京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

芭蕉と蕪村と獺(かわうそ)

2018年04月27日 | 文化

 

 昨年の夏(2017年8月)、対馬で琉球大のチームがカワウソの撮影に成功し、絶滅したとされるニホンカワウソの再発見と騒がれたが、糞のDNA分析などから大陸のユーラシアカワウソと分かった。海を渡ってきたものが住み着いているらしい(繁殖しているかどうかは興味ある)。ニホンカワウソは明治期の乱獲で激減し、戦後における河川環境の破壊がダメ押しになって、1950年代の半ばにほぼ絶滅したと言われている。しかしニホンオオカミとともに、ときおり「生存」目撃が報道される。この種はシーボルトの編纂した『日本動物誌』にも記載されており、江戸時代には全国でそれなりに生存していたと思われる。ここでは獺が登場する芭蕉と蕪村の句を紹介してみよう。

 獺(かわうそ)の祭見て来よ瀬田の奥 芭蕉

 元禄3年(1691)1月の作で前書きに「膳所へ行く人に」とある。膳所に行く人は濱田洒堂。獺は魚を捕獲すると、すぐには食べず巣の上や川岸に並べて楽しんでいたといわれている。これを獺の祭で獺祭(だっさい)という。この一句の意味は、あなたは膳所へ行くそうだが、それならぜひ瀬田川の奥へ行って獺祭を御覧なさいということである。この頃は琵琶湖周辺に獺はたくさん棲息していたようだ。子規は、この獺祭という言葉が気に入ったらしく「獺祭書屋主人」と号していた。その俳句にも「茶器どもを獺の祭の並べ方」というのがある。

 獺(おそ)の住む池埋もれて柳かな 蕪村

 獺を見に、それが住んでいた自然池に行ってみたが、今は埋められて柳の生える野原となっていた。獺はどこに行ってしまったのだろうか…….という句意である。天明2年 (1782) 蕪村67歳で亡くなる前年の作である。蕪村のこの句から江戸時代のこの頃から既に、ニホンカワウソは干拓開発の被害を受けて生息範囲を狭められていた。この「池」というのはどこかわからないが、蕪村は晩年は旅に出てないので、京都近辺のものであろう。

                                     

 

 図は、江戸時代に描かれた『摂津名所図会』(1798年刊行)に描かれた「黒焼屋」の店頭の様子で 店先にカワウソ(「かわうそ」の札がみえる)やキツネ, ウサギに混ざってオオカミのような動物が吊るされている。「黒焼屋」は大阪中央区の高津宮の西階段下にあった動物の黒焼きを販売する当時の漢方薬局店で、この種の珍獣は高価な値段で取引されていたようだ。イモリの黒焼きは強壮剤として有名だが、獺の黒焼きは何の効用があったのだろうか? その後、獺は明治になって毛皮にするための乱獲と河川の自然環境で絶滅した。獺祭という言葉だけが俳句の季語として残っている。

参考: 蕪村全集第1巻発句 尾形仂、森田蘭著、 講談社 (1992)


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