京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

高橋和巳の風景 (IX)

2014年03月10日 | 日記

(京大本部旧学生部建物) 

 1969年。京大学園闘争(全共闘運動)は、東大のそれに遅れる事、約1年で始まった。闘争のきっかけは寮問題での総長団交決裂で、1月16日の寮闘争委員会らによる学生部建物の封鎖で本格化した。3月13日には、京大文学部の全館封鎖が行われ、この頃には、吉田地区の多くの学部が、ストライキで封鎖される状態になっていた。

 この運動が高橋の精神に及ぼした正や負の作用については、二年後に著した「わが解体」に詳しく述べられている。高橋の作品は、学園闘争という社会現象と共振することにより輝きを見せた。

   『スターリンを疑い、レーニンを疑うことからやがてはマルクスをも疑うに至るだろう。仏法のためには釈迦をも斬る精神のほかには、しかし期待しうる何があるだろうか。こうした徹底した精神のいとなみは、従来は、表現を通じて文学の中で試みてきたものである。それと同質の精神が青年特有のラディカリズムさで行動に移されようとするとき、それを自己の内面と無縁なものと意識しうる文学精神などというものは、ありえない』(「我が解体」より)


 

  

 この年の4月頃から、高橋和巳は体調不良を訴え、翌年3月には、京大文学部助教授を辞任し、療養のために東京に移り二度と京都に住む事はなかった。その闘病と最期については、たか子が「高橋和巳の思い出」の中で「臨床日記」として書き記している。


(京大附属図書館に並ぶ高橋和巳とたか子の全集)


(以上のシリーズの参考資料として、国文学第23巻1月号 学燈社、高橋和巳全集(河出書房新社1980年)などを利用させていただいた。)

 

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