ユヴァル・ノア・ハラリの著「ホモ・デウス」(2018、河出書房)は科学技術の進歩が、人類の未来に及ぼす影響を論じている。この書のポイントの一つは、人類が資本主義の成立以降、生産崇拝思想に取りつかれ暴走をはじめて、AIや遺伝子組替え技術によって超人社会が到来すると予想したことだ。
『創造と破壊を行う神のような力を獲得し、ホモサピエンスをホモデウスへとアップグレードするものになるだろう』と述べている。
その主張に共感できるところもあるが、こういった未来予言書は批判的に読む必要がある。自然の中で生きていた「ヒト」が「人」になり、さらに近未来にテクノロジーの進歩で「Deus」となる発想は、それほど新奇なものではない。
ハラリはこの書の巻頭で、人類は飢餓と戦争とともに疫病や感染症も克服できたと述べている。しかし、この認識は大甘と言わざるを得ない。飢餓は20世紀においても大規模に世界のいたるところで繰りかえされて来た。さらに、現在のアフリカやアジアに広がるサバクトビバッタの大繁殖によって、この地域における深刻な飢饉が予想されている。戦争についても、世界のいたるところで武力紛争がくり返されており、いまや大国間の軍事衝突さえ危惧されている。
ハラリは人類の病原体による疫病の歴史を次のように概観している。
『狩猟時代には事故死は多かったが、人々は健康的な環境で暮らしていて感染症は少なかった。それは、農耕時代になって、人が密集し家畜と暮らし始めて多くなった。その病原菌のほとんどが、家畜由来のものであった。都市が形成されてからは、ここは病原菌にとって理想の温床となった。史上、最大のパンデミックはペスト(黒死病)であった。14世紀に流行したペストは、アジア、ヨーロッパ、アフリカに広がり、それによる死者は7500万人〜2億人を数えた。これはユーラシアの人口の約1/4であった。イングランドでは10人に4人が亡くなり、フィレンチェの町では10万の住民の5万人が失われた。アメリカ大陸、オーストリア大陸、太平洋の島々ではヨーロッパ人が到来した後に、天然痘が流行り、土着の人々はバタバタと倒れた。20世紀に入ってからは、1918年にスペイン風邪によって全世界で5000万人〜1億人が亡くなった。日本では全人口のおよそ40%(2300万人)が罹患し、45万人近い人が死亡した。しかし、最近になってワクチンや医療の進歩によって、大規模な感染症は食い止められている。エイズも有効な治療薬ができて、死に至る病気ではなくなった(ただこれが発見された1980年初期以来、世界で3000万人が死亡したと述べている)。人類は感染症を克服した』
このようなハラリの記述にも関わらず、今世紀になってからSARS、MERS、新型インフルエンザ、そして今回の新型コロナウィルス感染症(COVID-19)など世界的な感染症の蔓延が続いている。エイズの流行も終焉せず、エボラは何度もアフリカで繰り返し発生している。COVID-19のワクチンも、ウィルスの変異が早いので、開発が遅れている。これに有効な治療薬も、アビガンをはじめニュースには登場するが、決め手がない状態が続いている。その間にも世界の死者は日々増加している(現時点で約37万人)。ハラリの主張するような楽観的な情勢ではないのだ。
「ヒト」が「人」になっても、生物としての特性が急に変わったわけではない。「人」は文明の利器をいくつか身に付けたとしても、依然としてウィルスの充満する大海を漂う小舟の乗組員にすぎないのである。