京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

明仁上皇によるシーボルトの『日本動物学誌』研究

2024年01月27日 | 日記

明仁上皇によるシーボルトの『日本動物誌』研究

 コナン・ドイルのシャーロック・ホームズシリーズには手紙や印刷物を手掛かりに事件や犯人を推理する物語がいくつもある。長編「バスカヴィル家の犬」では、古文書に記された筆記体の特徴から、その制作年代を当てるエピソードが出てくる。こういったホームズ張りの推理力を発揮し、学術文献のインク跡を手掛かりに、ある魚の学名を決定した著名な日本の魚類学者がいる。その人は明仁上皇で、問題の魚はハゼ科のウロハゼ、文献はシーボルト編纂の『ファウナ・ヤポニカ(日本動物誌)』であった。上皇がまだ親王の頃、この話に関する論文が日本魚類学雑誌(1966)に掲載されているので紹介する。

 

 

                                   図1. ウロハゼ(Web魚類図鑑より転載)

 海辺で釣れるハゼはマハゼ(真鯊)が多いが、まれに横幅のあるずんぐりしたウロハゼが釣れる。岩の隙間や穴などに隠れる習性からウロハゼと呼ばれるが、舌の先端の切れ込みや頭頂部から背びれにかけての黒斑が特徴である(図1)。マハゼと同様に天ぷらにして食すると美味しい。日本、台湾、中国沿岸、南はトンキン湾にかけて分布しており、国内では新潟、茨城を北限とし九州に分布している。「ハゼ」は、スズキ目ハゼ亜目に分類されている魚の総称で、世界には約2000種以上、日本だけでも約600種類が生息する。これだけ種類が多いと分類する方にも混乱が生ずるのが常であるが、ウロハゼについても例外ではなかった。

 生物の命名法において、同一物と見なされる種につけられた学名が複数ある場合に、それぞれをシノニム(synonym)というが、上皇の論文が発表された当時、和名ウロハゼのシノニムとしては以下の4つが考えられていた。、<Gobius brunneus TEMMINCK&SCHLEGEL 1845>、<Gobius olivaceus TEMMINCK&SCHLEGEL 1845>および<Gobius fasciato-punctatus RICHARDSON 1845>である。国際動物命名規約によると、学名の優先権は、基準を満たした記載を条件として時間的に早い発表にある。データーベースもなく文献の検索も不自由な時代であったので、複数の研究者がウロハゼに別々の学名をつけていたのである。一体、いずれに学名の優先権があるのか?

 上皇は、これらのシノニムを一つ一つ綿密に検討された。まず、Gobius brunneusはファウナ・ヤポニカに掲載されたものであるが (図版74-2、142頁)、タイプ標本の厳密な検査から、これはウロハゼではなくヨシノボリとする研究報告があり除外できるとされた。次に、Gobius giurisについては、もともとフタゴハゼに付けられた学名であったので、これとウロハゼが同種あるいは亜種の関係かどうかが問題となった。そこで上皇は、この2つの魚の複数個体について形態的な比較をされて、いくつかの点で異なっていること、さらに同じ地域に生息することなどより、これらがそれぞれ異なる特定の種と判定された。このことから、フタゴハゼの種名giurisをウロハゼに使用することは不適となった。次にGobius olivaceusは、brunneusと同じくファウナ・ヤポニカに掲載されたものであるが (図版74-3、143頁)、そのタイプ標本はライデン博物館に存在せず、川原慶賀が描いた細密な写生図が残されていた。この図を仔細に観ると、頭部や背中の黒斑や、その他の形態は明らかにウロハゼを表していた。この事実はGobius olivaceusはウロハゼの学名として成立用件を備えていることを示していることになる。標本が無いのにスケッチを基準にするのは、不思議な気がするが、分類学では信頼できる図があれば、これをiconotypeとして標本の代わりすることが認められている。そして、最後のGobius fasciato-punctatusであるが、これもJ.Richardson著のIchythology-PartIII(1845)に、その図が掲載されており、それは明らかにウロハゼと認定できるものであった。

 かくしてウロハゼの学名としては、規約上、Gobius olivaceuとGobius fasciato-punctatusのいずれにも資格があることになるが、どちらが先に発表されたが問題となった。前に述べたように早い記載に先取権があるからだ。RichardsonのIchythology-PartIIIは、表紙に1845年10月出版となっており、命名規約に従い発行日付は月末の10月31日とされた。一方、Gobius olivaceuはファウナ・ヤポニカ魚類編の143頁に記載されているものであるが、これの発表月日の判定は、やっかいな問題があった。ファウナ・ヤポニカ魚類編は1842年から1850年にかけて分冊の形でバラバラに出版されたが、後に分冊は全て図版とテキストに分けて解体され、一冊にまとめられている。分冊では図版の次にテキストが綴じらえていたが、合本ではテキストの後に図版がまとめられた。分冊の表紙も最後にまとめて綴じられているが、どれにも出版の日付けは記載されていない。すなわち143頁が、どの分冊に収められていたのか、いつ発行されたのか全く判らなくなっていたのである。

 一方で、書誌学的な研究により、第7-9分冊は113-179頁をカバーしていること、第7、8 分冊は1845年10月11日に発行されたこと、また第9分冊は1846年5月1日に発行されたことがわかっていた。この事から上皇は、第8分冊と第9分冊のテキストの境目が判明すれば、143頁がどちらに入るかが決まるので問題が解決すると考えられた。もし第7、8 分冊に入っておれば、規約上10月11日がウロハゼの学名命名日となり、10月31日発行のIchythologyに記載されたfasciato-punctatusより優先権があるということになる。門外漢にとっては、ウロハゼの学名が、いつ頃、誰に付けられようとどうでもよい事かも知れないが、一つの標本を新種として確定するのに、論文作成を含めて数年もかかる分類学者にとってはきわめて大切な事なのである。

 どのようにしたら、その境目を見つけることができるのだろうか?ここで、いよいよ上皇陛下はホームズ張りの観察力と推理力を発揮される事になる。上皇は、日本の図書館や大学に保存されているファウナ・ヤポニカ魚類編の初版本を何セットも調査された。そして、学習院本で一連の図版62-93のうちの最後の図版93の裏に次頁のインクが転写していることを発見された。科学警察研究所で画像解析すると、それは153頁のテキストインクの転写であることが判明したのである。このことは、これらの図版とテキスト153-179頁が第9分冊として纏められていたことを示している。すなわち、第8分冊と第9分冊の境目は152-153頁にあったということになる。このようにしてウロハゼの分類学的な学名として、ファウナ・ヤポニカに記載されたGobius olivaceuに先取権があると結論を下された。olivaceuはラテン語で「オリーブ色の」という意味である。後になって、属名はGlossogobius属と変更されたので、学名は今ではGlossogobius olivaceuとなっている。明仁上皇は、この論文を含めてハゼ科魚類に関する多数の論文・著書を発表されている。発見された新種はアワユキフタスジハゼやセスジフタスジハゼを含めて10種にも及び、この分野における世界的な権威者として活躍しておられるのである。

 生物分類学は、学名を付け安定させ人類がその学名を恒久的に使えるようにすることを目的としている。生物科学においては、まず観察に基づく分類学があり、ついで比較によりそれぞれの関係を明らかにする系統学が、さらにその系統が生ずる原因を考究する進化学がある。分類ー系統ー進化という研究の道筋はエルンスト・マイヤ的には三位一体のものだが、扱う生物が何かを知る分類学がまず最初にくるは当然の話だ。このような方法は、人文科学の分野においても有効である 。

 最後にウロハゼが最初に記載されたファウナ•ヤポニカについて少し解説をしておきたい。シーボルトの日本における主要な任務が、自然物のコレクションであった事は本誌の前号で述べたが、彼はそれを体系的にまとめて解説した本を出版した。シーボルトは植物に詳しかったのでドイツ人ツッカリーニ (J.D.Zuccarini )との共著でフローラ・ヤポニカ(日本植物誌)を出版し、日本の植物紹介を行った。一方、動物についての書は編集のみ行い、分類とその解説は動物学の専門家にまかせる事にした。シーボルトが編集したファウナ•ヤポニカは哺乳類、鳥類、爬虫類(両生類を含む)、魚類、甲殻類をそれぞれまとめた5巻から構成される。本文はライデンの自然史博物館の3人の館員によって執筆される事になる。すなわち、哺乳類、鳥類、爬虫類、魚類の各篇はライデン博物館館長テミンク(C.J.Temminck)と脊椎動物部門のシュレーゲル (H.Schlegel)の二人が共同で、甲殻類篇は無脊椎動物部門のハーン (W.D.Hann)が単独で執筆した。ただ魚類編に関しては実際はシュレーゲルが単独で執筆したとされる。シーボルト自身は爬虫類と甲殻類の2篇に序論を書いている。ファウナ•ヤポニカには合計803種もの動物が記載され、そのうち313種が新種とされている。シーボルトが帰蘭した後、ファウナ•ヤポニカは1833年から1850年にわたる長い年月をかけ43分冊で出版された。バラバラな形で出版された各分冊は、上記のように数巻にまとめられ頑丈に製本、 保存された。序文や図版を含めて、全部合わせると1400頁を超える大部なものである。ファウナ•ヤポニカはフローラ•ヤポニカとともに日本の生物相を、西欧に初めて体系的に知らしめた歴史的な出版物であり、現在も分類学における重要文献となっている。京都大学理学部生物系図書室がファウナ•ヤポニカの4巻セットを所蔵しており、貴重資料画像としてインターネットで公開している。京都大学が所蔵するファウナ•ヤポニカの実物の表紙の大きさは、縦40cm、横30cmもある(図2)。表紙に続く扉ページにラテン語で記された奥付があり、最初に編集者であるシーボルトの名に続いて共著者の名が装飾文字で描かれている。魚類篇の場合、発行年代は第一分冊が出版された1842年となっており、このページの背景には、鳳凰、麒麟など瑞祥動物が多面仏を囲む東洋的構図の絵が描かれている。この書物には目次はなく、各魚種をつぎつぎ説明した314頁もの本文があって、登場した558種、種数としては356種を記載した長いリストが続く。そのうち約半数が新種とされている。さらに、そのリストの後に161葉の図版が続き、約290枚の美麗なカラーの石版画がつけられている。そして、巻末には合本の際に剥がされた各分冊の表紙が、一枚ずつ丁寧に綴じ合わされている。この魚類篇の図譜のほとんどは、絵師の川原慶賀(1786-1862)の原画をもとに作成されたものとされる。

 

 参考図書

明仁(1966)「ウロハゼの学名について(On the scientific name of a gobiid fish named "urohaze)」魚類学雑誌 13巻:73-101頁

今村央 (2019)「魚類分類学のすすめ」海文堂出版 

岡西正典 (2020)「新種の発見ー見つけ、名づけ、系統づける動物分類学」中公新書 2589

三中信宏 (2006) 「系統樹思考の世界」講談社現代新書 1849

 

 

 

   

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生理学者・杉晴夫による分子生物学者・渡辺格へのとっておきの悪口

2024年01月25日 | 悪口学

 

  杉晴夫は1933年生まれの筋肉の生理学者である。東大農学部を卒業後、同大大学院医学研究科を修了、同大医学助手、コロンビア大学、米国NHI研究員を経て、帝京大学医学部の教授を勤めた。筋収縮の生理学的研究で業績をあげ、多数の専門書や啓蒙書を上梓している。不思議な事に『腹背の敵 李舜臣対豊臣秀吉の戦い』(文芸社2016)といった歴史物も書いている。

 杉晴夫氏が、最近出した「日本の生命科学はなぜ周回遅れとなったのか」(光文新書1197:2022)には、日本の大学や医学にたいする批判や悪口が満載されている。この本では、その悪口に人が関係する場合は、対象人物の名前は匿名になっている。例えばA教授とか、その大学院生B君のように書かれている。

 ただ、名指しでやり玉にあげている例外が一人いる。それは、日本の分子生物学の草分けといわれる渡辺格氏(1899-1964)である。渡辺氏は東京帝国大学理学部化学科を卒業後、渡米しカリホルニア大学でバクテリアファージの研究を行った。その後、東京大学理学部、京都大学ウイルス研の教授を経て、慶應義塾医学部教授を勤めた。江上不二夫、柴谷篤彦らと日本の分子生物学を立ち上げた人物として知られている。

 杉晴夫氏は、この著名な分子生物学者が、何ら特筆すべき研究も行わず、慶應大学時代にも非生産的教授として過ごしていたかを、細々したエピソードを紹介しながら述べている。そして、彼の悪口は次の下りで最高潮に達するのである。

 『私が渡辺氏と面識を得る以前に彼に注目したのは、利根川進氏が1997年、ノーベル医学賞を受賞された際、ストックホルムでの授賞式で終始利根川氏と同じテレビ放映の画面に入ろうと「努力」している渡辺氏の態度からであった。これは私の偏見ではなく、同じテレビ番組を見ていた友人がみな同じ印象を持ち、「よく恥ずかしくないものだね」と言っていた。なお噂によると、渡辺があまりにしつこいので、「もうやめてください」と利根川氏に言われたという』(同書より抜粋引用)

利根川氏のノーベル賞受賞式に、渡辺氏が登場する理由は、どうも彼が利根川氏の京都大学時代の「恩師」であるからの様である。ただ、短期間の特殊な「師弟関係」であった。それが、どのようなものであったかは、利根川氏の「私の脳科学講義」に、次のように書かれている。利根川氏は京大理学部を卒業した後、ウイルス研の渡辺研究室に入るつもりで、大学院に進学する。彼は分子生物学を目指していたからである。

 『渡辺格先生の研究室にはじめて行くと、渡辺先生が「わたしを教授室に呼んで、「君は真剣に分子生物学者になる気があるのか」と言います。「もちろん、そうです」と言うと、先生は意外なことを言い出したのです。「日本では分子生物学の大学院教育をしているところはない。そんなものは自分のところだってできない。ほんとうにやる気があるならアメリカに行くしかない。自分がどこか当たりを付けてやるからアメリカに留学しろ』(「私の脳科学講義」より)

渡辺教授のありえないような無責任な話だが、たまたま同じ研究所の由良隆氏らの紹介があり、利根川氏はカリフォルニア大学サンチャゴ校に留学できたと書かれている。本当のところは、ウイルス研の渡辺研究室が、ほとんどまともな仕事をしていないのを利根川氏は見て(アメリカから帰国したばかりの由良氏を除き)、ここではダメと見定めたのではないか。せっかく、大学院に入学したのに、ウイルス研では一日も実験をしていない。

 杉晴夫氏の叱咤・糾弾は分からないでもない。あの頃の大学の生物系の大部分の教授連は、何してたのだろうという人が多い。 ただ、日本の分子生物学の黎明期に渡辺格などの「権威」に対抗して、これを推進しようとする集団やグループが存在すれば別だが(そういった意識ある研究者は利根川氏の様に日本を飛び出した)、この人達がいなければ、1回周回遅れどころか、2回遅れになっていたかも知れない。杉氏は、1)教育、2)研究実績、3)研究者育成の3つを教授の任務として挙げているが、この3つを同時に備えている人は日本ではめずらし。そもそも、それが出来る物質的、文化的基盤が、日本の大学にも研究所にもないからである。

(注)杉は渡辺格以外にも、K大の動物行動学者H教授もやり玉に挙げている。何もまともな研究してないじゃないかと言っている。H先生は東大理学部の生物出身で杉とは重なっていないのに、不思議な悪口だ。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蜂類におけるシャーマン戦車とティーガ戦車の闘い

2024年01月25日 | ミニ里山記録

 

 巣盤から採ったボールの蜂蜜の残りに、ニホンミツバチとオオスズメバチが集り、そこで乱闘が起こった。しばらくして見てみると、オオスズメバチ5匹にニホンミツバチ約50匹が死んでいた。まさにドイツ軍の重量戦車ティーガに、アメリカ軍のシャーマン戦車が集団で襲いかかるような戦いである。ブラッド・ピット主演の映画「フューリー」でも、ティーガ1台にシャーマン戦車4台で戦い、3台がやられてしまう、最後に主人公の戦車がティーガを仕留める。ここの闘いではオオスズメバチの1匹は、なんとか生き延びたようであるが。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする