童謡館内の一角にひと際鮮やかな赤い靴が展示販売されていた。
これが童謡「赤い靴」の複製モデル。ジーッと赤い靴を見てい
ると自然と歌詞が浮かんでくる。こころに響く童謡なのである。
『赤い靴 はいてた 女の子
異人さんに つれられて 行っちゃった
横浜の 埠頭から 船にのって
異人さんに つれられて 行っちゃった
・・・
赤い靴 見るたび 考える
異人さんに 逢うたび 考える』
野口雨情が創った童謡はこのほか沢山ある。
南京言葉 鶯の夢 ペタコ あの町この町 こがね虫 證城寺の狸囃子 蛙(かわず)の夜廻り 雨降りお月~雲の蔭 うさぎのダンス 手の鳴る方へ キューピーピーちゃん チンドンヤ 七つの子 十五夜お月さん 青い目の人形 俵はごろごろ 木の葉のお舟 シャボン玉 信田の薮 春の唄… それぞれ何時か、何処かで聞き歌った記憶が。
映像:いわき湯本温泉街、当地にゆかりのある野口雨情の資料館『童謡館』
温泉神社のまん前にある施設。角地といい、造りといいどう見ても元は銀行
の建物だ。中はハイカウンターの銀行そのものだ。施設はこの地にゆかりの
野口雨情展示館として利用され、野口雨情の童謡がBGMとして流れていた。
野口雨情は一時(2ヵ月)、新聞記者として、釧路で石川啄木と同僚だった。
啄木が亡きあとに、彼の著書『石川啄木と小奴』で次のように述懐している。
『…妻子がありながら、しかも相愛の妻がありながら、しかもその妻子まで
も忘れて、流れの女と恋をすることの出来たゆとりのある心こそ詩人の心
であつて、石川の作品が常に単純でしかも熱情ゆたかなのも、皆恋する事
の出来る焔が絶えず心の底に燃えてゐたから、それがその作品に現れてき
てゐるので、もし石川にかうした心の焔がなかつたならば、その作品は死
灰(しかい)の如くなつて、今日世人から尊重されるやうな作品は生れて
来なかつたかも知れない。』
野口雨情も又文壇の人、貧困と富裕の差が啄木と雨情の作品の違いに現れた
感がする。彼は当時としては長命の63歳で没す。啄木の倍を生きた事になる。