べてみると、これが書かれたは1946年(昭和21年)で、出版されたのは昭和28年となっている。白井光太郎は1932年に、すでに亡くなっていたのだ。牧野は、こころおきなく悪口が言えたわけだ。

 

(岩崎常正画 シーボルト肖像)

 牧野富太郎は高知県高岡郡佐川町に生まれた。生家は雑貨業と酒造業を営む裕福な商家(「岸屋」)で、幼少のころから植物に興味を示していた。3歳で父を、5歳で母を、6歳で祖父を亡くし、その後、気丈な祖母に育てられた。10歳より土居謙護の教える寺子屋へ通い、11歳で郷校である名教館に入り儒学者伊藤蘭林に学んだ。19歳の時、第2回内国勧業博覧会見物と書籍や顕微鏡購入を目的に、初めて上京した。東京では博物学者の田中芳男と小野職怒の元を訪ね、最新の植物学の話を聞いたり植物園を見学したりした。22歳の時に再び上京し、そこで東京帝国大学理学部植物学教室の矢田部良吉教授を訪ねる。そして、同教室に出入りして文献・資料などの使用を許可された。26歳で『日本植物志図篇』の刊行を自費で始めた。自ら印刷技術を学び、絵も自分で描いた。牧野は多くの新種植物を発見するなどして、それを次々と発表した。しかし、周囲の人にたいして気を使わない性格も災いして矢田部教授らの反感をかい、教室の出入りを禁止されたりした。その後、31歳で、矢田部退任後(大学内の権力争いで罷免)に主任教授となった松村任三に呼び戻される形で助手となった。その頃には生家は完全に没落しており、研究に必要な資金にも生活費にも事欠いていた。それでも研究のために必要と思った書籍は高価なものでも全て購入するなどしていたため、多額の借金をつくり一家は困窮した。

『東京帝国大学理学部植物学教室沿革』(昭和十五年小倉謙編東京帝国大学理学部植物学教室発行)で、牧野の東大植物学教室での処遇の変遷を追うことができる。

明治26年9月11日帝国大学理学大学植物学教室の職員録に、「牧野富太郎任帝国大学理科助手」とある。以降、明治43年3月に「休職ヲ命ズ」となるまで、長い間、助手を勤めている。この「沿革」には毎年、教員や生徒の名前や状況が記録されている。たとえば明治30年度に於ける植物学教室においては、松村任三教授、三好学教授が、それぞれ第一・第二講座を担任し、松村教授は第一年生徒の植物識別、第二年生徒の植物分類学、三好教授は第一年の普通植物学、第二年の植物解剖及び生理学実験、第三年の植物生理学を受け持った。助手は牧野富太郎の外に、藤井健次郎、大渡忠太郎であった。当時、動植第一学年に、宇野太郎、谷津直秀、矢部吉田禎、齋藤賢道などの秀抜が在籍した。

 明治43年には嘱託となるが、大正元年服部広太郎、早田文蔵とともに講師に任ぜられるとある。ここには教員の担当授業や実習が、こまかく記載されているが、「牧野講師ハ受持チナカリケリ」とされている。しかも、この記載が、毎年度、何回も繰り返されている。助手は学生の教育義務は課されていないが、講師には当然それがあった。その当時の植物学教室における牧野の行動と評価をかいまみる思いがする。一方で、大正4年には「牧野富太郎主幹(植物学研究)雑誌創刊」とあり、研究実績においては面目躍如といったところがある。牧野は昭和14年に辞表を提出し退職する77歳まで、その職にあった。講師は教授のように定年はなく、1年ごとの雇用更新だったそうだ。それまで誰も勇退を勧められなかったのは、牧野の博識が頼りにされていたからである(ただ辞任時にも大学との間で一悶着あったという)。退職後も、在職中と変わりなく植物の研究に没頭した。牧野は、各地で後学にたいして植物の観察や分類法を指導し、さらに多くの著書を残した。そして昭和32年、東京で94歳に及ぶ生涯を閉じた。牧野の人生は、まことに幸せなものであったといえる。写真の顔にもそれが表れている。

参考図書

高知新聞社編 『Makino』北降館 2014

コロナ・ブックス編集部 『牧野富太郎』平凡社 2017

 

明治三十一年秋。東大理科植物学教室実習室における三好教授と学生(谷津直秀、斎藤賢道、矢部吉禎)

    植物園前の学生たち。真ん中足を組んでいるのは斎藤賢道。

 

 

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医者の効用とは何か?

2020年07月16日 | 環境と健康

  ウイリアム・オスラー (William Osler: 1849-1919)はイギリスの生んだ偉大な医科学者である。生存中にジョンズ・ホプキンズ医科大学教授、後にオクスフォード大学の内科欽定教授をつとめた。

(William Osler)

オスラーには、いくつか名言があるが、次の言葉を憶えておくと、あなたはいつか裨益されるでしょう。

 

『神への祈りが一人の患者を治し、小さな丸薬への信仰がいま一人を治し、さらに催眠術的治療が三人目を、そして医者への信頼が四人目を治癒する』

 そうすると、一人の病人が神に祈り、プラシーボ薬を信じ、プラシーボ治療を疑わず、さらに自分の医者を名医と信頼することにより、病気が治る可能性は4倍になるということだ。

 ともかくオスラーの時代には、ベッドサイドマナーが医師として最高の資産であるとみなされていた。ところが、最近の医者は病院で患者の方を見ずにパソコンの画面ばかりみているらしい。これは、友人の京大名誉教授の一人が京大病院で診てもらったときの感想を聞き伝えたものである。今や、医者の信頼によって治癒するという雰囲気になっていないようだ。

 

 

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フレミングのペニシリン発見の奇跡的背景

2020年07月15日 | 環境と健康

 教科書に載るような科学的大発見は、後になってあたりまえのように思うことが多いが、数々の条件がたまたま幸運にも重なって偶然なさたことがしばしばある。その典型的な例が、アレキサンダー・フレミング (1881-1955)によるペニシリンの発見 (1929)である。

 

(アレキサンダー・フレミング)

  20世紀における人類の大発明・発見には原子力、コンピューター、遺伝子組み換え技術などがあげられるが、人間の健康にかかわるものとしてはペニシリンの発見に勝るものはない。今までに、おそらく数千万人以上の命が、これによって救われたのではないだろうか。

フレミングは、そのするどい観察眼によって、プレートに混入したアオカビが菌を殺す物質を出していると見ぬいたが、その発見の背景には信じられないほどの偶然の重なりがあった。

 アレック・フレミングはスコットランドの農家で八人兄弟の七番目の子として生まれた。十三歳のときにロンドンに出て、事務職補の職につき、後にスコットランド連隊に入ったが、遺産が入ったこともあって、セトメリー病院付属医科大学に入学し医師となった。卒業後は、同病院の予防接種部門の助手として採用され、以降49年間にわたり、そこで勤務を続けた。

 フレミングの最初の重要な発見は、リゾチームであった。フレミングが風邪をひいたとき、自分の鼻汁をとりプレートで培養した。そうすると、鼻汁の周りの菌のコロニーが溶けて透明になった。後に、この要因がリゾチームという細菌の細胞壁を溶解する酵素タンパク質であることがわかった(いまでは目薬などに使われている)。ただ、これはどの細菌にでも通用する現象ではなくて、たまたま、そのときにプレートに飛び込んできたのがリゾチームに溶解する特殊な細菌だったので観られた現象であった。

 

 1928年になって、フレミングはあるハンドブックにブドウ状球菌の章を担当するように依頼された。そこで引用した参考文献に、この菌を扱ったものがあり、その結果に興味をもったフレミングは、その菌株を取り寄せて追試実験することにした。

フレミングは細菌の培養皿をたくさん作り、それを実験台の上に、いつまでも放置したままにする悪いクセがあった。このときも、やはりプレートを片付けずに放置したまま、夏の休暇に出かけ、帰ってからそれらを観察した。すると、空中から混入してきたアオカビがプレートに生えており、不思議なことにその周りのブドウ状球菌が溶けていた。

 フレミングは、最初、リゾチームがこの現象の原因ではないかと考えたが、活性物質がアルコールに溶けることなどからそうでないことが判った。彼はペニシリンの同定を試みたが、うまくいかず、結局、十年後にハワード・プーリー、エルンスト・チェーンの二人がペニシリンを精製し、抗生物質として実用化した。1945年にはフレミング、フローリー、チェーンの3人でノーベル医学生理学賞を共同受賞した。

 アオカビの抗菌作用は、機会さえあれば誰でも観察できるありふれた現象で、注意力のあったフレミングがたまたま最初に発見したとされている。しかし「機会さえあれば誰でも観察できるありふれた現象だった」というのは、まったくの間違いである。

フレミングがアオカビのペニシリン発見後、ロナルド・ヘアが追試実験をおこなった。培養皿を作り、ブドウ状球菌をうえ、それからフレミングのカビを追加接種した。ところがカビは全然、無力で再現性がなかった。何が違っていたのか?

フレミングが観察した透明な溶菌プラークを形成させるのには、ブドウ球菌を植える前に、カビを先に植え付けなければならなかったのである。しかもカビが増殖するためには、比較的低温である必要があった。フレミングが観察した時期は夏期であったが、たまたま気温が低くカビが生え、しかも幸運なことに、その後、気温があがってブドウ状球菌が増殖した。

 さらに、このアオカビがどこからやってきたのが問題になる。このカビは特殊なペニシリウム科のもので、その辺に普通にいるものではなかった。この頃、たまたまフレミングの実験室の下の部屋で、アイルランド人の菌学者ラ・トウシュが、アオカビを使って研究を続けていた。当時の英国のお粗末な実験施設には除菌フィルターなどがなかったので、その胞子が階上に流れてきて、これがフレミングの培養プレートに入り込んだのである。

このようなペニシリンの発見までのシークエンスを列挙すると以下のようになる。

1)ハンドブックのブドウ状球菌の章をフレミングが担当したこと。

2)その過程でフレミングが追試したくなるような論文に目をとめたこと。

3)菌類学者のラ・トウシュが研究所にやってきて、その実験室がフレミングの真下だったこと。

4)フレミングが培養皿を保温器に入れ忘れこと。

5)カビが培養基に混入したころ、気温が異常に低下したこと。その後気温が上昇しブドウ状球菌が増殖できたこと。

6)プライスが来たので、フレミングが一度捨てた培養皿をもう一度見直したこと。

これらの連鎖の一つでも欠けていたら、その時のフレミングによるペニシリンの発見はなかった。これ以外にも、フレミングがセントメリー医科大学にこなかったらとか、そもそも生まれていなかったらとか、上司がオルムロス・ライトでなかったら、などの組み合わせも考えると、この1929年の出来事は奇跡にちかい確率でおこったといえる。

 フレミングがペニシリンを発見していなければ、一体いつ誰がそれを行っていたであろうか?5年後、10年後、いや50年後か?いづれにせよ、第2次大戦で負傷しペニシリンで救われた何十万という兵士の命が失われていたことは確かだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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絶望的状況を意志の力で生きのびた人々の記録: あるイタリア人の生還

2020年07月14日 | 絶望的状況を意志の力で生きのびた人々の記録

        

 英国は第二次大戦中、チャーチル首相に率いられた民主国家で、何事もジェントルマンで合理的かつ理性的にふるまっていたかというと、決してそうではなかった。戦争が勃発するや、国内に居住するすべてのドイツ人を無理やり拘束した。1940年にイタリアが参戦すると、やはり「国内のイタリア人全員に首輪を付けよ」というチャーチルの号令がだされた。これらのドイツ人やイタリア人の大部分は、反ナチ、反ファシズムの善良な市民であったのにもかかわらずである。要するに、太平洋戦争でアメリカ合衆国に居住する日系アメリカ人が、強制キャンプ場に収容されたのと同じような理不尽なことがおこなわれていた。

 収容されたイタリア人は、アマンド・スターという客船にのせられてリバプールからマン島に運ばれることになった。マン島は、グレートブリテン島とアイルランド島に囲まれたアイリッシュ海の中央に位置している辺鄙な島である。船に乗り込む前に、彼らの所持品はほとんど没収され、ごく少しのものしか携行を許されなかった。山積みされた没収品を、警官を含んだ雑多な人間がよってたかって横領した。この哀れなイタリア人の中に、BBCで働いていたダンテ研究家のウベルト・リメターンが含まれていた。

船には護衛の軍艦はついていなかったので、出航してまもなく、ドイツのUボートの魚雷によって沈没することになるが、そのときリメターンは「生きんとする強烈な意志力」で九死に一生を得ることになる。

 爆発がおこって船内は停電した。リメターンは決断を下す前に、必ずしばらく熟考した。同室の3名の乗客はパニックになってたちまち部屋を飛び出したが、リメターンは、冷静にも暗闇の中で壁にかかっている救命具をみつけて身につけた。甲板に上がると、ここでも人々はパニックになって動きまわっていた。彼は縄梯子をみつけて傾いた下甲板に降り、タイミングをはかって海に飛び込んだ。最初にしたことは、浮かんでいる漂流物を見つけてそこに泳ぎつくことであった。そして沈没する船に巻き込まれないように、いそいで離れた。船は急速に沈みはじめボイラーが爆発して、まわりの物も人も吹っ飛んだ。いたるところに漂流物と死体がただよっていた。約1時間半ほどして、2Kmも先に救命ボートの影をみつけたので、木片にすがりついてそれに向って泳いだ。「難破せし船の舳先を波が押し沈めるがごと」というアレサンドロ・マンゾーニの詩を何度も暗唱しながら、必死に泳ぎつづけた。そして、力尽きる寸前にリメターンは救命ボートにたどり着き助け上げられた。このエピソードは、マックス・ペルツというノーベル化学賞受賞者の著『科学はいま』(共立出版 1991)に載せられている。

 危機のときは瞬間の判断が生死を左右するというが、むしろしばらく熟考したほうが、生き残る確率は高いという教訓である。

 

 

 

 

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司馬遼太郎の『アメリカ素描』を読む: 多様性は力である

2020年07月08日 | 文化

司馬遼太郎 『アメリカ素描』新潮文庫 1986

(ニューヨークからボストンに向かう途中の司馬夫妻:同書より引用転載)

 

この書は文明論の本であるが、「多様性は力である」というフレーズが何度も繰り返される。

司馬遼太郎によるとアメリカ(The States)とは「文明という人工でできた国」である。群れで生活する人間には文明と文化が必要である。文明は普遍的で合理的で機能的なものであり、文化は特定の集団にのみ通用する不合理なものである(庵主考:文化は古びた文明ともいえる。不合理なものが最初から集団に定着するわけがなく、時代がたつにつれて合理的なものから形式的なものに変遷した)。

この本にはアメリカの歴史的な主流であるワスプ(英国由来白人)はあまり登場しない。むしろ中国系、韓国系、日系、アイリッシュ、イタリアンそれにベトナム系のアメリカ人の話しが、えんえんと続く。文明というものは多様な民族の中で醸成されるもののようである(オデンのようにそれぞれ固有の形と味を残したまま一つの鍋の中にいると表現している)。ただ必要条件としてはそれらの多民族を収容し、食わせ飲ませるだけの生産力をそなえていなければならない。

 

その歴史的な例として、司馬遼太郎は中国文明の興隆をあげて説明する。

中国文明は歴史的に、生業を異にする多様な民族がその都市国家の内外にびっしりといた。その異民族から様々な文明をまなび吸収した。殷周のころには、西方の姜から牧畜や食肉を、戦国のころには、匈奴から騎射やズボン、長靴を学んだ。他方、長江流域の荊蛮からは米作を学んだ。さらに華南の越という野蛮人から青銅文化、インドやペルシャから武術、曲芸、仏教という形而上学を学んだ。

清国の時代になって満州族のためにモノカルチャーとなり、西欧列強に屈したが、近代になって共産党の支配下で欧米の文明や技術を引き込み、ある分野ではその先端を走っている。

司馬遼太郎は日本の文明についても語る。

「文明は大陸の多民族国家でおこるものだから、孤島にすむ日本人はそれをみずから興す力がなかった。日本人は受容者にあまんじたが、ただ追随しただけではなく、それに創意工夫を加味して独自の文明と文化を作りあげた」と。

 最近になって”司馬史観”の批判本があいついで出されている。正すべき点は正すのは良いとしても、この傾向には、思想的かつ組織的な背景があるように感ずる。司馬遼太郎は戦前の軍国主義者を「狐に酒を飲ませて馬に乗せたような連中だった」とこきおろしたが、その遺伝子を持った細菌が再びあちこちで湧きはじめたようである。

 

(司馬遼太郎がみたマジソン街の聖パトリック教会:同書より引用転載)

 

 

 

 

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イカの陰陽逃避戦術

2020年07月06日 | ミニ里山記録

自然はすべからく、陰陽の組み合わせでできているが、イカは捕食者から逃げるのに陰と陽の二様のやり方を使う。

「陰」は明るい場所での墨(スミ)放出である(写真1)。これは煙幕として利用される。イカ墨(イカすみ)は、イカが水中に排出する粘性の高い黒褐色の液体である。捕食者から逃れるために使われる。イカ墨の色素の主成分はメラニンで、高級食材として利用される。

(ブログ「屋久島の海で生きる者たち」より引用転載)

 

「陽」の戦術は暗い深海などで目くらましとして発光液を放出する。これは、ヘテロティウチス・ディスパーというイカで最初に観察された。このイカは、イタリア半島とシシリー島の間のメッシナ海峡に生息する。日本の近海に生息するギンオビイカ(写真2)も、敵に襲われたときに、発光液をおとりにしてすばやく逃げ去る。ギンオビイカは餌にしているトゲオキヒオドシエビのつくる発光液を体内にためこみ、必要なときに海中に放出しているそうだ。

(ブログ「ギンオビイカ 深海生物紹介」より引用転載)

 

参考文献

羽根田弥太 『発光生物の話』北隆館 1983

 

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セマダラコガネ(背斑黄金虫)

2020年07月05日 | ミニ里山記録

黄金虫わが門に来て息絶えし 大山妙子

 

セマダラコガネ:Anomala orientalis (Waterhouse)

まだら模様の小さなコガネムシ。体色には変異があり、全身が黒色のものもいる。大きめの触角をアンテナのように広げていることが多い。ホトトギスの葉の上にいた。

 

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ミツバチに刺されると健康になる?

2020年07月04日 | 環境と健康

 

 

 ミツバチを飼っていると、年に2~3回は刺される。刺されると、しばらく痛カユいが、我慢していると2~3時間で治まる。ミツバチの毒液は、化学的カクテルで、その中にアパシンという成分が含まれている。これはカルシウム依存性カリウムチャンネルを遮断して、ニューロンにインパルス(活動電位)を発射しやすくさせる働きを持つ。大量に投与されると痙攣を引き起こすが、少量ではドーパミン作動性ニューロンの受容体を刺激して心地よい興奮を生ずる。

蜂針療法ではミツバチの針を刺して少量の毒液を皮膚に注入し、身体の痛みや肩こりを軽減する。一種の代替医療である。

 クリスティー・ウィルコックスの著には、ミツバチに刺されて、難病のライム病が治癒した女性科学者の話しが紹介されている。この有効成分はメリチンというタンパク質らしい。このメリチンは、HIV(AIDSウィルス)を破壊するという報告もある。さらに、ミツバチの毒液の別の成分の一つ(phospholipase A2)も、HIVを殺すことが報告されている。

 ほかにも顔のシミをとる成分や、多発性硬化症を改善する成分もミツバチの毒液は含んでいる。毒は薬というが、組合わせによって不思議な作用を示す生体有機化合物を自然は造ってくれた。

 

参考文献

クリスティー・ウィルコックス 『毒々生物の奇妙な進化』(垂雄二訳)文春文庫, 2020

David Fenardet et al., (2001) A peptide derived from bee venom-secreted  phospholipase A2 inhibits replication of T-cell tropic HIV-1strains via interaction with CXCR4chemokin receptor. Molec. Pharmacol. 60, 341-47.

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オランダでCOVID-19のミンクからヒトへの感染

2020年07月01日 | 環境と健康

 オランダで20年4月以降、毛皮用のミンクを飼育する17の農場で、ミンクが新型コロナウイルスに感染し、さらにミンク農場の従業員がミンクから感染した可能性が問題になっている。このために、いままでに50万匹以上が殺処分されている(資料参照)。

COVID-19感染に関しては、人が飼育している動物からの最初の例ではないだろうか。おそらく、どこかでヒトからミンクに感染し、それがゲージの中で一挙に拡大したものが、飼育員に感染した可能性が高い。ミンク間で感染している間に、強毒性の別種のウィルスに変異する可能性があり、危険な状態である。

デンマークでも、2つのミンク農場で新型コロナウイルス感染が発覚した。1つの農場では、1万1000匹が殺処分され、他の農場でも感染の有無を確かめるべく、検体を採取する予定である。ヨーロッパでは以前から、ミンク農場の飼育環境は“非人間的”であるという非難があり、毛皮産業は、段階的に廃止へされる方向にあったが、COVID-19の感染拡大が、これに拍車をかけている。

ファー( fur)・ヨーロッパ (ヨーロッパ毛皮組合)の広報担当者ミック・マドセン氏は、ミンクが新型コロナウイルスを広めているわけではないと主張し、「オランダとデンマーク以外ではバイオセキュリティー対策が機能している。ミンク農場に新型コロナウイルス拡大の責任はない。ウイルスを広めているのは人間だ」と述べているそうだ。

これは確かに、そのとうりで、立場が逆ならヒトが殺処分される運命にある。ミンクに我々が殺される道理はないように、ミンクもヒトに殺される道理は本来ないはずだ。大量にミンクを飼育し、毛皮をとって楽しもうという“間(動物)的”な根性がそもそもよくない。

 

参考資料ナショナルジオグラフフィツク(新型コロナウイルスが廃止早める-オランダのミンク産業)https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/062600384/?n_cid=nbpnng_mled_html&xadid=10005

追記1)ペットの犬や猫が感染することは、昨年3月段階で中国(香港)で報告されている。猫では実験的に感染を確かめている。陰性化は早いらし。ペットで増殖した変異ウィルスがまたヒトに伝染する可能性がある。このサイクルを遮断しないと伝播が防止できない可能性があるので、注意が必要である。日本では犬も猫もそれぞれ1000万匹がペットとして飼われ、ほとんどが屋内でヒトと濃厚接触してくらしている。 (水谷哲也「新型コロナ越入門」東京化学同人 2020)

 

追記(2020/01/16)national geo.『ゴリラが新型コロナに感染、人間以外の動物で7番目—霊長類は特に感染のリスクが高い』(2021.01.14)https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/21/011400018/?P=1霊長類にもCovid-19は感染しており、危惧されている。

 

 

 

 

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