京都清水坂付近の市営駐車場
1953年。この年3月に卒業予定が、単位不足で落第。もっとも、この頃、世の中は不況で卒業しても就職口はなく、文学部の学生にとって留年は当たり前の事のようであった。
この年の5月、高橋和巳は、酒に酔って自動車乗り逃げ事件を友人とおこしている。1953年5月4日付けの京都新聞朝刊(社会面)によると「昨日午後五時十五分ごろ東山区清水坂の市営駐車場に置いてあった神戸の貿易商、オーバティック氏の所有する小型モーリス青色乗用車を、三上和夫と高橋和巳が盗んで三上が運転、乗り逃げした。松原署は管内に一斉手配。五時半ごろ、清水坂から五条通りを西行、さらに大和大路を南行したのち、七条大和大路の大仏前派出所で窃盗現行犯により逮捕された。調べに対して二人は、いばっている外人バイヤーに好感が持てないから盗んだと自供した」と報道されている。結局、吉川幸次郎が、警察から身柄をもらい下げに行ったといわれる。
その後、二人が処分されたという記録も様子もない。このような事件を、今の学生がおこすと、自動車窃盗、飲酒運転、公務執行妨害などで厳しい刑事罰が科せられ、大学でも退学処分はまのがれない。第三高等学校時代の学生のバーバリズムは、相当のハメ外しでも、京都市民は大目に見ていたそうだが、そのような伝統がまだ残っていたのであろうか?
この話は、石倉明の随想「高橋和巳と三上和夫と」(「高橋和巳の文学とその世界:梅原猛、小松左京編。阿部出版、1991)でも述べられている。主犯の三上は、後に、この車の持ち主の外国人バイヤーと懇意になり自分の就職まで世話になっている。三上和夫は、高橋と京大文人同好会の仲間であったが、高橋が若くして死んだ2年後に、後を追うようにして胃がんで亡くなった。
この年9月、岡本和子(高橋たか子)と知り合う。10月父秋光死去。