京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

マルコム・アンダーソンと鷲家口のニホンオオカミ

2023年02月23日 | 日記

  マルコム・アンダーソン(Malcolm Playfair Anderson、1879-1919)はアメリカ合衆国の動物学者である。1905年奈良県吉野郡鷲家口で、若い雄のニホンオオカミの死骸を猟師から得た。この皮と骨格はロンドン博物館におさめられている。これ以降、確かなニホンオオカミの個体サンプルは得られていない。このアンダーソンの事はあまり知られていないが、死後、その母親によって書かれたポートレイト(MALCOM PLAYFAIR ANDERSON by MELVILLE ANDERSON:The Condor (1919), vol.21. No.3 115-119 、Oxford Journals Oxford Univ.Press。https://www.jstor.org/stable/1362461)がその姿を伝えている。これを和訳して解説を加えた。

 

[メルビレ・アンダーソンによるマルコム・アンダーソンのポートレイト}(庵主楽蜂抄訳)

  私の息子マルコムは1879年4月6日、インディアナポリスの郊外で生まれました。両親はどちらも学校の先生で、父はバトラー大学の教授でした。12才から14才までマルコムはドイツで過ごし、そこの学校に通いました。ここで彼は教科書からは何も得るところはありませんでしたが、ドイツ人の同級生からは大いに学ぶところがありました。彼も兄弟もドイツの学校でなんとかやっていくためには、腕力が必要である事を知ったのです。マルコムはまじめで、おとなしい子供でしたが、自分の体格の2倍以上ある悪ガキを恐れなくなりました。彼は意思に反して強制されるラテン語の授業を心から嫌っていました。学校の外でも、彼は不正に対して積極的に戦いました。そしてマルコムはドイツ語についてのいささかの知識といじめや告げ口しかないドイツ人級友に対する嫌悪の情を抱いて、この国を去ったのです。しばらくして彼の父がスタンフォード大学の英文学の教授に招聘されたためです。マルコムはドイツで受けた精神的な障害を回復するためにイレーネ・ハーディー氏の授業を受けました。彼女はマルコムにやさしく接してくれて、精神的治療を施してたので、そうこうするうちに彼はスタンフォード大学で動物学を学び1904年に修士学位を得ました。

 15才になってから、マルコムはいくつかの探検隊に参加するようになりました。学位を得る前に彼は数千マイルも野外を歩くフィールドワークを行ない、アリゾナ、カリフォルニアやアラスカの動物や植物の調査研究を行ないました。1901年に彼はコパー鳥類研究クラブのメンバーに属しました。彼は残念なことに本来なすべき事を沢山残して亡くなったのですが、残された研究ノートは彼が注意深い観察者であり、あくなき鳥のコレクターであった事を示しています。1904年に彼はロンドン動物学会により、ベッドフォード公爵東南アジア探検隊の一員となり、そこでは著名な哺乳動物研究のOldfield Thomas氏の直接の指導を受けたので、マルコムの関心は鳥類だけに限定されることはなく、多様なフィールドの動物に興味を持つようになりました。彼の日記をたどると、東洋に滞在した3年足らずの間に捕らえた鳥と哺乳動物の割合が大まかに分かります。これらのコレクションはロンドンのサウス・ケンジントン動物博物館に収められています。

  1907年4月5日中国山東省煙台市付近で竹林のある寺院に滞在し、そこで日記に次のような記載を残しています 。

「今日は私が28才の最後の日である。この1年間私はなにをししてきたのか?私はフィリピンの最高峰であるアポ山に登り、できうる限りのコレクションを集めた。つぎに日光を訪れた。さらにサハリンを訪れ、かってこの島で得られなかったような哺乳動物のコレクションを得た。北海度でも同様に収集物の数を増やした。朝鮮、対馬、壱岐、五島さらには中国の一部でも仕事をした。これらの地域で私は668個体の哺乳動物、309個体の鳥を得た。ミンダナオを出てから、私は信じられないほどうまくいっている」。

 ミンダナオに滞在中ずっとマルコムはマラリアに罹り、悪寒と熱で衰弱していました。彼のつけていたノートは単なるコレクションの記録ではなく、注意深い探検者の記述となっていますが、さすがにこの病気の間にはノートには書き込みがみられません。 大抵の野外動物コレクションは土地に仕掛けた罠で捕らえ、動物の数は少なく、トラップは大抵、禁止されたり障害が多い事を考えるならば、彼のノートを読んで、彼の捕獲記録がその人並ならぬ勤勉、エネルギーと勇気の賜物であることがわかるでしょう。採集や観察をしない移動中も、船や何事か許可を待っている間や荷造り中も、マルコムは目を見開いて人々に質問し、写真をとったりしていたようです。そんな例として、ここに 1907年元旦の対馬での記録があります。そこでは小さな船の乗組員は皆、一日中酒を呑んで酔っぱらっていたのですが、彼は一人の猟師を伴って丘に登り、そこからの眺望について記述した後、つぎのように書いています。

「丘のてっぺんから、我々は歌ったり口笛を吹きながら道を下っていった。そうすると馬に乗った男と、徒歩でついて歩く男に出会った。馬の男は降りてお辞儀をして行き過ぎてしまったが、徒歩の男は立ち止まって我々に挨拶した。彼は頭がわるそうだったが、愉快な男だった。猟師の折居(彪二郎)が、自分達の仕事(動物収集)について説明し、このあたりに野外動物がいないか質問した。彼も酒を呑んでいるようで、答えはあまり要領を得たものではなかった。しかし、彼の近所の知り合いが最近、ヤマネコを捕らえ、それは多分まだ皮が剝がされていないようだという情報をもたらした。我々はその家がある村を問いただし、すぐそこに向かった。”Shining head” 禿頭のおっさんで村一番の酒飲みの家と聞けば、すぐそのありかはわると教えられていた。その家にいくと、ヤマネコはすでに皮になっていたので、それを2円で買い求めた。「本体はどうしたのか」と聞くと、「隣人に分けてやった」というので、行ってみると一部を食って頭と胴は埋めてしまった言う。しかし、幸いそれを掘り起こすは容易いことであった。かくして我々は対馬の野生猫についての確かな科学的エビデンスを獲得したのである」

  彼のコレクションを集める方法を明らかにするために、1904-1905の間に書かれた日記に出てくる鳥についても羅列しました。(訳注:鳥の約70種ほどの名前の羅列, 愛知県 Obu大府?でのキバシリ、高知御嶽山でのウソの採取の記録がつづくが省略)。このような記述がノートに沢山あります。最後のノートは南アメリカを旅行したときのものですが、これはこの雑誌The Condorの読者には興味ある事が記録されていると思います。1908年、長いアジアの旅から帰還して、マルコムは母とともにヨーロッパに渡り、自分のコレクションをまとめる仕事をしました。それはOldfield Thomas氏によって高く評価され、博物館に収められています。Thomas氏が、どんなに暖かい言葉でマルコムの探検成果を祝福してくれたかをいまでも記憶しています。1909-10の間、彼は再びアジアに同様の目的ででかけ、中国の万里の長城を超えた砂漠や、チベット周辺の山々などを探検しました。

 後になって、彼は南アメリカに2度渡りました。一回目はOsgood氏を伴い、2回目は1913年の夏に結ばれた女性と一緒でした。しかし2回目の旅から帰ると熱病のために健康が損なわれ、野外研究が無理になっただけでなく、科学の研究や記述をしようというプランもかなわないものになってしまった。かれの研究ノートは将来、出版されるべき様々な価値のある内容に満ちているように私には思えます。1914年4月号のOverland Monthlyには彼による「済州島における40日」という興味ある論文が掲載されています。

 第一欧州大戦中の昨年の夏のことですが、男は造船所で働くようにという応召がかけられました。彼はきわめて愛国的であったので、徴兵に応ずるようにしてこれに応募しました。誰れもこれを、止める事はできなかったのです。そして、1919年2月21日、彼はオークランドのMoore Shipyard造船所の足場から転落して亡くなりました。私はマルコムの学者としての特質や業績を正しく評価できる立場ではありませんが、彼が善良で、愛すべきで、公正で、真剣で、忠実で、そして穏やかな人物であったという事だけは言えます。彼は亡くなりましたが、心の清い人に祝福を受けわたしたのです。

(以上メルビレ・アンダーソン夫人の回想録より和訳)

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解説

1905年ロンドンの東亜動物研究会から派遣させたマルコム・アンダーソンは、通訳兼助手として第一高等学校生徒の金井清を雇った。1月7日愛知県の大府での捕獲調査では水田で普通のネズミしか捕れなかったことに失望して、奈良に向かった。奈良市を経由して彼らは1月13日に鷲家口に着いた。この頃はまだ豊かな森林に取り囲まれた村で、マルコムが国内絶滅したニホンオオカミ最後の標本を鷲家口で入手したのは1月23日であった]。この詳しいいきさつについては、京大教授で動物学者であった上野益三が詳しい論説を書いている(以下の参考図書参照)。アンダーソン自身が鷲家口のニホンオオカミについて何か書いているのかどうか、興味がある。彼の研究ノートはどこに保存されているのだろうか。

 

参考図書

荒川晃 「アンダーソンの狼」風媒社 2007

  **アンダーソンの助手を務めた金井清を主人公にして、鷲家口を舞台に小説は展開するがニホンオオカミよりも、天狗党の残党を中心に話がすすむ。語り口は軽快でよみやすいが、尻切れトンボの失敗作である。

上野益三(1969), “鷲家口とニホンオオカミ”甲南女子大学研究紀要 (5): 89-108

 

                   鷲家口のニホンオオカミ像

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小説「1984」のBig Brother と共産党

2023年02月17日 | 日記

 

 英国の小説家ジョージ・オーウェル(1903-1950)の小説「1984」は恐ろしいディストピアを描いた作品である。ここでは独裁者Big brotherが社会の隅から隅まで監視しており「Big brother is watching you」のポスターが街にあふれている。Big brotherを頂点とする「党」は全能で、あやまりを犯さないという信念の上に社会が成り立っている。それゆえに、人々は特殊な「二重思考法」*によってしか生きて行けない。これに似た国家や組織は世界のいたるところ、現実に存在している。

 

 クマのプーさんの様な温和な顔をした習近平が、現代中国の皇帝になろうとは誰も予想していなかった。どのような背景があって、こんなビッグブラザーな独裁者が生じたのかは、さまざまな説がある。一つはファーザーコンプレックス説だ。近平の父、習仲勲(1913-2002)は毛沢東とともに中国革命の英雄の一人である。仲勲は中国の中央部にある陝西(せんせい)省に生まれ、10代で共産党組織に身を投じた。陝甘辺区ソビエト政府で主席となったのはわずか21歳のときだった。当時、中国共産党は国民党軍から逃げるために、1万2000キロ以上にも及ぶ長征を行なっていた。毛沢東は10万人の兵力を数千人にすり減らすような過酷な逃避行を行なっていたが、この「長征」の最終目的地となったのが陝西省だった。そこでは若き習仲勲らが共産党の根拠地を死守していたからだ。共産党政府は同省の延安を臨時首都とした。もし習仲勲らの根拠地(延安)がなかったら、中華人民共和国は成立しなかっただろう。その成立後、仲勲は党中央委員、国務院副総裁などを務めたが、共産党政府の中枢に至らず、文革中は紅衛兵によるひどい迫害を受けた。毛沢東が死んでから復権し、80年代には党中央政治局員などについた。民主化を促進した胡耀邦に同調し、学生運動にも寛容な態度を示した。「人々は意見を提議したり批判を行なったりすることが許されている。批判が誤っておれば反批判を行えばよい。そのようにして始めて党内に生き生きとした活発な政治状況がもたらせれる」とした ***。天安門事件の翌年も全人代常務委会で「意見の異なる者を反対派や反動派とみなしてはならない。異なった意見を保護し、重視して検討すべきである」と主張し、その翌日、鄧小平により役職を罷免された。2度目の政治的幽閉である。中国の歴史で筋の通った無私無欲の義侠人は三国志の諸葛孔明ぐらいかと思っていたが、習仲勲もまれにみる立派な政治家であった**。

 ところが、その息子、近平は社会主義的民主化を主張した父のものでなく、晩年の毛沢東に近い独裁路線をとっている。父と反対の路線をとるのは、ファーザーコンプレックスがある証拠である。父と違って何の実績もない近平が、レガシーを得るには”台湾の解放=中国の統一”しかない。徹した国内の言論抑圧はその体制作りなのかもしれない。彼は必ずそれをやるだろう。毛沢東につづくビッグブラザー、習近平の動向が今後も注目される。

 さて、中国共産党と絶縁しているという日本共産党の状況はいかなるもののであろうか?中国共産党も日本共産党も「民主集中制」を建前としている(これ自体が論理矛盾なのだが)。党内で内々に自からの意見を主張し論争することはあっても、一たび党の方針が決まれば基本的にそれに従い、党中央と対決するよう事は許さないというものである。共産党は、このような美くしい建前を並べはするが、重要な事案については、トップの方針以外認められる事はない。形式的に議論や討論がなされることはあっても、上から派遣されてくる官僚党員が押さえつけるか、下部党員が忖度して従うだけである。日本共産党で異論を唱える根性のある党員はすべて淘汰されており、いまや従順が習い性となった年寄り集団に純化されている。まともな批判に対しては、十年一日のように「反党分子」、「スパイ」、「トロッキスト」の決まり文句が投げかけられる。まったく生きた政治化石以外の何物でもない。

 つい最近も共産党本部の政策委員会で安保外交部長も務めた松竹伸幸氏が党を除名された。共産党がいつまでも党首の直接選挙を実施しない事を党外出版物で批判したというのである。「赤旗」が松竹氏の「異論」を一つの意見として掲載する事はありえないので、やむおえない手段であったようだ。この共産党の対応には朝日新聞も社説で批判している(https://www.asahi.com/articles/ DA3S15550073.htm)。反自民という視点での批判や政策は、他の野党より比較的まともなことを言うが、こんなのが万一、政権をとると日本国がジョージ・オーウェルによる「動物農場」みたいになると思う市民は多い。習近平は精華大学大学院、志位和夫委員長は東大工学部を卒業した「エリート」である。エリート幹部はいつも自分は正しいと思い込んでいる。「科学的マルクスレーニン」主義の絶対性哲学が党の無びょう性信仰に反映されているのかもしれない。まったく「何を偉そうにしとんねん」と言いたくなる。志位委員長はこの問題を記者団に問われ、「赤旗の藤田論説を読んでくれ」と繰り返すのみである。日本共産党のビッグブラザーは20年以上も党首を続けているこの人物である。

 

参考文献

ジョージ・オーウェル 「1984」高橋和久訳 ハヤカワ文庫 p324

二重思考とは、この小説によると二つの相矛盾する思考を心に抱き、その両方を受け入れる能力をいう。[党]は意識的な欺瞞を働きながら、完全な誠実さを伴う目的意識の強固さを保持する。故意にウソを吐きながら、しかしそのウソを心から信じている。それ故に批判にたいしては異常なほどヒステリックに反応する。自民党も共産党もこの二重思考に侵されているが、自民党のほうが、まだある種の寛容さがある。 

柴田哲雄 「習仲勲の政治改革に対する姿勢,並びにその背景にある前半生の経歴」現代中国研究34 (P66)2015

柴田哲雄 「習近平の政治思想形成」彩流社 2016

   **2001年に習近平は父から学んだ5つの事を手紙に書いている。1)正しい人となり、2)功績を鼻にかけない謙虚さ、3)確固たる政治信念、4)天心純潔な気持、5)質素な生活である。

福島香織 「習近平王朝の危険な野望」さくら舎 2018

エドワード・ルトワック 「ラストエンペラー習近平」文芸春秋 2021

城山英巳 「習近平の仮面を剥ぐー愛憎渦巻くファミリーの歴史」文芸春秋 2022/11月号p94-

  ***仲勲語録「私は長い間づつと、一つの問題を考え続けてきた。つまり異論をどうやって学ぶかという事

  である。共産党の歴史を見ると、異論の封殺によってもたらされた社会の厄害はとてつもなく大きい」

 

       

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