日々、あんのん。

からだの育ちの凸凹、学習のスタートラインにつけない人のもっと学びたい、発達したいを応援します。

やっぱり、何より、自力!

2016-12-16 16:39:54 | 発達応援
 早朝の積込み作業で、プラットホームを風が吹き抜けていく季節になりました。
今日などは、背中に貼ったカイロもちょっと、あったかいかなぁ〜くらいにしか感じませんでした。

 でも、朝日が昇りかけた真っ赤な空や昇った後のグラデーションの空を見ながらの仕事は、
気持ちがスっとして気持ちがいいです。

 冬は冬の仕事の楽しみですね。

 昨日は久しぶりの教え子との再会のお昼ご飯でした。

 本屋で待ち合わせをしたのですが、
広い本屋の入り口付近の人の出入りを確認できるところにいるその子を見つけたときには、
わぁ、成長したなぁ、と本当に嬉しくなりました。

 さて、食事をしながら、その子の今までの仕事や今の仕事、
生活面などの心のモヤモヤを聞きました。

 それらの話しを聞きながら、凸凹っ子が、
支援クラスに在籍することや特別支援高等学校で学ぶことの落とし穴を感じることでした。

 支援クラスも支援学校も通ってくる子の特性がわかっていて、
更に、先生方は多少なりとも発達障害についての知見がある人たちです。

 ですから、凸凹っ子たちに何かを頼むときや仕事をさせるときは、
複数処理をするような頼み方はせずに、
「まず、Aをしてね。」とAの作業をさせて、次に、
「じゃあ、次、Bをするよ。」という風に作業工程を分けるなりしてさせることが多い気がします。

 ところが、社会人になるとそうはいきません。
目の前で自分のやることを見て、それを覚えて再現する。
そして、同時に複数のことをする場合だってあるのです。

 わからなければ、聞きながらメモをとってもいいのですが、
「立ちながら、書く、聞きながら、書く。」ということができなければ、
メモを取ることもできません。

 それだけではないのですが、本当に普通に仕事をしている人には、
想像もできないほど、些細な段差で凸凹っ子たちは上れず、つまずいているのです。

 昨日、話しを聞きながら、福祉畑であるはずの作業所といわれるようなところでさえ、
その段差に気がつかないようなので、驚きました。

 福祉畑も、当てにはできないのです。

 昨日、お昼ご飯を食べながら、思ったことは、
将来、子どもが家庭であろうと、ホームであろうと生活していくためには、
やっぱり、その子自身に力をつけるしかないのだ、ということでした。

 福祉のサービスも大切ですが、何より、子ども自身の自力がなくては、
使っている福祉の世界でも安心して暮らしていくことは難しいのです。

 成長に目を細めると共に、今、この子に必要なことはなにかな、と考えた3時間あまりでした。

 中学生の頃は、私に怒られて泣いたり、逃げたりしていた子が、
「あ〜、やっぱ、先生に話して、よかった。顔見て、ほっとしたわぁ〜」と言って帰ったので、
実家に帰る年末まで、そんな前向きな気持ちでがんばってほしいな、と思って別れました。

 ファイト!

コメント
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